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あやかしものがたり

傘化けと少女

作者: 青山 あぴあ

 すべり台のステンレス部分と雨粒とがぶつかり、公園内に大きな音を鳴らす。

この雑音を聞きながら、私はどれだけの時間、あの人を待ち続けてきたのだろう。


 これまでに幾度となく考えてきた。

あの人はもう、私のことなど忘れてしまったのかもしれぬ。

大切に思っていたのは、私だけだったのかもしれぬ。

それならば……。それならば私は、一体何の為にこうしてあの人を待ち続けているのか。


 ……笑止。


 そんなことを考えても、意味はあるまい。

私はあの人にとって雨を凌ぐ道具に過ぎない。

道具が自身の幸せを望んでどうするのだ。

道具の喜びは主の幸せのみ。

主が道具の私を不要とするならば、私は唯の(ごみ)である。

塵が幸せを望んで、いい訳がない。


 そう、私はここで何も考えずに、ただじっと座っていればいいのだ。














 雨音が一段と激しいある日のこと、珍しく公園に1人の少女がやってきた。

こんな大雨の夕方、幼い子供が独り公園に何の用があるのだろうかとその様子を見つめていると、その少女と目が合った。

いや……気のせいか。今となってはもう、人間に私の姿が見える筈は無い。

しかしそんな私の考えと裏腹に、少女はその後にこりと微笑むと、私が座る円形のベンチに駆け寄ってきた。


「おじちゃん、なにをしているの?」


 話しかけられるとは思いもしなかった私は驚いて


「お嬢ちゃん、私が見えるのかい?」


 と、思わず訊き返してしまった。すると少女は不思議そうな顔をして答える。


「ヘンなおじちゃん!見えるに決まってるじゃない。おじちゃんはどうして傘をささないの?」


「――そうか、変なことを訊いたね。私は傘をささなくてもいいんだ。この帽子と手袋、コートに長靴だってあるからね」


 理由は解らない。けれどもこの少女には、妖怪(わたし)の姿が見えるようだ。


「変わった帽子。三角形でおにぎりみたい。今は6月だよ、そんな分厚いコートを着て暑くないの?」


「ああ、おじさんは寒がりだからこれで丁度いいんだ」


 純粋な目をした少女。その目を見て、何故だか私は自分の正体を隠しておきたいと思った。


「ふうん。やっぱりヘンなおじちゃん。こんなところでなにをしているの?」


「人と待ち合わせをしているんだよ」


「待ち合わせ?こんなに雨が降っているのに?」


「その人は雨が好きなんだ」


「へぇー。私も雨が好き。見て見て、この傘! 日曜日にお母さんに買ってもらったの! それなのに中々雨が降らなくて。今日になってやっとお友達にお披露目できたの!」


 白いドットが入った赤色の傘を、嬉しそうに回す少女を見て、私も自然と笑みがこぼれた。


「可愛い傘だね」


 私がそう言うと、少女は嬉しそうに「うん!」と答えた。




 少女はその翌日も赤色の傘をさして公園に姿を現した。

前日と同じ位置に私を見つけると、同じように私のもとにやってきた。


「おじちゃん、今日も人を待っているの?」


「ああ、そうだよ」


「昨日はあの後、その人に会えた?」


 少女の無邪気な言葉が、私の心に鋭く刺さった。しかしそれを感じ取られるぬよう、努めて明るく答える。


「もちろん、会えたとも。『遅れてごめん』と謝っていたよ」


 付け足す必要のない自分の願望がつい口からこぼれ、気持ちまでもが溢れ出しそうになる。

しかし少女はそんな私の言葉を信じて疑わず、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。


「よかったね!おじちゃん!」


 少女のその言葉に、崩れかけていた私の心は持ち直した。私は「ああ」と小さく返事をした。


「わたし、ミカっていうの。山川美香。この前までは、高木美香だったんだけど……お母さんとお父さんが『りこん』して山川になったの……。おじちゃんはなんていうの?」


 その質問に対し、私は返答に詰まった。


「名前? 名前かい……? おじさんの名前は……」


 ミカは変わらない笑顔で私を見つめている。


「……無いんだ。おじさんに名前は無いんだよ」


 私は正直に答えた。ミカが私を不審に思って今後会いに来てくれなくなっても、それは仕方のないことだ。


「へ?」


 ミカは一瞬不思議そうな顔をした後、今度はその顔を膨らませて言った。


「ウソばっかり!おじちゃん、ウソついたらいけないんだよ!」


 怒りながら、ミカは私の膝を軽く叩く。その時に何かに気がつきミカは「あっ!」と小さく声を上げた。


「やっぱり、名前がないなんてウソじゃない!ちゃんとここに名前が書いてある。ええっと『み……よ』?」


 私のコートの裾に書いてある文字を読み上げると、突然ミカは大きな声で笑い出した。


「おじちゃん『みほ』って名前なの!?あはは!女の人みたいな名前!だからわたしに教えたくなくてヘンなウソを言ったのね?」


 楽しそうに笑う彼女を見て、私も「そうなんだ」と言って笑った。心の奥が少しだけ痛んだ。




 それから3日程経った。

ミカはその日公園にやってくると、不安そうな表情で私の座るベンチに目を向けた。

その後、そこに私の姿を確認すると安心したように顔を輝かせて、水たまりも気にせずに走り出す。


「ミヨおじちゃん久しぶり! 昨日も一昨日も公園にいなかったから、もう会えないかと思った」


無邪気に笑うミカに、「ずっと私はここにいたんだよ」とは告げられなかった。

晴れた日は妖力が弱まるから、きっと君には見えなかったんだ――そんなこと、どうしてこの少女に向かって言えるのだろう。


「おじさんがいつも待っている友達は、晴れた日は別の人と遊ぶんだ」


 これ以上、嘘を重ねて、彼女を騙し続けてどうするつもりなのだろうかと、自分でも思う。

しかし、長年に渡る孤独によって凍りついた私の心に、少女のぬくもりはあまりにも暖かすぎた。

この懐かしく優しい微熱を再び失えば、今度こそ私の心は粉々に砕け散ってしまうだろう。

そんな風に思ってしまう程、彼女(あのひと)との悠久の記憶が、この少女との別れを途轍もなく恐れさせた。


「そっかあー。それなら、晴れの日は私と遊びましょ。私、砂でお城が造れるの」


 ミカはそう言って砂場を指差した。私は何も返せなかった。


「おじちゃん? ――私とじゃあ、ダメ?」


 悲しそうに俯く彼女を見て、私は慌てて言い繕う。


「いやいや、そうじゃないんだ。おじさんも――おじさんも、晴れた日は別のお友達と別の場所で遊ぶことになっているんだ」


 私の言葉(うそ)に、ミカは小さな声で「わかった」と返事をした。雨音が一層大きく聞こえた。


 その後ミカは重くなった空気を掻き消すように、話題を変えた。

それは引っ越してきた彼女の新しい住居のことについてだった。

ミカの話よると、両親の離婚が決定した後、母親と共にこの地に移り住んだということだ。

なお、直接聞いたわけではないが、この公園にいつも1人で来るのは、転校したばかりで新しい学校に馴染めず、放課後一緒に遊べる程親しい友達がまだいないからのようだった。


「お母さんも6時くらいまでお仕事に出てるから、いつもひとりでつまらないの」


 ミカの口から発せられたその言葉を聞き、私は先のやり取りを思い出して自分を責めた。


「本当はおばあちゃんも一緒に暮らすはずだったの。引っ越し先にここを選んだのも、おばあちゃんの為を思ったからってお母さんが言ってたのに」


「おばあちゃんは一緒に住むことに反対したのかい?」


「うん。最初の頃は『いいよ』って言ってたのに、私たちが引っ越したら『亡くなったおじいさんのことを想うと、やっぱり長年一緒に住んだ家で最期まで……』って」


 そう、と私は呟いた。ミカには悪いと思いながらも、彼女の祖母の気持ちは痛いほど理解できた。


「玄関に飾るネームプレートにだって、おばあちゃんの名前も入ってるのよ。これじゃあ、見た人に『美智子(みちこ)さんって誰ですかあー』って言われちゃう」


 ミカはそう言って笑った。けれども、彼女の瞳には、悲しみの色が確かに含まれていた。




 少女との交流は続いた。雨が降れば、ミカは必ず会いに来てくれた。

天候に縛られるため、2日3日と連続して会える時もあれば、同じ日数だけ間が空くこともあったが、それでも私は幸せだった。


 ミカはいつも私に話を聞かせてくれた。

学校での休み時間の話。

最近観たテレビアニメや漫画のこと。

家庭での母親との会話。

私の知らない、引っ越して来る前に住んでいた街について。

どんな他愛無い内容の話でも、私の心は癒された。


 私はとても、幸せだった。




「おじさんがいつも待っている人は、どんな人なの?」

 

 そんな中での、ある日のこと。

ミカはいつもの赤い傘をくるくると回しながら、目の前に座る私に、あの人について尋ねた。

小さな掌の上で回転する、傘の柄をじっと見つめる少女の顔は、「無邪気」そのものだった。


「おじさんが、おじさんがいつも待っている人は……とても優しい人だよ。ミカと同じように、笑顔が素敵な人だ」


「ふぅん。いつか私も会ってみたいな」


 ミカの笑顔を見つめながら、先刻危うく「人だった」と言いかけた自分に、私は内心戸惑っていた。




 大雨は突然だった。

その日は晴天にも関わらず、体の奥から妖力が(みなぎ)り、私は不思議に感じていた。

しかし午後になって突然空が暗くなったかと思うと、次の瞬間閃光が公園内を照らした。

雷鳴と共に滝のような雨が降り注ぎ、砂場はやがて小さな湖へと姿を変えた。

ふと足元をみると、私の座るベンチも巨大な水たまりに飲み込まれている。


 刹那、私の頭に浮かんだのはミカの顔だった。――あの人ではなく。

彼女は大丈夫だろうか?

人間の世の時の流れ。人外の私には、詳しくは解らぬ。

しかし、それでも何十年とこの世界に浸って主を待ち続けた私だ。

その中で身に付けた時間感覚というものがある。

そしてそれが私に告げているのだ。

普段ミカが公園を訪れるのはこの位の時間ではなかったか? と。

また彼女はいつの日か、こう言っていた。


『学校から帰ったら、家には誰も居なくてつまらないから、すぐに公園に出かけるの』


 ならばミカはこの豪雨烈風の中、ひとりで帰り道を歩いているのだろうか。


 良からぬ不安に駆られる私の目に、ひと組の親子の姿が映った。

公園を出た道を、幼い息子とそのランドセルを代わりに背負った母親が並んで傘をさして歩いている。


「こんな大雨が降るなんて、天気予報では言ってなかったのにね」


「うん。玄関で雨宿りしても全然止まないから、帰れないかと思った」


 私はゆっくりと立ちあがった。何十年も座り続けた、このベンチから。

あの人を待ち続けた場所を、私はこの日、遂に離れた。




 遠い昔の記憶をたどり、私はひとり道をゆく。

小さなこの街には、小学校はひとつしかない。

他でもない、あの人と通った通学路。

この道を私ひとりで、この足で歩くことになろうとは、夢想だにしなかった。


『見て、この傘! 可愛いでしょう!』


『明日も雨が降ればいいのに』


『私の大切な宝物なの!』


 ――私は頭の中にこだまする声をかき消し、道を急いだ。




 小学校に着くと、生徒玄関の前には数多くの自動車が停まっていた。

稀にみる大雨に、玄関で大騒ぎしながら待つ子供たちは次々に母親の車を見つけ、嬉しそうにそのもとへと駆け寄っていく。


「すごい雨だよ、お母さん」


「そうねえ、朝傘持って行かなかったから慌てて迎えに来たのよ」


 そんな会話を交わす親子たちの影の向こうに、ミカはひとりいた。

心配そうに空を見上げる彼女の手に、あの赤色の傘は無い。

私はすぐにでも駆け寄りたい気持ちをグッと押さえ、木陰から彼女の姿を見守った。

万が一、ということもある。

この大雨をみて娘の身を案じた母親が、仕事を早めに切り上げて迎えに来るかもしれない。

ミカだって、それを期待して待っているはずだ。

もしも、その現場に鉢合わせてしまったら、私はなんと弁解すればいいのか。

第一、親子といえどミカの母親に私の姿が視えるとも限らない。

誰もいない空間に向かって話しかける娘の姿を見たら、母親は倒れこんでしまうだろう。

私はミカを見守り続けた。




 一向に雨は弱まらない。

私の隣を一台の車が通り過ぎていった。校門を出ていく方向だ。

そして、玄関で雨宿りをしているのは遂にミカひとりとなった。


 彼女の顔は不安の表情に満ちていた。

迎えに来てくれることを信じる心の中に、諦めという名の影が差す。

そんなはずはないと、必死にその人の顔を思い浮かべて対抗するも、真っ黒な影はどんどん広がり、着々と心の中の光を奪っていく。

してはいけない覚悟と独り懸命に闘う、あの孤独な心境。

その気持ちを、私も知っているよ。

とてもとても、辛いよね。

不安だよね。

悲しいよね。

それでもやっぱり、諦めきれないんだよね。

君の気持ちは、痛いほど解るよ。

私は、コートの裾の一部を切り裂き、木陰を飛び出した。




「ミカ!」


「あ! おじちゃん!?」


 走ってきた私に気が付くと、ミカは目を丸くして問うた。


「どうしてミヨおじちゃんが、学校に?」

 

「――君を……迎えに来たんだ。いつも、お母さんはこの時間仕事だろう? 君の傘のように可愛くなくて申し訳ないけど、これを使いなさい」


 私は右手にもったそれを彼女に渡した。幸い、この大雨のおかげで妖力は満ちていた。


「ありがとう! 変った傘、おじちゃんのコートとおんなじ柄ね」


 「そうだよ」と答える代わりに私はひとつ、微笑んだ。それを受け取ったミカは広げようとして柄の部分を何やら懸命にいじっているが、なかなか開かない。

みかねて私が手に取り、広げてみせると、ミカは


「そっか、ジャンプ傘じゃ無かったんだ」


 と納得したように再びそれを手に取った。


「それじゃあ、帰ろうか」


 私がそう言うと、ミカは元気な声で「うん!」と返した。




 学校を出て、少し歩いたところでミカが私に尋ねた。


「ねえ、おじちゃん」


「うん?」


「あの人のことはいいの?」


「あの人?」


「ミヨおじちゃんがいっつも、待ってる人」


「ああ」


「雨の日は、その人と遊ぶんじゃないの?」


「今日みたいな大雨の日は、流石に遊べないから、大丈夫だよ」


「そっか、じゃあ安心ね」


「そうとも」


 そうとも、そうとも。私は心の中で繰り返した。




 ミカが普段に増して嬉しそうな顔で公園に遊びきたのは、あの出来事から1週間ほどたった日のことだった。


「おじちゃん! おじちゃん!」


 どうしたんだい、と私が尋ねると、ミカは顔を輝かせて言った。


「おばあちゃんが! おばあちゃんが私の家に引っ越してくることになったの!」


「本当かい!?」


 ミカの嬉しそうな声につられて、私まで声が弾む。


「この間みたいなことがあった時に、迎えに行く人がいないといけないからって、お母さんが説得してくれたみたい!」


「そうか、そうか」


 ミカの母親には、私のことは伏せられている。彼女に渡したあの傘も、ミカが拾ったことになっている。私がミカに頼んだのだ。

あの日、ミカの家の前でそのこと告げると聞くと、ミカは「え!? どうして?」と訊いてきた。

「なんで?」と繰り返すミカに、私は上手い言い訳を思いつかなかったが、何とか彼女を言いくるめた。

しかし、彼女の母親も、何といっても親である。自分の子供の嘘を見抜くことには誰よりも優れている。その上本人も納得いかない嘘だ。

嘘だとばれない訳が無い。なんとなく、不審者の影を察しているのだろう。

もっとも、その不審者が異形の者だとは夢にも思っていないだろうが。


「それでね、ミヨおじちゃんにお願いがあるの」


 さっきまでの明るく元気な表情とは打って変わって、ミカは真剣な目をして私の前で両手を合わせた。


「なんだい?」


 私がそう尋ねると、ミカはひとつ間をおいた後、思い切ったように口を開いた。


「おばあちゃんと会ってほしいの」


「私が、かい?」


「うん。おばあちゃんには、ちゃんとミヨおじちゃんを紹介したいの。私の大切なお友達だって。そうすれば、おばあちゃんからもお母さんに言ってもらえるかもしれない」


 ミカにも、母親の私に対する懸念は伝わっていたようだ。

いや、それだけではなく実際に何かしら忠告のようなものを受けたのかもしれない。


「ね! いいでしょ? 今度の土曜日の午前中、お母さんはお仕事だから大丈夫。……晴れていても、その日だけはこの公園に来てね。お願い! 絶対だからね!」


 ミカはそれだけ言うと、私の返事も聞かずに、いつもの赤い傘を手に走り出した。


「ミカ、ちょっと待って!」


 私は必死に呼び止めようとしたが、その試みも虚しく、ミカはあっという間に公園内から出て行ってしまった。




 --どうしたものか。

そもそも、ミカの祖母に私の姿は視えるのだろうか。

血縁を考えると、あり得ないことではない。だが、可能性は決して高くはない。

たとえ祖母に視えたとしても、母親には?

いや、ミカと祖母に視えるのだったらその場合、母親も恐らく視えるのだろう。

しかし、私の存在を知るものが増えれば、いずれ私の正体がばれてしまう。

人間ではないことを、ミカに知られてしまう。

ミカを傷つけてしまう。恐がらせてしまう。……嫌われてしまう。

ましてや、祖母に視えなかった場合はその場で、だ。




 私は数日間、悩んだ。大いに悩んだ。その間、雨が降ってもミカは公園にやって来なかった。


 そして考えを巡らした結果、ある考えが浮かんだ。――ミカの前から、消えてしまおうか。

彼女の祖母が越してくれば、ミカの相手は事足りる。

そうだ、そうなれば、私はもうミカにとっては用無しなのだ。

遊ぶのも、あの日のように迎えに行くのも、祖母がいれば全く問題ない。

思い出すのだ、私は道具だ。私はあの日、道具としては充分に使命を果たしたのだ。

そうだ、そうだ、と何度もひとり頷く。

コートの上に何粒か、水滴が落ちた。太陽の光が煌めかせた。




 雨が降ったら早朝のうちに旅立とうと考えていたものの、決心を鈍らせるように、その日は鮮やかに晴れた。

空を見上げて思わず胸を撫で下ろした自分の頬を叩く。

晴れて入れば、ミカにも私の姿は視えない。

この日やってくるはずのミカに、最期の別れの言葉を言おう。謝ろう。

彼女に伝わらなくても構わない。自分の中でのけじめだ。

私はいつものベンチに座って、2人がやってくるのを待った。




「もー! 絶対に来てって言ったのに!!」


 公園に入ってきたミカが、顔を膨らませてわめく。

私はそんな彼女に対して背後から「ごめんな」と謝った。しかし、私の声は届かない。

その時、


「そんなに走ると、おばあちゃん追いつけないよ」


 と、白髪交じりの小柄な女性が遅れて公園に入ってきた。


「おばあちゃん、友達今日は来てないみたい……」


 悲しそうに祖母に告げるミカの姿に、心が痛む。


「そうかね、きっとお友達も忙しいんだねえ」


「いっつも暇そうなのに、なんで今日に限って!」


 そんな言葉に私は苦笑してしまう。


「わたし、向こうの広場で遊んでくる! おばあちゃんはここで休んでてもいいよ」


 そう言ってミカは私の座るベンチの前を走りぬけ、階段を上り、公園から繋がる広場へ向かった。

残された祖母は「やれやれ」といった風に、ひとつ息をつく。

滑り台、砂場、シーソーと、公園内を一通り感慨深そうにゆっくりと見まわした後、「懐かしいわ」と呟いた。

懐かしい? 

その言葉を聞いて、私が不思議に思っていると、彼女はベンチへやってきて、言った。


「お隣、よろしいですか?」

  

 私は驚きのあまり投げかけられたその問いに答える前に、私の方から尋ねていた。

 

「――私の姿が視えるのですか?」


「ええ、視えますとも。可笑しなことを仰りますね」


 彼女はそう言いながら「ふふふ」と笑い、私の隣に腰かけた。

いつものベンチには私と婦人、それに小さな赤い天道虫が座っている。

「本当に懐かしい、ビックリするほど変わらないわ……」小さな声で独りそう呟いた彼女は、

雲ひとつない晴れ空を仰ぎ見ながら、今度は私に聞かせるために口を開いた。


「あなたに話しても仕方がないことなんですけど、少し昔話に付き合って下さいますか?」 


 私が黙ってうなずくと、彼女はゆっくりと喋りだした。


 「何十年も前、本当にずっと昔ですね。まだ、小学校に通っていた頃ですから。私はこの街に暮らしていたんです。ちょうど今、娘の家が建っている辺りです。いえ、偶然ではないんです、娘が気をきかせてくれたのです。だから、私もこの公園にはしょっちゅう遊びに来ていたんですよ。それでね、当時の私には大切な宝物があったんです。何だと思います? ふふふ、意外と思われるかもしれません。実はね、傘、なんです」


「……」


「私がまだ小学校に上がったばかりの頃、父が京都の出張土産に買ってきてくれた和傘でね、父はぶっきらぼうな性格でしたから、滅多に土産なんて買ってくれなくて、それを貰った時、物凄く嬉しかったんですよ。だから絶対に無くしたくなくて、父に名前を書いてくれるよう頼んだんです」


 私はコートの裾に視線を下ろした。


「それがもう、大失敗で。私は柄の部分にひらがなで可愛く『みちこ』って名前を書いてほしかったんですけど、それを父はどうしたと思います? なんと布生地の部分にしかも漢字で『山川』って名字を書いたんですよ。大体、その場所に書いてしまったら畳みかたによっては見えないし、書く向きもおかしいんです。畳んだ状態で傘の柄を左手に持ってこう、横書に書いたものですから、開いたときに外から見たら縦読みでカタカナのようになるんです。だからしばしば同級生にからかわれました。『お前の傘、違う名前が書いてあるぞ』なんてね」


 彼女は思い出したように笑った。その垂れ下がった目尻に、私の胸の奥で淡い熱が生まれる。


「もう、今となっては笑い話ですけど、当時の私にとってはそれはもう、たいそうショックでねえ。いえ、それでも大事なのは変わりませんでした。あんなに可愛い和傘を持っている小学生なんて他にいませんでしたから。雨の日はいっつも友達に見せびらかして自慢していました。今思えば嫌な子ですよね。だけどそんなことを考える隙間もないほど、その傘が大好きだったんです。だから来る日も来る日も、雨が降ることを願っていましたよ。私にとって本当に、本当に大切な傘でした。――それなのに」


 そこで彼女は急に目を伏せ、一旦間を置いた後に再び喋り始める。


「置き忘れてしまったんですよ、その傘。この、公園にね」


 何も言わない私の様子を横から伺い見た彼女の瞳は、哀しみの色で満ちていた。


「そのまま何年か経って、この街からの引っ越しも間近に迫っていた頃でした。その日は親戚みんなで集まって、食事会に行くことになっていました。決して裕福な家庭ではなく、外食なんて滅多にあるもんじゃありませんでしたから、私は前日からずっと楽しみにしていたのです。当日の朝、興奮も醒めやらぬままに朝起きて窓をみると、なんと雨が降っているじゃありませんか。私は心の底から思いました。『今日はなんて良い日なんだ!』と。さっそく私は布団を抜け出して身支度を終えると、朝食も食べずに傘を持ってこの公園に向かいました。何度も言うようで、言い訳みたいになってしまうのですが、私はその日舞い上がっていたのです」


「幼い子供には、仕方のないことです」


「そう言っていただけると、助かります」


 彼女は再び笑顔を作って私に向ける。


「それからこの公園で遊んで、しばらくすると雨が止んだのです。私は傘を畳んでこの、いま私たちが座っているベンチにかけました。絶対に忘れるわけはないと、その時は思っていたのです。その後も私は遊び続けました。まったく本当に、子どもというのはどうして飽きもせず、あんなに長い時間遊んでいられるんでしょうね。やがてお昼頃になって、母が迎えにやってきました。『ちょっと早いけれど、途中でデパートに寄るから、もう帰ってきなさい』と。ただでさえその日浮かれていた私は、デパートという単語を聞いてもう大はしゃぎ。ブランコから飛び降りて母のもとへ駆け寄り、抱きつきました。そしてそのまま……」


 私は瞳をゆっくりと閉じた。


「やっぱり神様はいるんでしょうね。良いことが続くと、必ずその埋め合わせがある。私が傘を置き忘れたことに気が付いたのはそれから1週間近く経ってからでした。何故かというと、傘を置き忘れたその日、食事会を終えた私は酷い高熱を出してそのまま入院してしまったのです。ひょっとしたら傘を忘れた天罰だったのかもしれません。退院した後も、数日間は寝込んだままで意識は朦朧とし、傘のことを考える余裕はありませんでした。更に運の悪いことに、その間に私たち一家は予てから予定していた通りに、遠く離れた町へ引っ越してしまったのです。だから熱が下がってやっと傘のことを思い出したところで、もうすでに後の祭りでした。私がどれだけ駄々をこねても、泣き叫んでも両親は取りあってくれませんでした。まあ、自業自得なので仕方がありません。母も父も、『忘れなさい』と言うばかり。だけども私はあの傘のことが忘れられなかったのです。長い間大事にしてきたあの宝物を」


「今までもずっと、ですか?」


「……可笑しかったら、笑ってくださいね」


「……ええ」


「あれから何度も……そう、今だってたまに見るんですよ、変な夢。私が置き忘れたあの傘が人に化けて、この公園で私のことをずっと待ち続けている、そんな夢を。それでね、最初はそのお化け、とっても悲しそうな、辛そうな顔をしているんです。だけど、そろそろ夢が終わる頃になると、とっても恐い顔になるの。その顔を見て、私は『ごめんなさい!』って言って飛び起きる。片時も忘れることはなかったわ。きっとあの傘は私のことを恨んでいるんだ、そう思い続けて後ろめたい気持ちがあったから、娘からこの街で一緒に暮さないかと言われた時も最初は断ったの。この公園が恐かったんです。可笑しな話でしょう? けれどもやっぱり、孫の身には代えられないから」


 彼女はそう言い終えると、私に頭を下げた。


「これで私の昔話は終わりです。ごめんなさいね、こんな話に付き合ってもらって」


「いえ」


 ミカはまだ、広場から戻ってこない。  

彼女の向こうに目をやると、天道虫はもう居なくなっていた。


「――私も少し、いいですか?」


「もちろん、どうぞ」


 婦人の快諾を確認し、私はゆっくりと話を始めた。


「私は……あなたとは反対に、永い間人を待ち続けた経験があります」


 その第一声を受けた、隣に座る彼女の肩が一瞬ビクンと反応する。

前方を見つめたまま、彼女は弱々しく私に問いかけた。


「――辛かった、ですか?」


「待つこと自体は、さほど。ただ……」


「恐いのです。私が待っている最愛の人は、もう私のことなど(とう)の昔に忘れて、想っているのは自分だけではないかと考えるのがたまらなく恐かった。それだけが本当に恐ろしく、何よりも哀しかった。私は途中何度も思い切って諦めようとしました。それならば私の方も忘れてしまおうと。――ですが」


 声が、全身が、震えた。


「諦めきれないんです、諦めきれないんですよね。馬鹿みたいに。記憶の中のその人は、いつもいつまでも変わらない笑顔を私にくれる。言葉に出してしまえばたったそれだけのことなんですけど、私にとってはそんな不安の闇を全てかき消してしまう、何よりも強い希望の光だった。思い出は、ずるいんです……。色あせていくどころか、時を経ることでどんどん美化され、現実以上に美しいかたちで心の奥に残り続けて私を惑わせる」


 青空の下、コートに降り注ぐ雨粒をこの時ばかりは自分のために必死に振り払いながら、私は言葉を続けた。


「だから――その人が私を覚えていてくれた、私と同じように私を想いつづけていてくれていたことが分かった時、永久(とわ)とも思えたあの時間さえ忘れ去るような気持でした。私の想いは、決して無駄などではなかった。溢れる程の哀しみも孤独も、無駄ではなかった。時の長さなど、それに比べたら何になりましょうか」


 隣に座る彼女の肩も、今度は小刻みに震えていた。


「きっとその方も、自分を信じて待ち続けてくれたあなたに、随分胸をつかれたことでしょう……」


 彼女が小さな声でそう囁いた次の瞬間、私は気が付くと身を乗り出して彼女の頬を伝う雫を指先で拭っていた。

思いもよらない私の行動に、彼女は驚き目を大きく見開いたが、すぐにその目を細めて「ありがとう」と笑った。

そしてその時、公園内に少女の歓喜の声が響き渡る。


「あ! おじちゃん! やっぱり来てくれたんだ!」


 太陽の煌めく光を受けながら階段を駆け降りる少女に、私は清々しい気持ちで言った。


「――ああ、ちょっと『あの人』と会っていたんだよ」


 今度はもう、嘘ではないんだ。


ご覧いただき、ありがとうございました。

感想お待ちしています_(._.)_

短編シリーズ「あやかしものがたり」の他のお話もよろしければご覧ください_(._.)_

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