06
「あっ! また結ぶの忘れた!」
うちに着いてから思い出した。……いいや、持っとこう。願い事して引いたんじゃないし。
(一日も早く、また転勤しますように)
あれは、願い事に含まれるのかな。
だってここ、何か薄いとこだし。染まっていくのに気乗りしなくて。
だけど、心底本気で唱えたわけでもなくて。ていうか今、ほんとに叶ってほしいこと、別にない。
“未来の自分に頼む”
言いたいことは分かる。けど今いち、ぴんとこない。
気分が変わっても事態が変わらないなら、解決しないんじゃないかな。
気持ちだけじゃあ、どうにもならない。
うん、あたしは神様とか、そういう精神的な何かを信じてないんだね。
改めて認識したら、でもこれって普通だと思うんだけど、だけど、何かが乏しい感じもした。
なんでだろ? 神主が言ってたように、人を動かすのはたいてい、人だ。
神様にすがらなくたって、世の中を知ることはできるし。
……ん? あれ? あたし、どんな結論が欲しいんだ?
?????
もやっとしたけど、新天地2日目の人間には、もっと気になることがある。
ベッドに寝転んでケータイを開いた。メール、なし。
「理恵も香代も元気かなあ」
映画行く約束、もうなくなったよね。香代は先輩に告るって言ってたけど、どうなったかなあ。
「…………」
かといって、自分からメールする気力は湧かなかった。
さっきのものとは成分の違う欠乏が、心臓の奥あたりにじわっとしている。
これは、よくなじんだ感覚だ。1週間もすれば、治る。
治るんだ、いつもいつも。じわっとするのは、最初だけだ。
痛いのは、今だけだ。
「寿子ー、ちょっと来なさーい」
沈むあたしを消すように、急に呼ばれた。
「あら、熱あるの? ほっぺ赤いわよ」
「ううん、うとうとしてただけ。なに?」
お母さんは玄関にいた。
「こちらね、町内会長さんのお嬢さんで、小坂未央ちゃん。寿子と同い年なのよ」
「はじめまして。寿子ちゃんが4月から三中って聞いて、あいさつに。わざわざ来てもらっちゃって、ごめんね」
応対されていたのは女の子だった。つるんとした髪が肩までで、素朴で真面目そうな雰囲気。
きっと、彼女の性格が滲むんだろう。柔らかくほわんとした声や微笑み、気安い空気には、作った感じや偵察(?)する感じは全然なかった。
「そんなことないよ。こっちこそ、わざわざありがとう。え、ここのマンション?」
「うん、1階上だよ。お母さんから聞いたんだ。よろしくね」
主婦間のネットワークって、尋常じゃなく速くて太い。引っ越すたびに実感するよ。
あ、そうだ。
「藤井美晴さんって人に会ったんだけどね」
あたしは神社での出来事を話した。すると徐々に小坂さんの顔が、驚き、曇り、強張り、と変わっていった。
「まあぁ、それは大変ねえ」
その2に則って、あっさり処理する母。小坂さんには、そわそわも加わった。
「そんな、どうしよう。とりやめなんて、絶対だめですよ!」
え、どうして? ギャルはけっこう深刻そうだったのに。
「何かわけありっぽかったよ」
いち話題のつもりで話したのに、もくろんだような井戸端的空気にはならなかった。
小坂さんは断固たる口調で言った。
「明日聞きに行く! 寿子ちゃんも一緒に!」
「あたし!? なんで!?」
「美晴ちゃんの結婚は、このへん全体の大事だから!」
すでにあたしも、このへんの一員になったようです。
かくして3日目、有無など言えぬまま、あたしは小坂さんにお供して『ヘヤーカット・藤井』を訪れた。
ヘ“ヤ”ーにふさわしく、宇宙飛行士みたいなアレをかぶってたのは、おばさま・おばあさま方ばかり。店の奥に通されると、すっぴんのギャルが現れた。
聞けば、小坂さんのご両親が仲人らしい。脈々と受け継ぐ血があるのか、たおやか&おっとりふうな彼女は、挨拶すらすっ飛ばして詰め寄った。
「やめるって、本気じゃないよね?」
中学生に質されて、ギャルは渋い顔をする。
「式は来月だよ? 今さら……」
「未央、あんたにはまだ、あたしの気持ち理解できないよ」
小坂さんはともかく、あたしはもちろん理解できない。このへん全体の大事とかいうのも分からない。
だから、今できる質問をした。
「あの、願い事って何だったんですか?」
何となーく予想してたけど、やっぱり。消極的ながら受け答えしてたギャルは、あたしに問いで小キレた。
「こんなとこで軽く言えっか! やめっつったらやめだよ! 分かったか!」
分かってもいいけど、分かりませんよ! でも掴まれそうだし、退くことにした。
しかしここで、小坂さんのスイッチが入った。パチって音がしたみたいだった。
「じゃー帰ってそう報告するよっ。美晴ちゃんにも高木さんにも、別の相手紹介するようにって!」
仲人の血は、そっち方向に作用すんの!?
優しげな外見とかけ離れた声に、お店から流れてきていたざわめきも止まった。
「寿子ちゃん、帰ろ!」
唖然とするギャルを捨て置いて、小坂さんは身を翻す。完熟宇宙飛行士たちの、興味津々な眼差しを浴びながら、あたしたちは外へ出た。