01
人懐こい朝が訪れていた。あたしはすっきり目が覚めて、憂いなく起き上がる。
制服に着替えながら、気づいた。今日、引っ越してきた日だ。もう3年経つんだ。濃縮された思い出ダイジェストは大容量で、賑やかしく転がって、ふわふわ消えていった。
西谷家はというと、母が強くなり、父が淋しがりになった。隣々県の赴任先からけっこう頻繁に帰ってくる。娘は、安定した居場所っていうのにぬくまっている。出番待ちなダンボールのない家の中、すばらしい。
「行ってきまーす」
マンションを出て、大荷物を抱えて走り出す。今日は寄り道するから、駅とは逆方向へ、左へ曲がった。
目的地が見えてきたところで、力が抜けて走るのをやめた。鳥居の柱の根本に、着物男が正座している。また、何やったんだろ、あの神主。
「反省してんの?」
からかうと、志信は険しい顔で見上げてきた。
「俺のせいか? なんで?」
顎で示された先には、ちょうど志信の目の高さで、柱に
“がらうざい”
と、たどたどしい字でラクガキされていた。舌打ちする神主の首元は、白地に赤黄のキノコ柄。身長が伸びる、あの菌類だ。
「当たってんじゃん。てか、これ、キヨくん?」
「あいつしかいねぇだろ! こーゆう迷惑行為、完全に母親から遺伝してんな……」
高木聖虎〈たかぎ きよとら〉・弱冠2歳。美晴ちゃんの息子。
「しかもな、赤い鳥居に緑のクレヨン選ぶあたり、将来かなり危険だろ? 村井塗装なんか出入りさせたら、ぜってぇだめだ」
「そうかなあ、2歳半でひらがな書けるってすごいよ。褒めてあげるべきじゃん。そんで、なんで正座?」
「ラクガキされたのは、お前に非があるからだ。柱の前で人間性を省みろ、だと。ハゲが」
そいつぁ……たぶん、無理だ。が顔に出たようで、菌類に睨みつけられた。
「ま、今日けっこうあったかいし! ハイこれ(モニター品だけど)のど飴・干し柿風味! じゃっ!」
そそくさかばんを抱え直していると、志信が長い荷物を差し出してくれた。
「部活? 最近、えらく熱心じゃね?」
「だって今年引退だし」
「あ、お前、もう高3か……」
妙に感慨深い声とともに、志信の目つきがしみじみする。おっ、やっとあたしの成長に気づいたか?
「こん~だけ時間かけても、フェロモン一滴も分泌されねぇのな。人体って、すげえ神秘」
しみじみは、哀れみだった。
「まだ彼氏いねんだろ? ……かわいそうに……」
「フェロモンっくらい出てるし! 見てよ! このへん、裾とかさ!」
がちんときて、志信の前で仁王立ちする。オプション・スポーツバッグ云々は可愛くないけど、制服くらいは! 好きそうでしょう? セーラー服とか!
折よく、ささやかな風が膝あたりを過ぎて、あたしに加勢してくれた。さあ、あなたも陽気な春風に誘われてみませんか!(?)
「何つうか、基本的な凹凸が致命的に足りない。いやぁびっくりだな、ヒラヒラにそそられねえ」
志信は心底驚いて、それから、
「かわいそうに……」
ひどいことを二回も言った。
キノコ野郎を呪いながら駅に着くと、待っていた未央が行く手を阻んだ。
「寿子、これから電車だから、ソレちゃんと担いで。周りの迷惑だし、ていうか物騒だよ。捕まるよ」
気づけば、あたしは細長いブツを横にして握っていた。前後のみなさまに大変邪魔な感じである。同じ荷物を、未央は縦にして持っている。これは、なぎなた。あたしたちは同じ高校で、なぎなた部員。今日は練習試合だ。
改札を抜け、ホームへ降りながら未央に尋ねた。
「今朝何かあった? かーさん、ばたばたしてたけど」
「あれ、知らない? 中学の裏に、おっきな山あったでしょ。上の方に山の神様の木があるんだよ。今年、そこの注連縄〈しめなわ〉交換するから、婦人会でも打ち合わせだよ」
「へえ~」
知らないこと、まだまだあるんだなあ。確実に分かってきたのは、咲待町民は稲荷神社と神事を大事にしているってことだ。注連縄交換もそうだ。若い人よりお年寄りのが多い町だからか、なんだかんだと地域密着行事がたくさんある。
外の客があまり多くない稲荷神社が維持できるのは、町の人の厚情に大いに依る。
聖虎くんに、次は“とうにょうになれ”ってリクエストしたい、とか話しているうちに、対戦高校へ着いた。春休みだから、広いグラウンドで各種運動部が活気づいていた。
この高校、スポーツ全般に力を入れていて、なぎなた部専用の道場もある。いいなあ、羨ましい。荷物のかたちで必ず「剣道部?」か「弓道部?」かに間違われるけど、なぎなたってかっこいいんです。
高校入学時、新しいことを始めたかったあたしは、とりあえず未央と剣道部を見学した。そこで、同じ道場を分けて練習しているなぎなた部を発見。
なぎなたは古来、女の人の武芸とされていて(男の人でもできるんだけど)、だからか部員は女子ばっかりだった。