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凪いだり騒いだり移ろいはしても、たとえ別の土地へ行くことになっても、必ずひとつ、帰る場所があるってことだ。ぴったり収まるかたちが、壊れずに残ってるってことだ。
うちのような、擦りきれた言葉じゃない。言葉にならない、錆びるほど在り続けた、強靭なかたちを北野さんは持ってるのに。
大切なものを守る手段は、嫌がらせじゃないだろう。この子はそれを知ってるはずだ。憎悪に怒りが加わって、さっきから噴火寸前なのが証拠だ。
「じゃあ、今すぐ出てってよ。次が来たら、それはまた考えるから」
「キタノ薬局が潰れるまで、こんな不毛なこと続けんの?」
分かってんでしょ! 無視すんな!
「あんたさあ! うちは被害者なんだよっ! あんたこそ、何も感じないの? 自分の父親が、同じ町内の店潰すの、手伝ってんじゃんか!」
「分かるよ! あたしはーー」
「出てってよ! でもどうせ、あんたも引く気ないんでしょ? なら、サカキの隣にでも引っ越せば? 何もしてません、みたいな顔で“ここ”に、いんな!」
すでに朝練が始まっていて、あたりは人の行き来がなくなっていた。北野さんの声はがらんとした昇降口に反響して、あたしをもびりびり震わせた。
覆いのない言葉は強く眩しくて、あたしの奥を表に曝した。あたしの隙間を、さらに抉った。
長くはいないから、静かに時間だけ数えよう。そう決意したのに、揺らぎそうになった。
北野さんを培ったもの。ぴったり収まるもの。ぎくしゃく体を滑り込ませてきたあたしには、絶対に分からない温度。
あたしは、あたしだって、それが欲しいよ。
黙った相手に反意を見たのか、彼女はさらに苛立った。
「何とか言いなよ!」
強張るほど力で満ちていた腕が、感情をばねに振り上げられる。痛い! と思った瞬間、生じた音は、あたしの頬からではなかった。
「北野!」
「由美子ちゃん!」
油圧式の玄関扉が、鈍く閉まった音だった。痛くない代わりに、掲げられた北野さんの腕を、村井孝介が押さえにかかっていた。
「大丈夫!? 叩かれたの?」
小坂さんがあたしを覗き込む。二人とも、何で?
「昨日、志信くんに言われたんだよ。寿子ちゃんが、覚悟決めそうだって」
「かくご?」
問うと、小坂さんはにやりとした。
「志信くんの予想は当たるんだよ。あたし、きっと決着つけに行くんだと思って」
「西谷、詳しく言ってくれりゃあいいのに。一人で話つけるなんて、無謀だって」
北野さんを解放しながら、村井孝介が言った。
「あんたたち、この子の味方すんの!?」
「そうだよ。由美子ちゃんのやったことは、全然正しくない」
「サカキに対抗するってんなら、俺らだって協力するけど」
二人をも睨みつけ、北野さんは顔を歪めた。
「北野さん、だから」
「黙ってよ。余所者に言われたくない。うちを気の毒とか思うんなら、自分で言った通り、さっさと出てって」
吐き捨てて、北野さんは行ってしまった。
杭打たれたように、あたしは動けなかった。
「寿子ちゃん、出てくって?」
「……そのうちに、って話。あたし、しょっちゅう転校してるから」
声が震えてしまいそうなのを、必死にこらえた。
(この二人なら、あの夢に出てこないでくれるかな?)
ふと、思った。
(あたしの名前、覚えててくれるかな?)
思うというより、望みたかった。そして思い出した。どこにいたときも、毎回同じく期待したのを。
「ごめん、迷惑かけちゃったね。叩かれてないし、大丈夫だよ」
ようやく傍らの小坂さんに微笑めた。大丈夫、笑顔の繕い方は上級なんだ。
「寿子ちゃん、志信くんが言ってたんだけど……」
しぼんだ声で言う、彼女の呼吸がぎこちない。“友達になろう”とか、お願いだからここで改まって言わないでほしい。
あたしはもう、期待した先で落胆する自分が嫌なんだ。
「ああ、もしかしてケータイのこと? 何でもないよ、そっちも平気」
無理に会話を打ち切って、あたしは教室へ急いだ。夢の中にいるときみたく、隔てて、隔たれて、苦しかった。
「寿子ー、起きてるのー? そろそろ出るわよー」
土曜の朝。揃って、本気スーツ。さあ神社へ! と意気込む両親に、「留守番してたい」が通じるわけなかった。
桜はじきに終わる。軽やかな空の下、道端やら庭先やら空き地やらで、うすれた桃色と淡い黄緑色の可憐な取り合わせが、小さな風を受けていた。
思えば、越してきてからあたしはけっこう、神社へ足を運んでる。なのに今日初めて、存在に気がついた。
真っ赤な鳥居の真ん中・上方、灰白い石(額束というんだそう)に、すっきりといかめしい字体で“稲荷神社”と記されていた。そんなわりに、狐の石像、見当たらないけど。
いつもの白着物・浅葱袴に乾草色の上衣をまとい、黒い帽子を被った宮司さんと、いつものままの息子が待っていた。