第2話 机の中の告発文
文化祭準備が本格化した週の初め、うちのクラスは昼休みのたびにポスター案で揉めていた。
「柏木の絵なら間違いないじゃん」
「でも、真城の時計塔の構図、よくない?」
「よくても、このままだと地味だろ」
黒板の前に貼られたラフ案は三枚。そのうち、いちばん人の目を引くのは柏木遥のものだった。線が整っていて、空の色も綺麗だ。けれど、その隣にある一年の真城詩織のラフには、たしかに別の強さがあった。時計塔を見上げる角度が少し低く、文化祭の日のざわめきが、まだ起きていないのに聞こえそうな絵だ。
「柏木先輩のほうが完成してるし」
「真城ちゃんのは“素材”って感じかな」
そんな言い方が、美術の分からないやつほど好きだ。
ひかりは掲示された三枚を見比べながら、文庫本のしおりを指で弄んでいた。
「完成してるから強いんじゃなくて、強いから完成して見えることもあるのにね」
「評論家みたいなこと言うなよ」
「評論家じゃない。雑に選ぶのが嫌なだけ」
そのとき、顧問に呼ばれた真城が、美術室のほうへ小走りで行った。戻ってきたときには、ラフの角だけが少し折れていた。
「泣いてた?」
「いや、違うと思うけど」
僕はそう言ったが、ひかりは納得していない顔だった。
「昼、空いてる?」
「またか」
「たぶん、あの絵はこのままじゃ終わらない」
嫌な予感しかしなかった。
文化祭の準備が本格的に始まった週の月曜、うちのクラスの連絡ボックスに便箋が一枚だけ入っていた。
『二年A組のポスター案は盗作です』
朝のホームルーム前にその紙が見つかると、教室は一気に騒がしくなった。しかも、名指しされていたのは柏木遥。美術部所属で、文化祭ポスターの原案を出した本人だ。
「匿名って時点で、ろくな予感がしないな」
僕がそう言うと、ひかりは便箋を光に透かしながら返した。
「匿名でも本当のことはある」
「逆に、匿名だから届くこともある、だろ」
「うん。でも匿名だからって、雑に扱っていいわけじゃない」
その言い方が少しだけ固かった。
柏木は教室の中央で、すでに何人かに取り囲まれていた。
「遥ちゃん、これほんと?」
「違うよ。ていうか、何を元に言ってるの?」
「でも、一年の真城さんが泣いてたって」
「泣いてたら私が盗んだことになるの?」
教室の隅では、美園が空気を和らげようと「まず先生呼ぼう」と言っている。けれど、もう遅い。噂は火のつき方だけは早い。
告発文には、柏木の描いた時計塔の構図が、一年の真城詩織がスケッチブックに描いていたものと同じだ、と書かれていた。真城はたしかに昼休み、美術室で泣いていた。しかも、ポスターの提出締切は今日の昼。放っておけば、そのまま「盗作した先輩」が出来上がる。
「行くぞ」
「どこへ」
「美術室」
「まだ授業前だぞ」
「授業前だから」
そう言って歩き出すから、僕も付き合うしかない。
美術室には、真城と、顧問に言いつけられたのかポスターの色校正をしている柏木がいた。ひかりは扉を開けるなり、遠慮なく切りこむ。
「真城さん、スケッチブック見せて」
「えっ」
「やめなよ、一ノ瀬さん」
柏木が眉をひそめる。
「告発文出たばっかでしょ。今そういうの、余計こじれる」
「こじれてるから来たんです」
「言い方」
僕が小声で呟くと、ひかりは聞こえなかったふりをした。
真城は少しためらったあと、机の上のスケッチブックを開いた。たしかに似ていた。時計塔を斜め下から見上げる角度も、空を横切る鳥の数も同じだ。柏木のポスター案と並べると、一見して「元ネタ」と言われても仕方がない。
「ほら」
美術室の隅で見ていた二年の女子が囁く。
「やっぱり似てる」
「似てるどころじゃなくない?」
ひかりは二枚を見比べたまま、黙っていた。やがて、指先で時計の文字盤を指す。
「四が『IIII』になってる」
「え?」
柏木が身を乗り出した。
「ほんとだ」
「普通は『IV』で描く人が多い。両方ともわざわざ同じ癖で描いてる」
僕は窓の外の本物の時計塔を見た。数字なんて、こんな距離からは見えない。ひかりも同じ結論に至ったらしい。
「学校パンフレット」
「……は?」
柏木が首を傾げる。
「元にしたの、学校パンフレットの写真でしょ」
「あ」
真城が小さく声をもらす。
「私、配布されたやつ見ながらラフ描いた」
「私も。文化祭の雰囲気に合うかなって思って」
柏木が言う。
それなら、盗作騒ぎはここで終わりそうに見えた。だが、ひかりは終わらせなかった。
「でも、これで終わりじゃない」
「何が」
柏木の声が少し尖る。
「告発文を書いた人は、ほんとに盗作だって信じてたんじゃなくて、別のことを止めたかったんだと思う」
ひかりは真城の机の上に散らばった消しゴムのカスを見ていた。ラフの横には、破った紙の切れ端もある。
「真城さん、昨日、ポスターの提出前に何か揉めた?」
真城は答えない。代わりに、柏木が言う。
「揉めたっていうか……顧問の先生が、真城ちゃんのラフだと弱いって」
「弱いって?」
「文化祭の顔になるなら、もう少し“完成度”がいるって。だから私が清書した」
「頼まれて?」
「……うん」
「で、真城さんは納得してない」
「して、ないです」
真城の目に涙が浮かぶ。
「だって、時計塔を見上げる角度も、鳥も、空の色も、全部考えたの私なのに、最後に“柏木先輩の作品”みたいになるなら、最初から私のじゃないじゃないですか」
そこで初めて、告発文の輪郭がはっきりした。
柏木は盗んだわけじゃない。けれど、真城から見れば「奪われた」と感じてもおかしくない。その隙間に、匿名の紙が入った。
「告発文、真城さんが書いた?」
ひかりが訊く。
真城はうつむいたまま首を振った。
「じゃあ、誰」
「私です」
美術室の入口から、低い声がした。
振り向くと、ポスターの印刷を担当している実行委員の森本が立っていた。美術部でも委員でもないのに、美術室へ入り浸っていることで有名なやつだ。
「見てたら腹立ったんだよ。真城が黙ってるから」
「だから盗作って紙を出した」
「だって、そうでもしないと止まらないだろ」
ひかりは、そこで初めて少しだけ声を落とした。
「止まるよ。もっと別の止め方がある」
「ないよ」
森本は即答した。
「先生に言っても、“一年の案のままだと弱い”って返される。柏木先輩に言っても、“悪気はない”で終わる。だったら、騒ぎにするしかないだろ」
「でも、その紙は柏木先輩を“盗む人”にする」
「少しくらい悪者になったほうが、元の案は浮かぶだろ」
「そういうのが、いちばん雑」
口調はきついのに、ひかりの目は森本ではなく、真城のほうを見ていた。
「真城さんは、“奪われた”って言いたかったんでしょ。柏木先輩を潰したかったわけじゃない」
真城は声を詰まらせたまま、かすかに頷く。
「だったら、匿名の紙にしなくていいようにする」
その場に顧問を呼びつけたのは、もちろんひかりだった。授業開始ぎりぎりの美術室で、先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「今この場でですか?」
「今この場でです」
「後で職員室で」
「後だと柏木先輩が“盗作した先輩”のまま一時間過ごすので」
正しい。正しいが、言い方が悪い。
顧問は結局折れて、四人を連れて空き教室へ移動した。僕もなぜか付き添いになった。
話し合いは穏便には終わらなかった。先生は「最終的に清書したのは柏木だから、完全に真城の作品とも言えない」と言い、真城は「だったら最初から使わないでほしかった」と泣き、柏木は「私は頼まれたからやっただけなのに」と声を震わせる。森本は最後まで「だから匿名で叩くしかないって言った」と不満げだった。
その中で、ひかりだけが妙にまっすぐだった。
「じゃあ、クレジットを連名にしてください」
「連名?」
顧問が眉を上げる。
「構図原案・真城詩織、仕上げ・柏木遥。説明文にもそのまま書く」
「そんな映画みたいな」
僕が言うと、ひかりは振り向きもせず返す。
「でも事実でしょ」
「事実だけで通すと角が立つ」
「角を立てないせいで、今こうなってる」
「……それはそうだけど」
顧問はかなり嫌そうだったが、柏木が先に折れた。
「それでいいです。ていうか、そのほうがいい」
「柏木先輩」
「真城ちゃん、ごめん。私、勝手に“手伝い”のつもりになってた」
「……先輩が悪いだけじゃないです」
「でも、私も止めなかったから」
そこでやっと、空気が少しだけ緩んだ。
解決した、とは言いがたい。真城は泣いたし、柏木も泣きそうだったし、顧問は最後まで不服そうだった。けれど、少なくとも「盗作した先輩」という形では終わらなかった。
放課後、ひかりは靴箱を開けて黙った。中に小さな紙が入っていたからだ。
『また一つ、正しく壊したね』
僕がのぞきこむより先に、ひかりはそれを丸めてポケットへ突っこんだ。
「なんだ、それ」
「ただの気持ち悪い紙」
「誰かに見られてるってことだろ」
「見られてるくらいで止まるなら、主人公じゃない」
「やめろ。その返し方」
「でも、ラノベの主人公ならそうした」
「終わったあとに言うな」
「解決したから」
「後味は最悪だけどな」
ひかりは肩をすくめた。
その日の帰り道、僕は柏木に呼び止められた。真城がまたクラスで気まずくならないようにしたい、と頼まれた。僕は先生と実行委員を回って、説明の仕方だけ整えた。
たぶん、ひかりならやらない仕事だ。
でも、そのとき少しだけ思った。僕が拾いにいくから、あいつはああやって踏みこめるのかもしれない、と。
◆
その日の放課後、美術室には柏木と真城と顧問、それから森本まで残された。
連名表記に変えるだけで空気が整うほど、学校は単純じゃない。実際、顧問は最後まで『誤解を招く書き方は困る』と不機嫌で、柏木は『先輩扱いされるほうが、今は怖いです』とこぼし、真城は真城で『助けてもらったのに、奪われたって思った自分も嫌です』と泣いた。
「両方あるんだと思う」
僕が言うと、森本が壁にもたれたまま顔を上げる。
「助けられたし、奪われた。だから一枚の紙じゃ足りなかった」
ひかりは窓の外を見たまま、少し遅れて口を開いた。
「匿名の紙って、正しさの形をしてるから厄介なんだよね」
「一ノ瀬さんが言うと説得力ある」
森本が皮肉っぽく返す。
「私もよく真正面から切るから?」
「そう」
「でも、切ったあとで繋ぐ人がいるなら、まだまし」
それはたぶん、僕のことだった。僕が言い返すより先に、ひかりは靴箱の中の紙を思い出したみたいな顔になった。
帰り際、例のメモがまた入っていた。
『また一つ、正しく壊したね』
今度は僕も読んだ。ひかりは隠さなかった。
「誰か、お前のやってることをずっと見てる」
「うん」
「気持ち悪くない?」
「気持ち悪いよ」
「なのに平気そうな顔するな」
「平気そうにしないと、主人公っぽくないから」
「そういう自己演出が一番怖い」
ひかりは少しだけ笑ったが、その笑い方はいつもより浅かった。




