第1話 主人公なら、見過ごさない
六時間目の前だというのに、教室はいつもより浮ついていた。来月の校外学習の班分けが掲示され、参加届と積立の最終確認が一緒に回ってきたせいだ。前の列では「自由行動、どこ行く?」という話で盛り上がっていて、後ろの列では未提出の名前を覗きこんで笑うやつがいる。
「秋月、まだ出してないんだ」
「家庭の事情ってやつだろ」
「じゃあ来ないのかな」
軽い声だった。悪意があるというより、無自覚に人の事情を覗きこむ種類の軽さだ。
僕が眉をひそめるより先に、ひかりが文庫本を閉じた。
「そういうの、聞こえる声で言うの、だいぶ感じ悪いよ」
言われた男子二人が、気まずそうに肩をすくめる。
「いや、別に悪く言ったわけじゃ」
「悪く言う気がなくても、雑に触ったら同じ」
きっぱりしている。正しい。正しいが、朝からそれを真正面に投げつけるのは、少しだけ強すぎる。
「ひかり」
「なに」
「まだホームルーム前」
「ホームルーム前でも感じ悪いものは感じ悪い」
そう返してから、ひかりは斜め前をちらりと見た。秋月は何も聞こえなかったみたいな顔で筆箱を開け閉めしていたが、指先だけは少し固かった。
たぶん、あいつはああいうのに止まれない。見過ごした顔を、見ると駄目なのだ。理由は知らない。ただ、その止まれなさだけは、昔から変わらなかった。
僕の幼馴染は、自分をラノベの主人公だと思っている。
比喩ではない。誇張でもない。ほんとうに、一片の疑いもなくそう信じている。
だから、誰かが困っていれば助ける。廊下でプリントをばらまいた一年がいれば、予鈴なんて聞こえていないみたいにしゃがみこむし、傘のない後輩がいれば、自分が濡れてでも駅まで送る。教師相手でも遠慮がないし、上級生の輪にも平気で踏みこむ。
それだけなら、ただの善人だ。
問題は、その踏みこみ方にためらいがないことだった。
「ラノベの主人公ならそうした」
こいつは、ほんとうにそう言う。
六時間目の前の短い休み時間。窓際の席で文庫本を閉じた一ノ瀬ひかりは、何でもない顔でそう口にした。長い黒髪が肩で揺れて、横顔だけ見れば校内の誰が見ても絵になる。実際、絵になるから困る。ああいう顔で、ああいう台詞を真顔で言うせいで、冗談に聞こえないのだ。
「湊、今日の放課後、空いてる?」
「空いてないって言っても、どうせ巻きこむだろ」
「正解」
「なんで聞いた」
「会話の手順として必要かなって」
「必要ない」
そう返すより早く、教室の前方で椅子が引かれる音がした。クラス委員の美園結衣が、少し青ざめた顔で教壇の脇に立っている。来月の校外学習の積立を預かっている会計係で、普段ならよく通る声で未提出者の名前でも読み上げるところだが、今日は違った。
「先生、すみません」
担任の三田村が顔を上げる。
「どうした、美園」
「積立の封筒が、ありません」
教室が静まり返るまで、二秒かかった。
「なくなったって、どういうことだ」
「朝、ホームルーム前に教壇横の引き出しへ入れました。昼休みに確認したときには、もうなくて……さっきもう一度見ても、やっぱり」
「見間違いじゃないのか」
「三回見ました」
ざわめきが広がる。来月の校外学習の積立は今週が締切だった。提出表にはまだ数人ぶん空欄が残っていて、その中に秋月栞の名前があったことを僕は覚えている。家庭の事情で参加が難しいらしい、という噂まで、すでにクラスに回っていた。
だからだろう。誰も口にはしなかったが、視線はもう「持っていそうな人」を探し始めていた。
「全員、そのまま席につけ。自分の机の周りと鞄の中を確認しろ。勝手に他人の物には触るな」
三田村先生の声で、教室がいっせいに動き出す。椅子を引く音、机の中を探る音、ファスナーの開閉音。僕も鞄の口を開けながら、斜め前の席を見た。
秋月は小さく肩をすくめたまま、自分のトートバッグを膝へ引き寄せていた。色の薄い指先で持ち手を握る力だけが、少し強い。
「秋月」
三田村先生が近づく。
「見せなさい」
彼女は無言で頷き、バッグの口を開けた。中には図書室の返却印のついた二冊の分厚い文庫本が見え、その上に茶封筒の端が斜めに引っかかっていた。ひとりの女子が小さく息を呑む。
「……それ」
先生が封筒を抜き取る。表には大きく、校外学習積立金、と書かれていた。見間違えようがない。封を開け、中身を改める。名簿、領収印の紙片、現金。
そして次の瞬間、先生の顔がさらに険しくなる。
「……八千円足りない」
教室じゅうの視線が、いっせいに秋月へ向いた。秋月はしばらく何も言わなかった。その沈黙は、言い逃れを考えているというより、最初から否定の言葉を持っていないみたいだった。
「これは、どういうことだ」
低い声で促されて、秋月は目を伏せたまま言う。
「……私が、やりました」
それで、教室の空気はひとまず落ち着きかけた。犯人がいた。未納の生徒だった。金も足りない。話は終わる。そんな安っぽい納得が、あっという間に教室全体へ広がっていく。
「やっぱり」
誰かがごく小さく言った。誰かが聞こえないふりをした。
三田村先生が「放課後、職員室に来なさい」と告げかけた、そのときだった。
「それ、嘘です」
教室の真ん中で、一ノ瀬ひかりだけがまっすぐな声を出した。
「一ノ瀬、今は」
「今だからです。このままだと、終わる」
ひかりは席を立つと、秋月の机の横まで歩いていった。
「秋月さん。あなた、盗んでないでしょう」
秋月はうつむいたまま、何も答えない。
「一ノ瀬」
先生の声が少し強くなる。
けれどひかりは、そんなことにまるで頓着しない顔で言った。
「ラノベの主人公ならそうする」
「……は?」
「見えてる嘘を、そのままにしない」
最悪の言い回しだった。教室の半分は呆れ、残り半分は固まっている。僕は額に手を当てる。頼むからその台詞だけはやめろと思うのに、絶対にやめない。
でも、その目を見れば分かる。こいつは本気だ。
「先生、少しだけ時間をください」
「遊びじゃないんだぞ」
「知ってます。だからです」
「何分だ」
「三分で足ります」
「足りなかったらどうする」
「そのときは怒られてから考えます」
三田村先生は露骨に不機嫌そうだったが、それでも封筒を机に置いた。
「……三分だ」
ひかりがちらりと僕を見る。その視線の意味は分かる。逃げるな、手伝え、だ。
僕はため息をついて席を立った。
「何が嘘なんだよ」
「まず、場所」
ひかりは秋月のバッグを指さした。
「封筒、本のどこにあった?」
「上、だな」
三田村先生が短く答える。
「二冊とも、その下に入ってました」
ひかりは頷く。
「秋月さん、昼休みに図書室へ行ってたよね」
「……はい」
「戻ってきてから、その二冊をバッグに入れた」
「うん、見た。俺も」
昼休みの終わり、秋月が重そうに本を抱えて戻ってきたのを覚えている。机にいったん置いてから、そのままバッグへしまっていた。
「秋月さんが朝のうちに封筒を盗んで、自分の鞄に隠してたなら、あとから入れた本が上に来るはずはない。封筒はその下に埋もれてるはずでしょう」
「でも、上にあった」
「うん。つまり、秋月さんが本を入れたあと、誰かが上から差し込んだ」
ざわめきが起きる。美園の顔が、目に見えてこわばった。
ひかりは続ける。
「じゃあ、誰がそのあと教室に残ってたか」
そこで僕も、ようやく同じところへたどり着いた。
「五時間目、体育だった」
僕が言うと、数人がはっとした顔をする。
「みんな体育館へ行った。でも一人だけ、教室に残ってた」
「……会計ノート、つけるって言ってた」
そう。美園は体育の前、まだ記録が終わっていないから先に行ってて、と言っていた。
ひかりの目が、美園に向く。
「美園さん」
「ち、違うよ!」
ほとんど反射みたいに、美園は叫んだ。
「私、少し残ったけど、そんなこと……!」
「じゃあ、これは?」
ひかりは机の上の封筒を指先で示した。
「ここ、ラメがついてる」
光の加減で、封筒の端に淡い粒がきらっと光った。教室の何人かが、美園の指先を見た。今日の彼女は、たしかにラメ入りのハンドクリームを塗っていた。
「今日、ラメ入りのハンドクリーム使ってるの、美園さんだけだよね」
美園は無意識に、自分の手を背中へ引いた。
「それだけじゃ……」
「うん、それだけなら弱い。だから、もう一つ」
ひかりは美園の机に開きっぱなしの会計ノートへ手を伸ばした。端の余白に、小さく丸い字がある。
『8,000 放課後に補填』
「これ、どういう意味?」
責めるような口調ではなかった。ただ、逃がさない真っ直ぐさだけがあった。
「封筒をいったん抜いて、八千円使った。放課後に戻すつもりだった。でも、昼休みに確認されてなくなっていると気づかれた。だから慌てて、秋月さんの鞄に入れた」
「違う……」
「しかも秋月さんは未納で、参加できないかもしれないって噂まである。疑いが向きやすい」
「違うってば……!」
しん、と教室が静まり返った。
ひかりはさらに一歩踏みこんだ。
「だったら、何に使ったの」
「……」
「美園さん」
「やめろ」
僕は思わず口を挟んだ。
「そこまで一気に行くな」
「でも」
「追いつめるだけなら、正しさでも何でもない」
ひかりが一瞬だけ僕を見る。ほんのわずかに、息を飲むみたいな間があった。
「……分かった。じゃあ、自分で言って」
「え?」
「私が当てるより、自分で言ったほうが、まだましだから」
美園は唇を噛みしめたまま、机に手をつくようにして俯いた。やがて、かすれた声で言う。
「……今日、締切だったの」
「何の」
「模試の申込金。八千円……今日の昼までで……。お母さんに言えなくて……でも、これ逃したら、推薦きついって言われて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「ほんとは放課後に戻すつもりだった。おばあちゃんに借りる約束してて……それで、間に合うと思って……」
「だから秋月を使ったのか」
僕が聞くと、美園は首を振るようにして泣いた。
「最初は、そんなつもりじゃなかった……でも、先生が確認するって言うから、どうしたらいいか分かんなくて……」
美園はぐしゃぐしゃの顔で、秋月のほうを見た。
「ごめん……ごめん、栞……」
秋月はすぐには顔を上げなかった。三田村先生が深く息を吐く。
「美園、職員室に来なさい。秋月もだ」
「先生」
ひかりが呼び止める。
「秋月さんは」
「分かっている。だが、事情は確認する」
そのとき、秋月がほとんど聞き取れない声で言った。
「……私がやったことにして、終わればよかったのに」
教室の誰も、たぶん初めて聞いた。秋月がこんなふうに感情を乗せて喋るのを。
「私なら、どう思われてもよかったから」
「よくない」
ひかりの声は、今まででいちばん静かだった。
「そういうのが、いちばんよくない」
扉が閉まったあともしばらく、誰も喋らなかった。勝ち誇った顔ではない。事件を解いた満足感とも違う。ただ、「どう思われてもよかった」という言葉だけを、必要以上に深く受け取ってしまった顔で、ひかりだけが閉まった扉を見ていた。
「ひかり」
「……なに」
「またやりすぎたな」
「でも、合ってた」
「合ってるかどうかだけで済まないんだよ、たいていは」
僕は秋月の机に置き忘れられていた図書室の本を二冊、まとめて持ち上げた。
「どこ行くの」
「後始末」
「私も行く」
「来るな」
「なんで」
「お前が行くと、また正しいことしか言わないから」
しばらく廊下で時間を潰してから、僕は職員室の方へ向かった。けれど秋月がいたのは中ではなく、その手前の非常階段の踊り場だった。
「これ」
二冊の本を差し出すと、彼女は一瞬だけ驚いた顔をした。
「一ノ瀬さんは?」
「来たがったけど止めた」
秋月は、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「あの人、すごいですね」
「すごいよ。いろんな意味で」
「……どうして、あそこまで」
ほんとうの理由を、僕はまだ知らない。ただ、こいつは“諦めた顔”を見ると止まれなくなる。たぶん、それだけは確かだった。
「主人公だから、らしい」
「え?」
「いや、こっちの話」
秋月は少し黙ってから、小さく言った。
「私が黙ってれば、終わったのに」
「終わらせないようにする」
「真壁くんが?」
「一応。あいつは解く係だから」
「じゃあ、真壁くんは」
「拾う係」
自分で言って、少しだけ可笑しかった。でも、わりと本当だった。
あとで聞いた話では、美園はその日のうちに停学や退学にはならなかったらしい。保護者との面談と、推薦関係の扱いは別途判断。秋月にも、先生から正式に謝罪があったという。
丸く収まった、と言うには少し苦い。でも、完全に壊れたわけでもない。
校門を出るころには、空はもう夕方の色になっていた。ひかりは正門脇の桜の木の下で待っていた。
「どうだった」
「少しはましになった」
「そっか」
駅までの坂道を二人で下りながら、ひかりがぽつりと言う。
「『どう思われてもいい』ってやつ、嫌い」
「そうかもな」
「よくないよ。あれ」
その言い方は、誰かを説得しているというより、自分に言い聞かせているようだった。少ししてから、ひかりがいつもの調子に戻る。
「でもさ」
「うん」
「ラノベの主人公なら、見過ごさないよ」
「……厄介だな」
「褒め言葉?」
「最悪のほうだよ」
ひかりは少しだけ笑った。
そのときの僕は、まだ知らなかった。一ノ瀬ひかりが「ラノベの主人公ならそうした」と言うたび、誰かが救われ、誰かが傷つくことを。そして、その傷のいくつかを拾い集めるのが、いつも僕の役目になることを。
◆
秋月へ本を届けたあと、職員室の前で美園に会った。
彼女は泣き腫らした目のまま、廊下の端で立っていた。職員室へ入る勇気がないのか、入ったあとで戻る勇気がないのか、そのどちらにも見えた。
「真壁くん」
「うん」
「栞に、ちゃんと謝ったほうがいいよね」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて、そうだよね」
分かっている相手に正論を重ねても、だいたい役に立たない。
「謝るのもだけど」
僕は言った。
「なんで栞を選んだのか、自分で言ったほうがいい。あいつ、たぶんそこを一番きつく覚えてるから」
美園は顔をしかめた。自分でもいちばん分かっている部分を、わざわざ言葉にしなきゃいけない。それがどれだけ嫌かは、少しだけ分かる。
そのとき、遅れてきたひかりが廊下の角を曲がった。僕が止めるより早く、まっすぐ美園の前へ立つ。
「今は“ごめん”だけだと軽いよ」
「おい」
「でも事実」
「事実でも、最初にそれ言うな」
ひかりは少しだけ黙った。たぶん、自分でも言いすぎたと思ったのだろう。
それから、珍しく言い直した。
「……ごめん。違う。えっと、謝るのは必要。でも、“終わればよかったのに”って思わせたままにしないで」
美園は目を見開いたまま、何も言わなかった。
その言葉は美園に向いていたのに、半分くらいは別の誰かに向いている気がした。
帰りに靴箱を開けたひかりが、小さく眉をひそめた。中に、見慣れないメモ用紙が一枚だけ入っていたからだ。
『見ているだけの人が、いちばん嫌い』
「誰かの悪趣味?」
僕が覗きこむと、ひかりは紙を二つ折りにしてポケットへ入れた。
「たぶんね」
「知ってる顔だな」
「知らないよ」
返事が早すぎるとき、こいつはだいたい嘘をつく。




