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 ——カンカーン、カンカーン



 力強く鋭い音が大地に伝わる。これは銀の塔の鐘の音。それは、進軍開始を告げる響き。





「どうか無事で、リュシー……」



 徐々に小さくなっていく彼の背中を見つめながらつぶやく。


 あなたの愛に、わたしは答えることができない……。


 あのときまで、わたしは確かにあなたを愛していた。いいえ、いまでも愛しているのだろう。



 けれど……それ以上にわたしはあなたが恐ろしくてたまらない。



 わたしを見つめる温かな目は、冷たい目となり、わたしを蔑む。

 わたしの名を呼ぶ穏やかな声は、鋭い声となり、わたしを罵る。

 わたしを抱きしめる優しい手は、無慈悲な手となり、わたしを殴る。



 あのとき、全てを飲み込むような燃え盛る炎を目の当たりにして、わたしの脳裏にはおぞましい光景が浮かんだ。



 厚い雲に覆われた薄暗い処刑場。

 見窄らしい格好で人々に晒されるわたし。

 大観衆から向けられる憎悪。



 愛情深かった家族はわたしを罵倒し、何よりも大切で大好きなリュシアンは歪んだ笑顔でわたしを見ている。


 リュシアンは彼の横に立つ桃色の髪をした女性の腰を抱き、「火を放て!」と叫ぶ。


 十字架にかけられたわたしの足元から、じわじわと炎が上がった。熱が肌に伝わり、痛みが全身を貫く。煙が目にしみ、息が詰まる。


 観衆は「魔女を殺せ!」と叫ぶ。わたしの絶叫は炎の音にかき消される。炎はさらに高くなり、髪が焼ける匂いが鼻をつく。意識が遠のく中、最後に見たのは、リュシアンの腕の中で、残酷な愉悦に満ちた彼女の赤い瞳……。



 その凄絶な光景は、過去のわたしに起こった出来事だ。わたしはあの痛みを、苦しみを覚えている。やがてやってくる未来に、わたしは全てに絶望するほかなかった。


 

 過去の記憶は、毎夜、悪夢となってわたしを蝕んだ。


 

 リュシアンは戦地からヘレンという同い年の女性を連れて帰還した。桃色の髪と赤い瞳、そして稀有な治癒能力を持つ聖女だった。


 リュシアンや彼の側近たちは美しくも魅惑的な彼女に夢中になった。政務を放り出し、彼女と共に過ごす時間に没頭した。わたしの知るリュシアンはいなくなってしまった。


 彼らは国庫を私物化し、彼女が欲しがるものはなんでも買い与えた。逼迫した財政に異議を唱える者は容赦なく処罰され、恐怖と混乱が広がった。国王は病に倒れ、リュシアンは王太子としての責務を果たさず、国の統治は乱れてしまった。


 そんな中、聖女は軍を率いて、ひとつの村を焼き払った。


 周辺国の中央に位置し、どこの国家にも属さない中立の村“セラティオーラ”。


 わたしは、それらを阻止しようと奮闘したが、無力なわたしは何もできなかった。それどころか魔女だと糾弾され、投獄の後、処刑された。




 部屋に閉じこもりながら、戦争が起きないよう、リュシアンが戦地に行かないよう祈り続けた。


 けれど、隣国は和平条約を破り我が国の領土に侵攻し、本格的な戦争が始まった。そして、リュシアンは戦地に赴くことになった。



 時の砂は尽きかけ、最後の一粒が落ちる前に、わたしに残された時間はわずかだ。










 朝露に濡れた草を踏みしめ、昼の陽射しに焼かれ、夜は星の下で身を縮める。雨に打たれ、風に吹かれ、ときに木陰で短い眠りをとりながら、わたしは先を急いだ。


 馬の背に揺られながら、何度も夢と現の境をさまよった。目を閉じれば、炎の音が耳に蘇り、リュシアンの声が遠くから呼びかける。けれど、目を開ければただの風景。木々のざわめきと、馬の息遣いだけがそこにある。


 野宿の夜、焚き火の火は小さく頼りなかった。濡れた薪はなかなか火を噴かず、煙ばかりが立ち上る。馬はわたしのそばで静かに草を食み、時折り鼻を鳴らしてわたしを見た。


  「ごめんね……もう少しだけ、頑張って」

 

 十日目の朝、空は薄曇りだった。わたしは最後の干し肉を口にし、馬の背に乗った。


 丘を越え、ようやく国境の町“フォノ”が見えてきた。町外れの森に入ると、木々の間から町の屋根がちらりと見えた。人の気配が近づくにつれ、馬の耳がぴくりと動く。


  わたしは手綱を引き、静かに馬を止めた。


「ここまでありがとう。あなたは自由よ」


 馬具を外すと、馬はしばらくじっとわたしを見つめた。その瞳に、わたしは言葉にならないものを感じた。名もない旅の相棒、わたしの逃亡を支えてくれた、唯一の存在。


「行きなさい」


 首筋を撫でて促すと、馬は一度だけ鼻を鳴らし、森の奥へと歩き出した。 その背が木々の間に消えるまで、わたしは立ち尽くしていた。


(あと二、三日もすれば、リュシアンは戦地へ到着するだろう)


 遠い戦地を思い両手を組む。祈りは届かないかもしれない。けれど、それでも祈らずにはいられなかった。




 胸元にしまっていた小さな紙片を取り出す。雨に濡れ、角が少し滲んでいたが、文字はまだ読めた。


「ここね……」


 フォノの町から少し離れた、木々に囲まれた静かな場所。その修道院はひっそりと佇んでいた。


 石造りの壁は苔に覆われ、古びた木の扉には風雨に晒された痕が刻まれている。屋根の上には風に晒された鉄製の十字架が静かに立ち、ここが祈りの場であることを示していた。


 わたしは扉の前で深く息を吸い、そっと叩いた。


「……アンジェリカ様ですね。お待ちしておりました」


 現れたのは、灰色の修道服を纏った中年のシスターだった。彼女はわたしの名を呼ぶと、何も問わず静かに中へと招き入れてくれた。


 修道院の中は外の世界とは隔絶されたように静かだった。蝋燭の灯りが揺れ、石床に響く足音だけが、わたしの存在を証明していた。


 案内された部屋は質素で、窓の外には小さな菜園が見えた。ベッドの上には清潔なリネンが敷かれ、机の上には祈祷書と十字架が置かれていた。


「ここでの生活は厳しくはありません。祈りと労働、そして沈黙が日々を満たします。ご安心ください」


 わたしは頷き、荷物を置いた。


 国を捨てたわたしは、ここで国の安寧を祈る。

 愛を捨てたわたしは、ここで彼の幸せを願う。

 運命に背いたわたしは、ここで赦しを乞う。



 それが、わたしにできうる、唯一の務め。










 朝は鳥が木を突く音と、薪を割る乾いた音で目が覚める。ここでは誰かに時間を告げられることもなく、世界を明るく染める陽とともにゆっくりと一日が始まる。


 窓の外に広がるのは、朝露に濡れた菜園。ミント、キャベツ、そして小さなトマト。風に揺れるその姿を見ていると、ほんの少しだけ心が落ち着く。


 麻布の修道服に袖を通し、髪を三つ編みにまとめる。侍女の手を借りず、自分の手で身支度を整える日々にもようやく慣れてきた。


 礼拝堂の石床に膝をつき、蝋燭の灯りの中で目を閉じる。誰も声を発さない。ただ沈黙の中で、わたしたちはそれぞれの心と向き合う。


 祈りの後は菜園の草を抜き、洗濯場で布を叩き、厨房でパンを捏ねる。冷たい水の感触、薪の香り、粉の重み、それらがわたしの五感を少しずつ現実に引き戻してくれる。


 昼食は黒パンと豆のスープ。ときどき庭で採れた果物が添えられる。会話はほとんどないけれど、隣に座る若い修道女が、そっと微笑みかけてくれることがある。その微笑みが、胸の奥に小さな灯をともす。


 午後は祈祷文の写本。古びた羊皮紙にペンを走らせながら、わたしは文字のひとつひとつに祈りを込める。窓の外で風が木々を揺らす音が、遠い王都の喧騒をかき消してくれる。


 夜の祈りでは、蝋燭の火が壁に影を落とす。その影は、まるで過去の亡霊のようにわたしを見守っているようだった。


  (わたしは赦されるのだろうか……)


 部屋に戻ると、窓の外には星が瞬いている。リュシアンの声が遠くから響く気がする。けれど、わたしはその声に応えず、静かに目を閉じる。


 こうして、ふた月が過ぎた頃だった。





 ——リンリィン、リンリィン



 高く澄んだ音が耳に届く。これは白の塔の鐘の音。それは、聖女の覚醒を告げる響き。





 心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥り、視界がぐにゃりと歪む。呼吸が浅く、喉が焼けるように苦しい。


  覚悟していたはずなのに、やはり鐘は鳴ってしまった。



  彼女が……ヘレンが覚醒したのだ。



 わたしはその場に崩れ落ち、石床に膝をついた。震える腕で身体を抱きしめ、必死に言い聞かせる。


「大丈夫……彼女に関わらなければ……リュシーから離れさえすれば……あんな目に遭うことはないわ……」


 けれど、震えは止まらない。指先が冷え、背筋が凍る。あの炎の記憶が、またしても脳裏に滲み出す。


 わたしは蹲りながら、震える唇で言葉を繰り返す。


  「違う……違うわ……今は違う……」


 壁に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。足元を踏みしめ、霞む視界を睨み返す。


 この鐘の音が告げるのは、始まりではなく、終わりの予兆だ。わたしは伝えなければならない。


「急がなきゃ……」


 わたしは修道院の扉を開け、冷たい風の中へと踏み出した。


 向かう先は、フォノに接する、どこの国家にも属さない中立の村“セラティオーラ”。


 あの村が焼かれる前に。今度こそ彼らを守るために。







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