1
はぁ、はぁ……。
暗い森の中、わたしは息を切らして走っている。連日降り続いた雨で地面はぬかるみ、足は泥に吸い込まれる。
息が苦しい……。けれど、止まることはできない。
自身に迫る恐ろしい影を振り払うように、森の出口を目指して懸命に足を動かす。
辺りに響くのは、わたしの荒い息遣いと泥を踏む音、風に揺れる枝葉と、かすかに聞こえる梟の鳴き声。
やがて、森の端の大きなニレの木の陰に隠れるように、一頭の馬が繋がれているのが見えた。冷たい汗が額を流れる中、その馬が最後の希望であることを悟る。
「ありがとう、待っていてくれて」
木の根元にかがみ込み、約束の残金を慎重に隠した。この馬はここに繋いでおくようにと、信頼できる商人に前金を払って依頼しておいたものだ。
馬に跨り、胸元のペンダントを握る。祖母の形見——紫紺の石が、祖母の瞳の色と同じだった。
「見守っていてください……」
新たな道を目指し、手綱を引く。月明かりの下、馬の蹄の音が地面を打つ音が響く。
目的の地へと、ひたすら駆け続ける。馬の息遣いは荒くなり、次第に周囲の風景が変わり始めた。開けた土地が広がり、その向こうには大河が見える。
かつて彼と共に訪れた高台にたどり着き、馬を止め、息を整える。遥か遠くには、朝焼けに染まる王都の街並み。
『おいで、アンジー』
先に馬を降りた彼が、馬上のわたしに両手を広げた。風が彼の黒髪をかすかに揺らし、金の瞳が、わたしを優しく見つめた。
その胸に飛び込むと、彼はしっかりとわたしを受け止め、抱きしめた。
彼の横に立ち、同じ風景を眺めた。
『この国と民を守るため、僕は立派な王になるよ。そのためには、君が隣にいて支えてくれることが必要なんだ』
彼はわたしを引き寄せ、そっと触れるようなキスを、そして、深いキスをした。
『大好きだよ、アンジー。ずっと僕の傍にいて』
そびえ立つ王城を見つめ、両手を組む。
「運命に背を向けたわたしを、どうか天が赦しますように……」
***
「アンジー、行ってくる」
王城の大門前、隊列を組み待機している兵士たちを背に、僕は婚約者であるアンジェリカに告げた。
彼女は深く頭を下げ、震える声で返した。
「い……いってらっしゃいませ、王太子殿下。ご武運を、お……お祈りしております……」
姿勢を正した彼女の、風に揺れる長い金髪、大きな紺色の瞳、すっと筋の通った鼻に小さな唇。長身だが折れそうなくらい細い体、その姿を僕は目に焼き付ける。
我がアスタール王国では、隣国との戦闘が激化している。両国で結ばれた和平条約を破り、隣国の軍勢は我が領土に侵攻して村々を襲撃した。その行動は我々にとって許しがたい挑発であり、本格的な戦争の引き金となった。
そのため、王太子である僕は援軍を率いて戦地へ向かう。自ら前線に立つことはないが、僕は現地で指揮を執ることになる。
アンジェリカの青ざめた顔には冷や汗が滲み、不安と恐怖に揺れる視線は合わない。手は小刻みに震え、呼吸も乱れている。
笑顔で見送ってほしいという、わずかな願いは叶うはずもない……。
「ファルクラン公爵令嬢、大丈夫だ、心配しなくていい」
僕の後ろに控えていた王国軍の副将を務めるライアン・クーパーが、一歩前に出て、アンジェリカを安心させるように声をかけた。
「俺も子を授かったばかりの妻が王都で待っている。早急に報復を終わらせて、必ず殿下と共に無事に戻る」
茶色の短髪に、隻眼の緑の瞳。元平民でありながら「戦神の剣」の称号を持つ剣士。
ライアンは先の戦争で驚異的な戦果を上げ、王国の英雄としてその名を轟かせた。その功績により叙爵され、若くして副将軍に抜擢された。現在では二十八歳ながら、将軍への昇進も囁かれている。
彼の言葉に、彼女は黙ったまま視線を落とした。
「リュシアン殿下、間もなく出発します」
「ああ、わかった」
ライアンに答え、アンジェリカに視線を戻す。彼女に触れたくて手を伸ばせば、彼女は小さく息をのみ体を固くする。
その手は彼女に触れることなく、ただ空を切り行き場を失う。
それでも僕は、彼女に伝えた。届かないと、わかっていたのに。
「アンジー、愛してる……。すぐに戻るから、必ず、必ず待っていて……そうしたら……」
続く言葉を飲み込み、僕はそっと彼女から離れた。名残を断ち切るように背を向け、隊列へと歩く。
鐘の音に追われながら、先頭で馬を駆ける。右後方にはライアンが、左後方にはライアンの補佐であるフランクがついている。
「殿下、愛されてますねー。ファルクラン公爵令嬢、あんなに怯えちゃって、今にも泣き出しそうでしたよ? 正直、羨ましいっス」
フランクの揶揄う声に、僕は小さくつぶやいた。
「違うんだ……」
その一言が、胸の奥にかすかな痛みを広げる。目の前の景色は、いつしか過去の記憶へと重なっていた。
十四歳だった僕とアンジェリカは、あの日、馬で遠乗りに出かけた。青空の下、彼女を前に乗せて草原を駆け抜けた。彼女の長い髪が風に舞い、僕の顔をくすぐる。胸に感じる彼女の温もりが、僕の心を満たした。
川辺で馬を休ませ、緑豊かな木陰で昼食を摂った。語り合う夢は、国の将来や民の行く末について。彼女の笑顔と真剣な表情に、愛しさと共に頼もしさも感じた。
そして、再び馬を走らせ、王都全体を見渡せる高台にたどり着いた。いずれ自分たちが治める地を眺めながら、誓いを新たに、僕は彼女に初めてのキスをした。
帰路につき城門を通り馬から下りたところで、空へと立ち昇る黒煙に気づいた。騒然とする声を辿ると、その光景が目に飛び込んできた。厩舎の隅の飼料庫で火が上がり、馬の餌が燃えていた。
衛兵たちは火を消そうと必死に走り回っていた。火の手はまだ小さいが、一刻の猶予もない。彼らは動揺し暴れる馬を安全な場所へ避難させつつ、消火活動に全力を尽くしていた。
「殿下、危険です! こちらへ退避してください!」
その声にはっと我に返り、隣にいるアンジェリカに顔を向けると、彼女は目を見開いたまま炎を見つめていた。
顔を青ざめ、唇は震え、全身が微かに震えているのがわかった。
「アンジー! こっちだ!」
アンジェリカの手を引き、急いで避難しようとしたとき、彼女が突然悲鳴をあげた
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
アンジェリカは自分の体を抱きしめるようにその場に座り込み、ガタガタと震え出した。
「違う……違……わ……。わたし……じゃ……い……。信じ……助……て……」
彼女は苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
「アンジー、大丈夫だ! 早くこっちへ!」
僕は彼女を支えようと手を伸ばした。だが、彼女は僕の手を取ろうとはしなかった。
僕たちは生まれたときからずっと一緒で、物心つく前にはお互いが婚約者だった。だから、僕はアンジェリカのどんな顔も知っていた。なのに、彼女が僕に向けたそれは、僕が見たことのないものだった。
その大きな目は戦慄に歪み、歯の根はカチカチと鳴っていた。アンジェリカの顔には、恐怖と絶望が浮かんでいた。
「いや……近づかないで……」
アンジェリカは、立ち上がることすらできず、四つん這いのまま僕から逃げようとしていた。
「アンジー……? アンジー、どうしたんだ!?」
尋常ではないその様子に、彼女を落ち着かせようと追いかけ抱きしめた。
「いや……いや……! 離して……助けて! 助けてぇぇぇ!! いやぁぁぁ!!」
彼女は泣き叫びながら、そのまま意識を失った。
あの日からアンジェリカは僕を避けるようになった。
面会を求めても会うことは叶わず、何度手紙を送っても返事は非礼を詫びる謝罪ばかりだった。
彼女の父であるファルクラン公爵に尋ねたが、彼も娘の異常な様子に戸惑っていた。
「アンジェリカは、我々家族にすら会おうとしません。食事もろくに摂らず、部屋に閉じこもって泣き続けているのです」
どうすればいいのかわからず、僕は途方に暮れていた。
そんな状態が二年も続き、我慢できなくなった僕は、父に頼み込んで彼女へ登城命令を出した。しかし、庭園のガゼボで待つ僕のもとにやってきた彼女は、僕の知るアンジェリカではなかった。
痩せ細った体、艶を失った髪、何よりその表情が別人のようだった。
「アンジー……?」
「ヒッ……」
彼女の名を呼べば、彼女は小さく悲鳴をあげて震え出し、手にしたカップはカタカタと音を立てた。
「アンジー……」
彼女へ手を伸ばすと、アンジェリカは固く目を閉じ、頭を覆って身を縮めた。まるで、殴られる衝撃に備えるように。
その姿に僕は愕然とした。なぜだ……? 僕がアンジェリカに手をあげると思ったのか……!?
彼女は僕にひどく怯えていた。僕は彼女にとって恐怖の対象でしかないことに気づいた。
「アンジー……なぜ僕を恐れる? 僕を嫌いになった? 絶対に嫌な思いはさせないから、だから……笑って? 僕の名を呼んで?」
僕がそう言うと、彼女は椅子から崩れ落ちるように膝をつき、そのまま地面にひれ伏した。
「も……申し訳ございません……王太子殿下……申し訳ございません……! どうか……どうか、お許しください……どうか……」
「アンジー!! 何をしてるんだ!!」
僕は急いで彼女に駆け寄り体を起こそうとした。しかし、彼女は伏したまま震え、涙声で謝罪の言葉を繰り返すばかりだった。
アンジェリカが壊れてしまう……。
侍女に支えられ、覚束ない足取りで去っていく彼女の後ろ姿を、僕はただ見送ることしかできずにいた。
人の気配に視線を向けると、彼女の兄であり、友人のフィリップが立っていた。
「僕は無力だ……。どうしたら彼女を取り戻せるのか、まるでわからない……」
掠れた声でつぶやくと、フィリップは言いにくそうにしながらも口を開いた。
「リュシアン、すまない……。父上がお前たちの婚約解消を検討している」
その言葉に僕はフィリップを睨みつけた。
「僕はアンジェリカを愛している! 婚約解消など絶対にしない!!」
そんなことをしたら、アンジェリカは僕の前から消えてしまう……!
「情けない……。しかし、僕は婚約者と言う立場に縋りつくしかないんだ……」
十七歳を迎え、僕たちの婚礼の儀が執り行われるはずだった。けれど、アンジェリカの体調不良により、それはいまだに果たされていない。




