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 はぁ、はぁ……。


 暗い森の中、わたしは息を切らして走っている。連日降り続いた雨で地面はぬかるみ、足は泥に吸い込まれる。


 息が苦しい……。けれど、止まることはできない。


 自身に迫る恐ろしい影を振り払うように、森の出口を目指して懸命に足を動かす。


 辺りに響くのは、わたしの荒い息遣いと泥を踏む音、風に揺れる枝葉と、かすかに聞こえる梟の鳴き声。



 やがて、森の端の大きなニレの木の陰に隠れるように、一頭の馬が繋がれているのが見えた。冷たい汗が額を流れる中、その馬が最後の希望であることを悟る。


「ありがとう、待っていてくれて」


 木の根元にかがみ込み、約束の残金を慎重に隠した。この馬はここに繋いでおくようにと、信頼できる商人に前金を払って依頼しておいたものだ。


 馬に跨り、胸元のペンダントを握る。祖母の形見——紫紺の石が、祖母の瞳の色と同じだった。


「見守っていてください……」


 新たな道を目指し、手綱を引く。月明かりの下、馬の蹄の音が地面を打つ音が響く。


 目的の地へと、ひたすら駆け続ける。馬の息遣いは荒くなり、次第に周囲の風景が変わり始めた。開けた土地が広がり、その向こうには大河が見える。



 かつて彼と共に訪れた高台にたどり着き、馬を止め、息を整える。遥か遠くには、朝焼けに染まる王都の街並み。









『おいで、アンジー』



 先に馬を降りた彼が、馬上のわたしに両手を広げた。風が彼の黒髪をかすかに揺らし、金の瞳が、わたしを優しく見つめた。


 その胸に飛び込むと、彼はしっかりとわたしを受け止め、抱きしめた。


 彼の横に立ち、同じ風景を眺めた。



『この国と民を守るため、僕は立派な王になるよ。そのためには、君が隣にいて支えてくれることが必要なんだ』



 彼はわたしを引き寄せ、そっと触れるようなキスを、そして、深いキスをした。



『大好きだよ、アンジー。ずっと僕の傍にいて』









 そびえ立つ王城を見つめ、両手を組む。


「運命に背を向けたわたしを、どうか天が赦しますように……」





 ***





「アンジー、行ってくる」


 王城の大門前、隊列を組み待機している兵士たちを背に、僕は婚約者であるアンジェリカに告げた。


 彼女は深く頭を下げ、震える声で返した。


「い……いってらっしゃいませ、王太子殿下。ご武運を、お……お祈りしております……」


 姿勢を正した彼女の、風に揺れる長い金髪、大きな紺色の瞳、すっと筋の通った鼻に小さな唇。長身だが折れそうなくらい細い体、その姿を僕は目に焼き付ける。



 我がアスタール王国では、隣国との戦闘が激化している。両国で結ばれた和平条約を破り、隣国の軍勢は我が領土に侵攻して村々を襲撃した。その行動は我々にとって許しがたい挑発であり、本格的な戦争の引き金となった。


 そのため、王太子である僕は援軍を率いて戦地へ向かう。自ら前線に立つことはないが、僕は現地で指揮を執ることになる。



 アンジェリカの青ざめた顔には冷や汗が滲み、不安と恐怖に揺れる視線は合わない。手は小刻みに震え、呼吸も乱れている。


 笑顔で見送ってほしいという、わずかな願いは叶うはずもない……。



「ファルクラン公爵令嬢、大丈夫だ、心配しなくていい」



 僕の後ろに控えていた王国軍の副将を務めるライアン・クーパーが、一歩前に出て、アンジェリカを安心させるように声をかけた。


「俺も子を授かったばかりの妻が王都で待っている。早急に報復を終わらせて、必ず殿下と共に無事に戻る」


 茶色の短髪に、隻眼の緑の瞳。元平民でありながら「戦神の剣」の称号を持つ剣士。


 ライアンは先の戦争で驚異的な戦果を上げ、王国の英雄としてその名を轟かせた。その功績により叙爵され、若くして副将軍に抜擢された。現在では二十八歳ながら、将軍への昇進も囁かれている。


 彼の言葉に、彼女は黙ったまま視線を落とした。


「リュシアン殿下、間もなく出発します」

「ああ、わかった」


 ライアンに答え、アンジェリカに視線を戻す。彼女に触れたくて手を伸ばせば、彼女は小さく息をのみ体を固くする。


 その手は彼女に触れることなく、ただ空を切り行き場を失う。


 それでも僕は、彼女に伝えた。届かないと、わかっていたのに。



「アンジー、愛してる……。すぐに戻るから、必ず、必ず待っていて……そうしたら……」



 続く言葉を飲み込み、僕はそっと彼女から離れた。名残を断ち切るように背を向け、隊列へと歩く。




 鐘の音に追われながら、先頭で馬を駆ける。右後方にはライアンが、左後方にはライアンの補佐であるフランクがついている。


「殿下、愛されてますねー。ファルクラン公爵令嬢、あんなに怯えちゃって、今にも泣き出しそうでしたよ? 正直、羨ましいっス」


 フランクの揶揄う声に、僕は小さくつぶやいた。


「違うんだ……」


 その一言が、胸の奥にかすかな痛みを広げる。目の前の景色は、いつしか過去の記憶へと重なっていた。







 十四歳だった僕とアンジェリカは、あの日、馬で遠乗りに出かけた。青空の下、彼女を前に乗せて草原を駆け抜けた。彼女の長い髪が風に舞い、僕の顔をくすぐる。胸に感じる彼女の温もりが、僕の心を満たした。


 川辺で馬を休ませ、緑豊かな木陰で昼食を摂った。語り合う夢は、国の将来や民の行く末について。彼女の笑顔と真剣な表情に、愛しさと共に頼もしさも感じた。


 そして、再び馬を走らせ、王都全体を見渡せる高台にたどり着いた。いずれ自分たちが治める地を眺めながら、誓いを新たに、僕は彼女に初めてのキスをした。




 帰路につき城門を通り馬から下りたところで、空へと立ち昇る黒煙に気づいた。騒然とする声を辿ると、その光景が目に飛び込んできた。厩舎の隅の飼料庫で火が上がり、馬の餌が燃えていた。


 衛兵たちは火を消そうと必死に走り回っていた。火の手はまだ小さいが、一刻の猶予もない。彼らは動揺し暴れる馬を安全な場所へ避難させつつ、消火活動に全力を尽くしていた。


「殿下、危険です! こちらへ退避してください!」


 その声にはっと我に返り、隣にいるアンジェリカに顔を向けると、彼女は目を見開いたまま炎を見つめていた。


 顔を青ざめ、唇は震え、全身が微かに震えているのがわかった。


「アンジー! こっちだ!」


 アンジェリカの手を引き、急いで避難しようとしたとき、彼女が突然悲鳴をあげた



「いやぁぁぁぁぁぁ!!」



 アンジェリカは自分の体を抱きしめるようにその場に座り込み、ガタガタと震え出した。



「違う……違……わ……。わたし……じゃ……い……。信じ……助……て……」



 彼女は苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。


「アンジー、大丈夫だ! 早くこっちへ!」


 僕は彼女を支えようと手を伸ばした。だが、彼女は僕の手を取ろうとはしなかった。



 僕たちは生まれたときからずっと一緒で、物心つく前にはお互いが婚約者だった。だから、僕はアンジェリカのどんな顔も知っていた。なのに、彼女が僕に向けたそれは、僕が見たことのないものだった。



 その大きな目は戦慄に歪み、歯の根はカチカチと鳴っていた。アンジェリカの顔には、恐怖と絶望が浮かんでいた。



「いや……近づかないで……」



 アンジェリカは、立ち上がることすらできず、四つん這いのまま僕から逃げようとしていた。


「アンジー……? アンジー、どうしたんだ!?」


 尋常ではないその様子に、彼女を落ち着かせようと追いかけ抱きしめた。



「いや……いや……! 離して……助けて! 助けてぇぇぇ!! いやぁぁぁ!!」



 彼女は泣き叫びながら、そのまま意識を失った。





 あの日からアンジェリカは僕を避けるようになった。


 面会を求めても会うことは叶わず、何度手紙を送っても返事は非礼を詫びる謝罪ばかりだった。


 彼女の父であるファルクラン公爵に尋ねたが、彼も娘の異常な様子に戸惑っていた。


「アンジェリカは、我々家族にすら会おうとしません。食事もろくに摂らず、部屋に閉じこもって泣き続けているのです」


 どうすればいいのかわからず、僕は途方に暮れていた。




 そんな状態が二年も続き、我慢できなくなった僕は、父に頼み込んで彼女へ登城命令を出した。しかし、庭園のガゼボで待つ僕のもとにやってきた彼女は、僕の知るアンジェリカではなかった。


 痩せ細った体、艶を失った髪、何よりその表情が別人のようだった。


「アンジー……?」

「ヒッ……」


 彼女の名を呼べば、彼女は小さく悲鳴をあげて震え出し、手にしたカップはカタカタと音を立てた。


「アンジー……」


 彼女へ手を伸ばすと、アンジェリカは固く目を閉じ、頭を覆って身を縮めた。まるで、殴られる衝撃に備えるように。


 その姿に僕は愕然とした。なぜだ……? 僕がアンジェリカに手をあげると思ったのか……!?



 彼女は僕にひどく怯えていた。僕は彼女にとって恐怖の対象でしかないことに気づいた。



「アンジー……なぜ僕を恐れる? 僕を嫌いになった? 絶対に嫌な思いはさせないから、だから……笑って? 僕の名を呼んで?」


 僕がそう言うと、彼女は椅子から崩れ落ちるように膝をつき、そのまま地面にひれ伏した。


「も……申し訳ございません……王太子殿下……申し訳ございません……! どうか……どうか、お許しください……どうか……」

「アンジー!! 何をしてるんだ!!」


 僕は急いで彼女に駆け寄り体を起こそうとした。しかし、彼女は伏したまま震え、涙声で謝罪の言葉を繰り返すばかりだった。



 アンジェリカが壊れてしまう……。



 侍女に支えられ、覚束ない足取りで去っていく彼女の後ろ姿を、僕はただ見送ることしかできずにいた。



 人の気配に視線を向けると、彼女の兄であり、友人のフィリップが立っていた。


「僕は無力だ……。どうしたら彼女を取り戻せるのか、まるでわからない……」


 掠れた声でつぶやくと、フィリップは言いにくそうにしながらも口を開いた。


「リュシアン、すまない……。父上がお前たちの婚約解消を検討している」


 その言葉に僕はフィリップを睨みつけた。


「僕はアンジェリカを愛している! 婚約解消など絶対にしない!!」



 そんなことをしたら、アンジェリカは僕の前から消えてしまう……!



「情けない……。しかし、僕は婚約者と言う立場に縋りつくしかないんだ……」







 十七歳を迎え、僕たちの婚礼の儀が執り行われるはずだった。けれど、アンジェリカの体調不良により、それはいまだに果たされていない。








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