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疲れた会社員、猫になって現実を知る

作者: 吉岡黒
掲載日:2026/02/22

猫の日に滑り込み。

*ジャンルわからなくて変えました。

 とあるアパートのベランダに、一匹の白猫がいた。


 冬の澄んだ空気の中、雲一つない空から太陽の光が惜しみなく振り注ぐ。

 その陽の光を全身で受け取る猫は、至福の心地よさにまるで温められたチョコレートになった気分でとろけていた。


 しかし、この可愛らしい猫にはある秘密があった。


(ああ……会社に行かなくていいって幸せ〜)


 中身は疲れた社会人なのである。




 前日夜。

 高木ミヤは会社帰りの道を歩いていた。

 白い息を吐き出しながら、凍える夜道を浮腫んだ足が踏みしめる。


 その足取りは重い。

 夜の小道は無人だが、もしすれ違う者がいれば彼女の背中に「疲労」と書かれた巨大な重石の幻覚が見えただろう。


 何故こんなに疲れているのか。

 全ては上司が原因である。


 これ、やっといてもらえる?


 その一言で、自分の仕事をミヤに回してくるのだ。

 始めは小さなことだった。だがミヤが快く引き受けるうちにどんどんとエスカレートしてしまった。

 どこかで断らないといけなかったが、上司相手にきっぱり拒否する勇気はミヤになかった。


 今日も上司の頼み事で自分の仕事が進まず、帰宅が遅くなってしまった。

 ミヤはもう疲れ果てていた。


 魂まで出ていきそうなため息をついて、ミヤはアパート二階の自宅前にたどり着く。

 玄関の鍵を開けようとした時、ふと隣の部屋の前に黒猫がいるのに気付いた。

 首輪はしていないので野良猫だろうか。エジプトのスフィンクスのような形で座り、警戒しているのかミヤを金色の瞳で見つめている。


(お隣さんが餌やってる猫かなぁ)


 ぼんやりと猫を見て、先日見た動画を思い出した。


 幸せそうに丸くなる猫。飼い主の手にじゃれる猫。ペーストのおやつを舐める猫。

 猫は可愛いがお仕事という言葉。

 癒しを求めたはずの動画を「いいなぁ」と羨んで終わった記憶。


 何故だか涙が出そうになった。

 私はこんなに毎日頑張っているのに。

 猫の世界には、嫌な上司はいないんだろう。

 好きなだけ寝られて自由に過ごせるんだろう。

 猫は可愛い。確かに可愛い。けれどそれだけで生きていけるなんて、不公平だ。


 ミヤの精神は本人が思う以上に限界を迎えていた。


「君はいいね……。私も猫になって楽したい」


 ついそんな言葉が口から出て、私何言ってんだろうとため息をついてミヤは部屋に入った。


 パタン、と閉じたドアを、金の瞳がじっと見ていた。




 そして朝起きるとミヤは猫だった。


 猫になりたいと呟いたせいなのか。それともリアルすぎる夢を見ているのか。

 何がどうしてこんな不思議体験をしているのかさっばりわからない。


 もちろん最初は戸惑った。

 叫んでも口から出るのは「フギャッ!?」という鳴き声で愕然とし、その場をぐるぐると走ってしまったりもした。

 けれど会社が、遅刻、仕事、と悩んだのは始めだけ。


 人間が猫になってしまったなど誰が信じるのか。もう会社に行くことは物理的に不可能。

 となればここは惰眠をむさぼるのが一番ではないか、と開き直ったのである。




 というわけで冒頭に戻り、自宅のベランダから外に出て気持ち良く日光浴を始めたところだ。


 ちなみに、ベランダの鍵は始めから開いていたがガラス窓も網戸も肉球と爪で開けた。

 ガラスの重さに苦労はしたが、猫の手が意外と器用で驚いたミヤであった。




 太陽によって暖められた室外機の上で、うとうとと微睡むミヤ。

 ふとその意識の端に何かがかすめて、反射的に目が開く。


(ん?……なんだ鳥か)


 またうとうと。

 数分後、再びかすめた。


(虫?)


 またまた数分後にかすめた何か。


(今度は何!?)




 動くものに反応する。浅い眠りですぐに異変に気付く。

 それは猫の習性だが、意識が人間であるミヤにとっては安眠の妨害でしかなかった。



 これじゃ休めないわ。

 ミヤは日向ぼっこを諦めて部屋の中に戻り、ベッドで丸くなることにした。


 エンジン音。鳥の声。人間の話し声。

 外からの様々な音に耳はピクピクと反応していたが、安全な室内ということもあり概ね理想的な睡眠を手に入れることができた。




 数時間後。

 空腹を感じて起きたミヤは、のそりと立ち上がった。


(凄くしっかり寝た〜)


 くあっとあくびを一つ。

 前に後ろにしっかりと体を伸ばし、部屋を見回して変わりない事を確認してからベランダへと向かった。


(お腹空いたけど食べるものないからな……)


 人間が食べられても、猫にとって毒になる物がある事くらいはミヤも知っている。

 自炊をする気力などないミヤの家にはカップ麺くらいしかない。

 さすがに詳しい知識がなくとも危ないであろうことはわかるので、それを食べるつもりはなかった。


 とりあえず家から出て近所の公園まで行ってみよう。

 可愛い猫が愛想良くすればすぐに誰かが美味しいものをくれるだろう。


 ミヤは軽く考えていた。




(とうっ!)


 ベランダの手すりから跳び、側に生えている細い木の枝を経由してそのまま地面へ。

 しゅたっ、と着地して、人間の時には絶対に出来なかったアクロバティックな動きにミヤは感動した。


(猫すっごい!)


 少々恐怖もあったが、本能からか体が勝手に動いてくれるので危なげなく二階から降りることができた。


(猫も楽しいなぁ。もう猫のままでいいかも)


 浮かれ気分のミヤはご満悦で公園へと歩いていった。




 時刻は昼過ぎ。

 公園にたどり着いたミヤは目を見開いた。


(嘘でしょ!?)


 公園は無人だった。


 平日昼の公園はこんなにも人がいないのか、とミヤは戦慄した。


 ブランコも滑り台もなんだか物悲しく見えて、明るく晴れた中ひと気のない公園に非日常のような恐ろしさすら感じてしまい、猫の身でブルリと震える。


 実際は少し前まで幼児達とその親が遊んでいたし、あと五分もすれば近所の店の従業員が昼休憩をとりに来るのだが、普段公園と縁のないミヤは知る由もない。


 どうしよう、お腹空いた。と当てもなく歩くミヤ。その鼻をふと、美味しそうな匂いがくすぐった。

 誘われるように歩いていくと、匂いの元は一軒の定食屋であった。

 仕事に忙しいミヤは知らなかったが、随分と昔からこの場所にある、常連に愛される定食屋だ。

 引き戸の入り口の左右に植物が植えてある、年季の入った店構え。

 店名を書いた青い暖簾を出している。


(こんなところにお店なんてあったんだ……)


 入り口脇にはメニューを書いた看板がある。

 定番の料理名が並ぶ中で、ミヤの目を引くものがあった。


 鯖の味噌煮定食。


 カップ麺、もしくはスーパーの惣菜ばかりの生活で久しく見ていない料理。


 いいな。

 鯖の味噌煮でご飯をかきこみたい。味噌汁も付いてて欲しい。もし豚汁だったら神。

 食べたい。

 ミヤの喉が鳴る。

 もう完全にその口になってしまった。


 猫が食べていいのかはわからないが、もう欲望には勝てなかった。

 ミヤは店の周りを見て回る。

 当然だが入り口も勝手口も開いていない。けれどそれで諦められるはずもなく、正面付近をうろうろとしていると。


「ごちそーさん」


 引き戸の開く音と声がした。

 慌ててそちらに目を向けると、入り口からスーツの男性が出ていくところだった。


 待って!


 ミヤは思わず飛び出した。


 ニャー!と何処からか飛び出してきた猫に、常連客は驚いた。

 半開きの引き戸から店内に顔を向け「なんか猫がいるよ」と店主に声をかける。


 野良猫だろう。

 他所から来たんじゃないか。


 ミヤが足元からから入れないか、客の鞄さえなければ、と奮闘している間に短い会話を終えて、そのまま常連客は帰っていき。

 その後調理白衣の男性が引き戸を開けて外に出てきた。

 そしてミヤを見つけると眉を下げて「可哀想だが居着かれたら困るんだよ」と言いながら手で押しやった。


 ご飯は貰えなさそうだ。

 悲しい気持ちでミヤはすごすごと退散した。




(うう……お腹空いたし寒い)


 定食屋の後、いくつかの飲食店に行ってみたが、何も収穫は得られなかった。


 それどころか、初めの定食屋は優しかった方で、二軒目からは怒鳴られたり箒で殴られそうになったりひどい目にあった。

 こんなに可愛い猫なのにどうして。


 もう夕方だ。

 ぴゅう、と冷たい風が吹いてミヤは思わず身震いした。

 朝はあんなに晴れていたのに、今は分厚い雲が完全に覆っている。

 ミヤの気分を表しているような天気だった。


 ミヤは寒さに震えた。

 猫の毛皮はもっと暖かいと思っていた。

 さすがに雪の中でも耐えられるなどとは思ってなかったが、人間よりは寒さに強いと。

 それがどうだろう。


 冷たいアスファルトに触れる肉球が痺れるように痛い。手足からの冷えに加えて、風が体温を奪い内臓まで凍ってしまいそうだ。


 猫の生活を舐めていたことにミヤはようやく気づいた。




 空腹も辛いが、これ以上外にいてはきっと凍死してしまう。

 もうすぐ日が暮れてもっと気温も下がるし、夜を越すために安全なアパートに戻ろう。

 今晩は水道水だけで我慢しよう。


 ミヤはそう考えた。


 もう少しでたどり着く。

 アパートが見えるほど近づいた所で、ワン!と後ろで犬の鳴き声がして、驚いて振り向く。


 血の気が引いた。


 長いリードを引きずったまま、大きな犬が一目散にこちらへ走ってくるではないか。

 ミヤは慌てて走り出す。


 後ろを見る暇はない。

 巨大な恐怖そのものが背後から追ってくる感覚に襲われて、ミヤは死を覚悟した。

 もつれそうになる足を必死で動かし、アパートの敷地内に駆け込む。


 ほとんど無意識で木に登り、猫であっても躊躇してしまう高さを大ジャンプして自室へ滑り込んだ。

 そのままベッド下の一番奥へ。


 もう部屋に入った、ここは安全、と頭で分かっていても、なかなか警戒を解けなかった。

 心臓がバクバクとうるさくて、毛は逆立ったまま。勝手に体が震えてなかなか止まらなかった。


 時間が経ってようやく少し落ち着いてきて、それでも完全に警戒は解かず周りを確認しながらゆっくりとベッド下から這い出した。

 安全を確認すると、力が抜けて床に倒れ込む。


(こ、怖かった……)


 本当に死ぬと思った。まだ心臓がドキドキしている。

 つい、牙をむき出しにして迫ってくる犬を思い出してしまい、また体が震えてしまう。


 ミヤが完全に落ち着く頃には、もう辺りは真っ暗になっていた。




 水道水だけなんとか飲んで、もう何もする気が起きず、暗い部屋の中でミヤは蹲る。


 猫ってもっと幸せだと思っていた。

 あんなに人気があってちやほやされているのだから、誰かがすぐ助けてくれると思っていた。


 けれど違った。現実は甘くなかった。

 考えてみれば、自分だって道端で猫が鳴いていても助けようとまでは思わなかった。

 例えば会社の入り口に猫が入って来たら当然のように追い出しただろう。

 他人の善意を当てにして、甘く見て、自分はなんて浅はかだったんだろう。


(……このまま人間に戻れなかったらどうしよう)


 恐ろしい想像をしてしまい、先ほどとは違う恐怖で体がカタカタと震えた。

 今日一日だけで死ぬ思いをした。食べ物も取れない。

 野生で生きるなんて自分には無理だ。


 強い恐怖にまた心臓がうるさくなる。

 ミヤは目を閉じて、いるかわからない神様に祈った。


 ごめんなさい。ごめんなさい。

 猫が楽なんて言ってごめんなさい。

 私は人間がいいです。

 人間に戻してください……。


 ミヤの意識が遠のいた。




「う……んん……」


 明るさにぱち、と目を開けたミヤは床に転がったまま数秒ぼんやりと天井を見た。

 カッ、と目を見開く。

 勢い良く起き上がり、床についた人間の手を見た。


「も……戻った……?」


 体をペタペタと触り、顔も触り、人間に戻っていることを確認。ぷるぷると震えたあと。


「戻ったああ〜!!」


 両拳を天井に突き上げた。




 その後。

 しっかり丸一日経っていたので、無断欠勤を上司と同僚に謝罪して回り。仕事をカバーして貰ったことにお礼もした。


 体調不良で連絡出来なかった、ということにしたら「無事で良かった」と皆が言ってくれたので、優しくて申し訳なくて泣きそうになった。




 猫になったあの体験が本当にあった事だったのか、ミヤはあまり自信がない。

 実は本当に体調不良で、一日眠り続けて夢を見ていたのかもしれない。


 少しだけ変わったことといえば。


「高木君。これやっといてくれる?」

「すみません、私も仕事が多くて無理です」


 上司に対してきちんと拒否できるようになった。

 あの死ぬ思いに比べれば、どんな事もなんてことは無い。これだけはあの体験に感謝するべき事だろう。

 夢であっても、もう二度と経験したくはないけれど。




 会社から早く帰れた日、青い暖簾の定食屋に行ってみた。

 存在しないかもしれない、と思っていたら猫だった時に見たのと全く同じ姿でそこにあった。


 本当に夢じゃなかったのかもしれない。


 鯖の味噌煮定食にはなんと豚汁がついていた。とても美味しかったので、ミヤはこれからこの定食屋に通おうと決めた。


 幸せで腹を満たし定食屋を出たミヤ。

 そこにニャーオ、という声が聞こえて辺りを見回すと、植え込みに黒猫の姿があった。

 ミヤは驚いた。


 もしかして、あの時の?


 アパートにいた黒猫とよく似ている。

 同じ猫だと断言できるほど猫の見分けがつく訳では無いが、もしも同じ猫だったなら。


 あの不思議な一日の原因はこの猫、なんて荒唐無稽なことだと思いつつ、ミヤは尋ねずにはいられなかった。


「君がやったの?」


 返事などないだろう、けれどもしかしたらと話しかけた言葉。


「楽しかったでしょ?」


 ミヤが固まった。

 その脇をするりと抜けた黒猫は、一度ニャーと鳴くとそのまま走り去ってしまった。


 幻聴?自分の頭がおかしくなったのか。

 いやでも、あれは。


 ミヤはぎこちなく黒猫が去った方を見た。

 数秒ほど強張った顔で道の先を見て、それからふっと力を抜いた。


「楽しかったよ」


 死ぬほど怖かったし、ひもじかったし、大変だった。

 けれど今思えば確かに、楽しかったのだろう。


 笑顔で答えて、ミヤは家への道を歩き出す。

 その背中を、黒猫が満足そうに見ていた。

お読みいただきありがとうございます!

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