第93話:揺り籠への回帰、あるいは未熟な掃除当番
オーナーの放った「初期化」の閃光が、すべてを飲み込もうとしたその瞬間。
散らばったはずの「田中老人の塵」が、猛烈な勢いで逆流を始めた。それは物理法則を無視した**「過去への一掃き」**。竹箒の穂先が虚空をなぞると、強制的なM&Aも、大天のオフィスも、オーナーの全知の瞳も、すべてがセピア色の泡となって消えていく。
視界が真っ白に染まり、次に目を開けたとき、私たちは懐かしい、けれどどこか頼りない「あの場所」に立っていた。
始祖の残響:半透明の説教
「……やれやれ。危うく、本当にシュレッダーにかけられるところだったぞ」
声のする方を振り向くと、そこには透き通った体の田中老人が、縁側に腰を下ろすような気楽さで空中に浮かんでいた。 彼を構成しているのは、もはや肉体ではない。この世界に染み付いた**「掃除の記憶」**そのものだ。
「田中さん! あなた、死んだんじゃ……!」
アレクセイが黄金の雑巾を握りしめたまま駆け寄ろうとするが、その手は老人の体をすり抜ける。
「……死ぬも生きるも、分別次第だ。……だがな、お嬢さん。アレクセイ。お前たちには、あのオーナーとやり合うのは『まだ早い』。……汚れを知ることはできても、その汚れと一生添い遂げる覚悟が、まだ足りん」
老人が半透明の竹箒を振ると、私たちの意識は急激に遠のいていく。
「……まずは、この揺り籠の中で、自分たちの『出しっぱなしにしたゴミ』を片付けてこい。……話はそれからだ」
深淵の潜伏:学生生活の仮面
気がつくと、私は自分の部屋のベッドの上で跳ね起きていた。 窓の外には、変わらぬ学園の時計塔。そして、いつものように規則正しく、潔癖なまでの静寂が支配する校庭。
見て。 私の内側に眠る闇は、消えてはいない。 それは、学園の「純粋さ」という皮肉な光に照らされ、より濃く、より深く、私の影の中に**「深淵の聖母」**として潜伏している。 銀髪は元の輝きを取り戻したように見えるけれど、その毛先には今も、大天を腐食させた漆黒の残り火が燻っていた。
「……戻ってきたのね。……あの不条理な戦いの、入り口に」
私は、手のひらの中でかすかに脈打つ、目に見えない「ゼロ」の重みを感じ、自嘲気味に微笑む。 これは、敗北ではない。 神々を倒すための力を、この潔癖な学園という名の「培養液」で育み直すための、最も贅沢な闇落ちだ。
黄金の研磨:放課後の再会
「エリザベート! 廊下のワックスがけ、終わりましたよ!!」
ドアを勢いよく開けて入ってきたアレクセイの瞳には、かつてよりも鋭く、そして温かい黄金の輝きが宿っていた。 彼の背後には、以前よりも小さく、けれど密度の増した黄金の観音像が、慣れた手つきでモップを構えている。
彼は、オーナーとの戦いという「汚れ」を経験したことで、単なる綺麗好きから、「世界の歪みを磨き直す求道者」へと光落ちしていた。 学園の誰も、彼の振るう雑巾が、かつて神々の指先を焼き切った武器だとは気づかないだろう。
生存者バイアス 私が今、こうして平和な学園生活に身を置けているのは、たまたま私が、「未熟」という名の免罪符を田中老人から手渡されたからだ。




