第70話:分別の極致、あるいは一斗缶の静寂
田中老人が掲げたのは、どこにでもある錆びた一斗缶の蓋だ。だが、その薄い鉄板が、本家の監査官が放つ絶対的な演算を無効化する。
「な、なんだ……! 私の銀光を、ただの ゴミの蓋 が弾き返しているだと……!?」
監査官の背後にある銀の円盤が激しく回転し、周囲の空間を再計算しようと試みる。だが、田中老人が蓋を軽く振るたびに、数式そのものが 塵 として床に掃き捨てられていくのだ。
聖なる生活、あるいは掃除の極意
「おい、アレクセイ。床の磨きが甘いぞ。光を反射させるなら、もっと均一に力を込めろ」
「は、はい! 申し訳ありません、田中さん! 僕は、この 銀の傲慢 さえも、黄金の輝きに変える雑巾がけを極めてみせます!!」
アレクセイが叫ぶ。 彼の背後に浮かぶ黄金の観音像が、一斉に雑巾を振り下ろした。 パァァァン、という清々しい音が響き、事務所の床は鏡のように輝き始める。その輝きは、監査官が放つ死の銀光を百パーセントの精度で反射し、逆に監査官自身の眼を焼きにかかった。
これはもはや、戦闘ではない。 生活という名の 圧倒的な正しさ が、高次元の論理を 不要物 として排斥していく、残酷なまでの作業だ。
監査官が放つ論理のエネルギーは、アレクセイの 奉仕 によって分母を無限大に膨れ上がらされ、その威力を零へと減衰させられていく。
監査官の墜落
「ありえない……。本家の法が、ローゼンバーグの理が、このような不潔な場所で通じないなど……!」
「不潔なのは、お前の頭だ。分別ができていない。ここは、お前のような 異物 が立ち入っていい場所ではないのだ」
田中老人が、一斗缶の蓋をピシャリと地面に叩きつけた。 その衝撃波は、監査官の神聖な法衣を無慈悲に引き裂き、彼の背後にあった銀の円盤を 空き缶 のようにひしゃげさせた。
神のごとき威厳を保っていた監査官が、膝をつき、泥水に塗れる。 それは、絶対的な秩序が、日常という名の 深淵 に敗北した瞬間だった。
生存者バイアス 私が今、こうして形を保っていられるのは、たまたま私が、この 奇跡の清掃事務所 の備品として登録されてしまったからだ。
「お嬢さん。いつまで見ている。監査官もどきは、アレクセイが 資源ゴミ として裏に運んでいった。早く事務所の中を片付けろ。明日は、もっと大きな 不燃ゴミ が来るぞ」
田中の言葉通り、街の空には、更なる絶望――ローゼンバーグ本家の主力艦隊の影が落ち始めていた。




