第50話:事象の深淵、あるいは完全真空の静寂
泥沼と化した校庭。十パーセントの軍団を汚染し、無力化したはずの私たちの前に、その男は音もなく舞い降りた。
無代 零三郎。 三影の頂点。十六パーセントの絶望。
彼が地表に降り立った瞬間、周囲を覆っていたドロドロの瘴気と汚水が、目に見える速度で「吸い込まれて」消えていった。排水溝へ流れるのではない。そこにあるはずの物質が、一分子残らず「排気」され、この世から消去されているのだ。
「……不快指数が閾値を超えた。……これ以上の汚染は、僕の美学が許さない」
無代が、感情の欠落した瞳で私たちを見据える。 十六パーセント。 その数値は、単なる力の強さではない。一パーセントを上げるために「精神の死」を千回繰り返してきた者だけが辿り着ける、因果を歪める特権階級。
「……ヒカル、退いて! こいつの領域は、さっきの十パーセント共とは質が違うわ!」
私の警告よりも早く、無代が右手を水平に薙いだ。
廃棄の排気:事象地平線
ドォォォォォォン!!
爆発音ではない。空気が一瞬で「消失」したことによる、大気の悲鳴。 校庭の全域から、酸素、窒素、そして「音」そのものが強制的に排気された。 完全真空の檻。 そこでは、ヒカルの放つ「生乾きの湿気」さえも、蒸発する暇もなく「存在そのものが無かったこと」として処理される。
「……が、は……ッ!?」
ヒカルの黒い腕が、ボロボロと崩れ始めた。 三パーセント。どれほど執念を燃やそうとも、十六パーセントという絶対的な「虚無」の前では、こびりつくための「土台」すら奪われる。
「……汚れているから、消す。……ただ、それだけのことだ」
無代が一歩踏み出すたびに、私の「生存者バイアス」の領域が、薄皮を剥ぐように削り取られていく。 苦しい。 息ができないのではない。私の存在を構成する「記述」が、この世界の余白へと追い出されようとしている。
「……あ、ああ……。これだ。……この感覚だ……!」
ここで、アレクセイが地面に這いつくばったまま、奇妙な痙攣を始めた。 恐怖。絶望。そして、狂信。 彼は、無代の放つ「完全真空」の中に、あの田中の「完璧な仕事」の面影を見ていた。
「無代くん……! 君の排気、……角度が違う! 吸引口の絞り込みが甘い! 田中さんなら……あの御方なら、真空の中にさえ『清々しい風』を吹かせる! こんな一方的な略奪は、掃除ではなく『強奪』だぁぁぁ!!」
絶対還元:トラウマ・オーバーロード
アレクセイの六パーセントが、狂気によって限界を超えて加速する。 彼は、無代が作り出した「真空」に対し、あろうことか「汚れた空気」を強引に還元して供給し始めた。
「……なんだと?」
無代の眉が、わずかに動く。 消しても消しても、アレクセイの恐怖が「かつてそこに存在した汚れ」を無限に再生し続ける。 十六パーセントの消失能力と、狂った六パーセントの再生能力の、不毛なデッドヒート。
「今よ、ヒカル!! 消失の瞬間に、その『生乾き』を真空の核へ叩き込みなさい!!」
私は、残された全出力をヒカルの背中に叩きつけた。 生存者バイアス。 私が今、こうして立っていられるのは、**「たまたま無代の排気の『吸気ムラ』に私が入り込んだから」**という、確率の特異点。
「……あああああッ!! 死ねッ! 綺麗すぎる世界なんて、僕には似合わないんだよッ!!」
ヒカルの消失しかけた黒い腕が、アレクセイの再生した「汚れ」を燃料に、巨大な黒い楔へと変貌した。 真空の檻を内側から食い破る、汚泥の一撃。
だが。
その黒い楔が、無代の胸元に届こうとしたその瞬間。
「……だから。……うるさいと言っているんだ」
無代の背後から、もう一つの、より冷徹で、より巨大な「影」が立ち上がった。
芥 蓮。 灰屋 省吾。 そして無代。
三影が、初めてその手を重ねた。 三つの神域が融合し、校庭の理が「一」の巨大な意思へと収束していく。
「……総仕上げ(フル・クリンナップ)だ。……この学園から、すべての『例外』を削除する」
学園という名の揺り籠は、今、本物の焼却炉へと変わり果てようとしていた。 私たちの泥臭い反撃を、彼らはもはや「掃除の邪魔」として、一括処理する決断を下したのだ。




