第47話:校正される叙事詩、あるいは余白への追放
二階の廊下へ足を踏み入れた瞬間、私は自分の呼吸音が「不快なノイズ」として鼓膜を叩くのを感じた。
そこには、もはや「廊下」という概念さえ存在していなかったわ。 一組から順にクラスを消去し続けてきた**芥 蓮**の背後には、ただ真っ白な「余白」が広がっている。壁も、床も、窓の外の景色でさえも、彼の権能によって「物語に不要な描写」として削り取られた結果。
「……五パーセント、六パーセント、三パーセント。……この段落には、あまりにも無駄な『文字』が多いね」
芥が手に持った文庫本をパタンと閉じた。 その仕草一つで、私たちの足元の床が数センチほど「消失」した。
十三パーセント。
灰屋や無代に比べれば数値は低い。けれど、この男の恐ろしさはその「技術」の精度にある。彼は対象を破壊するのではない。対象がそこに存在する「意味」を校正し、文脈から抹消する。
「……アレクセイ! また白目を剥いてる場合!? 早く何か、この白紙を塗り潰すような『汚れ』を出しなさい!」
「……無理だ。……無理だよ。……田中さんは仰っていた……。『余白の美を解さぬ者に、真の清掃は語れぬ』と……。芥くんのこの余白、……あまりにも、あまりにも……完璧なマージン設定だぁぁ!」
アレクセイが震える指で「余白」の寸法を測りながら、またしても精神を崩壊させている。この男、本当に皇帝(三十パーセント)に会う前に廃人になるつもりかしら。
「……掃滅の掃除」
芥が虚空に指を滑らせる。 その動きは、原稿用紙の上の不要な一文を赤ペンで横線を引き、抹消する編集者のよう。 彼の指がなぞった軌跡に沿って、ヒカルの右腕が「透明」へと変わっていく。物理的な欠損ではない。ヒカルの右腕という情報が、この世界の記述から「削除」されたのだ。
「……あ、あ、腕が……!? 感覚はあるのに、見えない……僕が消えていく……!」
「……動揺という名のノイズ。……これも、削除対象だ」
芥の視線が、今度は私を捉えた。 六パーセントの生存者バイアスが、かつてないほどの激痛となって脳を焼く。 生存する。その定義そのものが、彼の十三パーセントという圧倒的な「編集権限」によって上書きされようとしている。
生存者バイアス 私は、必死に「自分自身の記述」を頭の中で叫び続けた。 私はここにいる。私は、この物語の傍観者として、最後まで生き残る義務がある。
「……しぶといね。……なら、君たちの存在そのものを『脚注』にまで追い落とそうか」
芥が本を開き、何事かを呟こうとしたその時。 廊下の突き当たり、まだ白紙になっていない唯一の扉が乱暴に開かれた。
「……おーい、芥! 掃除が遅すぎるぞ! 二組のワックス掛け、やり直しだってさ!」
現れたのは、X組の一般生徒――十パーセントの権能を持つ「連絡係」。 芥の「十三パーセント」という神域の集中力が、その低俗な呼びかけによって一瞬だけ削がれた。
「……チッ。……『一文字』の狂いも許されないというのに」
芥が不快そうに眉を寄せた隙に、私はヒカルと、タイルの目地を指でなぞって恍惚としているアレクセイの襟首を掴み、消失しかけた床を蹴って窓の外へ飛び出した。
背後で、芥の冷徹な声が響く。
「……逃げても無駄だよ。……君たちは既に、この学園のメインプロット(本筋)からは外された。……残っているのは、廃棄を待つだけの『没原稿』という運命だけだ」
地面に激突する直前、私はアレクセイの還元能力を強引に発動させて着地した。 校庭には、既に次の「清掃」を待つX組の軍団が、幾何学的な陣形で待ち構えている。
学園という名の揺り籠は、完全に解体され、再構築されようとしている。 私たちは、自分たちがいつ「書き直し」を命じられるか分からない、不安定な存在へと成り下がっていた。




