第30話:星辰の狙撃、事象の地平に抗う三影
静寂が支配する深夜の屋上。地上数百メートルに位置するこの場所は、星々に最も近く、同時に最も死に近い。 私は冷たいフェンスに背を預け、闇に溶け込む三人の背中を眺めていた。
「……観測を開始するわ。今夜の星は、少しばかり『饒舌』すぎるけれど」
シオンが夜空を見上げ、扇子を静かに閉じる。 彼らがここで行おうとしているのは、天体観測などという優雅な遊びではない。学園の「頂」から放たれる不可視の視線――生徒会直属の精密狙撃手による、認識外からの長距離狙撃に対する防衛戦だ。
その相手は、遥か別棟の時計塔に潜む**「リュミエール」**。 彼の持つ力は、この学園でも特筆すべき「直線」の理である。
能力:絶対地平 (視界内の任意の直線を、物理的な質量を持つ『レール』として固定し、その上を走るあらゆる物体に無限の初速を与える能力)
奴にとっては、星の光すらも狙撃のレールに過ぎない。
第1層:屈折する視界
「来るわ。……光の道筋が見えたわ」
シオンの瞳が、暗闇の中で怪しく明滅する。
色彩の叛逆 彼女が捉えたのは、リュミエールがレールとして固定しようとした**「星明かりの直線」**。
色彩が反転する。 夜空の紺碧は毒々しいオレンジへと塗り替えられ、狙撃の指標となる光の直線は、補色である「実体のない影」へと書き換えられた。 リュミエールの「直線」を定義するための視覚情報が、シオンの認識操作によって致命的に狂わされる。
「……チッ、座標が滑る。光の色そのものを変えられたか」
時計塔から、苛立ちを含んだ通信のノイズが響く。だが、奴は即座に第二のレールを敷く。今度は月光ではなく、屋上のフェンスが描く「人工的な直線」を。
第2層:不快なる大気の壁
「させませんよ。……この空気、俺が『不快』に書き換えます」
ヒカルが一歩前へ出る。彼は空を掴むように手を広げた。
生乾きの洗礼 能力発動。 屋上の大気中に含まれる僅かな水分。それがヒカルの干渉を受け、気体でも液体でもない、**「生乾きの洗濯物の周囲に漂う、重く、粘りつくような湿分」**へと変質した。
この異常な湿度は、リュミエールが敷こうとする「直線」の屈折率を不規則に歪ませる。
「……ぐっ、空気が重い! 狙撃のレールが、湿気でわずかに『撓んで』やがるのか!」
リュミエールの絶対地平は「完璧な直線」を必要とする。だが、ヒカルが作り出した生乾きの大気層は、光や風の直進性を物理的にではなく、**「質感的な不快感」**によってねじ曲げていた。
第3層:垂直の回折格子
「仕上げだ。……微細な正義、ここに示さん」
リュウガが、ポケットから取り出した**「極小の鉄粉(全長0.1ミリ)」**を風に放った。
垂直の矜持 能力発動。 空中に舞う数万粒の鉄粉が、ヒカルの生乾きの粘りによって空中に静止し、重力を無視して一斉に垂直起立した。
シオンの色彩操作で「背景の闇」に同化し、ヒカルの粘液で固定された、数万の垂直な微細杭。 それは、リュミエールの狙撃弾を弾くための盾ではない。弾道そのものを散乱させるための、**「空間的な回折格子」**だ。
「立て。……光を、影を、そして奴の理を分断しろ」
シュンッ!!
時計塔から放たれた不可視の弾丸が、屋上に到達する。 だが、その弾丸はリュウガたちが作り出した「垂直の霧」に触れた瞬間、不規則な方向に散乱し、私のすぐ横を虚しく通り過ぎていった。
生存者の視座
「……危ないところだったわ」
私は瞬き一つせず、弾丸が通り抜けた空間を見つめた。 本来なら、その弾丸は私の眉間を正確に貫いていたはずだ。だが、現実はそうはならない。
生存者バイアス 散乱した弾丸の破片は、**「たまたま私が落としたヘアピンを拾おうと屈んだ」**ことで、私の髪筋をかすめるだけに終わった。
この学園において、強者とは「理」を持つ者のことではない。「結果」として生き残った者のことだ。
彼らの戦いを見ながら、私はふと、この学園の「天井」を思う。 かつて、ゴミの一振りで全てを無に帰した**「あの男」**。 今ここでリュミエールが放っている殺気など、あの男が昼寝をしている時に漏らす、無意識の溜息よりも軽い。
あの男がここにいない。それが唯一の救いであり、この戦いが「遊び」で済んでいる理由なのだ。
「……逃がしたか」
リュウガが時計塔を睨む。リュミエールは自身の理が通じないことを悟り、撤退したようだ。 三人は安堵の溜息を漏らし、膝をつく。
「勝った……のか?」
ヒカルの問いに、私は冷ややかに答えた。
「生き延びただけよ。……さあ、帰りましょう。明日の朝の清掃点検に遅れたら、それこそ本当の『地獄』が待っているわ」
あの男の名を出すまでもない。 私たちは、ただその巨大な影の下で、必死に「青春」という名の生存競争を続けているに過ぎないのだから。




