最終話:美しいシミ、あるいは最後の掃除当番
主権空間の最深部で、時間の裁縫師の影が揺らぎ、その後ろからこの世界の真の癌細胞――学園の意志そのものである「原初の白」が具現化した。それは色も形もない、ただ全てを漂白しようとする絶対的な正義の奔流。
「……計算外だ。これほどまでに濃密な汚れが、私の遠心分離に耐えうるとは」
裁縫師が絶望の声を上げる。だが、その時。空間の裂け目から一筋の光が差し込んだ。
「遅れたわね。でも、ここからは私たちが協力してあげるわ」
現れたのは、かつて敵対した衛生管理官たちの残党、そして大天の事務を捨てたサリエル。さらには、この学園に「勇者」として幽閉されていた伝説の志願兵・レオ。彼らもまた、この完璧すぎる世界の犠牲者だった。
「エリザベート! 借りは返す! 僕の聖剣で、その漂白の壁に風穴を開けてやる!!」
勇者レオが聖剣を抜き放ち、眩いばかりの斬撃を「原初の白」へと叩き込む。
「ふん、僕も負けてはいられませんね。オーナー! 君もいつまで神様のフリをしているつもりだい? 磨き残した自分の意志を、今こそ見せる時だ!」
アレクセイの叫びに、幼きオーナーの瞳が揺れた。彼は自身の純白のスーツを自ら引き裂き、その手で私たちに「未来のエネルギー」を供給し始める。
「……そうだね。僕は投資先を選び直す。……僕自身の命を、君たちの不協和音に全額ベットするよ!」
最終奥義:不協和音の総力清掃
かつての敵、勇者、そして未来の主。バラバラだった彼らの意志が、私の主権空間の中で一つの「巨大な雑巾」へと収束していく。
「みんな、行くわよ。この世界で一番頑固な汚れを、今ここで根こそぎ剥ぎ取ってあげる!」
私はゼロを掲げ、全ての仲間たちの魔力を自らの深淵へと流し込んだ。
見て。 私の影が、勇者の光、オーナーの未来、サリエルの未練を全て飲み込み、七色の「漆黒」へと進化していく。 これは、神を殺すための暴力ではない。 この歪んだ世界を、もう一度だけまっさらな「汚れのある日常」へ戻すための、究極の闇落ちだ。
私の銀髪は全宇宙の星々を砕いたような輝きを放ち、背後には田中がかつて見せたと言われる「最強の一掃き」を模した深淵の巨像が顕現する。
極致清掃:万象解体・大掃除
私の出力は、限界点である田中の全盛期の29.99%へと到達した。 30%に触れることはない。けれど、仲間たちとの連携によって生まれた「不協和音の共鳴」は、数値以上の重圧となって「原初の白」を粉砕していく。
「……なぜだ。汚れこそが滅びの種ではなかったのか……!」
裁縫師の断末魔。 完璧な正義が、私たちの泥臭い抵抗によって、鏡のように砕け散った。
掃除のあとさき
光が収まり、私たちが立っていたのは、いつもの古びた学園の裏庭だった。 時間の裁縫も、大天の干渉も消え、そこにはただ、少しだけ埃っぽい、けれど確かな呼吸の音がする夜が広がっている。
「……終わりましたね、エリザベート様。見てください、僕のモップが折れてしまいました。……なんて名誉な汚れでしょう」
アレクセイが、黄金のオーラが消えかけた顔で、満足そうに微笑む。
「……ええ。でも、まだ掃除は終わっていないわ。ほら、あそこに半透明の誰かさんが残していった、大量の竹箒の抜け殻があるもの」
見上げれば、朝焼けの空。 そこにはもう田中老人の姿はないけれど、風に乗って「よくやった」という懐かしい声が聞こえた気がした。
生存者バイアス 私が今、こうして新しい朝を迎えているのは、たまたま私が、この世界の「拭き残した美しさ」を、誰よりも信じてしまったからだ。
「さあ、アレクセイ。サリエル。……新しい事務所の、開店準備を始めるわよ」
私たちは、朝日を背に、ゆっくりと歩き出した。 手元にあるのは、もう極秘のレポートではなく、今日を生きるための、ただの箒だ。
日常:汚れなき不協和音
世界は、かつての「完璧な滅菌室」でも「絶望の掃き溜め」でもない、適度な汚れと愛着が混ざり合った、心地よい場所へと再構築されていた。
黄金の日常:磨き抜かれた静寂
「エリザベート様! 今日の事務所の看板、過去最高の反射率を記録しました。見てください、この輝きに誘われて、小鳥が自分の姿と間違えて衝突しかけていますよ!」
アレクセイが、黄金のオーラを微かに灯しながら、誇らしげに看板を掲げる。 彼の背後に浮かぶ黄金の観音像は、今やエプロンを締め、事務所のティーセットを凄まじい手際で磨き上げている。
彼はあの日、五感の大部分を取り戻したが、その代償として「汚れに対する異常な感受性」を永久に保持することを選んだ。 それは、世界を救うための光ではなく、大切な人の日常をピカピカに保つための、贅沢な光落ちの姿だった。
最強の均衡:三十パーセントの統治
学園の秩序を支えているのは、新しく就任した最強の生徒会長だ。 彼は、かつて私たちが地下で解放した「銀色の心臓」の意志を継ぎ、人間として到達しうる絶対的な極点に立っている。
その実力は、田中の全盛期の30%。
これこそが、世界が崩壊せず、かつ個人の自由が守られる唯一の均衡点。 彼が廊下を歩くだけで、周囲の不純な魔力は自然に中和され、生徒たちは知らず知らずのうちに背筋を伸ばし、自らのゴミを拾い始める。 圧倒的な威圧感。けれど、そこには田中が持っていたような「掃き溜めを包み込むような優しさ」が、確かに宿っていた。
始祖の休息:時給の境地
学園の購買部に行けば、そこにはエプロン姿でレジを打つ、一人の男がいる。
「……はい、120円のお釣りだ。袋は必要か?」
田中だ。 彼は今、最強の存在としての座を捨て、時給1200円のアルバイトとして、この世界の「日常」を最前線で守っている。 彼が窓ガラスを一拭きすれば、どんなに古い汚れも魔法のように消え去るが、彼はあえて時間をかけて、丁寧に、人間らしく掃除を続けている。
「……お嬢さん。何事もな、一気に掃除すればいいってもんじゃない。毎日少しずつ、汚れを溜めないのが、一番の秘訣だ」
彼はそう言って、私に少しだけ期限の近いパンをサービスしてくれた。
結び:異世界に招かれた本質
私は、一口ハーブティーを飲み、空を見上げる。 私たちはなぜ、この歪んだ世界に呼び寄せられ、ここで生きることを選んだのか。その本質的な意味に、私はようやく辿り着いた。
人間が異世界に降り立つ真の意味。 それは、完成された美しい世界を眺めることではない。 不完全な、間違いだらけの世界に、自分だけの「シミ(生きた証)」を刻み込み、それを愛おしみながら磨き直すプロセスそのものなのだ。
汚れがあるからこそ、掃除をする。 傷があるからこそ、手入れをする。 その、一見すると無駄に思える「繰り返される慈しみ」こそが、私たちがこの世界で見つけた、唯一無二の幸福だった。
生存者バイアス 私が今、こうして穏やかな午後の昼下がりを楽しめているのは、たまたま私が、この世界の「汚れ」に恋をしてしまったからだ。
「さあ、アレクセイ。次の依頼は、旧図書館の百年分の埃ね。私たちの仕事は、まだまだこれからよ」
私は微笑み、一歩を踏み出す。 世界は今日も、掃除しがいのある、愛おしい汚れに満ちている。




