随筆集Ⅵ フレップの故郷(さと)
わたしの生まれ故郷は、樺太の東海岸にある知取町である。
両親と兄、そして私と妹の4人家族で、私が五歳になるまでそこで暮らしていた。当時、地下資源などの豊富な樺太に、将来の夢を抱き、約40万人程の日本人が移住していたのである。私達の両親もその中の一人で、知取町の中心地で、「銭湯」を経営していた。鳴子温泉から「湯の花」を取り寄せて沸かし、屋号も「鳴子温泉」といい、寒い土地柄もあってか好評で、繁盛していたようである。 そんな幸せな暮らしが続いたのも私が二歳頃までであった。 昭和20年8月9日、突然のソ連の参戦により、事態は、一変してしまった。樺太全土は、北からは、50度線を越えて,ソ連軍が、侵略し、海からは艦砲射撃、そして激しい空襲を受け、大混乱に陥った.。日本人の、あるものは、前途に絶望して、自殺をはかるもの、ソ連の兵士達に殺害された男性達、侵略から逃れ、自分達の家を捨てて、難民となって、南方へ、なだれこんでいく人々.。
比較的裕福な家は、襲撃されて、食料や、衣服などが略奪された。人々は、家の戸締りを厳重にし、明かりを消してひっそりと暮らしていた。しかし私の父は、違っていた。家の周りには、明かりを、煌々とつけ、「こんな時ほど、皆大変だろう。」、と何時もと変わらぬように、営業していたが、入浴料は、とらなかったという。人々は、帰りしな口々にお礼を、いいながら、帰っていったが、幾人かの人たちは、番台にお金を、置いていったという。そんな事もあってか、我家は、一度も、襲撃を受けなかったと言う。
終戦間際、男性は残り、女性と、子供は、汽車に乗って、引き上げ船の出る大泊へ向かった.。途中豊原の駅で、全員汽車から降ろされ広場に集合していたところを、ソ連の空軍機の空襲を受けた。私達親子もこの中にいた。母は、生活に必要な荷物を背負い、わたしは、兄に背負われていた.。
空襲は、悲惨を極めた.。頭部に爆弾の破片を受け、血を吹いて倒れるもの、背負った赤ん坊の頭が爆風で、吹き飛ばされるもの、さながらその場は、阿鼻叫喚の世界に変わったと言う。やがて人々は、裏山へ逃れ、防空壕に飛び込んだ。母も続いた。しかし兄と私は、うしろには続かなかった。子供たちとはぐれてしまったことに気づいた母は、必死で防空壕より飛び出そうとしたが、入り口近くにいた警官に抱きとめられた。「今出ると死んでしまう。」必死で止める警察官、「子供達が死んじゃう。早く離して」、半狂乱で飛び出そうとする母、その間にも、人々は、防空壕に飛び込んでくる。其の中に私達がいた。母は、飛んできて私達をかわるがわる抱きしめた。、「そのときの嬉しかったことは、一生忘れられない。」母は当時を振り返り、わたしたちに良く話してくれた。上に二人の子供を病気で、亡くし、兄とわたしは、人一倍大切にそだてられていた。「母」は、わたしたち二人の子供を、救うためなら、自分の命を捨てても悔いはなかったのだろう。その後大泊で、船に乗ろうとしたが、すでに出発した引き上げ船が、戻らず、乗ることが出来ないためまた自宅にもどされた。当時大泊を、出発した船は、すべて、途中で、ソ連の空軍に撃沈されたという。人の幸、不幸は、本当に分からないものと、つくづく思う。終戦後、昭和23年、北鮮丸(3300トン)という船で、私達は、北海道の函館についた。其の当時父は、このお金でまた「お風呂屋さん」をしょうと思って、何がしかのお金を、持っていたらしいが、函館で、当時の通貨に交換してもらったら、当分の生活費にしかならなかったと言う。ともかく家族全員が無事に北海道に渡れたのも、父の懸命の努力と、母の必死の願いがあったからであろうとおもう。 家族全員無事に帰れた我家は、まだ幸福なほうであったことと思う。
幼い頃の生まれ故郷の記憶は、朧だが、両親や兄から聞かされた話をつなぎ合わせ追憶の糸を、手繰り寄せてみた。
初夏に薄紅色の花をつけ、葡萄のような実をむすぶ、「フレップ」と言う呼び名の果実だけが、わたしの脳裏に今も鮮明に残る樺太の思い出である。
2004,5,17(月)発表




