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第二章:文化祭に向けての彼らの部活動

第一節:転写表の魔力 - 日常の小さな革命


ナターシャからの最初のキリル文字メールが届いたのは、彼女がオロス語会話同好会とヤマト語文芸部への入部を決めてから三日目の朝だった。


Сейчас 7 утра. Уже проснулась? Сегодня в клубе будем готовить пирожки.(今朝7時。もう起きた?今日の部活でピロシキ作るよ)


ビーチャはベッドの中で目をこすりながら、枕元の転写表と首っ引きで解読した。一文字一文字、指でなぞりながら。


「ピロシキ…」彼は独り言ち、すぐに返信を試みる。Да, проснулся. Пирожки с чем?(うん、起きた。ピロシキの中身は何?)


返信は十分後に届いた。С капустой и мясом. Если будешь хорошо учиться, дам попробовать.(キャベツと肉。よく勉強したら、味見させてあげる)


その日から、二人の間でキリル文字を使ったメッセージのやり取りが日常となった。最初は一日に数行だったのが、次第に長文になり、やがてナターシャはビーチャのオロス語の誤りを訂正するようになった。


「Би-тя(ビーチャ)、ここは『я буду делать(私はするつもり)』じゃなくて『я сделаю(私はやる)』だよ。意志の違いがあるの」


放課後のハンバーガーショップで、ナターシャがビーチャのノートを指さしながら説明する。彼女の指先にはケチャップが少しついていて、ビーチャはその赤い点が気になって仕方がなかった。


一方、ヤマト語文芸部ではアレクセイがシステマティックな指導を続けていた。部室の隅に特別なコーナーを設け、五十音表とキリル文字転写表を並べて貼り出した。


「今日は『あ行』と『か行』の清音と濁音の違いから始めよう」


アレクセイはホワイトボードに「か」と「が」を大きく書き、その横に「ка」と「га」を記す。ナターシャは真剣な表情でノートを取る。


「ка… га… 声帯が震えるか震えないか」


彼女が小声で繰り返すと、アレクセイが頷く。


「その通り。ヤマト語の濁音は有声音だ。オロス語の無声音と有声音の区別に似ている部分もある」


ナターシャの目が輝いた。「как в русском?(オロス語みたいに?)」


「そう。『та』と『だ』の関係も同じだ」


この日、ナターシャは初めて漢字に挑戦した。「川」という文字を、アレクセイがゆっくりと書いて見せる。


「これは『かわ』って読む。水が流れるところだ」


ナターシャが懸命にペンを握り、何度も書き直す。五回目にようやく形が整った時、アレクセイが思わず拍手した。


「すごいじゃないか!最初からバランスが取れている」


ナターシャは頬を赤らめ、キリル文字でメモを取った。「かわ。水の道」


第二節:部活動の日々 - 二つの世界で


オロス語会話同好会の部室はいつも活気に溢れていた。月曜日と木曜日はビーチャの担当日で、彼は毎回、事前に想定問答をノートにびっしり書き込んで臨んでいた。


ある木曜日、ドストエフスキー部長がビーチャを突然呼び止めた。


「小林、今日は特別な課題をやろう。ナターシャにオロス語で自己紹介をし、それに対して彼女が質問する。すべて即興でだ」


ビーチャの喉がカラカラになった。ナターシャが優しく微笑みかける。


「Не бойся, я буду мягкой.(怖がらないで、優しくするから)」


ビーチャが深呼吸をして始める。「Меня зовут Бича. Мне 16 лет. Я учусь в этой школе...(僕の名前はビーチャ。16歳です。この学校で勉強して…)」


ここで言葉に詰まる。ナターシャが助け舟を出す。「Что ты любишь делать?(何をするのが好き?)」


「あ、はい!Я люблю читать лайт-новеллы и... смотреть аниме.(ラノベを読むことと…アニメを見るのが好きです)」


部室のあちこちから笑い声が上がる。ドストエフスキー部長が頷く。「Хорошо. Аниме - это важная часть японской культуры.(良い。アニメはヤマト文化の重要な一部だ)」


その日の終わり、ナターシャがビーチャに小さな紙切れを渡した。「Ты сегодня был молодец.(今日はよく頑張ったわ)」


紙には可愛らしい猫の絵が描かれていた。ビーチャはその紙を財布の中にしまい、一週間持ち歩くことになる。


一方、水曜日と金曜日のヤマト語文芸部では、ナターシャの進歩が目覚ましかった。三週間でひらがなをすべて習得し、カタカナにも挑戦し始めていた。


文化祭の劇の練習が本格化する中、アレクセイはナターシャに特別な課題を与えた。


「今日からは実際の台本を使おう。でも最初は全部キリル文字に転写したものから始める」


彼が渡したのは『桃太郎』の台本で、すべてのヤマト語の台詞の上にキリル文字での読み方が振られていた。ナターシャの役である鬼の台詞の一部:


「ワレハ オニ ナリトイエド ココロ ハ ヒト ナリ(我は鬼なりと言えど心は人なり)」

「ВАРЭВА ОНИ НАРИТОИЭДО КОКОРО ВА ХИТО НАРИ」


ナターシャが声に出して読む。「Варева они наритоиэдо кокоро ва хито нари...」


「そう、その調子。次は感情を込めて」


アレクセイの指導は厳しくも温かかった。ある金曜日、ナターシャが何度も同じ箇所で詰まると、彼は練習を一時中断した。


「少し休憩しよう。実は、今日は特別なものを持ってきた」


そう言って取り出したのは、オロスとヤマトの合作映画のDVDだった。オロス語の音声にヤマト語の字幕がついている。


「言語を学ぶ最良の方法は、文化そのものに触れることだ」


二人で一部屋の視聴覚室を借り、映画を観始めた。戦争を題材にした重い内容だったが、ナターシャはあるシーンで突然涙を流した。主人公の兵士が家族の写真を見つめる場面だった。


「Мой папа...(私の父も…)」


アレクセイは何も言わず、ハンカチを差し出した。映画が終わった後、ナターシャが初めて自分の家族について語り始めた。


「父はオロス軍の大佐。いつも厳しかった。『軍人の娘たるもの』というのが口癖で…」


彼女の声が震える。アレクセイは静かに聞き続ける。


「母は優しかったけど、父には逆らえなかった。私が医者になることを期待してた。でも…」


「でも?」アレクセイが促す。


「私は人を治すより、人をつなぐ言葉を学びたかった。だから交換留学生に応募した。父は猛反対したけど、母が密かに願書を送ってくれた」


その夜、アレクセイはビーチャにメールを送った。

「今日、ナターシャの話を聞いた。彼女、結構大変な家庭環境みたいだ。

軍人の父に反発してまでヤマトに来たんだ」


ビーチャの返信はすぐに来た。

「明日のハンバーガーショップで、彼女にもっと話してもらおう。

お前も来るか?」


第二・五節:三人の時間 - ハンバーガーショップにて


土曜日の午後、三人はいつものハンバーガーショップの角テーブルを占領した。ナターシャが昨日の続きを話し始める。


「Папа считал, что изучать языки - это несерьёзно.(父は言語を学ぶことは真剣なことではないと考えていた)」


ビーチャが口を挟む。「でも、オロス語も立派な言語じゃないか」


「そうよ」ナターシャが小さく笑う。「だから言ったの。『Если наш язык так велик, почему я не могу его преподавать?(もし私たちの言葉がそんなに偉大なら、なぜそれを教えてはいけないの?)』」


アレクセイが感心した様子で頷く。「それでお父さん、何て言ったの?」


「Он рассердился... но потом задумался.(怒った…でもその後、考え込んだ)」


ナターシャがソーダのストローを弄びながら続ける。


「翌朝、父が私の部屋に入って来て言ったんだ。『Хорошо. Но если поедешь, стань лучшей.(よかろう。だが行くなら、最高になれ)』」


店内に一時の静寂が流れる。ビーチャが咳払いをして話題を変えようとする。


「じゃあ、文化祭の劇、頑張らないとな。お父さんにも見せられるように」


「Да...(そうね…)」


ナターシャの目が少し潤んでいるのに気づき、アレクセイがさりげなくナプキンを差し出す。


その週末から、三人の練習は新たな熱を帯びた。ナターシャは台本を持ち歩き、登下校の電車の中でも口ずさむようになった。ビーチャはオロス語会話同好会で料理のオロス語名称を猛勉強し、アレクセイはヤマト語文芸部でより深い文化の背景をナターシャに教え始めた。


ある日、ナターシャが嬉しそうに二人に見せたものがある。母から送られてきた小包で、中には手編みのマフラーと、オロス語で書かれた手紙が入っていた。


「Мама пишет... она смотрела видео нашей репетиции.(母が書いてる…私たちの練習の動画を見たって)」


手紙を読み上げるナターシャの声が嬉しさで震えていた。


「『Твой папа тоже тайком смотрел. Говорит, твоё произношение улучшается.(お父さんもこっそり見てたよ。発音が上達してるって)』」


ビーチャとアレクセイが顔を見合わせ、思わず笑みが零れる。彼らの小さな日常が、海を越えて家族の絆を繋いでいた。


第三節:文化祭への道 - 準備と葛藤


文化祭まであと二週間となったある火曜日、オロス語会話同好会で問題が発生した。ボルシチ担当のビーチャが、担当する材料リストを紛失してしまったのだ。


「Чёрт! Где же тот список?(くそ!あのリストはどこ?)」


部室中を探し回るビーチャを、ナターシャが優しくたしなめる。


「Успокойся. Я помню все ингредиенты.(落ち着いて。材料全部覚えてるから)」


彼女がサッとメモを書き出す。キャベツ、牛肉、ビーツ、サワークリーム…すべてオロス語で。


「Вот, учи эти слова.(ほら、この単語を覚えて)」


ドストエフスキー部長が近づいてきて、ビーチャのノートを覗き込む。


「Кстати, в субботу будет генеральная репетиция кулинарии.(ところで、土曜に料理の最終リハーサルがある)」


ビーチャの顔が青ざめる。土曜日はヤマト語文芸部の劇の全体練習と重なっていた。ナターシャが気づき、部長に申し出る。


「Я могу помочь Биче в воскресенье.(日曜にビーチャを手伝えます)」


「Хорошо. Но помни - ты главная в спектакле.(わかった。でも忘れるな - 君は劇の主役だ)」


その夜、ビーチャとアレクセイはメールでやり取りした。


ビーチャ:「ナターシャ、土曜も日曜も練習か。大丈夫かな」

アレクセイ:「彼女は強いよ。それより、お前がボルシチ作り失敗しないか心配だ」

ビーチャ:「失礼な!ナターシャがついてるから大丈夫」

アレクセイ:「そうか。ところで、ナターシャの父、最近どうしてるか聞いた?」

ビーチャ:「うん。先週、ビデオ通話した時、少しだけ笑ってたよ。ナターシャのヤマト語上達を喜んでるみたい」


確かに、ナターシャの変化は誰の目にも明らかだった。最初はぎこちなかったヤマト語が、今では自然な抑揚を持ち始めている。劇の台詞も、単なる暗記を超え、感情を込めて言えるようになってきた。


文化祭一週間前、三者による最終調整が行われた。放課後の教室で、ナターシャが鬼の台詞を練習する。


「我は鬼なりと言えど、心は人なり!この山に閉じ込められた、我が仲間たちを解放せん!」


アレクセイが演出上のアドバイスをする。「もっと怒りと悲しみを混ぜて。鬼だけど、実は人間と同じ感情を持ってるんだ」


ビーチャはオロス語でフォローする。「Ты можешь представить, что говоришь это отцу.(お父さんに言ってるって想像してみて)」


ナターシャの目が大きく見開かれた。深呼吸を一つすると、もう一度台詞を言い直す。今度は声に震えがあり、目には本物の涙が光っていた。


練習後、ナターシャが二人に打ち明ける。


「Вы правы... я говорю это папе.(二人の言う通り…私は父に言ってるの)」

「『私は鬼じゃない。一人の人間だ』って」


アレクセイが優しく肩を叩く。「それでいい。それが本当の演技だ」


ビーチャが加わる。「お父さんも、きっとわかってくれるさ」


文化祭前日、ナターシャは久しぶりに両親とビデオ通話した。画面に映る父の顔は相変わらず厳しいが、目尻にわずかな笑みの皺が見える。


「Папа... завтра наш фестиваль.(父さん…明日は私たちの文化祭です)」


父がゆっくりと頷く。「Я знаю. Твоя мама всё рассказала.(知っている。母さんが全部話してくれた)」


少し間を置いて、父が続ける。「Наташа... горжусь тобой.(ナターシャ…お前を誇りに思う)」


ナターシャの目から大粒の涙が零れた。それは、彼女がヤマトに来てから初めて流す、安堵と喜びの涙だった。


夜、三人のグループチャットにナターシャのメッセージが届く。


Спасибо вам обоим. Без вас я бы не смогла.(二人ともありがとう。あなたたちがいなかったら、私はできなかった)


ビーチャとアレクセイの返信はほぼ同時だった。


Всегда пожалуйста!(いつだってどういたしまして!)

「明日、一緒にがんばろう」


こうして、三つの異なる背景を持つ少年少女は、言葉と文化を越えた友情の中で、それぞれの殻を破り始めていた。文化祭は単なる学校行事ではなく、彼らが成長し、理解し合うための舞台となるのだった。

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