正真正銘のハイリスク・ハイリターン
森の狩猟採集経済と、栽培・工業経済へのパラダイムシフト。
それは、俺のビジネスマンとしての血を騒がせる、実に魅力的なテーマだった。しかし、リリアナの言う通り、この世界の根深いしがらみと文化に手を加えるのは、並大抵のことではない。下手に動けば、街中のギルドと商会を敵に回しかねない。
「まあ、焦ることはないか。これは、じっくり時間をかけて取り組むべき、俺のライフワークみたいなものだな」
俺はその壮大な「宿題」を、一旦心の引き出しにしまい込んだ。今は、せっかくの休暇だ。難しいことは考えず、のんびりしよう。そう決めて、再びリリアナとの「冒険ごっこ」の日々に戻った。
しかし、俺がこの世界で「のんびり」できる時間は、どうやら神様とやらが許してくれないらしい。
そんなある日の午後、俺たちがギルドの安酒場で黒パンをかじっていると、ゴードンが、屈強な部下数人を引き連れて、ずかずかと入ってきた。
「タナカ! 探したぞ!」
そのただならぬ雰囲気に、騒がしかった酒場が一瞬で静まり返る。
「ゴードンさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「話は後だ! すぐにギルドの会議室に来てくれ! 」
有無を言わさず腕を掴まれ、俺はリリアナと共に、ギルドの最上階へと連れて行かれた。
会議室には、ゴードンの他に、見慣れない男たちが数人いた。日に焼けた肌、鋭い眼光、そして潮の香りが染みついた、屈強な船乗りたちだった。
「こいつらは、南の海を股にかける連中だ。そして、貿易都市アクアフォールのメンツにかかる話だ。」
ゴードンは、テーブルに広げられた大きな海図を指さした。そこには、俺たちがいる大陸のはるか南に、未知の大陸が描かれている。
船乗りたちの代表らしき、白髪混じりの髭を持つ老船長が、熱っぽく語り始めた。
「タナカの旦那とやら。あんたの噂はかねがね。南方大陸には、我らの大陸にはない、宝の山が眠っている。一度口にすれば病みつきになるという香辛料、宝石のように輝く果実、そして、どんな病も治すという伝説の薬草……」
彼の話は、まさに夢物語だった。南方大陸との交易に成功すれば、一攫千金どころではない、莫大な富が得られることは間違いないだろう。
「だが」と老船長は続けた。「航海は、あまりにも危険すぎる。南の海は魔物がうごめき、天候は荒れ狂う。無事にたどり着ける保証すらない。これまでも、何人もの商人が夢を追い、船もろとも海の藻屑と消えた」
成功すれば天国、失敗すれば破産と死。あまりにもハイリスク・ハイリターンすぎる。
「船を一艘用意し、腕利きの船員を雇い、数ヶ月分の食料を積み込むだけで、一個人が一生かかっても稼げないほどの金がかかる。そんな博打に、全財産を賭けられる大馬鹿は、もうこの街にはいやしねえ」
船乗りたちは、悔しそうに唇を噛んだ。
その話を聞いた瞬間、俺の頭の中で、前世の記憶が鮮やかにフラッシュバックした。
(大航海時代……香辛料貿易……ハイリスク・ハイリターン……)
そうだ。これこそ、俺が前世で学んだ、「株式会社」が生まれた、まさにその瞬間の光景ではないか。
オランダ東インド会社。一つの航海のリスクを、個人ではなく、大勢の出資者で分かち合う。もし船が沈んでも、一人の投資家が失うのは、出資金の一部だけ。だが、もし無事に帰還すれば、そのリターンは計り知れない。
リスクを分散し、夢を共有する仕組み。
ロンバート辺境伯に提案した、あの粗悪な「株券」とは違う。これこそが、由緒正しい、本来の「株券」の使い道だ。
「……その話、俺に任せてもらえませんか?」
気づけば、俺はそう口走っていた。
俺の言葉に、船乗りたちも、ゴードンも、そしてリリアナも、驚いた顔でこちらを見る。
「タナカ? お前、何を……」
「ゴードンさん。この航海に必要な資金を、一人の大金持ちから集めるのではありません。この街の商人や、市民たちから、少しずつ集めるのです」
俺は立ち上がり、熱を込めて語り始めた。
「この航海事業のための、新しい会社を作ります。その会社の『株券』を、皆に買ってもらう。一口金貨十枚、いや、五枚でもいい。株券を買った者は、この航海の共同出資者、共同オーナーです!」
俺は、海図をバンと叩いた。
「もし、船が嵐で沈めば、その株券はただの紙くずになります。投資した金は戻ってこない。そのリスクは、正直に説明します。しかし!」
俺は、船乗りたちの目をまっすぐに見た。
「もし、この船が宝の山を積んで無事に帰還したなら! 株主たちは、その功績に応じて、出資金の何倍、何十倍もの『配当』を受け取ることができる! これは、単なる金儲けの話じゃない。街の皆の夢を一つの船に乗せて、未知の海へと送り出す、壮大なプロジェクトなんです!」
会議室は、水を打ったように静まり返った。
やがて、老船長が、震える声で言った。
「……そんな、夢のような話が、本当に……?」
「やれます。いや、やってみせます!」
俺の胸は、新たな挑戦への興奮で、激しく高鳴っていた。
水路の次は、海路だ。
債券の次は、正真正銘の株式だ。
隣で、リリアナが深いため息をついたのが聞こえた。
「あんたって人は……本当に、ゆっくりするってことを知らないのね。その目、アクアフォールに来たばかりの頃と同じ顔をしてるわよ」
休暇は、完全に終わった。
本物の株式がどういうものか、教えてやろうじゃないか。