ウォールストリートとメインストリート
第一章完結です。
季節がひと巡りし、街に再び春の柔らかな日差しが降り注ぐ頃、ついにその日はやってきた。
一年弱に及んだ、水門都市アクアフォールの水路更新工事。その全てが完了し、真新しい水路への注水を祝う式典が、街の中央広場で盛大に執り行われることになったのだ。
広場には、晴れやかな顔つきの市民たちが詰めかけ、まるで建国祭のような賑わいを見せている。壇上には、領主アルドリック、商人ギルドのゴードン、石工ギルドのボルガンといった、この街の重鎮たちがずらりと並んでいた。その中心には、少し緊張した面持ちで、しかし背筋を伸ばして立つ、一人の青年の姿があった。新設された「水道管理協会」の初代協会長だ。
彼は、俺と一緒に何度も練習した通り、市民からの信頼を裏切らない、誠実で公平な運営を誓う言葉を、つっかえながらも懸命に述べている。その姿に、領主アルドリックが、父親としての優しい眼差しを向けていた。
もちろん、俺はその壇上にはいない。広場の隅、人々の輪から少し離れた場所で、腕を組みながらその光景を眺めている。裏方。それが俺の立ち位置だ。
「タナカ、本当にいいのか? お前が挨拶しなくて」
式典の少し前、ゴードンが呆れたように言ってきた。
「主役は、この事業を支えた街の皆さんと、これからを担う協会です。俺はただ、少しだけお手伝いしただけですよ」
俺は固辞した。前世の上司に、口を酸っぱくして言われた言葉が蘇る。「こういうところで絶対に前に出るな。関係者に華を持たせろ。それが、次の大きな仕事に繋がるんだ」と。
ウォール街(金融界)は、常にメインストリート(産業界)を影で支える存在であるべきだ。その美学は、異世界に来ても変わらない。
やがて、領主の合図と共に、水門が開かれた。
ゴオオオッという轟音と共に、清らかな水が、陽光を浴びてきらきらと輝きながら、新しい水路へと流れ込んでいく。市民たちから、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
その光景を見届けながら、俺は静かにその場を後にした。
俺の役目は、終わった。
手元には、ゴードンが「約束の報酬だ」と言って、半ば無理やり押し付けてきた金貨の袋がある。中身は、俺が一人で一年くらいは贅沢に暮らしていけるほどの額だった。
(さて、どうするか)
宿への道を歩きながら、俺はこれからのことを考える。
しばらくは、この街でゆっくりするのもいい。リリアナと一緒に、今度こそ本当の「異世界冒険物語」を始めてみるのも面白いかもしれない。ゴブリンに腰を抜かしていた一年前とは違い、今の俺なら、もう少しマシな旅ができるだろう。
そう、まずは長期休暇だ。この一年、休みなく働き続けたんだ。それくらいの権利はあるはずだ。
のんびりした未来を想像し、俺の口元が自然と緩んだ、その時だった。
「タナカ様! タナカ様! 大変です!」
ギルドの若い職員が、息を切らしながら俺の名前を叫び、こちらへ走ってくる。その必死の形相に、俺の心臓がどきりと跳ねた。
「え? 何か問題でもあったか? 水路に不具合が?」
最悪の事態が頭をよぎる。まさか、初日からトラブルか?
「いえ、そうではなく! ギルドマスターがお呼びです!」
「ゴードンさんが? 式典の最中だろ?」
「それが……!」
職員はぜえぜえと肩で息をしながら、信じられない、といった表情で言葉を続けた。
「隣国の領主様が、本日の式典の話をどこからか聞きつけて、至急、お話がしたいと、特使を寄越されたのです……!」
「隣国の領主……?」
なぜ、今? 俺の頭は混乱した。
職員は、ごくりと唾を飲み込み、俺に告げた。
「なんでも、『うちの街の寂れた鉱山も、その金融の仕組みとやらで、何とかならないだろうか』と……!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は天を仰いだ。
(……マジかよ)
ゆっくり休むつもりだった俺の計画は、どうやら脆くも崩れ去りそうだ。
一つのプロジェクトの成功は、最高の営業実績となる。特に、それが前例のないものであればあるほど。
どうやら、異世界の金融マン・田中ケンジの評判は、俺が思っているよりもずっと早く、国境を越えて広まってしまったらしい。
呆然とする俺の頭に、前世の上司の、もう一つの口癖が蘇ってきた。
「いいか、田中。仕事ってのはな、休みたい時に限って、一番デカいのが舞い込んでくるもんなんだよ」
どうやら、その法則も、この異世界では健在のようだった。
面白かったら、ご評価とブックマークいただけると幸いです。