第29話 勝ちたい理由
今日は有意義な一日だった。
最後の数学の授業まで聞いた後、俺達は塾を出る。
今は昼下がりの、絶妙な時間帯だ。
夕方というわけでもなければ真っ昼間というわけでもないため、何をするにしても中途半端な時間になってしまった。
これからどうしようかと、いつの間にか晴れている青空の下、顔を見合わせる俺達。
と、凪咲は通りを指しながら言った。
「よかったら、もう少しお話していきませんか? 近くに行きつけのカフェがあるんです。……ふふ、レイサさんと付き合っていないのなら、休日に二人で話しても問題ないですよね?」
「勿論」
わざわざそんなことを強調する彼女に苦笑いせざるを得ない。
これは、アレだな。
塾終わりのカフェタイムというやつだ。
なんだかデキる男になった気がして、妙にそわそわしながら凪咲について行った。
しかし歩みを進めてすぐ思う。
ついさっき女子との距離感に気をつけようと思ったはずなのに、果たしてこれはセーフだろうか。
まぁ断る理由もないんだけどな。
◇
連れられた場所は、普段俺が絶対に近づかないようなお洒落なカフェだった。
インテリアがなんかセンス良く感じる、全体的に綺麗にまとまった空間。
席に座るだけで、なんだか肩身が狭く感じるのは気にし過ぎだろうか。
テキトーに飲み物を頼んで待っている最中、凪咲は微笑む。
「この席は周りからあんまり見えなくて、人に会話の音も聞こえにくいお気に入りなんです」
「そんなデスノ一ト三巻に出てきた喫茶店みたいな」
「?」
舐めたツッコミをしたせいで首を傾げられてしまった。
どうやら凪咲はあの名作を未履修らしい。
現代文でもっと点を取るには、少年誌を含む色々なコンテンツに触れるべきだ——なんて思ったが、そう言えば俺より圧倒的に点が高いので文句は言えない。
「枝野さんは、こういう場所には来ませんか?」
「そうだな。基本家で勉強か、場所を変えるにしても学校の図書室くらいかも。まぁただ、たまにはいいよな。雰囲気も良くて、ここなら勉強が捗りそうだ」
「ここは私が塾の帰りによく来るところなんです。その日の整理をしたり、ゆっくり考え事をしたり……。夜遅くまで開いているので、重宝してます」
「平日の塾ってそれだけでも結構な時間なのに、寄り道したら深夜にならないか?」
単純な疑問だったのだが、聞いた後に後悔した。
踏み込み過ぎた質問だっただろうか。
前も帰宅時間の話で凪咲の家庭の話になったし、今回も微妙な雰囲気になりかねない。
「あ、ごめん。詮索する気はなくて」
だから俺は、聞いてすぐに撤回する謎のムーブをかましてしまった。
挙動不審な俺に、凪咲はクスクス笑う。
流石に杞憂だっただろうか。
「気にしなくてもいいですよ。そうですね。今までは避けていましたが、この際私の家の話をしましょうか」
「い、いいのか?」
「はい。と言っても、もったいぶるような話ではないんです。よくある家族間のコンプレックスみたいなものですから」
届いたアイスラテを口に含んだ後、目を細めて息をつく仕草がなんだか妖艶で、つい見惚れてしまう。
今まで語らなかったのに一体どういう心境の変化か、いつもと違う態度に俺は少し意外に思いつつ、耳を傾けた。
「以前話したように、うちの兄は海外の大学に通っているくらい優秀なんです。元々父も母も良家の出身だったので、出来の良い兄には強く入れ込んでいたと思います。両親とも、家の中ではあまり優秀な方ではなかったようなので、恐らくそのせいで兄には成功させたいと、思っているのかもしれません」
落ち着いたトーンには明確に諦めや寂しさが込められているように感じた。
頷く俺に、彼女は続ける。
「そういう背景もあって、兄と違って並の出来だった私は両親から期待されることがあまりありませんでした。何の縛りもなく自由に育ててもらったことには感謝していますが、私も兄のように、目をかけてもらいたかった。だから、一度でいいんです。兄に勝ったと、自分を誇れるような結果が欲しい」
「それで、勉強も頑張っているのか」
「ふふ、おかしいですよね。そんな事を言っておきながら、私の成績は当時の兄のものには遠く及びません。大学だって、兄の通う場所と比べたら国内の全ての大学が霞むレベル。わかってるんです。私じゃ兄のようにはなれない事なんて」
お兄さんがどこに通っているのかは知らないが、国内の全てに勝るという事は自ずと絞られる。
そして、それと比べたら今の凪咲の学力では足元にも及ばないだろう。
俺は凪咲と初めて話した日の会話を思い出す。
凪咲は『勝ちたい人がいる』と言っていた。
なんとなく家庭の事情が関係しているのではないかと思ったが、本当にそうだったらしい。
あれは自身の兄を指していたのだ。
「私の勉強に対する思いなんて、その程度です。恥ずかしいので、今まではあまり喋る気にならなかったんですが、どうしてでしょう。……あなたになら、むしろ話したいと思ってしまったんです」
「ありがたいよ、そう思ってもらえるのは」
俺は自分のコーヒーを飲み、一緒に頼んでいたフライドポテトを口に入れる。
そしてまたコーヒーを飲んだ後、息を吐いた。
「お兄さんの出来がどれだけいいかは知らないけど、雨草さんにだって勝っていることはあると思うよ。……なんて、薄い慰めはいらないだろうから本音を言うけどさ」
「は、はい」
「俺にとっては、雨草さんが必要だよ。君のおかげで俺は前回の試験で、高校入学後初めて国語で8割を取れたんだ。それに、諦めるのは早い」
「まだ、追いつけると?」
「一応聞いておくけど、お兄さんの大学は何処の国?」
「アメリカです」
「ということは、いま世界の大学ランキングで一位のオックスフォードではないわけだ。勝てるじゃないか、そこを受ければ」
「っ!?」
何を言っているのかと目を見開かれるが、俺はそれに苦笑するしかない。
人生は挑戦してなんぼだろう。
浅い考えだが、勝てる可能性があるのなら挑戦すればいい。
「う、受かるわけないです」
「だろうな。でも兄すら受けなかった大学に挑戦する君を、周りはどう思う?」
「……分不相応だと思うかもしれません」
「かもな。でも確実に、雨草さんの挑戦はご両親にとっても未知で、ワクワクするんじゃないか? ……と、別に本気で受けろって話じゃないんだよ俺がしたいのは。諦めるには早いし、先人を抜かすという行為は、後発の人間にしかできない特権だという話だな」
だらだらと話した後に、俺は後悔した。
凪咲の珍しくムッとした顔に、やらかしたと後悔する。
いかん、気持ちよくなり過ぎた。
何故人は語る時だけ異常に周りが見えなくなるのだろうか。
あまりにもキモすぎる自分の言動を思い返し、悶絶する。
「ご、ごめん。調子に乗り過ぎt——」
「そっか。そうですよね。……ふふっ。あはは」
「え?」
「枝野さんの言う通りです。私、心の中で自分の可能性に蓋をしてました。先人を抜かすのは後発の人間にしかできない、ですか。まさにその通りです」
「……恥ずかしいから繰り返さないで」
ただ考え込んでいただけだったらしく、目に涙を浮かべて笑う凪咲。
それを見ながら俺は照れやら安心やらで、情緒がバグってきた。
と、聞くだけなのも申し訳ないため、俺は以前凪咲に聞かれて誤魔化していた話をしようと決心する。
「俺も誤魔化したままなのは悪いから、果子と何があったのか話すよ」
「聞かせてください」
そのまま、俺はファストフード店であった果子とのやり取りを話した。
成績を馬鹿にされ、頭が弱いと嗤われた事。
目の前で成績表を丸められた事。
勝手に俺の境遇を高木に話し、馬鹿にするネタにしていた事。
そのままもーいらないと、用済み扱いされて一方的に関係を切られた事。
愚痴にはならないように努めた。
慰められるのは、なんだか嫌だから。
それに、今はこうして元気にやっているし、正直既に十分その時の嫌な気分は薄れているから。
俺の話を受けて、凪咲は不敵に笑った。
「では、レイサさんには模試で勝ってもらわなければ困りますね」
「あぁ」
あの後、レイサはきっちりと果子とペナルティを決めてきたらしい。
なんでも、レイサが勝った場合、果子は俺が前から欲しがっていた数学の問題集を買ってくれるらしいのだ。
お年玉を崩して、わざわざ三冊セットを揃えてくれるらしい。
聞いた時はかなりテンションが上がった。
結構値が張る買い物なので、なんだかんだ買えずにいたからな。
俺としてもうまみのある、そしてレイサに教えるモチベも湧く上手い条件を付けてきたものだ。
しかし意外だったのは、その条件を提示してきたのが果子側だった事。
アイツが俺の欲しいものを覚えているとは、正直思わなかった。
一時期呪詛のように漏らしながらずっと欲しがっていたし、耳に残っていたのだろうか。
まぁそれを罰ゲームのペナルティとして持ってくるのが、なんともアイツらしいが。
ともかく、そんなわけで模試では負けられないし、なんとしてでも勝ってもらいたい。
そして、それは勿論俺自身も。
「頑張ろうな、模試」
「はい。そしてこれからもお願いします。……筑紫君」
「こちらこそ。……えっと、凪咲ちゃん?」
「ぶふっ! ふふ、あははっ! 無理しないでください」
「そっちこそ」
慣れない呼び方をぎこちなくし合って、そのまま二人で噴き出した。