第26話 幼馴染は帰国子女には負けたくない
【果子の視点】
テストの結果が返って来てから、ウチの生活は一変した。
毎日のように会っていた李緒君に振られ、スマホも没収されて勉強漬けの生活が始まった。
親にはあの日、過去に類を見ないほど怒られたのを覚えている。
発狂する母親と、冷めた目でウチの成績表を見る父親。
慈悲はなく、そのまま怒声と共に即座に入塾が決められた。
成績を戻すまで、ウチはずっとこの生活を強いられる。
変わったのは家や彼周りだけじゃない。
学校では話したこともない生徒に嗤われ、陰口をたたかれる始末。
耐えられなくて、もう一度やり直せないかと縋る気持ちで李緒君に話しかけたけど、現実はやはり非常だった。
『あ、あの。昨日の課題でわからないとこあったんだけど——』
『……チッ、日本語すらわからなかったのかコイツは』
関わらないでくれと言われていたのはわかっている。
だけど、何度も体を重ねた元カレだ。
少しくらいウチに情を抱いてくれていると思っていた。
李緒君にそんな態度を見せられ、ウチはついに本当に彼と関係が終わったことを悟った。
不思議と涙は出なかった。
薄々気付いていたせいかもしれない。
李緒君が、実は本当に体目的でウチと付き合っていただけの、ただのクズ男なんじゃないかって。
散々馬鹿にしてきた筑紫の方が、まだマシだったんじゃないかと思い始めていた。
そう思ったのは、皮肉なことにこんな状況に陥ってから。
自習をするようになって、ようやく筑紫のありがたみに気付いた。
あれ以降の数日で色々試したけど、どんな教員の指導より、どんな塾講師の解説より、ウチには筑紫の教え方が一番わかりやすかった。
アイツが言っていた復習方法を試してみたら、少しだけわからなかった問題が解けるようになったのだ。
家に残っていたアイツの対策プリントを見ると、驚くほど丁寧に作られていた事に嫌でも気づく。
ウチのためだけに、ウチの理解度に合わせて問題作成やアドバイスのメモ書きをしてくれていた。
『なんなのほんと。ガチ、キモすぎでしょ……』
アイツは、誰よりもウチの事を見てくれていた。
幼少期から一緒に過ごしたという積み重ねは馬鹿にならないらしく、ウチが一番嫌ったアイツの勉強というアイデンティティが、それをわからせてきたのである。
その事実が猛烈に腹立たしく、そして同時に折れたメンタルを優しく癒した。
『そうだっ。またアイツに勉強を聞けばいいんだ。前の事も、流石に気にしてないよね? もー結構時間も過ぎたし、許してくれるでしょっ。キャハハ、そうと決まれば明日話しかけてみよーっと』
筑紫は優しい。
どこぞの早漏クズ野郎と違って、ウチを傷つけるような事は言わない。
しかも、なんだかんだ困ったときはいつも助けてくれた。
他ならぬウチのお願いなら、きっと断らないだろうと、そう思っていた。
たった今、今日この時までは。
「う……、なんでみんなウチを避けるの? ずっと一緒にいたじゃん! 薄情すぎるよ」
雨草凪咲に言い伏せられた後、ウチは筑紫を睨みつけた。
と、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せる。
「え? ……それ、俺の台詞かも」
「はぁ!? なにそれ! あの日の事を言ってるんならこっちも言わせてもらうけど、あれはアンタが成績落としたのが悪いんでしょ!?」
「はぁ、あんまり雨草さんに聞かれてるところで言い合いはしたくないんだけどさ」
普段ウチの言葉に言い返してこなかった筑紫が、前置きをしてからウチを見てきた。
「確かに俺の成績不振は俺の問題だけど、それをお前がとやかく言う必要性はないだろ。あの日だって俺のことが嫌いなら嫌いで、黙ってどこかに行けばよかったんだよ。止めないのに」
「え? ……は?」
「今も高木に振られて辛いのかもしれないけど、全部お前の責任なんだから、俺に勉強なんか聞かずに自分でどうにかしてみろ。なんでお前は俺のミスの責任を俺に向けてくることはできるのに、自分の話になった途端にそれができなくなるんだ? 普通に考えてお前の成績不振なんだからお前が悪いじゃないか。果子が言ってるの、そういう理屈だけど」
筑紫は穏やかな目をしていた。
その隣にいる雨草凪咲も、似たような目をしている。
ウチにはわかった。
これは、人を憐れむときの表情だ。
ウチは今、醜態を幼馴染に憐れまれている。
李緒君と一緒で、筑紫すらウチを見下しているんだ。
「アンタも、ウチが足手まといっていうの? 二人はともかく、ウチにまで勉強を教えていたら自分の成績が下がるって?」
「え、いや。そんなことは……どうだろ」
はっきりウチのせいにされなかったのが逆に虚しい。
ウチが一緒にいると成績が落ちるとでも言いたそうな言葉詰まりに、李緒君の最低な姿がフラッシュバックする。
これじゃあの日の再現だ。
ウチはまた捨てられる。
散々馬鹿にしてきた幼馴染にまで、近くに美少女が湧いたからと言わんばかりに切り捨てられるんだ。
と、ウチは絶望しかけてはたと気付いた。
違う。
ウチが足手まといなら、もっとエグいのが今の筑紫には付いている。
「……嘘だ」
「え?」
「ウチよりバカな奴に、勉強教えてんじゃん! そっちの方が絶対足手まといだし!」
そう、コイツが今つるんでいる七村・F・レイサは赤点ばかり取っている、本物の大馬鹿だと李緒君から聞いていた。
ウチでも今まで赤点なんか取ったことなかったんだから、相当の足手まといだとわかる。
ソイツに勉強を教えるくらいなら、まだウチに教える方が労力もかからないはずだ。
筑紫の話の矛盾に気付いて、ウチは少し口角があがった。
やっぱりコイツは馬鹿だ。
頭が弱いから、こんな自分の論理破綻にも気づかない。
だけど、ウチの得意げなツッコミに彼は苦笑を見せた。
「いやでも、レイサとお前とじゃ意欲も配慮も違うからな」
「なにそれぇっ!」
コイツ、あの帰国子女を今呼び捨てにした!
どう考えても贔屓しているその優しい声音に、イライラのボルテージがどんどん上がる感覚が自分でもわかった。
「じゃ、じゃあ証明してあげるっ」
「何をだよ」
「ウチの方が、あの帰国子女の赤点女王よりも頭いいってコト! それが証明出来たら、アンタはまた前みたいにウチに勉強を教えろ!」
「えぇ……」
嫌だと言わんばかりに渋い顔を見せる筑紫。
と、そんな時だった。
「イイよ! その勝負受けて立ってあげる」
振り返ると、そこにはハッと息を飲むようなブロンド髪の女がいた。
コイツだ。
ウチから幼馴染を横取りした、大馬鹿の帰国子女が何故か後ろに立っていた。
唐突に現れた泥棒猫に、筑紫は待ったをかける。
「え、いや。勝手に話進めるなよ」
「ナニ、自信ないの? あんなに刺激的な夜を過ごしたのに心外だナー」
「勘違いするような事言うんじゃない! それと、なんで俺がこんな勝っても負けてもうまみのない勝負に巻き込まれなきゃいけない!?」
「じゃァ、周サンにも負けたら相応のペナルティを課せばいいじゃん」
筑紫とウチの間に割り込んでそう言う七村・F・レイサ。
と、彼女は筑紫に背を向けると、ウチにだけ見える角度でゾッとする程冷たい目を向けてきた。
意表をつかれた。
さっきまで筑紫にデレていた女と同一人物とは思えない顔を見て、ウチの闘志に火が付く。
「どうぞ? ウチが負けたら全裸で校内一周でもなんでもしてあげる! キャハハ! それでじゅーぶん?」
「いや、ヤり過ぎでしょ。そこまでしなくてイイって。そンなコトしたら学校にいられなくなっちゃうじゃん」
「そ、そう?」
ウチの今後まで考えて否定してくる七村に、一瞬怯んだ。
何コイツ、ここに来て良い人アピ?
それともナチュラルに敵同然のウチにも配慮できちゃう女ってこと?
どっちにしろムカつく。
どうせ猫被ってるだけの馬鹿女に気を遣われるなんて、まっぴらごめんだ。
「七村・F・レイサ、アンタには絶対負けないっ。月末の模試で証明してあげる!」
「ドーゾ? あ、でもアタシはツクシに勉強を習いながら対策するケド、文句言わないでネ?」
自信満々に言ったところ、七村にピシャリと言われてしまった。
確かにこのままじゃ公平じゃない。
既に筑紫はこの女の成績を大幅に上げさせたと噂になっているし、今の李緒君にも筑紫にも見捨てられたウチじゃ、条件が不利過ぎる。
いくら地頭に差があれど、流石にハンデが大きかった。
でも、そんなこと百も承知だ。
ウチはその不利がわかった上で、それでもこの女には勝てると思ってるだけ。
と、そこで筑紫は口を挟んだ。
「いや、それだったらレイサが負けるわけないだろ。どっちの頭が良いのか比べるなら、果子にも教えないとアンフェアだ」
「それはそうだケド。……ドーする?」
七村の試すような顔も、幼馴染のナチュラルにウチが負けると断言する態度も、全てが神経を逆なでする。
「ふん! ウチ一人でも負けないし!」
大丈夫、ウチは馬鹿じゃない。
今まではずっと学年で半分くらいだったし、今回がたまたま悪すぎただけだ。
そうだ、きっと李緒君のせいだ。
アイツがテストに出もしないゴミ情報ばっかり教えてきたせいで、今回は爆死したんだから。
別に筑紫なんかいなくても、運さえ悪くなければこんな雑魚女には負けない。
ここでウチの本気を見せて、筑紫に謝らせてやる。
「後悔しても知らないんだからね!」
ウチはそう言い残し、その場を後にした。
「いや、でも模試の結果って返却は二ヶ月後くらいだろ。先に結果が分かるのは来月の中間テストなんだから、それで競えばいいのに。……やっぱりアイツ、アレなのかな」
ウチが去った後、呆れたように幼馴染に言われていたのは、知り得ない話。