第25話 学ばない幼馴染はわからせられる
波乱の週末が明け、着々と模試は近づいてくる。
今回の目標は大きく国数英全教科100点と、思い切ったチャレンジ精神で臨むつもりだ。
息抜きや直近の好成績もあり、焦燥感は少ない。
確実に苦手な部分の復習をしつつ、並行して模試とは別の通常授業の方の予習復習も進めている。
模試を乗り越えた後、今度待ち受けているのは中間テストだからな。
進学校——もとい、難関大学志望の生徒にとって休む暇などない。
実際に目標点数が取れるかどうかはさて置き、ハードルを高く設けることで過去の弱気な自分を完全に払しょくしたいところだ。
そんな感じの意気込みで過ごしていたとある日、凪咲から連絡をもらった。
内容は、翌日昼休みの初めに自分の教室に来てくれという用件である。
凪咲のいる三組には会いたくない奴が何人かいるが、いつまでも意識しているのも馬鹿らしい。
というわけで、俺は水曜の昼前、凪咲のクラスに足を踏み入れた。
「枝野さん」
「どうしたんだよ、呼び出して」
他のクラスの慣れない視線にそわそわしつつ、声をかけてくれる凪咲の元に行く。
と、彼女は周りをチラッと見た後に苦笑した。
「すみません、場所を移しましょうか」
「そうだな」
見通しが甘かったと悟ったらしく、凪咲は困ったように眉を寄せる。
針のむしろと言わんばかりの状況に、話をする気になれなかったらしい。
というわけで俺達は落ち着ける場所を探すべく、そのまま教室を出て、人気の少ないエリアにまで足を運んだ。
しばらく校内を彷徨った後、辿り着いた特別棟廊下の窓際に並んで立つ。
ここなら誰かが不躾に眺めてくることもないはずだ。
そう言えば前にもこんな事があった。
確かあれは、初めて凪咲が俺に勉強を教えて欲しいと言ってきた日だ。
考えてみるとあれからまだ半月程度しか経っていないのだが、これまでに既に毎日の勉強会やレイサの家に泊まった事、そして先週末の打ち上げ会など、多くの時間を過ごしてきたため、なんだか長い時間を共にしたような錯覚を起こしていた。
窓から吹く心地の良い風を頬に受けつつ、俺は手すりに体重をかけて寄りかかった。
髪を靡かせる凪咲はそんな俺に笑いかける。
「教室に呼ぶのは軽率でしたね」
「雨草さんは人気だからなぁ」
「人気なのは枝野さんですよ。きっと、学年トップの私達が一緒に話しているのが気になるんだと思います」
俺にはとてもそんな好意的な視線には見えなかったが、凪咲が満足げにそう言うのでまぁ良しとしよう。
「で、用件って?」
聞くと彼女は懐からチラシを取り出した。
渡されるので見ると、どうやら塾の特別講義の案内のようだった。
「今度私の通っている塾で、高校一年生用の受験対策特別講義が開かれるんです。そしてそれが、塾生じゃない方も受けられるシステムで」
「それで、俺に?」
「はい。丁度一緒に受けるはずだった友人が用事で来れなくなってしまって。その分の席が空いているのでよかったらどうでしょうか」
毎度、俺に難易度の高い問題の解説を求めてくる凪咲だ。
今度はどんな無茶な要求をしてくるのかと身構えていたのだが、蓋を開けてみれば願ってもみない話だった。
この学校に通っている俺レベルのガリ勉で、塾に通っていない人間なんてそういない。
俺だって、金銭面の問題で通っていないだけで、可能であれば講義を受けてみたいとは思っているのだ。
だからこそ、まさかのチャンスにテンションが上がる。
「い、いいのか? こんな貴重な……」
「はい勿論。週末土曜日が空いているなら、是非私と」
「行きます!」
断る理由なんてなかった。
興奮して、つい前のめりにそう返答する俺に、凪咲は照れ笑いを浮かべる。
……そうか。
冷静に考えると、塾とは言え休日に二人きりで出かけるなんて、デートなのでは。
一瞬そんな事を考え、冷や汗が浮かんだ。
しかし、すぐに首を振る。
凪咲と一緒にいるのは今更だし、そもそも行き場は塾だからな。
いくら休日とは言え、誰がそんなところを見てデートだと思うだろうか。
馬鹿な考えは捨て去り、俺は拳を握った。
とりあえず今は棚ぼたで得た機会を楽しみにしよう。
そんなこんなで話が済んで、昼食に向かおうと踵を返した時だった。
振り向くと、いつの間にか背後に立っていた人間に気づき、俺と凪咲は口を閉じる。
そして俺は、上りきっていた口角が一瞬で元に引き戻される負の引力を感じることになった。
「ひ、久しぶりっ」
立っていたのは幼馴染だ。
最後に面と向かって話したのは、ファストフード店で俺の成績を馬鹿にされたあの日だっただろうか。
その後も無視したきりのラインのメッセージ一度があったくらいで、直接の接触はなかった人物だ。
約一か月ぶりに顔を合わせる果子に、俺は強張った。
と、そんなのお構いなしに果子は距離を縮めてくる。
無意識に身をのけぞらせる俺に、彼女は言った。
「あ、あのさ。また少し、ウチに勉強教えてくれない?」
「……えぇ」
媚びるように上目遣いで聞いてくるのは、俺に自分の要望を通す時だけの常套手段。
普段は見下した表情でケラケラ笑ってくる癖に、本当に図々しい奴だ。
ふと隣の凪咲を見ると、彼女は様子を窺うように俺を見ていた。
凪咲は俺と果子に何があったかを知らないため、どうすればいいのかわからないのだろう。
と言っても、それは正直俺も一緒なんだがな。
しかし、とりあえず俺の返事は一つに決まっている。
「嫌だよ」
「えっ?」
驚いた声を漏らす果子に呆れた。
「な、なんでよ」
「だってお前、俺が教えても聞かないだろ。それに、あの日あそこまでの事を言ってから、よく俺に教えてもらおうと思えたな」
ひと月前とは言え、忘れもしない。
成績を馬鹿にするだけに終わらず、努力を否定し、成績表をぐちゃぐちゃに丸めて嗤ったあの耳障りな声。
そして高木と一緒に散々人の心を抉ってくれた事もある。
他人の家庭の事情をネタにしてベラベラ喋る非常識さにも、こっちはまだ怒っているのだ。
目を丸くする果子の表情にもムカつく。
まるで自分が少しでも優しくお願いしたら、俺を意のままに動かせるとでも思っているのだろうか。
そもそも、だ。
高木に振られたから仕方なく俺のところに戻ってきたのが丸分かりなのも腹が立つ。
俺みたいな要領の悪い馬鹿より、高木が好きだと言っていただろ。
都合が悪くなったら鞍替え?
人の事を舐め腐っているとしか思えない。
「な、何言ってんの? ちゃんと聞くってばぁ」
「そう言われてもデータがないしな」
理系の俺は勿論データキャラだ。
心の眼鏡をクイッとすると、果子は焦ったように苦笑いした。
「な、なにそれっ。もしかして先月の事まだ根に持ってんの? じょーだんじゃんあんなの」
「本心だっただろ? 何年一緒にいると思ってるんだ。もういいから」
流石に果子のことは知り尽くしているつもりだ。
あの日の発言を無かったことにできると思わないで欲しい。
そもそも根に持つってなんだよ。
なんで俺側のせいみたいになってんだ。
と、俺の断固とした拒否に、流石に顔を歪め始める幼馴染。
「……アンタも李緒クンみたいなこと言うんだ」
「は?」
「うっさい! なんなのマジで! 帰国子女とそこの雨草さんの二人がいるから、ウチはもう邪魔ってコト!?」
「いや、別にそういうわけでは」
しおらしい態度はいとも容易く一変。
激高した果子に、俺は肩を竦めた。
別に二人がいなくとも、あんまり関わりたくないというのが本音だから、特にレイサと凪咲は関係ないんだよな。
とは言え、それを口にするのはあまりにも感情的で子供過ぎるため、抑える。
黙っていると、何を勘違いしたのか果子は笑い始めた。
「ほんとにぃ? ってか……もしかしてもう二人とそーゆー関係? なーんて、ないか。アンタクソキモ童貞だし、こんな美少女に相手にされるわけないよねっ。キャハッ」
「おい、それは流石に二人に失礼だろ。謝れ」
「うーわ! もしかしてマジで勘違いしてんのー? 学内の人気美少女にちょっと話しかけてもらったからって、非モテのくせに身の程も弁えずにさ。あー、きっも。これだから童貞は。キャハハッ」
昔は可愛らしく思っていた果子の笑い声が、今ではもう本当に心底不愉快に感じる。
確かに俺は非モテだし童貞だ。
だがしかし、線引きはしている。
少なくとも俺は、一線を引いて二人と接している。
つい先日夜にベッドでマッサージなんてさせたせいで胸は張れないが、それはそれとして恋愛的に好かれているなどと勘違いしたつもりはない。
テストで最下位を取った事や高木に振られたことを通して少しは成長したかと思ったが、どこまでも学ばない奴だという事が今一度分かった。
実に鬱陶しい。
こいつは自分に非があるとは思わないんだろうか。
「アンタって昔からそうだよねっ。いっつも女子にちょっと話しかけられたら勘違いして浮かれて、それで散々馬鹿にされてさー。学習能力?って奴が足りないんじゃないの? ほら、小学校の頃の北野ちゃんとか、中学の頃の山吉さんとか。あ、未だにあの人たちの卒アルとかでシコってそうでウケるっ」
過去の事まで掘り返され、いよいよ本格的にイライラしてきた。
下世話で風評被害にもほどがある話題を振られ、流石に冷静を装おうとしていた俺も目を細めてしまう。
そもそもレイサと凪咲の二人に対して失礼だし、その点にも腹が立つ。
今も凪咲はどんな気分でこいつの馬鹿話を聞いているのだろうか。
もう耐えられない。
ここは強く言って、もっと徹底的に拒絶しないとわからないようだ。
なんて思っていた時だった。
「撤回してください」
俺の横から出てきた言葉に、俺も果子も目を丸くする。
見ると、凪咲が珍しく怒っていた。
彼女は冷たい視線を果子に向けつつ、続きを口にする。
「自分の成績が落ちたからって、彼に八つ当たりはやめてください。枝野さんと私はそういう関係ではありませんから。訂正してから彼に謝罪を」
あまりの剣幕に、果子は目をパチクリさせた後、「じょーだんでしょ?」と呟きながら首を振る。
「……は? なにそれ。意味わかんないんだけど。あ、あぁもしかして図星でキレちゃった感じ? キャハハ、案外秀才の雨草凪咲も子供っぽいんとこあるんだね。ってかマジでこんな無能ガリ勉と寝たんだ? なんかざんねーんっ」
「いや、何を言っているんですか? それは今否定したじゃないですか」
「え」
「私と彼は互いに苦手な科目を教え合う勉強友達です。それ以上でもそれ以下でもありません。そもそも、仮に私達のどちらかが枝野さんとそういう関係だったとしても、周さんには関係ないでしょう? あなたの話には全ての論理に整合性がないのですが」
「……」
馬鹿にしたように茶化す果子は凪咲の正論で黙った。
昔から俺との口論では全てを泣き喚いて解決してきた彼女だが、流石に凪咲にそれはできなかったらしい。
ただ涙目で必死に睨みつけるだけだ。
それを見て、ハッと凪咲が慌てる。
「あ、えと。言い過ぎました……」
「なんなのマジ。どいつもこいつも意味わかんないんだけどぉ」
論破でわからされた果子は、半泣きでそんな言葉を口にした。
随分弱い返しにもう失笑するしかない。
いつから俺の幼馴染はここまで馬鹿になったんだろうか。
まさか、甘やかし続けた俺のせい?
ふざけた思考に行きつき、ため息を吐く。
普通の奴ならここまで人生上手くいかないと、流石に学ぶはずなんだけどな。
不幸なことに、昼休みはまだ始まったばかりである。