第23話 ヤりに戻ってきた帰国子女
午後十時前、俺は二人を見送ってから家の片付けをする。
今日は久々に遊ぶことに全集中したおかげで、心から楽しめた気がした。
ずっと頭の片隅に勉強がチラつく生活をしていたため、こういう機会は本当に久しぶりだ。
これを境に、また明日から勉強に専念できる気がする。
「英語、もうちょっと本腰入れてやるかな」
二人との会話で話題に挙がった海外について、ちょっと興味が湧いてしまった。
今はまだ気が早いが、実際に現地に行く時のために、英語は受験対策だけでなく、その場で使えるような知識を蓄えた方が良いかもしれない。
結果としてそれが成績にも結び付くだろうし、悪くない勉強法だ。
二人が帰ってから少ししか経っていないが、静かになった部屋が何だか物寂しい。
余韻が残る室内に苦笑しつつ、そのまま洗った台拭きをかけようとした。
と、そこでタイミング良く鳴るインターホンの音に俺は首を傾げる。
「なんだろ。どっちかが何か忘れものでもしたかな」
思い当たるのは荷物忘れくらいだったため、そんな事を呟きながら玄関に向かう。
ドアを開けると、案の定そこにはレイサが立っていた。
心なしか緊張したような顔で突っ立っていた彼女は、開く玄関にぎこちなく笑みを浮かべる。
「忘れ物か?」
「ンー、まァそうとも言うネ」
「なんだそれ」
立ち話もアレなので部屋に入れると、彼女は何かを探す素振りもなく、バッグを置いて椅子に座った。
「……え、どうしたんだよ」
「忘れてたコトをヤりにきたんだよ」
なんだかイントネーションがおかしいせいでいかがわしく聞こえたが、気のせいだろう。
とりあえず俺も彼女の向かいに座りつつ、聞く。
「雨草さんは?」
「家の人間に先に送らせてる」
「ふーん。で、忘れてた事って?」
聞くと、彼女は顔を赤くしながら、にんまりと笑った。
「前から約束してるアレだよ。だいぶ遅れちゃったケド、小テストのお礼、今からしちゃうネ?」
「……お、おう」
夜も更けてくる中、俺はそんな彼女の言葉になんて返したらいいかわからなかった。
曖昧に頷いた俺に、レイサは薄く微笑む。
どうやら、今日はもう一山あるらしい。
◇
時は少し前に遡る。
筑紫の家を出た後、レイサは隣を歩く凪咲に聞こえるような焦った声を出した。
「ア、ヤバ。アタシ忘れ物してた」
「取りに戻りますか?」
「そうだネ。……デモ、時間も遅いし、ナギサは先に帰ってていいよ」
「え、でも」
一人で戻ると言うレイサに凪咲は少し困惑した。
だが、お構いなしにレイサはすぐスマホを取り出し、迎えを呼ぶ。
ほどなくして、その場に凪咲も見知った女子が現れた。
「西穂ミカさん」
「こんばんは。雨草凪咲さん」
レイサによって呼び出された迎えはミカであった。
彼女が七村家のメイドであることは凪咲も知っていたため、さして驚くことはない。
ただ、あまりにも急で強引な展開に、凪咲は首を傾げざるを得なかった。
まるで最初からこういう手筈でミカを呼び、一人で筑紫の家に向かう作戦を立てていたのでは?などと勘ぐってしまう。
「じゃあそういう事だから! ミカ、送ってあげてネ」
「承知いたしました」
あっという間に走り出して去ってしまうレイサに、凪咲とミカは顔を見合わせた。
「では、行きましょうか」
「は、はい」
凪咲は聞きたいことが山ほどあった。
ミカと二人で話す機会はそうなかったし、どういう関係でレイサと一緒にいるのか、凪咲も興味があったのである。
だから沈黙に耐えられなくなった凪咲は、ミカに聞く。
「……あの、なんでレイサさんの家でメイドを?」
「初めは少し複雑な家の事情でした。しかし、今は自ら望んで働いていますよ。……実は労働条件に対して、かなり待遇や報酬が良いもので」
「ふふっ。そうなんですね」
「えぇ。レイサ様の無茶に付き合うだけで相場の十数倍は稼げます。バイト禁止のうちの学校でも口出しできない領域ですから」
なんだか思ったよりフレンドリーな人だと、凪咲は感じた。
学校ではあまり他人と話している姿は見かけないため、冗談を混ぜた話口調に少し驚く。
と、そんな彼女は不意にグイッと凪咲に近づき、暗がりの中、その整った顔を凝視した。
「え、えっと?」
「唐突で申し訳ないのですが、一つ質問が」
「はい、答えられる事なら」
「枝野筑紫に対して、どう思っていますか?」
ド直球な質問に、凪咲は頬を赤らめる。
「ど、どうって言われても、男の子の友達なんか初めてだからよくわかんない、です……。頭が良くて優しくて、良い人だと思いますけど」
「……それだけですか?」
「と言うと?」
凪咲はミカの言わんとする意図が読めなかった。
本当に心の底から下心がなかったため、得意の行間読みが上手く作動しなかったのである。
それに対し、ミカは眉を顰め、もう一段階踏み込んだ質問をした。
「例えば、レイサ様が今後枝野筑紫と付き合ったとして。あなたは何も感じずに今の関係でいられますか?」
「……」
黙る凪咲にミカは歩みを止める。
レイサの恋の成就において、最大の障壁はこの雨草凪咲であると、ミカもレイサ本人もそう思っていた。
だからこそ、凪咲が本心で筑紫をどう思っているのか、ミカは自身の立場を利用して調べようとした。
少しでも自分の質問に動揺しようものなら、嘘を吐かれても真意を読む自信もあった。
だがしかし、だからこそミカは凪咲の反応に混乱することになる。
凪咲は苦笑しつつ、意味が分からないと言った表情で聞き返した。
「え? あの二人って、既に付き合ってるんじゃないんですか?」
「——は?」
ミカはこの日、生まれて初めて自分の読みを外した。
想定外の返しに、思わず素で驚いた声が漏れてしまう。
きょとんとする凪咲に、取り乱していたミカは咳払いをした。
「すみません、私の見解とは少し違うようでしたので」
「そ、そうなんですか? でもレイサさん、以前私が付き合ってるのか聞いた時に否定しなかったんですよね。それに、あの仲の良さですし、交際していると思っていました」
「……失礼」
ミカは凪咲に背を向けると、しゃがみ込んで頭を抱える。
そしてそのままレイサが走って行った方角を向き、目を見開いて首を振った。
「レイサ様……またテキトーなことを。勘弁してくださいよ……」
自分の主人の誤魔化しのせいで、あらぬ勘違いを招いていたこと。
そしてそれが今後の三人の関係にどう影響を及ぼすのか、想像もつかないこと。
さらに、そんな状況下においても、恐らく主人は自分に無茶ぶりを要求するだろうこと。
彼女はそれらの事実に膝から崩れ落ちた。
「あの……ミカさん?」
「あぁ、はい。私もよく知りませんでした。あの人達、付き合ってたんですねー」
「? お似合いですよね!」
「私もソウオモイマス」
ミカは暗闇の中、主人そっくりな片言で返事をした。
今日も帰国子女のメイドは尻拭いに明け暮れる。