第11話 借りを返そう
時刻は午後十一時前。
一旦凪咲がトイレで席を立った時、俺はレイサに言う。
「レイサさんさ……仮にも学校随一の清楚美少女に、ハードな振りは控えろよ」
「じょ、冗談だったンだっテ。あんなガチ照れされると思わなかったノ。アタシも反省してる」
言わずもがな、先程のえっちなお礼の件だ。
聞いている俺もそわそわしたが、あんな繊細そうな子に振る話題としては些か背徳感があり過ぎる。
注意するまでもなく、流石に本人も反省していたらしい。
勉強の跡が残る書きなぐったノートに肘をつき、レイサはシャーペンを唇の上に挟んだ。
テーブルには差し入れでもらった紅茶の湯気が立っている。
あれから凪咲と英語を勉強した後、三人で数学の復習をし、そして凪咲の超有益な国語の授業まで受けた。
なんだかんだでみっちり勉強した、濃密な数時間だった。
メモを取ったノートを見返していると、レイサが口を開く。
「あの、サ」
「ん?」
「ツクシーって、アタシと初めて話した時のコト、覚えてる?」
聞かれて少し考える俺。
はて、初めてとは一体いつの事を指しているのだろうか。
同じクラスにいるわけで、レイサと言葉を交わしたことはこれまでも数回はあった。
だがしかし、全て事務的なモノか相槌程度。
それを会話というには、陰キャ過ぎてドン引きされそうである。
「この前、小テストの前にレイサさんが話しかけてくれた時か?」
日和った俺は、そんな事を口にした。
しかし、レイサはそれを聞いてふっと薄く笑みを零す。
「それじゃないよ。もっと前のコト」
「……」
「アハハ、覚えてないならいいンだケドネ」
「なんだよそれ」
聞いてきた割にはぐらかされて困惑する俺。
しかし、レイサは心なしか顔を赤くしながら紅茶に口をつけて黙った。
どうやら話は終了らしい。
なんとも気になるところでの打ち切りである。
と、そこで一つの場面が頭をよぎった。
そう言えば、入学初期にレイサと一瞬絡んだことがあったのだ。
偶々移動教室で隣の席になった物理の授業でのことだ。
「春に、レイサさんが授業で当てられて困ってた時、答えを教えてあげたことがあったな」
言ってすぐに、後悔した。
なんだか恩着せがましい上に、わざわざ覚えていて掘り返すあたりが妙にウザい。
しかし恐る恐るレイサの方を見ると、彼女は今日一にこやかな笑みを張り付けていた。
「フーン、そんなことあったッケ?」
「覚えてないのかよ」
「さァ、どうでしょう。……アハハ。冗談はさて置き、あの時は助かったよ。未だに命の恩人だと思ってる」
「いや覚えてるんかい」
一転二転するレイサの言葉に自然と笑いが漏れる。
しかも、なんとも大げさだ。
授業中に指名されて答えに詰まったくらいで死んでいたら、堪ったもんじゃないだろう。
でもまぁ、そうか。
レイサは帰国子女で、日本の進学校の温度感に慣れていない。
地元一番という事でうちの高校に入ってくるのは、各中学の頭自慢ばかりだ。
当然入学当初は、その中で自分がどの辺りかという見極めが水面下に行われていたし、そんな状態だと授業内の受け答え一つにも緊張するかもしれない。
最初の最初で馬鹿のレッテルを貼られると、一生擦られかねないし。
「ニヒヒ~」
ご満悦で笑うレイサ。
こいつの場合、そんなの関係なく結局赤点女王として校内に名を轟かせているため、悪い意味で杞憂だったようだが。
「……ツクシー」
「ん?」
「これからも一緒に居てネ」
「あぁ。もう既に俺はレイサさんの家庭教師みたいなもんだからな」
いつの間にか寝落ち寸前のレイサの間抜け面に、俺はそう返す。
なんとも、気の抜けた顔も端正で綺麗なのが不思議だ。
◇
その日の夜中のことだ。
少し寝苦しかったため、俺は部屋を出てトイレの方に足を運んだ。
九月に入ったとはいえまだ暑く、寝るには少々気合がいる季節。
勉強で疲れた脳を癒すべく、少し部屋の外の空気を吸いたかった。
用を足して廊下に出ると、そのタイミングで丁度凪咲と遭遇した。
「寝苦しい夜ですね」
「あぁ。冷房完備だからうちと比べたら最高だけどな」
「ふふ。私は慣れない服に少し意識が引っ張られてしまって」
どうやら寝巻が変わると寝付けないタイプらしい。
確かに、言われてみれば俺もそうだ。
感触だけでなく、匂いが変わっても落ち着かない。
「少し、話しませんか?」
「あ、うん」
言われて頷くと、彼女は窓際に立って夜空を眺める。
「えっちなお礼って、どういうものが好みですか?」
「ぶふおぉッ!?」
あまりにも唐突で流れるようなぶっこみに、つい咳き込んでしまった。
何を言っているんだろうかこの美少女は。
突然の事にパニックになり、俺は口を開けたり閉じたりすることしかできない。
何も言葉が出てこない。
どうすればいいんだ。
と、照れたような表情の凪咲が微笑む。
「ふふ、冗談です。揶揄いたくなってしまって」
「あのなぁ。ただでさえレイサさんだけでも手に負えないのに、学内人気屈指の美少女二人から弄ばれる俺の気にもなってくれよ」
「両手に花というやつです」
「よく言うよ」
自分で言っても嫌味にならないのが恐ろしい。
あと本人は冗談のつもりなのだろうが、傍から見たら今の俺はまさにそんな感じである。
そりゃやっかみも受けるわけだ。
思わぬボケに雰囲気が和やかになった。
勘違いしていただけで、雨草凪咲という女は案外ただの高嶺の花ではなく、お茶目な一面も持ち合わせていたらしい。
と、そんな時だった。
「一つ、気になっていたことがあるので尋ねてもいいですか?」
「あ、あぁ。答えられる事なら」
不意にそんな事を言われ、若干戸惑いつつも頷く。
というのも、凪咲の目が少し真剣な色を帯びた気がしたからだ。
俺の返事に、彼女は口を開く。
「……答えたくなかったら大丈夫です。幼馴染の周さんとは、何があったんですか?」
「……」
想像していたものより、数段ヘビーな話題を振られて思わず固まってしまった。
そんな俺に、凪咲は気まずそうに目を伏せる。
「ごめんなさい。困らせてしまいましたね」
「いや、別にいいんだよ。気まずいのは、俺が君に家庭の話を聞いた時もそうだったからおあいこだろ」
とは言え、正直凪咲に果子とのいざこざを話すのは避けたい。
愚痴っぽくなるし、それはなんだか格好良くないから。
俺はもうあいつの事なんかどうでもいいし、特に他人に話して共感してもらいたいだなんて——まして、慰めてもらいたいだなんて微塵も思っていない。
これは俺一人でどうにかする問題だ。
その上で、いつか見返す。
散々馬鹿にされたこの頭で夢を叶え、いつか笑ってやりたい。
そのくらいだ。
だから、凪咲にはその代わりに俺の境遇の話をすることにした。
俺が何故ガリ勉強になったのかという生い立ちを、丁寧に馬鹿正直に話す。
それを凪咲はゆっくり聞いてくれた。
そして。
「……ふふ。お医者様を目指していたんですか。立派ですね」
「そうかな」
「そうですよ。私が勉強する理由とは、全然違いますから」
そう言う凪咲に、俺は追及すべきか考える。
だがしかし、あまり踏み込み過ぎても重すぎたら聞いて後悔しそうだ。
自分だって絶妙にはぐらかしているのに、相手にだけ聞くのもアンフェア。
そんな事を考えて、俺は別の事を口にした。
「でも、目指すところは一緒だろ、俺達」
「そうですね。まずは高木さんを倒すところから」
「アイツには個人的に借りもあるし、譲れない戦いだからな。そのためには雨草さん、君の力も貸してもらうよ」
「ふふ、私で良ければ」
来週のテストで高木に勝って、この前の煽りの分を清算する。
そんでもって馬鹿にしてきた幼馴染も一緒に、見返してやるんだ。
例え望みは薄くとも、やるしかない。
凪咲と同様、俺も目指す場所は学年一位のさらに上にあるのだから。
不思議なものだ。
つい最近まで高木は愚か、成績上位なんて遠く感じていたんだけどな。
小テストでの満点といい、レイサに肯定的な意見をもらい続けている環境といい、恵まれ過ぎたおかげで自信が湧いてきてしまっている。
なんだか、今の俺ならあの高木にも勝てる気がしなくもなくなっているのだ。
そうとなれば、こうしてはいられない。
「じゃあ俺は部屋に戻って勉強してくるよ」
「今からですか?」
「あぁ。ちょっとやる気が湧いてしまってさ」
「夜更かしはあまり効率がいいとは思えませんが……」
凪咲は眉をハの字に寄せ、困ったように苦笑する。
「私も負けません」
「お、おう」
「それではおやすみなさい」
踵を返して寝室に戻っていく凪咲の後ろ姿を、俺はぼーっと見た。
そして疑問に思う。
負けないとは、一体何に対してなのか。
「まさか、テストで俺の成績にって事か? いやいや、んなわけあるかよ。向こうは英語以外完璧に近い学年2位の秀才だぞ。ちょっと仲良くなったからって、浮かれ過ぎだ」
一人でボソボソ言って、ため息を吐く。
どうやら初めてのお泊まりで、柄にもなくテンションが上がっているらしい。
落ち着いて、もうひと頑張りしてから寝よう。
俺は頬を叩くと、気合を入れ直した。
◇
それから時は過ぎ、運命の実力考査がやってくる——。