王女の失った恋の行方
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「アルウェン王女殿下、私などいかがですか? 最年少で近衛騎士団長に昇格も決まりました。殿下を側でずっとお守りします」
元婚約者と他国の王女の結婚式の帰り道。馬車の中で静かに泣いていたアルウェンに、跪いて手のひらに口付けまでくれたランベール。
平時であれば頬を少しばかり染めたかもしれない。でも、アルウェンはランベールの手を振り払った。まだ心からは血がジクジク出ていたから。彼は一瞬だけ傷ついたような表情を浮かべたものの、何も言わずにそのまま護衛を続けた。その表情にアルウェンも傷ついた。
王女アルウェンの婚約者は公爵家の令息だった。幼い頃から婚約していたので、ずっと彼と結婚するのだとばかり思っていた。しかし、関係の悪かった隣国の国王が代替わりして関係強化に舵を切ってきた。手っ取り早く関係を深めるなら、政略結婚は最も良い手段である。
てっきり王女であるアルウェンが嫁ぐのかと思ったが、隣国には王女しかいない。こちらの国に王子は現王太子だけだ。そこで、年齢的にもつり合いが取れると白羽の矢が立ったのがアルウェンの婚約者だった。公爵家は何度か王女が降嫁している家で、王家の血も入っている。
アルウェンと彼の婚約は解消され、彼は隣国に婿入りすることになった。将来は王配の座が約束されている。あちらからは第二王女が嫁いでくることになった。
愛というほど強く求めあうものではなかった。幼い頃から育てた小さな小さな恋だった。それをあまりに突然失ったから、心がついていかなかったのだ。
アルウェンは王女だからと傲慢であったことはないつもりだった。でも、望んだものはすべて手に入ってきたのだ。彼との婚約以外は。これはアルウェンにとって初めての挫折だった。手にしたものが「国のため」という大義の元に奪われて指の隙間から零れていった瞬間だった。
両国の関係が良好だと示すために、元婚約者と第一王女の結婚式にはアルウェンも参列しなければいけなかった。そして帰って来て高熱を出して寝込んだ。
そこから周囲はアルウェンを甘やかした。
みんな、こういう悲しい恋の話が好きなのだ。国益のために引き裂かれた、幼い頃から婚約していた王女と公爵令息の話が。
「王女殿下の側にはいつも騎士団長がいらっしゃいますね」
王妃主催のお茶会にアルウェンが出席していると、参加者の高位貴族からそんなことを言われた。
アルウェンの婚約が解消となって一年。まだアルウェンの婚約者は決まっていない。そして、その間にランベール・シュナイダーは最年少で近衛騎士団長に就任した。
「そうかしら?」
「はい。ほとんど毎日王女殿下の護衛をされていらっしゃるではないですか」
「あら。あなたは、そんなに私のことを見てくださるほど私が好きなのね」
ランベールは令嬢にとても人気がある。
一介の騎士だった頃から人気があったが、最年少で近衛騎士団長になってからはその人気に拍車がかかった。ゆるくウェーブした暗めの赤毛に褐色の肌、アルウェンよりも四つ年上、細身で長身。
そう、これはアルウェンに対する遠回しの皮肉だ。明らかに次はランベールと婚約しそうなのに、まだしないアルウェンへの。王女が降嫁できる家は限られる。そしてアルウェンの婚約が解消された時から、そんな家はもうシュナイダー侯爵家しかなかった。
「でも、私に護衛のローテーションを決める権限はありませんから」
恐らくこれは王太子である兄の差し金だろう。近衛騎士団長に王女の護衛ばかりさせるなんて。アルウェンは紅茶を口に含んでから暗に「文句なら王太子か陛下に言え」と滲ませた。
アルウェンがランベールの求婚の手を振り払ったのは、結婚式からの帰りの馬車の中だ。
でも、アルウェンは王女なのだ。アルウェンがどれだけ彼の手を振り払っても国王が「婚約しろ」と一言口にすれば婚約しなければいけない。
元婚約者との婚約が解消された時もそうだった。すべて決定した後に伝えられた。だから、アルウェンの次の婚約だってそうだろう。
次の婚約は途中で解消されないといい。元婚約者とは幼い頃に婚約したから、うっかり何も考えずに心を預けてしまった。
「私の次の婚約を決めてください」
アルウェンはその夜、晩餐の席で父に願った。
「茶会で何かあったのか」
「いいえ、対処できる範囲内です。ただ、私の婚約がこれ以上決まらないならいらぬ憶測を呼ぶでしょう。それとも、私は国外に嫁ぐのですか?」
「その予定はない。では……いいのか」
「はい」
いいのかとは、元婚約者で傷ついた心がという意味だろうか。
それなら、事前に教えて欲しかった。彼との婚約が隣国との関係で解消になりそうだと伝えて欲しかった。そうすれば、覚悟くらいできたのに。あの馬車の中で幼稚に泣いて、手を振り払ってランベールを傷つけなかったのに。
「では、お前とランベール・シュナイダーとの婚約を整えよう」
「はい」
もうランベールは私の後ろにいない。勤務を終えているからだ。彼ではない騎士が私の後ろについている。
アルウェンとランベールの婚約が発表されても、ランベールは特に何も言わなかった。一週間たったある日、アルウェンはとうとう歩きながら聞いた。
「ランベールは良かったの? 私との婚約は」
「もちろんです。敬愛する王女殿下ですから」
その言葉でアルウェンはなぜか泣きそうになった。
城の庭を歩いていたが、しゃがみこむ。
「殿下? 体調でも?」
ランベールが声をかけてくるが、アルウェンは足元のシロツメクサをプチリとちぎった。
幼い頃、元婚約者とここでよく遊んだ。その時、彼はシロツメクサの指輪を作ってくれたのだ。うまくアルウェンの指には嵌まらなかったが。
「殿下はよろしいのですか? 私と婚約して」
ランベールは珍しく前に回り込んできて、同じようにシロツメクサを摘んだ。
「私の婚約は父が決めることよ。父に従うわ」
しばらくプチプチとシロツメクサを摘む音が響く。ランベールの他に私の護衛についているもう一人の騎士は後ろに立って困惑顔だ。
「実は殿下の婚約が解消されると決まった時、国王陛下から殿下との婚約を打診されておりました」
アルウェンは思わず手元のシロツメクサを握りつぶした。婚約が解消されると決まったのは一年前だ。そんなに前から決まっていたならなぜ? なぜ一年も父は新しい婚約について何も言わなかったの? それほど傷ついているように見えた?
「私はずっと殿下のことをお慕いしていました。だから嬉しかったのです。しかし、あまり表情を出されない殿下が馬車の中で泣くほど傷ついておられた。それで、殿下の心が癒えるまで待って欲しいと勝手ながらお願いしました」
アルウェンは思わずランベールを見た。いつも彼はアルウェンの後ろに立っている。正面から見つめ合うことは珍しい。
ランベールもアルウェンを見返してくる。しゃがんで、シロツメクサに手を伸ばしながら。
「勝手なことを、しないでちょうだい」
「申し訳ございません」
「……じゃあ、馬車の中で求婚したのはそれがあったからなのね」
「はい。調子に乗っていました。騎士団長に就任が決まっていたのは殿下との婚約は関係ありません。その前からです。それに重ねて、殿下との婚約を打診されて舞い上がっておりました」
アルウェンはシロツメクサを持ったまま立ち上がった。ランベールも合わせて立ち上がる。
「殿下の心は癒えましたか?」
ランベールの足元にはシロツメクサが散らばっている。
アルウェンの手を彼はそっと取って指先に口付けた。
「元々傷ついてなどいないわ」
「それはあり得ないでしょう。殿下は間違いなく、あの時泣いていらっしゃいました」
「それはそうよ。元婚約者が私には見せたことのない顔で王女殿下に微笑んでいたのだから」
そう、アルウェンはそれで最も傷ついた。幼い頃から一緒にいたはずの元婚約者。何でも知っている、分かっているとうぬぼれていた。でも、彼は隣国の王女の前で頬を染めて笑っていたのだ。アルウェンにはそんなことしなかったのに。
なんてアルウェンはみっともないのだろう、これではお気に入りの玩具を奪われた幼児の方がマシな反応をする。
「ずっと結婚するとばかり思っていた人が目の前で他人と結婚する気持ちなど分からないでしょう?」
意地悪なことを聞いてしまった。こんな思い、誰もしなくていいのに。王女だから国益のために真っ先に婚約を解消しないといけないのは、頭で分かっているのに。
「ずっとお慕いし続けていた方が目の前で別の男と結婚したとしても。私は殿下が幸せで笑ってくださればそれでいいと思っていました」
「あなたは忠誠心と慕う心をはき違えているんじゃなくて?」
「では、私は国王陛下にも王妃殿下にも王太子殿下にも求婚しなければなりません」
「私の妹は?」
「そうですね、王女殿下にも」
ランベールはアルウェンの方に一歩近づいて来た。少し顔を動かして後ろを見ると、もう一人の護衛が素早く首を振って色々な方向を見ていた。彼はランベールの部下だ。部下の前で一体何をやっているのか。
「近いわ」
「もう婚約者なのですからいいではないですか」
「職務中でしょう」
「あの時も、私は職務中でございました」
アルウェンはまた後ろを見た。もう一人の護衛はちょっと泣きそうになっている。それはそうだろう、上司と王女のこんな場面を見せられても護衛をし続けなければならないのだから。不必要なほど周囲を気にしている。
「殿下。今は私に集中してください」
「人目があるから集中できないわ」
「他人の目があったらなんだというのですか?」
ランベールの手が伸びて頬に添えられて、彼の方を向かされる。
彼の髪はいつの間にかかなり伸びていた。以前はとても短く、額も見えていたのに。今ではウェーブがかった前髪が額を覆い、後ろは詰襟のところまで髪の毛が到達している。
「もう彼のことで傷ついていないわ。周囲があまりに勝手に気を遣うだけよ。傷ついていないと言っても信じてもらえないの」
「本当ですか?」
ランベールはアルウェンが抱えているシロツメクサを一つ摘んで、指輪にすると指に嵌めた。
「うまいのね」
「たくさん練習しました。この日のために」
その指に口付けるのかと思ったら、ランベールはあの日のようにまた手のひらに口付けを落とす。後ろの騎士は絶対に困っているだろう。
「後ろの騎士が気になりますか? 彼は私の部下です。つまり、彼が変なことを吹聴すれば稽古がとんでもなくきつくなります」
後ろで声にならない悲鳴が上がった気がした。
「もう傷ついてはいないの。ただ、怖いだけ」
「私が怖いのですか?」
ランベールは手のひらに口付けを落としながら上目遣いに聞いてくる。アルウェンの心臓はかすかにいつもと違う音を立てた。
「もう一度無防備に心を預けて、泡のように何もなかったことになるのが。だから私はあなたに心を預けたくなどないの」
どうせ婚約解消するなら早く教えてくれれば良かったのに。可能性の段階で言ってくれれば、心を取り戻せたのに。自分のこれまでが全部否定されたような気持にならなくて済んだ。
「そうじゃないと、私は幼稚な子供みたいにまたランベールを傷つけるわ。私はそれがとても怖い。なによりも私はあなたを一度傷つけた」
「しかし、今日殿下は私の手を振り払っていません。こんなことはやめろと命じてもおられません」
「婚約もするし、結婚もする。でも心は預けたくないの」
「手のひらへのキスが何を示すか、ご存知ですか?」
ランベールの問いにアルウェンは首を横に振った。
「懇願です。求婚でもありますが。私はあの日からずっと殿下に愛を乞うているのです」
アルウェンの手は勝手に震えた。目を伏せると、ランベールがさらに近づいて来た。もうほとんど隙間がない。
「職務中なのに……近いわ」
「殿下の心は私に預けなくて構いません。代わりに私の心を預かってください」
もう一人の騎士の方を見ようとして、ランベールが自身の赤いマントを広げて視界を遮るので見ることは叶わなかった。
「私は殿下が笑ってくださるだけで幸せなのです。一番近くで殿下を守らせてください」
怖かった。ランベールはこんなことをあの日も言ってきたから。
どうせまたアルウェンは、今度はランベールに心を預けそうになるのだ。すっと涙が落ちる。怖くて怖くてたまらない。元婚約者との婚約解消ではなくて、次に進むのが怖くてたまらない。
「また、あなたを傷つけるかもしれない」
「私を傷つけられるのは相当手練れの暗殺者か、殿下だけでしょうね」
ランベールの言葉にアルウェンはほんの少し笑みをこぼした。
「殿下の心も一番近くで守らせてくださいませんか」
アルウェンの手は緩く握られたままだったが、今日は振り払えなかった。
本当は分かっている、あの日からずっと。ランベールに跪かれて嬉しかった。いつも守ってくれた騎士の熱い視線を受けるのは、心が別の意味で震えた。でも、傷がかさぶたにさえなっていなかったから怖くてその手を振り払った。それがまた新しい傷になった。
「ただ一つ、お約束ください。こういうことは今後私とだけなさると」
マントで隠しながらランベールが顔を近付けてくる。アルウェンはその意味を理解して目を閉じた。傷つく前に持っていた純粋な思いが唇から戻ってくる気がした。