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苦手な方はご注意ください。

短編小説(異世界恋愛)

悪妻は百年の豊作

作者: 三羽高明

「ベサニー、お前とは離縁させてもらう。妻としての義務を怠るような奴にもう用はない。一週間以内に荷物をまとめて出ていけ」


 夫からの突然の通告に、作業台に向かっていたベサニーは煤で汚れた顔を上げた。


「ゲイルさん……何の話をしているの?」


 妻としての義務を怠った、などと批難されてもベサニーにはピンとこなかった。


 それどころか、彼女はこれ以上ないほどに夫に尽くしているつもりだった。今し方メンテナンスを終えたばかりの魔法具や、特殊な容器に入れて厳重に保管してある魔法植物の種などに目をやる。


 だが、ゲイルはそんな妻に侮蔑の視線を送った。


「俺の身にもなってみろ。たまに領地に帰れば、待っているのはお前のようなだらしない女だ。いつ見ても顔には何だか分からない汚れがついているし、髪はボサボサ。体からは油やら薬品やらの匂いがして近づく気にもなれない。これがうんざりせずにいられるか」


「そんなこと言われても、お仕事が忙しくて身なりを整えてる暇が……」


「口答えするな。年を取ると頑固になるからいかんな。お前、自分が今いくつか考えたことがあるか? 女房と何とかは新しいほうがいいという言葉もある。俺は古女房を捨て、若く美しい娘を妻とする。そう決めたんだ」


 あまりにも身勝手な理屈を述べて、ゲイルは去っていく。


 ベサニーの「待って!」という言葉に返事をするように、大きな音を立ててドアが閉まった。



 ****



 抵抗虚しく、ベサニーは離縁された。


 実家に帰った彼女に対し、両親は「早く次の相手を見つけろ」とせっつく。こうしてベサニーは、不慣れな社交の場に日夜出席するようになった。


 だが、それは彼女にとっては苦痛な日々の始まりだった。


「あの方がベサニーさんね」


「ひどい浪費癖があるそうよ!」


「分かりもしないくせに夫の仕事に口出しして、邪魔ばかりするとか」


「ゲイルさん、とってもお気の毒だったわねえ。あんな悪妻と十年以上も暮らしてたなんて」


 パーティーの会場にいる皆がベサニーを遠巻きに見つめている。聞こえてくるのは悪口ばかりだ。


 どうやら前夫は周囲にベサニーの悪評を吹き込んでいたらしい。きっと今回の離婚の正当性を主張するために、前々から準備していたのだろう。


 だが、屋敷にこもりきりで滅多に人前に出ないベサニーは、そんなことになっているとはまるで知らなかった。根も葉もない噂の数々に深く傷つかずにはいられない。


(私がいつ浪費なんかしたっていうのよ。あんなに贅沢と縁遠い生活はなかったわ)


 ベサニーは唇を噛む。


(確かにゲイルさんのお仕事に横やりは入れたけれど、それはあの人が領主としての役目を果たしていなかったからだし……)


 ベサニーはこれまでの結婚生活を思い返す。


 元々、前夫の家は貧しかった。領民のほとんどは農民なのに、土地が痩せていて作物があまり取れなかったためだ。


 だが、領主であるゲイルは何もしようとしなかった。彼にとっては領地の経営より、遊び歩くほうが重要だったのだ。


 だからベサニーが立ち上がった。妻として、何としてもこの状況を打開してみせると意気込んだのである。


 ベサニーが取った方法は、魔法具を使用した農業改革だった。彼女は昔から機械いじりが好きで、よく魔法具を作っていたのである。


 紆余曲折はあったが、ベサニーの作戦は成功した。魔法具の力で枯れた土地でも充分な量の作物が取れるようになり、領地はみるみる豊かになっていったのだ。


 その分、ベサニーは魔法具のメンテナンスやら運用計画の立案やらで相当な苦労を強いられたのだが、この成果を夫も喜んでくれているだろうと思って満足していたのである。


 だというのに、今回の仕打ちだ。


(私……何かいけないことをしてしまったのかしら?)


 壁際に設置された鏡を見る。お世辞にも上手とは言えないお化粧に、ちぐはぐなコーディネート。メイクも服選びも自分でしたのだけれど、やっぱりやめておけばよかったと後悔する。


 離婚前のベサニーは仕事に忙殺されて、オシャレなんかしている余裕はなかった。服はいつでも作業着だし、どうせ汚れるのだからメイクをしても仕方がない。そんな生活を送っていたせいで、見た目に無頓着になっていたのだ。


 鏡の中にいるのは、苦労の絶えなかった結婚生活に疲れ果てた三十路越えの女だった。前夫に「古女房」と言われたことを思い出して涙が出そうになる。


(……だめだめ。ゲイルさんの言うとおり、私、もうおばさんだもの。泣いてちやほやされるのは若い女の子だけよ)


 ベサニーは人気のないバルコニーに出る。ふう、と息をはいた。


(両親は私の再婚を望んでいるけれど、この年じゃそれも難しいでしょうね。それに、悪妻の評判も立っているし。こうなったら、このまま独り身でいるほうがいいのかもしれないわ)


 ベサニーは努めて前向きになろうと努力する。


(きっと私に結婚は向いてないのよ。一人でいるほうがいいんだわ。よく考えてみれば、独身なら好きなことし放題じゃない。これからは魔法具を自由に作れるのよ!)


「ベサニーさん」


 隣に知らない男性がやってきて、声をかけられる。


 男性は知的に整った顔立ちをしており、黒髪を綺麗に撫でつけていた。年はベサニーとそう変わらなく見えるが、澄んだ緑の目は少年のようだ。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 親しげな表情を向けてくる男性に、どこかで会ったことがある人だろうかとベサニーは首を傾げた。


「初めまして。私はスフィアン・ネイミックといいます」

「……スフィアン・ネイミックって、あのスフィアン・ネイミック!?」


 ベサニーはつま先から興奮が押し寄せてくるのを感じた。


「先月の学芸雑誌に掲載されていたコラム、読みました! 魔法植物の未来を広げてくれそうな内容でとても興味深かったです! それだけじゃなくて、魔法具の改良のアイデアもたくさん湧いてきてもう最高! さっそく不眠不休で作業を……」


 早口でまくし立てていたベサニーはハッとなる。「す、すみません……」とうつむいた。


(嫌だわ……なにをはしゃいでいるの。いい年して落ち着きがないと思われちゃうわ)


 スフィアンは高位の貴族であり、魔法植物を研究する学者でもある。ベサニーが彼のことを知ったのは前夫と結婚後、農業について学び始めてからだった。


(スフィアンさんが書いた魔法植物の本は初心者にも分かりやすくて、本当にお世話になったわ。私、密かにファンだったんだけど……暴走しすぎたわね)


 うっかり「サインください!」とねだらなくてよかった。ベサニーはそろそろと顔を上げてスフィアンのほうを見た。呆れられているかも、と心配していたのだが、彼は穏やかな表情をしている。


「読者の声を聞かせていただけるなんてありがたいです。ベサニーさんは本当に魔法具がお好きなのですね」


「はい、大好きです!」


 ベサニーは少女のように元気よく首を縦に振ったが、我に返って「いえ、そんなことは……」と目を泳がせる。


「私はその……実は、もっと大人の女性らしいもののほうが好きなんですよ」

「たとえば?」

「え……」


 そんなことを言われても困る、とベサニーは固まった。大人の女性が何を好むのかなんて彼女は知らなかった。


(少なくとも、魔法具じゃないことだけは確かね。ああいうのに熱中するのは、小さい男の子かマニアのおじ様だけって皆思ってるし……)


 前夫がベサニーの仕事を理解しなかったのも、そういった背景があったからだろう。


「わ、私は……お、お化粧とか、お歌とか、ドレスとか……そ、そういうのが好きです」


 ベサニーの発想力では、大人の女性のたしなみといえばこれくらいしか思いつかなかった。冷や汗が止まらない。


(ああ……私ってすごいバカだわ。このひどいメイクと服装を見たら、嘘ついてるって一瞬でバレるじゃない)


 先ほどから墓穴を掘ってばかりである。落ち込むベサニーだったが、スフィアンは「そんな趣味もあるのですね」とフォローを入れてくれる。


 気を使わせてしまったと分かり、ベサニーは「申し訳ありません」と謝った。


「私、この年で子どもみたいですね。魔法具が好きなのも、すぐに発覚する嘘をついてしまうのも。せっかくスフィアンさんとお話しできたのに……」


 我慢しないといけないのに涙が溢れてくる。泣き出すなんて面倒くさいおばさんだとスフィアンも思っているだろうか。ますます気分が沈んでいった。


(もう無理……。帰りましょう。二度と社交の場には行きたくないわ……)


 ベサニーはバルコニーから出ていこうとした。


 けれどスフィアンに「待ってください」と引き留められる。


「これを」


 スフィアンが白いハンカチを差し出してくる。ベサニーは躊躇したけれど、それを受け取った。


(スフィアンさん……優しい方)


 ひしゃげていた心が少しだけ元気を取り戻す。


(よかった、スフィアンさんが素敵な方だと分かって。人生最後のパーティーの思い出としては上々ね)


 ベサニーは頬を緩めた。スフィアンも微笑む。


 それから彼は、とんでもない言葉を口にした。


「ベサニーさん、よろしければ私と結婚してくれませんか?」



 ****



「わあ……広いお庭!」


 それから数カ月後。ベサニーは初めて見る広大な庭園に感嘆の声を上げていた。


「スフィアンさんのお宅ってとっても素敵なんですね!」


「そんな他人行儀な言い方はよしてください。ここはあなたの家でもあるんですよ」


「あ……そうでした」


 夫に肩の上に手を置かれ、ベサニーは顔を赤らめた。


 あの突発的なプロポーズをベサニーは受け入れることにした。ベサニー・ネイミック。それが今の彼女の名である。


 挙式を済ませたベサニーは、自分の家となったネイミック家の屋敷に、今日初めて足を踏み入れていた。


(何だか未だに信じられない……。私とスフィアンさんが夫婦だなんて)


 まさか自分が求婚されるとは。しかも、その相手は憧れのスフィアンだった。ベサニーはこっそりと頬をつねる。


(痛い……。やっぱり夢じゃない……)


 ベサニーはヒリヒリする顔を押さえる。


(だけど、それならどうしてスフィアンさんは私と結婚したがったのかしら?)


 何が何やらさっぱり分からない。だが、ベサニーはあることを決めていた。


(とにかく、今度の結婚は絶対に失敗しないように気をつけないと。離婚歴二回の年増女なんて、両親だけじゃなくて親戚一同を卒倒させちゃうわ!)


「あれを見てください」


 スフィアンが庭の小道の先に続いている建物を指差す。ちょっとしたダンスホールくらいの広さがありそうだ。


「ベサニーさんのために用意したんですよ」


 スフィアンが扉を開ける。内装を見たベサニーは感激で意識が遠くなりかけた。


 大きな作業台に、道具箱にきちんと整理されて詰め込まれた最新式の工具。棚には希少な薬品の入った瓶が並べられている。輝く新品のラベルが勲章のように眩しかった。


「素敵なアトリエ……! 私、こんなの初めてです!」


 前夫の家では、ベサニーは地下にある物置を作業場所にしていたのだ。あの狭くて薄暗い部屋と比べれば、ここは天国である。


「気に入っていただけたようですね。私の研究室も庭にあるんですよ。今度遊びにきてくださいね」


「ええ、喜んで!」


 すっかり浮かれていたベサニーだったが、頭の中で「みっともないわよ、おばさん」という声が聞こえてきて冷静さを取り戻す。


 そうだ、今度は離縁されるわけにはいかないのだ。スフィアンがアトリエを用意してくれたのはきっと何か理由があってのことだろう。デキる大人の女性はその訳を察して、夫の希望を叶えてあげなければならない。


(といっても、私が持っているものなんて魔法具の知識だけ。つまり、スフィアンさんの狙いもその辺りにあると考えるのが自然ね。彼はきっと、私に研究を手伝ってほしいんだわ)


 納得がいったベサニーは深く頷いた。


「任せてください。妻として、しっかり夫の役に立ってみせます。こんな素敵なアトリエをいただいたんですもの。この投資は無駄ではなかったと思っていただけるように頑張ります。一日も早く、優秀な助手になれるように努力しますね」


「投資? 助手?」


 張り切って宣言したベサニーだったが、スフィアンは困惑顔になる。


「このアトリエはそんな目的で作ったのではありませんよ。ただ、あなたに喜んでほしかっただけです。あなたはあなたの好きなことをすればいいんですよ」


「でも、それじゃあ私と結婚した意味が……」


「意味? ありますとも。愛する人と結ばれる。それ以上に素晴らしいことがありますか?」


 まさかの言葉に思考がストップしてしまう。


(……愛する人と結ばれる? それってどういうこと!?)


 ベサニーは目を白黒させる。そんな妻の様子を、スフィアンは優しく微笑みながら見つめていた。



 ****



「だめだ……。何にも手につかない……」


 その日の夜。ベサニーはアトリエの作業台の前で頭を抱えていた。


 好きなことをしていいと言われたから、ベサニーは庭の見学が済んだあとはずっとアトリエにこもっていた。


 新居移住の初日からこんな態度では、さすがにスフィアンも怒ってベサニーと結婚した本当の目的を言うだろうと思ってのことだった。


 だが、彼は何も行動を起こさなかった。もしかして、本当に自由にしてもいいのだろうか。ベサニーは困り果てる。


(でも……そんなことある?)


 ベサニーの取り柄といえば、魔法具いじりが上手いということだけ。それ以外は、悪妻の評判は立っているし、振る舞いは年に見合わないしと散々である。


(そんな私の一体どこが好きなのかしら?)


 夫からかけられた愛の言葉は、ベサニーを戸惑わせると同時にときめかせてもいた。


 おばさんが恋なんて恥ずかしいと思うけれど、胸の高鳴りが止まらないのだ。このまま放っておいたら、頭の中がスフィアンでいっぱいになってしまうに違いない。


(私、本当にどうかしているわ)


 ベサニーはアトリエを出た。せっかく立派な施設を用意してもらったのに、有効活用できないのはもったいない気もするけれど、今はスフィアンのこと以外は考えられないのだ。


 もう寝ようと思ったベサニーだが、庭にあるスフィアンの研究室の明かりがついていることに気づくと、足が自然とそちらへ向かう。


 居残っていた研究員にスフィアンの居場所を聞いたベサニーは、「105号室」と書かれたドアの端からちょこんと顔を出して室内の様子をうかがった。


 スフィアンはうずたかく積まれた資料の山の間に座っていた。実験中だろうか。フラスコで魔法植物の葉っぱを茹でている。


 スフィアンはとても真剣な顔をしていた。片手でメモを取りつつ、もう片方の手でリズミカルにフラスコを揺すっている。


(素敵……)


 ベサニーは夫の姿を食い入るように見つめていた。実験に一心不乱に打ち込むその情熱に、彼女も飲み込まれていく。


(スフィアンさんはすごく研究が好きなのね……)


「ベサニーさん?」


 ふと、スフィアンが顔を上げた。現実に引き戻されたベサニーは「すみません、邪魔するつもりは!」と慌てる。


「邪魔だなんて思っていませんよ。……もうこんな時間ですか。そろそろ休みましょう。一旦研究を始めると、食べるのも寝るのも後回しにしてしまうからいけませんね。来ていただいて助かりました」


「スフィアンさんもなんですね」


 研究室を出て、二人で屋敷に向かいながらベサニーは共感を覚えていた。


「私も魔法具のメンテナンスに夢中で、気がついたら朝になっていた、なんてことがよくあるんですよ」


「お互い、没頭しやすい性分のようですね。魔法具をいじっている時のあなたはとても魅力的ですよ」


「そんなこと……あれ?」


 ベサニーは首を捻る。


「スフィアンさん、私が魔法具を作っているところ、見たことがあるんですか?」


「ええ。半年ほど前に」


 スフィアンが頷いた。


「あなたの前夫……ゲイルさんの家で開かれたパーティーに招待されたことがあったんです。その時、庭で魔法具を作成しているあなたを偶然見ました」


「庭で……? もしかしてあの時の……?」


 普段のベサニーは地下室で仕事をしていた。だが半年前のある日、部屋の照明器具が故障して、仕方なく庭で作業したことがあったのだ。他に使えそうな場所がなかったので、苦し紛れの選択だった。


「それを見つけたゲイルさんはひどく怒って、あなたに『早く引っ込め! そんな小汚い姿をして、俺の顔に泥を塗るつもりか!』と怒鳴りました。するとあなたはどこかに行ってしまったのですが……本当に残念でした」


「残念? どうしてですか?」


「あなたが遠目にも分かるくらい、とても楽しそうに作業していたからですよ。私はそれを見た時に思いました。『この人は何よりも魔法具が好きなんだな』と。作業に打ち込むその姿は、見る者を惹きつけずにはいられないほどの魅力を放っていたんです。それ以来、私の心にはあなたが住み着いてしまったんですよ」


 スフィアンがベサニーの髪を一房手に取り、口づけた。


「あなたが気になってたまらなくなった私は、ベサニーさんのことを調べました。ゲイルさんの妻だと分かった時はショックでしたね。ですが、それ以上に衝撃的だったのは、あなたの才能に彼が何の感謝もしていないということでした」


 いつもは穏やかな表情のスフィアンが、珍しく眉根を寄せる。


「あなたとの結婚を境に、ゲイルさんの家は裕福になったと聞きました。ベサニーさんのお陰でしょう? ベサニーさんは魔法具を使って痩せた土地に豊かな実りをもたらした。あの家の豊作はあなたの力によるものだったんです。それなのにゲイルさんは、あなたをぞんざいに扱っている。断固抗議するべきだと思いました。けれど、その前にあなたが離縁されてしまって。密かに慕っていた相手が独り身になった。そういう時に取る行動は一つしかありませんよね」


「……求婚」


 やっと合点がいった。スフィアンは見も知らぬ相手にいきなりプロポーズしたのではない。彼はずっとベサニーに恋い焦がれていたのだ。


「う、嬉しいです」


 ベサニーは思い切って本心を口に出した。


「私もスフィアンさんに好意を持っていましたから。スフィアンさんの書いた本がとてもいい内容で、そこから人柄が透けて見えるようだと思ったんです。それだけじゃありません。実物は想像以上に素敵な方でした。私、ずっとドキドキしっぱなしというか……」


 急に恥ずかしくなり、ベサニーは両手で頬を覆った。


「ごめんなさい、いきなりこんなことを言って。おばさんに好かれても全然嬉しくないですよね」


「嬉しくない? まさか」


 スフィアンは目を見開く。


「お慕いしている方にそんなことを言われて、喜んでいないと思いますか? 今の私は、あなたを思い切り抱きしめてしまわないように必死に自制しているんですよ」


 スフィアンの緑の目は熱っぽく潤んでいた。先ほど研究室で彼が見せた情熱が、再びベサニーを包み込む。その熱気に押されるように、ベサニーは両手をスフィアンに差し出して、「どうぞ」と言った。


 スフィアンはまるでためらわず、ベサニーを腕の中に閉じ込めてしまう。自分から誘っておいて、ベサニーは頭がクラクラしてきた。


「私は幸せ者ですね。あなたのような可愛らしい奥さんがいて」


 スフィアンが呟く。


「あまりご自分を悪く言うのはやめてください。私の愛した人がけなされているかと思うと、こちらまで悲しくなってしまいます。年齢なんて、あなたの持つ輝きの前ではささやかな問題にもなりませんよ」


「は、はい……」


 ベサニーは頬を染めながらガクガクと頷き、スフィアンにしがみつくように体重を預ける。夫の温かな愛情に包まれて、このまま身も心もとろかされてしまいそうだった。



 ****



「近頃めっきり雨が降らなくなって困っているんです!」

「作物もまるで育ちません!」

「何とかしてください、領主様!」


 ゲイルは聞こえてくる領民からの悲痛な訴えに顔をしかめ、部屋の窓を閉めた。執事を呼びつけて文句を言う。


「農民どもがうちの庭に押しかけてきているぞ。誰だ、中に入れたのは」


「申し訳ございません。皆さんには『旦那様は誰とも面会いたしません』とお伝えしているのですが、なにぶん訪問者の数が多いので対処しきれず……」


「言い訳はいい。さっさと奴らをつまみ出せ。それから、これは何だ」


 ゲイルは今月の領地の収益を報告した書類に視線を落とす。


「ここのところ、我が領は赤字続きだ。どうやら農作物の収穫量が減っていることに原因があるようだが……。何故いきなりこんなことになったんだ。これまでずっと順調だったじゃないか」


「農民たちの言い分では、ベサニー様に原因があるようです」


「何だと?」


 いつも薄汚れた格好ばかりしていた元妻の顔を思い出し、ゲイルは頬を歪めた。


「あの女がうちの領地に嫌がらせをしているのか?」


「いいえ、そういうわけでは。我が領の農業はベサニー様が作成した魔法具頼りでした。ベサニー様は領内のあちこちに魔法具を配備。そして、魔法具で天候を操り、畑を耕し、作物に水をやり、収穫も行う。今まではそういった方法を取ってきたのです。ですが、ベサニー様がいなくなったことで魔法具を操作できる方がいなくなって……」


「それなら、新しく専門家でも雇え」


 ゲイルは仏頂面になる。彼は元々、魔法具などという訳の分からないものを快く思っていなかった。大体、ベサニーの作品はどれもこれも見た目が人型で不気味なのだ。


 だが、自領の発展は彼女の魔法具なくしてはありえないというのも事実だ。ゲイルにとってはどうにも腹立たしい話である。


「……いや、待てよ。ベサニーは作物として魔法植物を植えることで、収穫量を上げていただろう。魔法の植物なんだから、魔法具などなくても簡単に育てられるんじゃないのか」


「魔法植物だからこそ魔法具でのお世話が必須なのですよ。魔法植物は成長スピードが速い代わりに、育成がとても難しく、とても人間の手では面倒がみきれないのです」


「……まったく、離婚してまで俺に迷惑をかけて」


 無知を指摘され、ゲイルは気まずくなった。急いで話題を変える。


「そんなことより、今夜の宴の準備はできているんだろうな?」


 ゲイルは今夜、屋敷で大規模なパーティーを計画していた。招いたのは、大貴族の令嬢たちだ。


「やっとベサニーと別れられたんだ。この宴は次の妻の候補者を見つける大事な場なんだぞ。失敗は許されん」


 古女房を捨て、若く美しい妻を手に入れる。それがゲイルのかねてからの望みだった。


(確かにベサニーは貧しかった我が家に富をもたらしたかもしれん。だが、それは魔法具あっての功績だ。豊作をもたらす魔法具さえあれば、あの女は不要。もっと早くこのことに気づけばよかったな。そうすれば、さっさと別の妻を(めと)れたというのに)


 ベサニーのせいで失った年月を取り戻そうとゲイルは意気込んでいた。だが、執事は渋い顔だ。


「本当に宴を開きますか? 最近になって、全員からお断りのお手紙をいただきましたが……」


「な、何ぃ!?」


 予想外の事態に、ゲイルは椅子から転げ落ちそうになった。


「参加者がいないのに宴など開く意味があるか! 一体どうなっているんだ! 何故もっと早く言わなかった!」


「旦那様は滅多にお屋敷に帰っていらっしゃいませんので、つい報告するタイミングを見失ってしまいまして……」


 執事は申し訳なさそうに言う。


「どうやら、我が家の経済状態の悪化の噂が広まっているようなのです。しかも、財政赤字の始まりがベサニー様との離婚の時期と重なっていると気づいた方が、『ベサニーの呪いだ』と言い出して……。皆さん気味悪く思ったのか、我が家に近づきたくないようです」


「くそ! やっぱりとんだ悪妻じゃないか!」


 ゲイルは机に拳を打ちつけた。そういえば、他の貴族の家に遊びに行った時、皆が自分を見てヒソヒソと話をしていたと思い出す。


「もういい! 早く魔法具の専門家を呼び寄せろ! 我が領に再び豊作をもたらし、呪いなどないと皆に教えてやれ!」


 ゲイルは怒声を飛ばす。


 だが、急遽呼びつけられた専門家は、ゲイルが期待していたこととは真逆の答えを出した。


「これは私では何ともできませんね」


 ベサニーが作った魔法具を見た専門家は、早々にさじを投げた。


「それにしても、この魔法具は非常に複雑な魔法回路が組み込まれていますねえ。制作者は天才ですな。一度会ってみた……ごほん」


 ゲイルが怒りの形相を浮かべているのに気づいた専門家は、咳払いをして話を元に戻した。


「まあ、素人にも分かりやすく説明すれば、動力となるものがないので動かせないということですね」


「動力?」


「恐らく、制作者の魔力でしょう。この魔法具は、作った方の魔力を流さないと動かないようになっているんですよ」


「ベサニーの魔力だと? あの女はもうここにはいない。どうにかしろ。改造して誰でも動かせるようにするんだ」


「そう言われましても……。下手に手を加えると、この繊細な魔法回路にダメージを与えてしまいます。設計図か何かがなければ、とても作業などできませんよ」


「設計図か……」


 ゲイルは腕組みをする。


 ベサニーと離婚したあと、ゲイルは彼女の作業部屋を片づけさせたのだが、そんなものが見つかったという話は聞いていない。とすれば、設計図は今もベサニーが持っているのだろう。


(確かあの女、ネイミック家の者と結婚したんだったか)


 自分より先に再婚して、とゲイルは立腹する。


(設計図をくれとあの女に頭を下げるなど我慢ならん。こうなったら、少々強引な手を使うしかないか。……ちょうどいい。ついでにあの女をちょっと脅かしてやろう。それもこれも、皆俺に迷惑をかけた罰だ)


 ゲイルは見当違いな復讐に燃える。用意を調えると、すぐさま屋敷をあとにした。



 ****



「ほう、これがあなたの最新作ですか。よくできていますね」


 アトリエを訪れたスフィアンが、ベサニーの作った魔法具を見て感心している。


 ベサニーがネイミック家に輿入れしてきてから一カ月ほどがたった。初めは慣れない環境に戸惑っていたベサニーだが、今ではすっかり自分の置かれた立場を受け入れられるようになっている。


「ところで、これはどんな機能があるんですか?」

「実演しますね。庭に出てください」


 今回の魔法具も、ベサニーの他の作品と同じく無骨な見た目だ。まるで鋼でできた大男のような外見である。


 夫と一緒に庭に出たベサニーは、大男に向かって「作業開始!」と命じて、魔力を送り込む。


 すると、大男は巨大な手を器用に動かして穴を掘り始めた。


「穴掘り機だったんですね」


「どんな場面で使うのかはまだ考えていませんけどね。ただ、作りたくなってしまって」


 ベサニーは大男を見ながら肩を竦めたけれど、スフィアンは「その気持ち、分かります」と大きく頷いた。


「気の向くままに作業している時ほど楽しいことはありませんからね。役に立つことだけが全てではないと思いますよ。好奇心が思わぬ発見を生むこともありますから」


 さすが研究者なだけある。スフィアンはベサニーの気持ちをすぐさま汲んでくれた。


 前夫の家では、ベサニーは必要に迫られて魔法具を作っていた。もちろん、好きなことをしているのだから楽しかったが、反面息苦しさも感じていた。たまには自由に作品制作をしてみたいと思っていたのだ。


(ここでなら、その夢も叶うのね)


 スフィアンとの結婚は大正解だった。ベサニーは夫に笑いかける。


「私、他にも作ってみたい作品があるんです。お話、聞いてくれますか?」


「ええ、もちろん。そろそろお茶の時間ですから、ティールームへ行きましょうか」


 何時間も作業に明け暮れていたベサニーの服や顔には汚れがついている。けれど、スフィアンはそんなことは気にしていないようだった。それどころか、自分が汚れるのも構わずに優しく肩まで抱いてくれる。


 こんな世界があったなんて、とベサニーは毎日夢見心地だ。一日一日が楽しくて、時間は飛ぶように過ぎていく。今日も、気がつけば夜になっていた。


(何だか喉が渇いたわ……)


 夜中に目が覚めてしまったベサニーはベッドから身を起こす。隣で眠る夫の顔を見て、ふにゃりとした笑顔になった。


 以前は徹夜で作業することも多かったベサニーだが、今は毎日きちんと寝室で眠っている。


 魔法具作成も楽しいが、屋敷に帰ればスフィアンが自分を待っていてくれると思うと、彼を放置しておくことはできないと感じてしまうのだ。


(再婚っていう選択、間違ってなかったわね)


 水を飲みに台所へ向かいながら、ベサニーはこの状況を噛みしめる。


(独り身なら魔法具が作り放題って思ってたけど、もっと贅沢な幸せを手に入れちゃったわ。上手くいきすぎて怖いくらい……うん?)


 窓の外に目をやったベサニーは、アトリエの明かりがついているのに気づいた。それに、人影のようなものが動いているようにも見える。


(もしかして……明かりつけ機が誤作動を起こしたのかしら?)


 魔法具の故障かもしれないと思ったベサニーは、急いでアトリエに向かった。


 しかし、そこにいたのは予想外の人物だった。


「ゲイルさん……?」


 机やら棚やらがひっくり返され、派手に荒らされた室内で、ベサニーは前夫と対面していた。


「よう、ベサニー」


 ゲイルはベサニーの格好をジロジロ見て軽蔑したような顔になる。


「寝間着で辺りをうろついていたのか? 相変わらず非常識な……」

「何でここにいるの? 一体これはどういうことなの?」


 ベサニーは散らかり放題の部屋を見てパニックに陥る。


「出ていってよ! ここは私のアトリエよ!」


「お前、一度は夫だった俺に対して命令するのか? なんて態度が大きい奴なんだ」


 ゲイルは忌々しそうに舌打ちをする。


「俺はここに設計図を探しにきた。忍び込むのに苦労したんだぞ。いいから早く寄越せ」


「設計図?」


「お前が俺の領地で使っていた魔法具の設計図だ。持っているんだろう? さあ、出せ!」


「嫌よ!」


 ベサニーはアトリエから飛び出した。ゲイルが「どこへ行くんだ!」と言いながら追いかけてくる。


「妻なら元夫に尽くせ! そんなことだから俺に離縁されたんだぞ! 今回は運良く再婚できたようだが、そのうちにボロが出るに決まってる! お前のような礼儀知らずの年増はすぐに捨てられ……」


 声が途切れた。ベサニーは後ろを振り返る。


「私が闇雲に逃げ回ってたと思ってるの?」


 ベサニーは腰に手を当てる。


「ここは私の家の庭よ。どこに何があるかくらい、ちゃんと分かってるに決まってるでしょう?」


 ゲイルは大きな穴の中で目を回していた。昼間、ベサニーの穴掘り機が掘ったものである。


 土まみれのゲイルを見ているうちに、ベサニーは腹の底にたまっていた憤りが膨れ上がるのを感じた。


「十年以上の献身をなかったことにした元夫にあげるものなんか、私、何も持ってないわ。あなたのためにはもう働いてあげない。……ああ、そうだ。一つ、いいことを教えてあげる。設計図はあのアトリエにはないわよ。皆ここにしまってあるもの」


 ベサニーは自分の頭を指先で軽く叩いた。


「あなたは若い子が好きかもしれないけど、若い子はあなたのことなんて好きじゃないわよ! 私がおばさんなら、あなたはおじさんじゃない!」


「ベサニーさん!」


 ランタンを掲げたスフィアンがやって来る。彼は穴に落ちているゲイルを見て、呆気にとられた。


「庭が騒がしいのが気になって来てみたのですが……何事です?」

「侵入者です。早いところ捕まえてしまいましょう」


 ベサニーは駆けつけてきた使用人たちに、ネイミック家の女主人らしい態度でテキパキと指示を出す。縄で縛られたゲイルは荷馬車で運ばれ、街の警官の詰め所まで運ばれていった。


 そこから出る頃には、ゲイルの評判はがた落ちになっているはずだ。近頃、ゲイルの家は経営が苦しくなっていると聞くし、今後は皆が彼を白い目で見るようになるだろう。当然、若くて美しい新妻との結婚も望めないに違いない。


「まさかゲイルさんがうちに押しかけてくるとは……。今さらあなたの魅力に気づいたんでしょうか?」


「だとしたらどうします?」


「手遅れだと言ってあげますよ。ベサニーさんは私の妻なんですから。ほかの人には渡せません」


 スフィアンがベサニーを抱きしめた。


 彼女の胸は高鳴ったけれど、もうそのときめきに気後れを感じることはない。


 今のベサニーにはきちんと分かっていた。いくつになっても恋はしていいし、この高揚感は魔法具作成の時に感じる興奮と似たようなもので、何かに夢中になっている証なのだ。


 それに、ある特定の物事にのめり込む素晴らしさを、ベサニーは身を以て知っていた。


「安心してください。私はずっとスフィアンさんの傍にいますよ」


 ベサニーは夫の頭を撫でる。


「……あっ、そうだ! 新しい魔法具のアイデアを思いつきました! あの穴掘り機を改造して、防犯用の装置を作るのはどうです?」


「いいですね。お手伝いしますよ。落とし穴のカモフラージュにぴったりな魔法植物をいくつか知っていますから」


 スフィアンが興味深そうに応じる。


 不審者騒ぎもどこへやら。二人はすっかり研究者の顔になっていた。


(やっぱり私、スフィアンさんと結婚してよかった)


 ベサニーは心の底からそう思った。夫婦が共同で作る魔法具なら、きっとこれまでにないものになるに違いない。


 その予感は当たった。


 ベサニーが考案した防犯装置は、前夫を捕らえた武勇伝と共に王国中に広まっていった。そして、世間では空前の魔法具ブームが起きる。悪妻の汚名を見事に返上したベサニーは、今度は皆にもてはやされる存在となったのだった。


 けれど、どんなにちやほやされても、ベサニーの心が最愛の夫から離れていくことはなかった。


「やはりベサニーさんの魔法具はすごいですね」


 アトリエに遊びにきたスフィアンが感嘆する。


「あなたと私を結びつけ、あなたの地位を向上させ……。きっと、他にもまだまだ可能性は眠っているのでしょうね。魔法具でできないことなど、もう何もないのでは?」


「そんなことはありませんよ。たとえば……ほら」


 ベサニーは作業の手を止め、夫に口づけた。


「これは妻にしかできないことです」

「……では、私は夫にしかできないことでお返しをしましょう」


 今度はスフィアンの顔が近づいてくる。


 その贈り物を、ベサニーは唇で受け止めたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 気持ちのいいエンディングでした。 [一言] 面白かったです。
[一言] 無能領主の責任なのに『ベサニーの呪い』は可哀想かな。
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