4-3 それは、『想いの形』(4)
軽薄な緑色の壁。
がらんとした救急外来。
ちょうど救急車が入ってドタバタしている処置室横の時間外通用口が、僕らをすんなりと受け入れてくれた。
エレベーターに乗って、風子の病室へと急ぐ。
ここへ来るのは三度目だ。
一度目は風子のお母さんに辛い言葉を投げられ、二度目はお父さんが風子の本当の気持ちを僕に教えてくれた。
三度目のいま、静まり返った病棟の奥で、その白い灯りは緑の壁に冷たい光の筋を落としていた。
扉の横には、『桜台風子』のネームプレート。
光が漏れる隙間からそっと中を覗くと、『病院の風子』が横たわるベッドの前に、ふたつの背中が見えた。
風子のお父さんと……、お母さんだ。
僕の後ろには諸田さんとハルダ、そのさらに後ろでは雅がじっと肩をすくめている。
「すみません……」
心を決めて、僕はそう言いながら扉をノックした。
ハッとして振り向きながら立ち上がったのは、風子のお父さん。
お母さんはうな垂れたまま肩をいからせている。
「ああ……、永岡くん。あ、みなさんも。キミに何度か電話したんだが、繋がらなくて」
「すみません。ずっと取り込んでて……。あの……、風子は……」
「ここのところなにもなく安定していたのに、なぜか今日の夜になって突然容態が悪化してね。それをキミに知らせようと電話したんだ」
背後で雅がハッと顔を両手で覆ったのが分かった。
お父さんは笑みとも落胆ともとれない、複雑な眼差し。
「呼吸がとても弱くなっていてね。もしかすると、明日の朝は迎えられないかもしれないと……、ドクターが――」
その言葉が終わらないうちに、突然、お父さんの後ろで怒号がした。
「あなたたち……、なにしに来たのっ? なにっ? その泥だらけの格好はっ!」
ハッとしたお父さん。
その手がやや強めに、立ち上がったお母さんの肩にかかった。
「母さん、落ち着きなさい」
「永岡光平くん……、私はあなたのことを許さないわ。風子には会わせない。帰ってっ!」
ギリギリと音を立てたお母さんの奥歯。
溜息をついたお父さんが、お母さんをさらに諫める。
「ちょっと待ちなさい。せっかく来てくれたのに、なんてことを言うんだい? すまないね。風子がこうなってから、妻はずっとこんなふうになってしまって」
大粒の雫が、お母さんの頬を伝っている。
しかし……、大丈夫だ。
風子は、まだ生きている。
「もう、これが最後かもしれない。永岡くん、入って風子の顔を見てやってくれないか? みなさんも、どうぞ」
ドサリと音を立てて、お母さんが病室の角の椅子に腰を下ろした。
深々と頭を下げて入る病室。
僕に続いて、諸田さん、ハルダも足を踏み入れた。
次の瞬間、急に雅が部屋へ駆け入る。
思わず立ち止まると、雅は僕を追い越してベッドの前に崩れ落ちて、両手をついておでこを床につけた。
雅の丸まった背中。
小さな肩が少し揺れたかと思うと、詰まりそうな嗚咽がその丸まった背中をさらに震わせた。
掛ける言葉がない。
僕はその雅の横におもむろに立って、それからそっと『病院の風子』の顔を覗き込んだ。
かわいい寝顔。
まるでなにか楽しい夢でも見ているかのように、柔らかな笑みを湛えている。
ここへ戻って来られなかったってことは、きっと、僕の想いが足りなかったんだろう。
名前を呼んだ僕の声が、風子のところまで届かなかったのかもしれない。
僕は大きく息を吸うと、すぼめた肩から真っ直ぐに腕を下ろして、ただただ風子の愛らしい寝顔を見つめた。
握った拳が無意識に震える。
結局、僕はなんにも風子のためにしてあげられなかった。
いま、この『病院の風子』の命が消えようとしているということは、辛うじて繋がっている魂と肉体との『縁』が、いままさに切れようとしているってことだ。
その『縁』が完全に切れてしまえば、風子はそのまま神さまのところへ召されるだろう。
もしかしたら風子は、『魂の通り道』で立ち止まって最後の『縁』の糸を繋ぎ止めつつ、僕らが会いに来るのを待っていたのかもしれない。
風子のかわいい寝顔。
そっと頬に手を添える。
「風子……、ごめん。助けてあげられなかった……」
無意識の、その言葉。
そして、どうしようもない無力感が両肩を下げさせると、風子の頬に添えた僕の手の甲に小さな雫が音もなく落ちた。
そのときだ。
ハッと顔を上げた雅。
そして大きく開いた瞳でじっと周りを見回すと、雅はそれからもう一度僕へと目を向けた。
「雅……、どうした?」
「こうちゃん……、居る……、居るわ」
「居る? なにが……、えっ? ほんとかっ?」
どこだ?
どこに居る?
振り返り、足元を見て、天井を見上げて、それから再び風子の寝顔へ目をやった。
「風子?」
思わず囁いた、彼女の名前。
そのとき、ほんの少し動いた、酸素マスクの中の愛らしい唇。
間違いない。
風子が居る。
すぐそこ、『病院の風子』の後ろに、『うしろの風子』が居る。
「雅、僕にも分かったよ」
「こうちゃん……、お願い」
「うん」
思わず笑みが出た。
じわりと振り返り、諸田さんとハルダにその笑みを送る。
一瞬ポカンとしたふたり。
それからハッとして、目を見合わせたふたりは満面の笑みになった。
それを見てゆっくりと立ち上がった雅も、涙を拭きながら下がってふたりに並んだ。
お父さんは目を丸くしている。
「どう……したんだね?」
「そろそろ……、風子を起こしていいですか?」
「え? 起こす?」
そうお父さんに言って、僕は小さく咳払いをしながら風子の寝顔を覗き込んだ。
そっとおでこに手を乗せて、前髪を後ろへ流す。
「風子? いつまで寝てるんだ?」
つんつんとおでこをつつきながら作った、すこし意地悪な顔。
すぐに背後でガタンと椅子が鳴る。
「あなたっ! いったいどういうつもりっ?」
立ち上がったお母さん。
「ちょっと……待ちなさい」
そう言ってお母さんを座らせたお父さんに、僕は再び真っ直ぐな視線を向けた。
ハッとしたお父さん。
そして僕は少しだけお父さんに微笑んで、さらにぐいっと風子の顔を覗き込んだ。
「おい、風子。来年の夏祭り、一緒に行くんだろ?」
すーっと響いた、酸素マスクの中の息の音。
「かわいい浴衣姿、見せてくれるんだよな?」
ピクリと動いた、瞼と眉。
僕はそっと風子の手を取って、ほんの少し力を込めた。
目をつむる。
思い描いたのは、風子のとびっきりの笑顔。
主よ、心から、心から、お願いいたします。
もう一度、風子に会わせてください。
もう一度、僕に風子を大切にできる機会をお与えください。
もう見えるものだけにとらわれません。
罪深き僕に、どうか祝福をお与えください。
心からの懺悔。
神さまに届いていることを祈って、それから僕はそっと目を開けた。
そして誰よりも風子を想って、誰よりも愛しさを込めて、閉じられた風子の瞳に向かってその言葉を囁いたんだ。
「そうか、分かった。そんなに目を覚まさないんなら、もう手なんて繋いでやらないからな?」
その瞬間。
ふわりと浮き上がった、風子の胸。
そして、ゆっくりと唇が動き、それからうっすらと風子の瞼が開いた。
「なん……ですとぉ……」




