3-3 泣きべそ光平と『うしろの風子』(2)
父さんの肩は小刻みに震えていた。
そして雫をいっぱいに湛えた父さんの瞳が、さらに鋭く僕を捉えた。
「神を罵倒することは許さん。神を恨む気持ちを易々と口にできるお前に、私の信仰など理解できるものか。私がこれを耐えねば、愛は幸せに神さまのもとへ旅立てないのだ」
そう言って、ぎゅっと口を結んでうな垂れた父さん。
待機スペースの端に置かれた大きなホールクロックが、かすかに針の音を立てていた。
そうだ。
父さんも人間だ。
自分の娘の命がこの世から消えようとしているのに、平然としていられるはずがない。
人は見かけだけでは分からない。
それは、ついこの前、風子から教えてもらったじゃないか。
父さんは、神さまを恨みたくなる気持ちを、いまにもその口を突いて出そうな罵りを、聖書の言葉を伝える牧師として必死に耐えているんだ。
「ごめん……、父さん」
僕のその言葉が、父さんに聞こえたかどうかは分からない。
でも、僕はもうどうしてもそこに居られなくなって、それからぎゅっと肩を上げて駆け出した。
流れ去る、通路の窓。
その窓越しにのしかかる、無言の鉛色の空。
窓ガラスには、幾条もの雨の斜線が走っていた。
僕は、いったいなにをしているんだ。
父さん母さんの打ちひしがれた気持ちを一番理解して、それを少しでも和らげてあげなければいけない立場なのに。
本当に情けない。
ふと、風子の笑顔が脳裏に浮かんだ。
たくさんの非難にさらされている僕を、ずっと気遣ってくれていた風子。
その風子の気持ちを、僕は少しでも理解しようとしただろうか。
僕はこんな思いを、無意識のうちにいろんな人にさせてしまっていたんだ。
風子に会いたい。
会ってちゃんと謝りたい。
目に見えるものだけですべてを分かった気になっていた、自分の愚かさを。
気付くと、僕は救急棟の通路を走り切って、一番奥の病棟の誰も居ない自動販売機コーナーにたどり着いていた。
ここは、『病院の風子』の病室がある病棟だ。
切れた息が徐々に戻る。
自動販売機に手をついてがりりと奥歯を噛んだあと、小さく頭を振って冷たい缶コーヒーを一本買った。
ごくごくと喉を通るコーヒー。
一気に飲み干して、僕はその硬いスチール缶をめいっぱい握り込んだ。
愛のところへ戻ろう。
そして、もう一度きちんと父さんに謝ろう。
そう思いながら、そのスチール缶をそっとダストボックスへ差し入れたとき、通路の向こうで声がした。
男性ふたりが話す声。
だんだんとその声が近くなると、その片方の声に異様な深い感を覚えた。
聞き覚えのある、その野太い粗野な口調。
すぐにその声は、通路の角から真っ直ぐに僕へ届いた。
「あ? お前、なんでここに居るんだ?」
くたびれたベージュ色のスーツ。
への字の口がぽかんと開いて、眉根が寄ったその目が僕を睨んだ。
下見警部補だ。
相変わらずの下品な物言い。
もうひとりの男性は知らない。
「はぁ、こんなところでお前に会うとはなぁ」
「なんか用ですか? 特に用がないのなら話し掛けないでもらえますか」
「相変わらずナメた物の言い方だな。お前、妹が死にかけてるんだってな。まぁ、ぜんぶお前のせいなんだから、しっかり後悔するんだな」
「僕のせい? どういう意味ですか?」
「お前がなんでもちゃんと正直に言わないから、バチが当たってるんだ」
グッと拳を握って、僕は思わず出そうになった大声を飲み込んだ。
こんなヤツになにを言っても無駄だ。
変に絡んで、また諸田さんに迷惑を掛けてもいけないし。
下見警部補へ向けた鋭い眼光をすっと外すと、僕はゆっくりと背中を向けた。
「お? なんだ、逃げるのか。まぁ、図星を言われて――」
そう言って下見警部補が前傾姿勢になって踏み出そうとしたとき、それまで黙っていた後ろの紳士が突然声を上げた。
「下見さん、相手は少年ですよ? そんな言い方はいかがなものですかね」
思わず振り返る。
僕の父さんと同じくらいの年齢。
質のいい紺色のカッターシャツに、グレーのスラックスを履いている。
そして、やや怪訝な瞳を下見警部補へ向けたその紳士は、それから真っ直ぐに僕へとその澄んだ瞳を向けた。
目が合う。
一秒、二秒と向かい合った無言が過ぎると、その紳士は僕から目を離さずに、横の下見警部補にその問いを投げた。
「係長さん、この子は誰です?」
「あ、そういえば、顔はご存知なかったんですよね。これが……、『あの』永岡光平です」
「ほう……、この子が、『あの』永岡くん……」
さらに紳士の瞳がじっと僕を見つめた。
その顔を見てニヤリと笑った下見警部補が、ぐっと前のめりになって言い放つ。
「おい、永岡。この人はな、桜台風子さんのお父さんだ。しっかり頭を下げろ!」
風子の……、お父さん?
ふと、窓の外の雨音が少し和らぎ、後ろのずっと遠くで外来受付の女性が誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。
紳士は、まだじっと僕を見ている。
思わず、無言で小さく頭を下げた。
すると、どうしたことだろう。
風子のお父さんは、睨みもせず、罵倒もせず、一度ゆっくりと瞼を閉じて、それから再びじわりとその瞳を僕へ向けた。
ゆっくりと、その口角が上がる。
「そうか……。キミが、『あの』永岡光平くんだったのか。そうかそうか」
まるでケラケラと笑い出すかのような、その表情。
どうしたんだ。
「下見係長さん……、あなたがずっと話している容疑者は、『この子』のことですか?」
「え? あ、そんな、本人の前で――」
「――そうだとしたら……、彼は違います」
「え?」
「あなたが仰る、風子を階段から突き落とした犯人が『この子』だというのなら、彼は犯人じゃないと申し上げているんです」
「あの……、でも桜台さんは、いま永岡のことは知らないと……」
「はい。実は、私は『永岡光平』という生徒がどんな顔をしているかは知りませんが、『この子』については、その顔も、そしてどんな子かも、とてもよく知っているんです」
「は?」




