1-1 「うしろの風子」と「病院の風子」(1)
「光平、起きてる?」
軽いノックの音が、柔らかな朝日のシャワーを背景に響いた。
ドア越しに聞こえた母さんの声は、得も言われぬ憂惧の色を見せている。
僕は努めて朗らかに返した。
「うん、起きてるよ? ごめん、すぐ下りるから」
僕の言葉に母さんの返事はなく、それからゆっくりと階段を下りてゆく足音が遠ざかった。
『へー、優しいなぁ。うちのお母さんとか「風子っ! いつまで寝てんのよっ! 無い胸を揉むわよ」って飛びかかってくるからねー』
「桜台、僕はそれをどう笑えばいいんだ」
『あはは』
とうとうこれではっきりした。
どうやらこの見えない桜台も、警察署へ行って事情聴取を受けたことも、ぜんぶ夢じゃなかったらしい。
昨日、警察署から帰ってスマートフォンをもう一度確認してみたら、やっぱりコイツは僕の後ろに居た。
よくある夢オチっぽくやるなら、次のシーンは夢の中で意識が遠のいたあとに迎える翌朝のベッドだ。「なんだ……、夢か」ってヤツ。
「なんだ……、現実か」
なんとも不可解。
スマートフォンの画面の中で肩越しの背景に映っている桜台風子は、なぜか今日も元気だ。
『なによ、あの女も係長のオッサンも。最初っから永岡があたしを突き飛ばしたって決め付けてるじゃん』
『あたし、意識不明の重体なの? なら、いまここに居るあたしはなんなのよ』
『ちょっとー、ずっと永岡の後ろ姿しか見えないんだけど。ねー、スマホのカメラこっち向けて? あ、顔見えた。やっほー』
この桜台風子がいったいなんなのか、僕にはまったく見当がつかない。
聞けば、僕の背中側にくっついてて前には行くことができないまま、ずっと僕の左後ろに居るんだそうだ。
そして僕を後ろから眺めているのに、僕が鏡に自分の顔を映して彼女に見せても、なぜか彼女にはボケボケになって見えないみたい。
僕からは当然、鏡越しどころか、振り返っても彼女の顔は見えないという謎の状態。
お互いの顔を見ることができるのは、唯一、このスマートフォンのカメラを通したときだけ。
どんな姿勢で居るのかなんて聞いても、『いやー、なんていうか、あったかいソファーにゆーったり座っているみたいな、それでいてふわふわーっと温水プールで浮いているみたいな』といった感じで、体の重さは感じられず、立っているのか座っているのかも分からない、本人自身、とても不思議な感覚の状態らしい。
まったくもって理解不能だが、この現象にはきっと科学的な解があるはずだ。
スマートフォンの内部装置を通して声を発しているということは、特定の周波数で受信機に信号を送っているわけだし、カメラに姿が映るということは、光学的に捉えることができる周波数の可視光線を反射している物質がそこに存在していることになる。
しかし、それなら僕の目にも見えないとおかしいんだけど。
ということで、夢オチを狙ってベッドへと入ったんだが、なぜかこうなってしまった。
『ねぇ、ちょっと、シャツの左袖のとこ、なんかついてる』
「そう? あ、糸くずか」
『ああー、ほらほら、机の上、自転車のカギ忘れてる!』
「お、そうだった。サンキュ」
と、朝からこの調子。
なんか新妻にずっと付きまとわれているような感じで、なんとなくむず痒い。
だいたい、桜台は僕のことをあんまり良く思っていないはずなのに。
たぶん、こんな異常な現象の当事者になってしまって、どうしていいか分からないでいるんだろう。
で、入院している『病院の風子』が本物の桜台風子だとしたら、いまここに居る『うしろの風子』はいったい誰なんだという話になる。
しかも、直接的な感覚で見ることも触れることもできない実体のない存在なんて、そんな不可解なものがこの世にあるんだろうか。
しかし、この調子でずっと喋られたらかなわない。
周りの目もあるし、この現象の謎が解けるまでは少し大人しくしてもらわないと。
制服に着替え終わった僕は、例のごとく自撮りモードにしたスマートフォンを覗き込む。
「今日、桜台が運ばれた病院に行ってみよう。入院している桜台に会えばなにか分かるかもしれないし」
『ほんとっ? あたしちゃんと元に戻れるかなぁ』
「分からんけど、どうにかしないとずっとこのままというわけにもいかないだろ」
『ああー、もしかして邪魔?』
「邪魔だと言っても、どうしようもないんだろう? まぁ、いろいろ大人しくしておいてくれな」
『えっと、その……、喋るなってこと?』
さっきまでとびっきりの笑顔だった桜台が、突然肩をすぼめて下唇を噛んでいる。
「え? えっと、その、喋るななんて言ってないだろ。そ、そうだ。ちょっと待て」
どうしたことか、いつも冷静な僕がその画面の中の桜台の寂しそうな顔にちょっとだけ動揺してしまった。
しどろもどろに口を開いた自分に驚く。
「こ、これはBluetoothのワイヤレスイヤホンだ。これなら周りに聞かれずに、ずっとお前と」
ちょっと待て。
僕はなにを言おうとしているんだ。
『これならずっとあたしと?』
「えっと、その、ふたりだけで、……喋っていられるだろ」
言ってしまったあとで、なにやら恋人にでも言うようなセリフだと思って、僕は思わず閉口して視線を泳がせてしまった。
画面の中の彼女も一瞬きょとんとしたあとすぐに同じことを思ったらしく、視線を外してふわりと頬を紅くしている。
『あ、あああ、ありがと』
僕はすぐイヤホンをペアリングして、空を見ながら声を出した。
「あー、あー、聞こえるか? 桜台」
『うん。なんかごめん。気を遣わせて』
「気なんて遣ってない。顔が見えないのは我慢しろよな? ずっとスマホで自分の顔を映しながら歩いてたらアホみたいだから」
『うん。我慢する』
「いや、我慢でもないか。僕の汚い顔なんて見たくもないだろうし」
『えー? そんなことないよぅ』
そんな桜台の社交辞令を聞き流したとき、なぜか急に「もしこのスマホを落として壊しでもしたら」なんて思いが頭をよぎった。
別にコイツと話せなくなっても、僕自身はなにも困らない。
ただちょっと、ほんのちょっとだけコイツがかわいそうかななんて思ってしまって、僕は普段より少し丁寧に、カバンの中へスマートフォンをしまったんだ。