3-2 笑顔になったわけ、笑顔を捨てたわけ(4)
なにを思ってのことか知らないが、そんな感じで『病院の風子』のことを尋ねる雅。
たしかに、僕がこれ以上の憂き目に遭わないためには、『病院の風子』の早期回復が望まれる。
たぶん、それを思って雅は風子のことを気にしているんだろう。
風子が入院している病院。
そこは、愛が命を預けている病院でもある。
僕は昨日も愛に会いに行ったけど、風子の病室へは行く勇気がなかった。
「ところで永岡よ。愛さまはどうしておられるのだ?」
「え? お前、雅が本命じゃなかったのか? 残念だが、愛はついこの前、また病院へ戻ったんだ」
「雅どのが本命だと? お主、どこに目を付けておるのだ。この恐怖におののくハルダの心情が読み取れぬのかっ? ……で? 愛さまは今度はいつお戻りになるのだ?」
「はぁ……、今度は」
今度?
今度が……あるんだろうか。
いつ帰るかどころか、帰って来られるかどうかすら分からない。
少しずつ小さくなっている、愛の命の灯火。
その愛の命がこの世に灯ったとき、僕は本当に嬉しかった。
その日、保育園に迎えに来てくれたのは、笑顔いっぱいの父さん。
僕の手をとってすぐに、「妹が生まれたよ」って教えてくれた。
『名前はね? 「まな」だ』
とっても素敵な名前。
神さまがくださったこの出会いに、僕は本当に心から感謝した。
でも、それからしばらくして、愛が長く生きられない病気であることが分かった。
世界的にも症例が少ない、手の施しようがない難病。
愛は、どんなに頑張っても高校生になることはできない。
その前に、必ず神さまが天にお召しになるらしい。
僕は、怒りに震えた。
では、なんでこの世に遣わせたんだ。
そんなに早く呼び戻すのなら、この世に遣わせなければよかったんだ。
『これは神が私に与えたもうた試練だ。神の御心に感謝しなくてはならない』
愛の儚い命のことを知って、父さんはそう言った。
狂気だ。
狂気以外のなにものでもない。
神さまは、道を示して人を幸福に導いてくれるんじゃないのか?
いつも父さんはそう話していたじゃないか!
愛の命は……、愛のものだ。
神なんてものの所有物じゃない。
命は、この世界を活き活きと生きるすべての生命体の、それ自身のものだ。
僕は、神なんて信じない。
愛の命を、そんなものが容易くどうこうするなんて絶対に許さない。
聖書が説く神の博愛は理解不能だ。
神を信じて、笑顔で隣人を愛せば人は幸せになるのか。
そうすれば、人は苦しまずに済むのか。
それではなぜ、愛の命を奪うんだ。
愛の笑顔を奪うんだ。
神が笑顔の者に幸せをもたらすというのなら、僕に笑顔は要らない。
そんなものがなくても、自分の力で幸福になってみせる。
たくさんの科学技術や経済効果で、人間はどんどん幸せになれる。
神から幸せをもらわなくても結構だ。
神に見てもらうための笑顔なんて、僕には要らない。
「……うちゃん? こうちゃん?」
「え?」
「あなた、ずっとさっきからわたくしの胸のあたりを眺めているけど、なにか不満でも?」
「いや、ちょっと考え事をしていただけで――」
「永岡よ。この胸を見て考えることはみな同じだ。賛同するぞ?」
「なんですってっ? セクハラダっ! いま『この女、もう少し胸と同じように慎ましやかにしておれっ!』などと脳内罵倒したわねっ?」
「なぬっ? なぜ分かったのだっ?」
「そこに正座しなさいっ!」
このふたり、もう夫婦漫才だな。
他愛もない日常。
でも、この日常を愛はあと何日過ごすことができるのだろう。
風子の意識もまだ戻らないまま。
やりきれない。
そうして僕が小さく溜息をついたとき、まるでそれが合図だったかのようにスマートフォンの呼び出し音が鳴った。
ハッとした。
父さんからだ。
突然、背中に冷たいものが走って、肩がずんと重くなる。
「ハルダ、雅、ちょっとうるさい。えっと……、もしもし? 父さん、どうしたの?」
『光平、いまお医者さまから連絡があってね。落ち着いて聞くんだよ?』
「え? えっと……、そっか。うん。大丈夫だよ?」
ついにこの日がやって来た。
愛の命の期限を知ってから九年。
ずっと笑わずに神さまに背を向けて覚悟していたその日が、ついにやって来てしまった。
「分かった。今から病院へ行く」
僕はそう言って電話を切ると大きく息を吸い込んで、それからふたりに先に帰ると告げて物理室を出たんだ。




