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うしろの風子  作者: 聖いつき
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2-2  ふたりが語る永岡光平(2)

 さらにその棒状の用紙が、私の額にぐいぐいと押し付けられる。

「桜台風子の制服から永岡光平のDNAが出た」

「知ってます」

「近々、ヤツの逮捕状を請求する。ちゃんと永岡の悪質性に関する供述を拾って来い!」

「彼の人となりは調書のとおりです。DNAだって出て当たり前じゃないですか? 落ちてゆく桜台さんを止めようと手を出したって彼が言ってるんだから」

「なんだとっ? 貴様、誰に向かって――」

 そのときだ。

「あああーーーーーーっ!」

 ガチャン!

 突然響いた、陶器が割れる音。

 続いて、私に罵声を浴びせようと前傾姿勢になっていた下見係長の足元に盛大に熱々のお茶が散らばった。

「うわっ! あちぃっ! どこに目ぇ付けてんだっ!」

 下見係長がのけ反りながら怒号を飛ばした先に居たのは、前屈みになってお盆を持っている、例の年上新任くん。

「あらー、すみません。ちょっと手が滑ってしまって」

「お前、ほんっとなにやらせてもダメだなっ!。もう警察辞めて田舎に帰れっ!」

「いやぁ、田舎って言われてもここが地元なんで」

「やかましいっ! さっさと片付けろっ!」

 鬼瓦のような顔の下見係長。

 私に向いていた毒気が一気に失せたのか、新任くんを睨みつけた下見係長は「ふん」と鼻を鳴らして自分の席へと戻った。

 新任くんが体を起こしながら、放心している私を見てにっこり笑う。

「すみません、諸田部長。お茶、かかりませんでしたか?」

「う、うん。だいじょう……ぶ。その……、あ、ありがと」

 そっか。

 彼……、私を助けてくれたんだ。

 新任くんとはいえ、やはり私よりふたつ歳上の良識ある大人の男性。

 私はやっぱりバカだ。

 完全な大人のなり損ない。

 こんなにも、色眼鏡が人の感覚を狂わせるものだなんて。

 私は恥ずかしい。

『俺の目に狂いはない。あの永岡の目は被疑者の目だ』

 この捜査が始まるとき、下見係長は私に自信満々でそう言った。

 長年にわたって少年係で係長をやってきた警部補から言われた言葉……。

 うかつにも私はこれを鵜呑みにした。

 たぶん……、永岡光平は違う。

 根拠はない。

 たぶん違うと、直感的に思うだけだ。

 この捜査は、このまま確固たる証拠が集まらなければ、嫌疑不十分という形で終わりを迎えると思う。

 法律的にはそれでおしまいだ。

 逮捕状なんて出るわけない。

 永岡光平はおそらく、この捜査が『犯人が居たとも、居なかったとも、完全に証明できない』という結末を迎えたあと、そのまま放免される。

 しかし、それではダメだ。

 それでは永岡光平へ向けられた疑いの目がそのまま残ってしまう。

 そのままでは彼を救えない。

 彼を救ったことにならない。

 事実は桜台風子だけが知っている。

 しかしいまは、生命維持装置によって塞がれている彼女の口からその真実を聞く事は叶わない。

 彼女の転落が誰かの手によるものだとしたら、その犯人を捕まえることは警察の重大な責務だ。

 それに、もしかしたら、転落は彼女自身の過失によるものかもしれない。

 それらの事実が明らかとならず、なにもかもがうやむやなまま、『永岡光平は犯人ではない』と確定されずにこの件が終わりを迎えることは……、私の警察官としての誇りと使命感が許さない。

 もう一度、永岡光平に会おう。

 会って、ちゃんと向き合うんだ。

 私のお父さんなら、きっと……、きっとそうするだろうから。




「風子、今日はちょっと大人しくしといてくれ」

『大人しくって?』

「妹が帰って来るんだ」

『おおう、入院中の妹ちゃん? 退院するんだ! よかったねー』

「いや、一時退院な。というか……、ずっとこれの繰り返しなんだけど」

 体育祭が終わって、襟元を通り過ぎる風が急に肌寒く感じるようになった。

 自転車に乗って、颯爽と放課後の正門へと坂道を下りる。

 今日は、妹のまなが一時退院して帰ってくる日だ。

 愛は小学六年生。

 でも……、学校へはぜんぜん行けてない。

 愛は三歳のときに、お医者さまから、『よくもって十歳から十二歳が限界』だと、余命を宣告された。

 遺伝子が原因のとても特殊な病気で、体が成長しても臓器や循環器の能力が追いついていかず、結局その限界を迎えたときに緩慢に死にいたるという奇病。

 今年、愛は十二歳になる。

 実は、いつ死を迎えてもおかしくない状態。

 父さんは、『これは神さまが与えてくれた最大の試練』と、神の愛に感謝しているらしい。

 正気じゃない。

 『愛』という名前は、僕の『光平』と同じように神学的なイメージで付けられた。

 神の無限の『愛』である『アガペー』そのものであり、そして旧約聖書の中に登場する、イスラエルの民がカナンの地に着くまでの四十年間ずっと神が降らせた食物『マナ』を想起させる。

『ふうん。入退院の繰り返しなんだね。愛ちゃんって言うの? かわいい?』

「ふふん。僕が言うのもなんだが……、かわいいぞ?」

『うわ、光平のそんな顔初めて見た。えっと……、それって、女の子として、かわいいって思うってこと?』

「妹としても、女の子としてもかわいいな……って、そんなこと聞くな。恥ずかしいだろ」

『いやー、光平がどんな女の子が好みなのか、ちょっとばっかし知りたくなって』

「好み? そうだなぁ……、大人しくて、おしとやかで、唐突に文化祭で無計画な演劇をやりたいなんて言い出さないような……、そんな女の子だな」

『なんですとー? それって、あたしピンポイントで除外されてるじゃん!』

「いいじゃないか。僕から好みだなんて言われたら気持ち悪いだろ」

『そそそ……、そんなこと……ないもん』

「ほら、そろそろ着くよ? 愛がびっくりして倒れたらいけないから、しばらく風子とのお喋りはお休みね」

『うぇーい』

 風子はなにか言いたそうな感じだったけど、仕方がない。

 愛は心臓も弱いから、僕が話しているのが実体のない謎の相手だと知ったら卒倒してしまうかもしれないし。

 風子との会話を終えたとき、ちょうど我が家の教会の駐車場に父さんの車が入って行くのが見えた。

 バタバタと玄関前に滑り込ませた自転車。

 スタンドを立てて、何事もなかったかのようにチェーン錠を掛ける。

 そしてちらりと横目で見ると、ちょうど父さんの車の後部座席から母さんに手を引かれた愛が降りるところだった。

 大きく息を吸って、平静を装う。

「ちょうど一緒になったね。おかえり、愛」

 長く、美しい黒髪。

 透き通るように白い肌。

 この世のものとは思えないくらいに愛らしい笑顔が、真っ直ぐに僕を捉える。

「ただいま。兄さん」

 愛の白いワンピースを染める、柔らかな落陽。

 僕に微笑み返した愛はちょっと空を見上げて、それからゆっくりと家の中へ入った。

 愛が家に帰って来られるのは、年に数回。

 今日から十日ほどは家に居るけど、体調が悪くなればまたすぐ病院へ帰らなくちゃならない。

 いつも誰にも座られることのないダイニングテーブルの四つ目の椅子が、今日はあるじを迎えてなんだか誇らしげに構えているように見えた。

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