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アフターファイブは社内恋愛の時間

作者: 墨江夢

 カタカタカタカタ。

 オフィス内に、キーボードを叩く音が鳴り響く。


 現在時刻は午後4時55分。定時5分前のこの時間が、最もタイピング音の響く時間である。

 

「絶対に定時に帰ってやるんだ」。皆からは、そんな意欲が感じられる。

 それもそうだろう。日中会社に拘束されている俺たちサラリーマンにとって、アフターファイブは一日で最も楽しみな時間だ。


 同僚と飲みに行く者、恋人とデートする者、一人で映画を観に行く者。時間の使い方は、様々である。


 ゴーンゴーン。

 5時になり、終業時間になった。


 基本定時帰りのホワイト企業である我が社では、残業する者はまずいない。

 終業時間になるやいなや皆が帰り支度を始め、5分後にはほとんど全員が「お疲れ様でしたー」と退勤していく。

 連日残業する奇特な人間なんて、俺・笹岡誠(ささおかまこと)くらいだ。


 俺は俗に言う仕事人間というやつで、定時上がりしたところで正直やることなんてろくにない。


 一人暮らしで家に家族がいるわけでもなく、恋人も大学を卒業してからというものご無沙汰だ。

 趣味があるわけでもないので、まぁ精々家でテレビを観るくらいしかやることがなかった。


 だから、誰もいないオフィスで仕事に勤しむのは、寧ろ大歓迎なのであって。

 静かな環境での仕事は、想像以上に捗るんだぞ? しかもお給料も出るわけだし、願ったり叶ったりだ。


 さあ、今日も遅くまで頑張るとしますか!

 そんな風に、俺が意気込んでいると、


「せーんぱいっ!」


 対面の席から、後輩の三井莉花(みついりか)が声をかけてきた。


「先輩は、今日も残業ですか?」

「まぁな。少なくとも、やりかけの仕事を終わらせてから帰るつもりだ」

「ふーん。それって、どのくらいかかりそうなんですかね?」

「知らん。終電には、間に合うと思うが」


「へー、真面目な人ですねー」と、三井は返す。

 好きで残業しているわけだし、自分がしているからといって同僚にまで残業を強制したりしない。

 だから三井、お前も帰って良いんだぞ?


 そう思っていると、何を考えたのか三井もまたキーボードを打ち始めた。


「……何しているんだ?」

「何って、仕事ですよ。私もキリの良いところまで、終わらせちゃおうと思いまして。終電には間に合うんで、安心して下さい」


 自分が残業をしている以上、人にするなとは言えない。

 しかし……これでまた、作業効率が落ちてしまうな。


 三井莉花という後輩は、仕事人間の俺にとって天敵だといえた。

 今までは定時帰りをモットーとしていたのに、どんな心境の変化があったのかここ1ヶ月は毎日残業をしている。


 それだけなら、何の問題もない。

 問題なのは、彼女が事あるごとに俺の邪魔をしてくることだった。


「ねぇ、先輩。先輩は休みの日、何をしているんですか?」とか。「先輩の誕生日っていつなんですか?」とか。質問は、仕事に全く関係ないものばかりだ。


 そして無意味とも言える質問は、この日も投げかけられてくる。


「先輩って、髪の短い子と長い子、どっちが好きなんですか?」

「短い子だけど……何の為にそんなこと聞くんだ?」

「後学の為です♡」

 

 後学って……俺の好みなんて、仕事に何ら関係ないだろうに。


 余談だが、翌日三井は髪をバッサリ切ってきた。

 俺の好みドストライクだとは、口が裂けても言わないけど。





 ゴーンゴーン。

 定時を知らせる鐘が鳴ったが、この日も三井は帰ろうとしなかった。


「三井、今日も残業か?」

「そういう先輩もですよね?」

「まぁな。……今日はマジでやりたいから、話しかけないでくれよ」

「はーい」


 信憑性の欠片も感じられない返事だが、指示した通り三井は一切話しかけてこなかった。


 残業中、どうでも良い質問ばかりする三井だが、やるべきことはきちんとやる奴だ。

 仕事が出来るし気も利くし、俺を含め先輩連中から何かと頼りにされていたりする。


 2時間半程仕事に打ち込んでいると、流石に集中力も途切れ途切れになってきた。

 時刻が7時半を回ったこともあり、空腹が更に俺の集中力を割く。


 気分を変えるべく、俺が「ん〜っ」と一度伸びをすると、この日初めて三井が話しかけてきた。


「先輩、休憩がてら、ご飯にしませんか?」

「飯? ……そうだな。何が食いたい?」

「焼き鳥!」

「焼き鳥なんて食ったら、絶対ビールも飲むじゃねーか。却下だ、却下」


 この女、仕事中であることを忘れていないか? 飲みたきゃとっとと退勤しろ。


「わかりましたよ。焼き鳥は、今度先輩に奢って貰うことにします。……牛丼はどうですか?」

「焼き鳥を奢る件はさて置き、牛丼って意見には賛成だな」


 残業を頑張っているのは事実だし、牛丼代くらい出してやるか。


 俺たちは仕事を一旦中断し、会社の近くの牛丼チェーン店に足を運んだ。

 

 注文したのは、牛丼の並盛りと大盛り。店員さんが並盛りを三井に、大盛りを俺の前に置いたのが、すみません、逆なんですよね。


 牛丼を食べながら、三井は俺に尋ねてきた。


「先輩って、本当に仕事人間ですよね? どうしてそんなに仕事が好きなんですか?」

「別に、仕事が好きなわけじゃねーよ。他にやることがないから、仕事をしているだけだ」


 家に帰ってもやることがない。だから、家に帰らず仕事をしている。それだけの話である。


「ふーん。それじゃあ、もし仕事以外にやることがあったら、残業しないで帰るってことですか?」

「まぁ、そうなるのかな」

「でしたら、先輩!」


 三井が身を乗り出す。


「明日は残業しないで、私と食事にでも行きませんか?」

「いや、何でそうなるんだよ?」


 会話の中で、因果関係が成立していないような気がする。

 定時で退勤してまで、三井と食事をする理由がわからなかった。


「えーと、それはですね……あっ、焼き鳥! 焼き鳥をご馳走して下さい!」


 そういや、さっきそんな話をしてたな。


「たまには後輩と飲みに行くのも、大事だと思いませんか?」

「……お前って、たまに的を射たこと言うから困るんだよな」


 今日溜まっている仕事を終わらせれば、明日残業する必要はなくなる。

 ……仕方ない。一日くらい、三井に付き合ってやるとするか。





 翌日。

 定時を知らせる鐘が鳴ると同時に、三井が立ち上がった。


「先輩、今日は残業なしですよ」

「……わかってるよ」


 ちゃっかり一時間くらい残業していこうかと思ったけど、どうやらその手は通用しないらしい。


 俺が帰り支度を始めると、隣のデスクの同期が驚いた顔をしていた。


「笹岡が定時上がりなんて、珍しいこともあるもんだな」

「ちょっとこの後、用事があってな」

「何だよ、デートか?」


 断じてデートじゃない。だから三井、ニヤニヤするんじゃねぇ。


 酒自体はほとんど毎日飲んでいるけど、決まって家飲みだ。思えば居酒屋で飲むのなんて、久しぶりな気がするな。


「えーと、三井もビールで良いか?」

「いえ、私はハイボールで」

「りょーかい」


 三井の飲酒ペースは、思ったより早かった。

 俺が一杯飲み終わる頃には、既に彼女は二杯空けている。

 しかし酒に強い印象は見受けられず、三井の顔はすぐに真っ赤になった。


「おい、そんなに飲んで大丈夫か?」

「大丈夫れすよ〜。今日は先輩の奢りなんれ〜」


 いや、誰も金銭面のことは心配してねーよ。既に呂律が回らなくなってきているじゃねーか。


 居酒屋に入って小一時間、酔い潰れた三井は、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。


「おい三井、起きろ。俺はお前の家知らないから、送っていけないんだぞ」


 声をかけても、体を揺さぶっても、三井は「ん〜」と返すだけだった。

 ……ダメだな、こりゃ。


 こいつの同期に聞けば、自宅の場所教えてくれるかな? てかこいつの同期って、誰だっけ? 

 どうしたものかと俺が頭を悩ませていると、三井がとんでもないことを口走ってきた。


「先輩、好きですぅ」

「……は?」


 それは、寝言なのか?

 寝言だとしたら……それは、本心なのか?


 結局、三井の自宅の場所はわからずじまいだった。

 そして彼女の同期が誰なのかも、わからない。


 このまま居酒屋に置いていくわけにはいかないし……。苦肉の策として、俺は三井を自宅に泊まらせることにしたのだった。





 翌朝。

 目を覚ました三井は、真っ先に悲鳴を上げた。


 それもそうだろう。

 知らないうちに男の部屋に上がり込んで、男のベッドで眠っていたのだから。


「えっ? えっ? どうして私は、先輩の家にいるんですか?」

「お前が酔い潰れるからだろうが。念の為言っておくけど、何もしていないからな」


 シワになるからと言って着替えさせたりもしていないし、当然一緒のベッドで寝たりもしていない。

 俺は床で寝た。


「それは、その……ご迷惑をおかけしました」

「今後気を付けてくれれば良いよ。特に男と二人で飲むときはな」

「……先輩以外の男性と、二人きりで飲むつもりありませんから」


 それは小さな呟きだったが、俺の耳にはきちんと聞こえた。

 そして同時に、俺は昨夜の三井の告白を思い出す。


「なあ、三井。勘違いだったら申し訳ないんだが……お前、俺のこと好きなのか?」

「えっ?」

「いや。昨日飲みの席で、「先輩好きです」って言っていたものだから。勿論、俺以外の先輩って可能性も考えられるけど」


 しかし俺以外と二人で飲みに行かないと言った以上、三井が俺に好意を寄せている可能性は高いように思えた。


 根拠は他にもある。

 俺が「髪の短い女の子が好きだ」と言った翌日に、髪を切ってきたり。残業中、俺のことばかり聞いてきたり。


「そうですか……私、うっかり告白しちゃったんですか」


 呟いた後、三井はなにやら覚悟を決めたような顔をした。


「そうです。私、先輩が好きなんです」

「それは……ありがたいし、嬉しいことだけど……どうして俺なんかを好きになったんだ?」

「先輩って、いつも私の面倒見てくれるじゃないですか。他の人たちは定時に帰りたいから見て見ぬフリするところを、先輩だけは「何か困っているのか?」って声をかけてくれます。そういうところを、好きになったんです」


 二人きりのアフターファイブ。三井にとってその時間は、とても大切な時間だったらしい。

 そして俺にとっても、いつもの間にかかけがえのない時間になっていた。

 

「困ったな。これでもう、残業する理由がなくなっちまったじゃねーか」

 

 翌日から、俺は残業をしないで、定時上がりすることが多くなった。

 え? なぜかって? そんなの勿論――


「この後、映画に行きません?」

「あぁ、行こうか」


 ――恋人が出来て、アフターファイブが楽しくなったからだ。

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