4.現役女子高生魔法少女Vtuber
***
――わたしの家は、魔法使いの家だった。魔法一家と言ってもいいし、魔法一族と言ってもいい。兎に角、わたしの周りの人間は大抵魔法使いだった。
ホウキが中学生に上がる頃、
「香月、お前は将来すごい魔法使いになる。パパよりずっと才能があるし、ひょっとするとママより強い魔女になるぞ」
とホウキの父が言い出した。
父は優しくて物静かで、少々夢見勝ちの典型的な魔法使いの男だった。
当時、ホウキの父は彼の妻――つまりはホウキの母に逃げられたばかりだった。
魔法使いの社会は女尊男卑の世界である。そのことを、中学生のホウキは何となく理解していた。魔法使いは女の方が優秀である。事実、女の方が内に秘める魔力量が多いらしく、魔法使いの女には、男なんかより強いという自負がある。特にただの魔法使いではなく、魔女と呼ばれる一部の才女はその傾向が強く、ホウキの母も自他共に認める魔女だった。
『魔女』は魔法使いの社会においても人間社会と同じように、決して良い意味ばかりで使われる言葉では無い。魔力の乏しいこの世界で、多くのものを犠牲に魔道の道を極めんとするその姿勢に、軽蔑と畏敬の念を込めて『魔女』と呼ぶ。
「ママは魔女だからね。ママにはママのやりたいことがあるんだよ」
父は母が蒸発した日、そう言ってホウキを励まし、もう諦めたように笑った。
ホウキの母は盲目的に魔法にのめり込む魔女で、父はそんな母のカルト的信奉者だった。
――パパはママに『魔女』に裏切られた。それなのに。
パパはわたしをママと同じ魔女にしようとする。
きっと、パパはママの面影をわたしに見出していた。それがわたしには分かっていた。
***
黒須家は魔法使いの大家だった。何人もの魔女を輩出し、魔女には寛容である絵に描いたような魔法使いの一族。
魔法使いの世界では男の肩身が狭い。魔法使いの男がよく言うことだが、ホウキの父も何度か同じようなことを言っていた。しかし、黒須家のような由緒正しい家で男の子が喜ばれるのは、人間社会と同じである。ふらふらと放浪する魔女よりも、男の方が家庭に入り、余程御家の存続に繋がるからだ。
「香月ー?、魔力コントロールの練習するぞ」
ホウキが家に帰ると、時同じくして父が帰宅する。
黒須家の新しい教育方針により、ホウキは部活に所属せず放課になると真っ直ぐ家へ帰って来た。学校には家庭の都合ということになっている。
父が中学生の帰宅時間に合わせて帰って来られている理由は分からない。黒須家だからなのか、魔法を使っているのか。
――今思うと、フレックスタイムとか言うものかもしれない。
帰宅後はいつもホウキは制服のままで、スーツを着たままの父と離れの土蔵で向かい合い、魔法の訓練を始める。
ホウキは部活だってやってみたかったし、友達とも遊んでいたかった。もっと子供に放任主義な、両親がいる普通の家に憧れた。
けれど、ホウキには傷心した父を放って置くことはできなかった。本当は好きでもない魔法の特訓を断ることが出来なかった。
――パパもママも魔法を大切にする人だから。だから、わたしが魔法使いにならなかったら。
ホウキは、もしかすると母を探すと父がいなくなってしまうかもしれないと不安に思った。
中学の間は父のため、残された家族のためと魔法の練習に励み、高校のときにはそれが当たり前になっていた。
小学生の頃から親しかった友人とも距離ができ、クラスでは孤立、普通の学生生活と段々と疎遠になる。話し相手は父と、たまに顔を合わせる親戚と、スマホの画面の向こうにいる配信サイトで活動する人たち。
訓練の合間に、寝る前に、父のいない日に、ホウキはその魅力にどっぷりと浸かっていた。
むしろ、連絡用と渡されたスマホにはそのぐらいの使い道しかなかった。
魔法と勉強の二足の草鞋。進学先は未定であるし、そもそも進学するのかも分からない。
――このままわたしは魔法使いになるんだろう。
そう諦めてしまいたくて、でも諦めきれなくて。結局、父には怖くて聞けずにいた。
そんなある日、一人の男がホウキの父を訪ねてきた。訪ねたというより、ホウキの父の方が招いたという方が正しい。父よりも、そこらの魔女なんかよりも余程魔法に精通した賢者だと、興奮した父はホウキに説明した。
「これから、この人がお前の先生になってくれるぞ」
「いやいや、そんな」と、謙遜なのか照れ笑いをする男は枯れ草色の中折れ帽を脱ぎ、ホウキに会釈した。
「カモと言います。よろしく、香月さん」
――カモさんは、わたしの知る魔法使いとは違っていた。
魔法使いは差別意識が強い。自分が選ばれた特別な存在だと考えて疑わず、魔力も魔法も魔物も知らない普通の人たちを見下し、魔法使い同士でも魔力量とか、血統とか、一族の秘術とか、隙あれば自慢や侮蔑を繰り返す。
すっかり科学文明が根付いた現代で、使う当てがないつまらない魔法の開発や応用に余念がない。
呆れるほど傲慢で対抗心が強く、なにより魔法に直向きで夢中。魔法という名のファンタジーな玩具に毒されて、いつまで経っても子供のままのよう、それが魔法使いだ。
しかし、カモは何処か魔法に冷めているように見えた。
ホウキが父の言いつけ通りに魔道のトレーニングを行い、それをカモが見守る。カモはホウキの成長を自分のことのように喜ぶが、反面指導熱心ではないようで、いつも何かの片手間に魔法を教える。それも魔力の扱い方ばかり。
カモは分厚いマネジメントのハウツー本を読んだり、流行りのマンガを読んだり、週刊誌を読んだり、極々たまにプリントアウトした論文を読んでいたりとかなり乱読する。
始め、ホウキにはそれが不真面目な家庭教師みたいに思えて腹が立った。そんな適当な仕事に父がいたく感心しているのが許せなかった。
でも、ある時から考え方が変わった。
ホウキは父に課されている風魔法の訓練をしていた。
訓練メニューである遠距離から空気の振動でワイングラスを割る練習をしていると、カモはいつものように我が家の土蔵の隅に置かれたキャンプ用のベンチに折り目正しく腰を掛けていた。
いつもと違うのは本ではなくてスマホを持ち、イヤホンを挿して何やら動画を見ていること。微かな音漏れがジャカジャカと鳴って、ホウキの気に触る。
黒須の家は代々音にまつわる魔法を使う。土蔵の中には古ぼけた木管楽器が眠っていて、これら楽器を魔法の効果を高める増幅器として用いるのが黒須の家の秘術だ。
だから、ただでさえ音には少し煩いし、グラスを割るのには空気に含ませた魔力を衝突させた摩擦音で共鳴を起こす。グラスを割るまでには、共鳴周波数の維持をしながら音を増幅させていく繊細かつ精密な魔力のコントロールが必要で、集中を邪魔する要因は排除したい。
父との修行の成果か、人の気配とか衣擦れとか、カモのページを捲る音は我慢できる。けれど、イヤホンから漏れてくる軽快でメロディのような雑音は、そのリズムに釣られて魔力の出力が乱される。
――聞かないように、聞かないように。
そう自分に言い聞かせるが、遠い所で魔力の音鳴らし、それを操ろうと集中するにはどうしても耳を澄ます必要があって――。
「はぁ。ちょっと、すみません。いいですか?」
我慢できなくなったホウキが自分の耳に指を挿し、カモに不満の目を向けるが、カモはスマホを注視して我関せずにメモを取っている。
「あの……すみません!」
大きな声を出してみても、カモには届かない。
最近の周辺機器の進化は目覚ましい。イヤホンだって音漏れの対策はしてあるはずである。もしかするとノイズキャンセリングでこちらの音が聞こえないのかもしれないけれど、それ以前にあれだけ音漏れしているなら相当の爆音なはずで。
ホウキは怒りに任せて風魔法を放出し、グラスを壁に打ち付けて割ってしまいたくなったのを抑え込む。
――そもそも、なんでわざわざ風魔法を音に変えてグラスを割るかな。ぶつけた方が早いじゃん。まあ、それは魔力で音を操るための練習だからなんだけど。――というより、なんでわたしそんな魔法の練習なんかしてるのかな。わたし魔法使いになって何したいんだろ。
不満を思うとキリがない。ホウキは最近こういう類のイライラとか悩みを全部反抗期だからと片付けることにしていた。『仮にわたしが反抗期だったとしても、パパを一人にしちゃったらわたしまで魔女みたいじゃん』と考えて、結局有耶無耶な決着を付けるのだ。
カモは見るに多分ホウキの父と同じくらいの年齢で、世間的にはとっくにおじさんである。そんなおじさんのイヤホンの音漏れを、女子高生のホウキが注意する。
その構図を客観的に思い浮かべて、ホウキは何だか自分は世のおじさんの世話焼きをする役回りになっている気さえする。
ホウキは溜め息をひとつ吐いて、気の乗らない足取りでカモの下まで歩み寄り、座っている彼を見下ろす。
彼のスマホはビカビカと明滅し、無数の光の点が規則正しく揺れ動く向こうで、幻想的なスモークの中でステージライトを浴びながら何人かの女性のシルエットが踊っている。
カメラがアップになって映ったのは、一昔前に流行ったアイドルだった。
音漏れを指摘されたカモは簡単に「ああ、ごめんね」と謝り、反省の色が微塵もない顔で続けた。
「凄いよね。この照明の当たり方とか、霧のつくる雰囲気とか、もちろん演奏も歌唱力も踊りもなんだけど。会場の観客の一体感って言うのかな、どこからどこまでがステージの演出なのか。しかも、その熱量がこうしてインターネットを介して伝わってくる。場所も時間も超えてね。一体どれだけの魔法を使えばこれが出来ると思う?」
「――魔法で、ですか?」
「そう、魔法で」
何かに夢中になっている、子供のようにキラキラした眼差し。据わったような瞳にはカルト的な危うさを宿す。それは紛れもなく、魔法使いの目だった。
――やっぱり、カモさんも魔法使いなんだ。
魔法以外のことに熱中しているようで、実は色んな分野の知識を、文化を漁って魔法が入り込む余地を探っていただけだ。
前から不思議だとは思っていた。秘密主義かつ個人主義の魔法使いが他所の子供の面倒を見るなんておかしい。
カモさんは無差別に、手当たり次第に何もかもを自分の魔法の糧にしようとしているだけなんだ。
と、ホウキは思った。
「変だと思わないかい?魔法使いたちは強さとか権力とか利益とか、そう言うのを手に入れようと必死だけど、そもそもこの世界には利己的な魔法使いたちの需要を満たすほどの魔力なんて無い。君たちが使える魔力なんて極小量なのにも関わらず、何故か争いで優位に立とうとするばかり。この世界には魔法で戦争できるほどの魔力もないし、この国って本当に平和じゃない。もとより魔法に頼らなくとも十分暮らしの質は高いし、何故そこまで魔法に固執するか、私には分からないよ」
「――いや、別に。香月さんとか、君のお父さんを馬鹿にしているわけではないよ。本当に。もし、そう聞こえていたら、謝りたい」
カモは手をひらひら振って、慌てて釈明する。
「でもね、この世界で私は魔法で実現不可能なことを沢山見つけた。似たようなことは出来るだろうけどね、それも一体何年掛かることやら」
そう言って、感慨深そうにカモはスマホを見つめた。
「……カモさんは何で魔法使いになったんですか?」
ホウキは唖然としたまま、そう訊いていた。自問自答の主語を変えて、目の前のカモに答えを求めた。
「私かい?何で……、うーん。私は生まれた時から魔法使いだったからね。どこからが魔法使いで、どこからが魔法使いでないかの区別が難しいから何とも言えないけど、多分香月さんと同じじゃないかな?それが当たり前だったから、みたいな。何だか、頼りなくてごめんね」
カモは罰が悪そうに笑う。
この人の中では魔法が全てではない。魔法使いなのに、魔法よりもたくさんの素晴らしい価値を知っていて、魔法が劣るとさえ思っている。
――それじゃあ、
「何故父の頼みを受けたんですか?何でわたしの訓練に付き合ってるんですか?」
「ああ。音の魔法、楽器を使った魔術体系に興味があってね。君の家の秘術の一部を教えて貰う代わりに君を一流の魔女にするって君のお父さんに約束したんだ。カモくんほどの魔法使いなら、香月さんの訓練の過程で秘術の一端ぐらい直ぐに盗めるだろうって」
「うちの秘術を知って、何をするつもりなんですか?」
「――ええ、いや。今日は質問が多いね。いや、いいんだけども。香月さんが積極的な方が私としては助かるし。うーんとね、先ず私は音魔法――まぁ風魔法を派生させた音の新魔法を初めて知ったんだよね。それで、魔力の奏でる音って言うのをどうにか電子機器に取り込めないかなって思って。別に悪用するとかじゃないよ、こっそりプロパガンダに使うとかそんなんじゃなくて。こう、表現の幅を広げたいというか……難しいな。より人を感動させる歌を作るにはどうしたらいいか勉強中というか」
「カモさんって歌手なんですか?」
「いやあ、私は違うよ。ちょっと、そういう子をプロデュースしてるというか。本当に私は歌えないんだよ」
「カモさん、普段何してるんですか?」
ハハハと誤魔化し笑いをするカモに、ホウキは詰問する。
「え?ああ。えーっと。どこかな。今日は持ってきてないかな」
カモは立ち上がり、自分の着るスーツのあちこちをパンパンと叩いた。
「あ、あったあった」
背広の下に着たグレーのシャツから名刺入れを取り出し、その中から一枚取ってホウキへ渡す。
「ワタクシ、コウイウモノデス。――何て」
厳かに取り繕ったカモから受け取った名刺には、『鴨エンターテイメント株式会社、代表取締役、鴨賢人』と書かれていた。
鴨エンターテイメントは数名のVtuberタレントを抱え、タレントを募集しVtuberとしてプロデュースし、その活動をサポートしている。
ホウキもVtuberは知っている。有名だし、昨今の動画配信サイトのトレンドである。
Vtuberは顔出しせずに表情が見える。だからか、雑談するだけのコミュニケーションが楽しく、配信上でのファンとの交流が盛んで、他にも匿名のメッセージサービスを使ってコメントできたり、投げ銭で活動を支援できたりとファンとの関係が密接である。
ホウキも偶に配信を見に行くことがあるが、配信活動している人と、それを見ているだけの自分とでは住む世界が違うと言うか、不平等な気がしてコメントするよりもただ聞いていることが多い。それでも、偶にしたコメントが読み上げられた時の嬉しさは格別だった。
カモはそんなVtuberタレントを抱える事務所の取締役である。魔法使いでありながら、社会進出――それもかなり先端の分野である。秘密主義のはずなのに重役に就いて矢面に立ち、公式サイトを通してタレントを公募する。そして魔法ではなく舞台演出の研究をしている。
ある日、ホウキはカモに悩みを打ち明けることにした。
カモはホウキの知る魔法使いたちとは何もかもが違う。それでいて、優れた魔法使いであるカモが魔法を否定するなら、自分の中の魔法使いを辞めてしまいたい気持ちを肯定出来そうな気がしたから。
「わたし、本当は魔法なんてどうでもよくて。パパを失望させないために今まで魔法のトレーニングも頑張って来たんですけど、けど、それでわたしが魔法使いになりたいかとか、魔法使いとして生きて行く覚悟があるのかって言われると……」
「うーんと、訓練止めたい?辛かったかな」
カモは目を顰め、「まあ、あれだけ集中する作業を毎日してたらねぇ。ああいうのは一度慣れてしまって、身体に染みついちゃうとそれまでなんだけど」と難儀そうに言う。
「違うんです。そうじゃなくて。わたしにとって魔法使いになるのは当たり前で、パパからも期待されてるし」
「……つまり、本当は魔法使いになりたくないってこと?」
カモのストレートすぎる言い方に、ホウキは尻込みする。
なりたいか、なりたくないか。その答えはずっと保留してきて、答えは出さずに悩んでいることにしている。一方に心を決めてしまっては後々取り返しの付かないことになる気がしてしまう。
でも、この機会にもしどちらかとするなら、どちらかと言えば――。
「……そうなんです」
苦虫を噛み潰したみたいにホウキは応えた。
「そうですか。お父さんはなんて?」
「いえ。まだパパには相談できてません。でも、パパはわたしをママのような強い魔女にしたいみたいなんです。カモさんもわたしを魔女にって頼まれているんですよね」
「うーん。それはどうかな?お父さんは本当のところ香月さんにどうなって欲しいと思う?」
「君に何を望んでいると思う?」
「魔法使いとして大成して欲しい……とか。わたしには、それに何の意味があるか分からないんですけど」
カモはベンチの傍に置いた有線のイヤホンを手に取り、それをくるくるとスマホに巻き付けて、背広の内ポケットに仕舞う。そしてベンチの端へ移動して、空いた所へホウキを座らせた。
「どうなって欲しいか。何を望んでいるか。この質問は同じように見えて、実は違うんだよ」
「例えば私はピザが好きなんだ。寿司も好きだけど、安くて本格的な寿司はあっても、安くて本格的なピザは無いだろう?私はピザにもっと安くなって欲しい。でも、その実本当に私が思っているのはピザを食べたいというところなんだよ。値段が気になって中々手が伸びないんだけなんだ」
「――それって、つまりどう言う意味ですか」
「香月さんが魔女になった先で、君のお父さんは何を望んでいると思う?」
「私には子供がいないから合っているかどうかは分からないけど、お父さんは香月さんに、香月さんのお母さんみたいな自立した女性になって欲しいんじゃないかな?でも聞いたところによると、君のお母さんはお父さんも香月さんもほっぽり出して家を出て行ってしまったんだろう?だから、体面的にお母さんみたいにとは言えない、とかね。後は、これは私の勝手な想像だけど、香月さんは一人娘だから、魔女として黒須の家に縛られない生き方をして欲しいとか」
「まあ、本当のところはお父さんにしか分からないけどね」
カモは暗にホウキが父に相談することを促す。
「香月さんの家に伝わる魔法の技術を後継者に繋ぐことは、当代である君のお父さんの役目。そして、香月さんがどんな人生を生きるのか、どんな魔法使いになるのかは香月さんの自由なはずだよ。魔法以外に何かやりたいことがあるなら、それをやらない手はないよ。折角魔法が使えるんだから、香月さんのやりたいことのために魔法を使うんだ。もう、魔法使いなんだから」
「魔法を使うのも、使わないのも。使えるんだったら一口に魔法使いだよ。君は多分どっちの生き方を選んでも良いんだ」
ホウキは結局、考えることがややこしくなっただけな気がして苦い顔をする。
「悩むのは大切な経験だよ。私に出来ることがあるなら協力するから、自分で考えて、分からなければ相談して、悔いのない選択をすればいい」
***
「本当に良かったんですかね」
「私の仕事の手伝いをするって言ったらお父さん喜んでいたじゃないか」
ホウキは家を出る決断をした。取り敢えずの進学でもなく、父に言われるがまま社会に出て行くでもなく、カモの下で働いて色んなことを経験するのだと父に語り、家を、一族を、魔法使いのコミュニティを飛び出すことにした。
さらに進路を決めたホウキはカモの指導の下、大急ぎで秘術を体得し父を安心させた。だから、父の許しは出ている上での決定だった。
「でも、パパは勘違いしてます。それこそ本格的にカモさんに弟子入りするみたいな」
「良いじゃないか。嘘も方便だよ。嘘という言葉の響きが嫌なら、便利な魔法とでも思えばいい。魔法使いの当たり前から一旦離れて見て、それから自分の将来について考えてみる。私は良い決断だと思うよ。やっぱり、色々心の整理つけるには時間が必要だよ」
カモは優しく励ますように諭すが、ホウキの表情はどこか暗い。
ホウキの悩み事は一先ず進展した。しかし、無くなったわけではないし、何より不誠実な気がする。昔は父を支えたい一心で魔法使いになろうとした。それが、今では父に嘘をついて魔法使いを辞めようとしている。
そんなどっちつかずな自分が嫌になる。
「――カモさんは迷惑じゃありませんか?」
「うん?大丈夫だよ。何度も言ってるけど、うちはベンチャーだから人手は多いに限るし、それに雇うなら元魔法使いぐらいの人の方が説明も少なくて済むし、社内秘もきっと守ってくれるだろうし。いや、恥ずかしい話、人を簡単に雇えない事情もあって、本当に何かとこちらも都合がいいんだ。心配はいいから、転校のこととか、その後の普通の学校生活のことを考えるといいよ」
カモは気楽に車を走らせる。運転席に座るカモの顔は、後部座席に座るホウキからは見えない。けれど、きっといつものように笑っているのだろう。競争心がない。執着がない。だからいつも脳天気みたいに楽しそうで、まるで子供のよう。そこが唯一魔法使いらしいところで、ホウキが尊敬しているところだった。
――わたしを二人三脚で歩んできた優しいパパも、強くて包容力のある記憶の中のママも。わたしの中の魔法使いはみんなみんな何かに夢中だったけれど、同じくらいに何かに追われているみたいだった。少なくとも楽しそうには見えなかった。
「――時に、香月さん。私が異世界の魔法使いってことは知ってるよね?」
「はい。何でも、魔法も魔力も、もとは異世界から持ち込まれたものだって。パパが興奮して話してました。『異世界の魔法はこっちの魔法とは次元が違うんだ』って」
ホウキはいつかの父を思い出す。
その日、父は顔を赤らめて興奮していた。酒を飲まない父が酔っているはずもなく、多分魔法を使い過ぎたのだろうことが分かった。魔力を消費し過ぎると、身体には色々な形で不都合が現れるが、父の場合は代謝がおかしくなり体温が高くなって良く汗をかくようになる。
「いいかい、香月。魔法って言うのはもともと異世界で創られた技術なんだ。それを我々魔法使いが何とか真似して、それらしいふうにしたのがこっちの魔法。要するに模倣というか偽物に過ぎない。本当の魔法、つまり異世界の魔法って言うのはね、こっちの魔法とは次元が違うんだ。こうやってカモさんが右手を空に向けてね。『紡風切!』って叫ぶと、手から無色透明な空気の塊が飛び出して雲を切るんだ」
その後もしばらくの間、父はカモの真似をして手を掲げ、ごっこ遊びをする子供みたいにはしゃいでいた。
「――先に言っておくと、うちの事務所に所属するタレントさんたちはみんな異世界から来た人だから。香月さんは驚くかもしれないし、ひょっとすると上手く馴染めないかもしれない。だから、私は頑張れとは言わないよ」
「学校卒業してみて、それで他にやりたい事が出来たら、うちを手伝わずに好きなことをすれば良い。何か恩返ししないといけないとか思う必要はないけど、もし香月さんの中で納得できないのなら、うちのタレントと活動をファンとして応援してくれればいいからね」
「はい!」
ホウキは強く返事をした。
「……じゃあ、私は言いたいこと話せたし、人目も無くなったみたいだからここからは飛ばして行くよ」
「え?ダメですよ。ここ一般道です」
「違うよ。魔法で転移するだよ。最初はちょっと酔うかも知れないけど、転移したら直ぐ駐車場だから。もし出ちゃいそうになったら、そこのスーパー袋使っていいからね」
「え?えと、これですか?」
助手席の背にあるポケットに白色のナイロンが入っていた。
「――口開けてると舌噛むよ!固くならずに自然体で――」
カモは妙なハイテンションで注意を促す。
――その数秒後、車の窓ガラス全てから眩しいほどの閃光が車内へ突き刺さる。併せて、ジェットコースターが落下していくみたいな下から上へと慣性力で内蔵が持ち上がる気持ち悪さがやって来る。
ホウキは慌てて車の天井に片手を付け、身体が浮き上がるのを制してシートに固定しようとするが、その実、身体は重力に従ったままシートの上から少しも離れていない。
目に焼き付いた眩しさと急激な浮遊感に、意識が薄れていった次の瞬間には、車窓の外の情景が薄暗い駐車場の中へ変わっている。
瞬きする間に過ぎ去った絶叫アトラクションに似た衝撃にホウキはどっと疲れ、過呼吸気味な胸を撫で下ろす。何度か深呼吸をして落ち着くが、そこで身体の中の魔力が今までにないくらい不規則に揺れているのが分かる。
脊椎の一文字を軸に、縦でも横でも斜めでもないぐちゃぐちゃに体を揺り起こすような揺れに、重心の位置が、目の焦点の合わせ方が分からなくなる。
――ゾワゾワゾワ
加えて、痺れるようで、肉の中を虫が這いずり回るみたいな小さく振動する流れが身体中にある。
――何これ、やばいかも。
ホウキは悟り、反射的にスーパー袋へ手を伸ばした。
ホウキはもう魔法使いではなかった。もっと言えば、黒須香月でもないかもしれない。事務所や仕事の仲間には既に空飛部ホウキで通っている。この名前が良いのか悪いのかは置いておいても、ホウキは割りかし今の立場を気に入っている。自身がVtuberであることを好きでいる。
そう、今のホウキはVtuber兼魔法少女だった。
「ごめん。ホウキさん。一つ頼まれてくれないかな?」
そうホウキに声を掛けたのはカモである。
ホウキは訝しげに眉を顰め、不満をありありと表情に出しながら、いつものように
「いいですよ」
と、声色だけは二つ返事で了承する。
カモは基本的に何もかもを与えてくれたホウキの恩人であり、ホウキから見れば全知全能に並ぶ人間である。彼のパーソナリティが完璧なのかはさておき、何でも一人で出来るだろうこの柔和な奇人がわざわざ他人の力を借りようとする時は、大抵碌なことではないのをホウキは知っていた。
「――プロトくんの件なんだけど。彼の魔力脈を機能させるために、取り急ぎ魔物の魔核を集めたくて。ちょっと協力してくれないかな」
カモの話に出た試作機プロトはホウキの同僚のVtuberであり、二人しかいない同期のうちの一人である。そしてホウキが家を出て、ゲームに出会ってからの短い期間だが一方的に、参考程度に世話になっている人物だ。学べることは多い。けれど、頭で理解したところで自分なんぞに真似できるわけはない。と、そのくらいに彼のゲームの腕前を尊敬している。
人間的には頼りないけれど、そこが逆に安心できるし、デビューする前から一方的に知っていたのもあるし、プロトとは唯一広い意味で同郷である。そして、何より歳が近い。
だからホウキは勝手に親近感を寄せている。
カモが『プロトくんの件』と言えば、それは彼が現在進行形で罹患している魔力の適応障害のことであり、この件についての依頼であればホウキにとっては益々断る理由がなかった。
「分かりました。でも、わたしは何をすればいいんですか?」
ホウキが訊くと、カモはニタリと笑ってから、ハッとしたような顔をして、その溢れた笑みを不謹慎にならない程度に噛み殺して続ける。
「ええっとね。ちょっと用意してきたものがあるから――」
カモはオフィスの休憩スペースにホウキを置き去りにして、デスクスペースの方へ言ってしまう。向かい合って設置されたデスクたちの統一された白くて開放的なデザインがなければ、あの一角だけ完全に職員室みたいだなあとホウキはいつも思っている。
「はい、コレ」
戻って来たカモがオフィスの奥から引っ張り出してきたのは箒だった。柄の部分が長く太い目の竹箒である。
「――先ずはこれで飛ぶ練習しようか」
そう言って、有無を言わさずにカモは箒を押し付ける。
「これホウキさんにあげるから。これで魔物を狩る手伝いをして貰いたいんだ」
***
飛行魔法。それをホウキは知らない。カモによれば飛行魔法は相当に高度な魔法らしい。
「じゃあ、いきなり練習って言われてもわたしには無理じゃないですか?」
オフィスビルの地下駐車場で、取り敢えず箒に跨ったホウキは不貞腐れたように言う。
「魔法の効果で直接飛行できるようにって言うのが高度なのであって、単純に空を飛ぶという目的を達成するだけなら簡単だよ。魔法で身体能力を爆発的に高めて、その跳躍力で空を飛ぶのだって一応は飛行と言えるだろう?」
カモはさも当たり前だという態度で説法する。
「……まぁ、それは分かりましたけど。それならわたしでも出来る《《飛べる》》魔法を教えて下さい」
「魔法なら必要ないよ。付与刻印で必要な魔法は埋め込んだから、後は回路に魔力を流す感覚とか、制御を覚えて欲しいんだ。一応、テストも兼ねているけど、私が試した分には大丈夫だったから」
「え、えーと」
結局、どうすれば飛べるのかの答えを得られず、ホウキは困惑する。
「箒の柄のところには軽量化の魔法が組まれてて、魔力脈と魔力回路を繋げるようにして、自分とホウキ……ややこしいな。先ずはホウキさんと箒をまとめて軽くする。次に、魔力を穂先の方まで送って、風魔法を発動させる。その風魔法が推進力兼浮力になるから、こう――」
カモは身体の前に水平に腕を出して見せ、それを肘を軸に回転させて動かす。
「穂先が斜め下に来るようにして、箒を立たせるんだ。注意点としては、軽量化の魔法があるから浮かびさえすれば、しばらく飛んでいられるけど、魔力脈と回路の接続が甘いと軽量化の効果も薄くなって墜落することと、穂からの推進力がないと飛んでいられないことと、最初に浮かび上がる時に、かなりまとまった出力――つまりはスピードが得られないと上手く飛び上がらないこと」
「イメージとして分かり易いのは自転車かな?ハンドルを離してると転び易くて、前後二本の細いタイヤじゃ、ペダルを漕いでないと静止しちゃって、止まっちゃうと足を着かない限りは立っていられないでしょ?あと、最初に漕ぎ始める時にある程度スピードに乗れないと不安定っていう。止まる時には逆に軽量化魔法を徐々に解いていって着陸する。この時、軽量化の効果が高いほど接地の衝撃は少ないからね。急に止まりたい時は重心を移動させながら、穂先を回してターンする。こんな感じで」
カモは妙な内股のまま、その場で小さくジャンプして九十度回転する。
「自転車とかバイクならドリフトする感じかな?もっと分かり易いのはスキーとかスノーボードとかだけど、ホウキさんはウィンタースポーツとかする?多分したことないよね」
――飛ばない。いやでも、箒の所為しても仕方ないか。ぜんぜん、飛べないんだね、わたし。
自暴自棄になる一歩手前で、ホウキは自己肯定感が薄れて行くのを感じていた。
「浮かべさえすれば、後はバランス感と、集中の持続力だけだから」
とカモに言われて、ホウキは取り敢えず飛び上がれるようになるまで地下駐車場で一人孤独に特訓を続けていた。
逆に、飛べるようになると地下駐車場で練習するのは危ないから止めないとも言われた。
カモが手本として飛んだ時には、丁度箒で掃くように穂先を地面につけて。そして、そのまま穂先を地面に擦りながら走って、魔力を込めて箒が地面を蹴るように飛び上がった時に、勢いよく跨がっていた。
確かにその様子は、おばちゃんがペダルに片足を乗せ、もう片方の足で地面を蹴って助走し、ある程度の速度が乗ったところでサドルに飛び乗る所謂ケンケン乗りに似ていた。
ただ、ホウキは魔力を込め柄で軽量化を発動させてから、続けて穂から風魔法を放出させる流れがスムーズに出来ない。
だから初めに軽量化を発動させた後、月の重力下みたいにふわふわとジャンプで滞空しながら箒を股の間に挟む。そこから魔力を穂先の方へ集中させるのだが――。
ドサッ、カラカラカラ。
箒の急発進により、ホウキは後ろに大きくのけ反る。体幹が崩れて軽量化の魔法が薄れ身体の重さが戻ってくると、さらに後方へ重心が飛ばされ、最後は中途半端にバク宙するようにホウキは後ろへ、箒は傾角六十度から七十度ほどで射出される。
「つぅ……イタタ」
箒から振り落とされる度に尻とか肘とかを地面にぶつけている。
初めて子供が自転車に乗る時みたくヘルメットとかプロテクターがあった方がいいな、と分かっていてもホウキもカモもそこまで用意周到ではなかった。
今のところ大きな怪我はないが、長袖長ズボンの体操着の上からでは分からないが、このヒリヒリとする感じは身体の各所で擦り傷になっているのは間違いない。
学校指定の分厚いポリエステルのジャージの肘とか膝とかが擦れてツルツルになっている。
――見えないだけできっとお尻も真っ白になってるだろうな。
ちょっとだけ恥ずかしいが、もう卒業だから汚れたって構わない。
ホウキはさてどうしたものかと考える。打ち捨てられた箒に目もくれず、腕を組んで小首を傾げる。
この乗り方が上手くいかないのは軽量化に伴って、発進時に掛かる慣性力とか空気抵抗に身体が抗えないからだろう。
軽量化を維持しつつ、少しずつ穂先に流す魔力を調整する必要がある。
カモは多分、その辺りを上手く調整できるだろうし、穂先が浮かび上がったタイミングを見計らって箒に乗っていた気がする。
――でも、わたし、そんな器用にできないし。
頭を巡らせるだけでは手持ち無沙汰になって、箒を広い上げてみる。軽量化を使わなければ竹箒はそれなりに重量感がある。穂先を真上に向け、それを手のひらの上に立たせてバランスを取りながら、まだまだ考える。
そして、何を思ったか軽量化を発動してみる。
カラカランッ。
――軽い方が難しい……。
手に沈み込むような重みが無い状態では、箒の重心が分かりにくいことに気付く。
箒を拾い上げ、今度は穂先の方へ重点的に魔力を流す。
手のひらに接する一点から魔力を穂先まで流すのは難しく、出力が安定しないが、しかし重さの代わりに箒の推進力が芯みたいに感じられて、さっきよりもバランスが取りやすい。
――これ、もしかしたらいい練習になるかも。ちょっと楽しいし。
ホウキはそれから、失敗しては箒を手に乗せて遊び、挫けそうな心を紛らわした。
練習開始から合計で三十時間ほど経って掴んできたコツ。
それは、軽量化よりも風魔法の放出の方が大切であること。斜めに飛び上がる箒に対して、身体の重心を少し前へ向けて体重をかける。箒が持ち上がり過ぎないように、柄を握る手と尻で体重で抑えつけるイメージ。
姿勢を制御するには、軽量化を重心が分かるくらいに留めて置かなければいけない。
ホウキは深呼吸をする。
これで何度目の挑戦だろうか。
――多分、スムーズな魔力操作とかそんなのは要らない。わたしは飛べないのではなくて、先ず乗れてなかったんだ。
ホウキは肩幅よりも少し腕を開いて、両手でしっかりと柄を持つ。そのままホウキに魔力を込め、柄の先端に向かって段々と身体が引っ張られる。
その力に抵抗せず、棒高跳びの選手みたいに箒を抱えて走り出し、大きく三歩地面を蹴って――。
「(今だ)」
ホウキは箒に飛び乗る。勢いそのままに跨る。
跨るために箒を押し上げると、地面に穂先が近付いてより推進力は強くなる。穂先の方から浮かび上がりそうになるのを左手で制しながら飛び乗り、今度は尻で押さえつけるようする。
一度離した左手で右手の直ぐ下のところを握り込み、軽量化を発動させると、ホウキは落ちることなく浮かび上がり、低空を進む。
「やったぁ!」
自分が飛んでいることを自覚して、ホウキは大袈裟に足を広げる。その足は地面に着くことなく、態とバタバタさせて空中を走ってみる。
――すごい、わたし飛んでる!
箒の速度は時速三十キロほど。それでも駐車場の中では結構に早い。
ホウキが興奮冷めやらぬうちにあっという間に駐車場の端の壁が迫って来て、止まり方も分からず、全身で舵を切り重心を回転させる。
練習もしていない間に合わせだったが、ホウキは綺麗にターンを決め、箒が壁に衝突するのを免れる。がしかし、遠心力にバランスを崩したホウキは吹っ飛ばされ、そのまま肩から壁にぶつかり衝撃で箒を離した。
壁に寄り添いながらずるずると倒れ込むホウキ。
肩に打身を負った彼女は目の端に薄らと涙を溜め、ただひたすらに笑っていた。
「……ッ乗れたぁ!やったー」
ホウキはまだ震える手を固く握り締め、全力でガッツポーズをすると、ダラリと駐車場に寝転がった。
魔物とは魔力で構成される生物のような存在。
しかし、物質で構成されているわけではないから生き物という表現には多少の語弊があるかもしれない。魔法の炎が熱い様に、魔力を感じられるならその質量も感じられるが、魔力を感じられない普通の人間には魔法が見えないのと同じで影も形も分からない。
魔法使いの定説では魔力あふれる異世界から魔物と魔力がやって来る。魔力や魔法が異世界からの恩恵なら、魔物はその代償である。
この世界では、魔物は魔力を回復することが出来ず、ただ存在するだけで魔力を消費して疲弊する。そうしてやがては霧散して魔力の流れに帰る。
本来なら、魔物は積極的に人を襲うらしいが、魔力のない人間は魔力で構成される魔物にとって糧にはなり得ず、こちらの世界の人間は魔物も魔物への対抗手段である魔法も知らずに生きて行ける。
魔物に狙われるのは魔法使いと異世界から来た人だけ。
魔法使いは生まれた時から魔物と戦う使命があるが、それだって魔法を忘れ、魔力の鍛錬をしないで普通の人に紛れれば、必ずしも戦う必要はない。魔力さえなければ標的にならない。ホウキも物心ついて直ぐの頃に、魔物から身を守るために魔力を隠匿する術を学んだ。だから、魔物と戦ったことは一度もない。
そんなホウキが魔物を狙う。
ホウキはようやくまともに操れるになった箒に跨って空を駆け、魔物の背を付かず離れずで追いかける。
その実は追いつけなくて、必死に離されないように粘っているだけだ。
短い首にトカゲの様な長い尻尾。ブルーグレーのコウモリみたいな皮膜の翼は、端から端までがバスケットコートの横幅ぐらい。頭は見えないが、背中には密集するたてがみがあり、翼と尻尾には体毛がなく、地球の生物とはかけ離れた外見をしている。
魔物は滑空するような姿勢で翼をはためかせることなく、飛び上がったり旋回する。恐らく物理法則に従って飛行しているわけではない。
魔物はたびたび形ある魔法と形容される。魔力で構成された身体は、分かりやすく言えば付与刻印のような働きをしている、とカモは言っていた。
「魔物はこの世界だと魔力という栄養を得られないからね。接敵したら風魔法でちゃちゃっと倒しちゃって、そのコアを回収して来てくれればいいから。それこそ吹けば飛ぶくらいに衰弱してるだろう」
「大きい魔物ほど消費する魔力が大きい。だから、そういう魔物は狙い目だね」
とカモは簡単に言っていたが……。
空を飛ぶホウキが会敵するのは大抵空を飛ぶ魔物である。空を飛びながら地上の魔物を見つけ出すのは難しいし、いくら人除けの魔法を発動させていても、人の往来の近くを飛ぶと目立つ。人除けは魔法使いが隠れ潜むための魔法で、実質的な透明人間になれるほどの効果はない。
今のホウキの飛行技術では魔物を追いかけるのがやっとで、攻撃できる暇はない。
そもそも空飛ぶ箒はその構造上、空中で停止することが出来ない。
カモによればもっと構造を複雑にするか、色んな付与刻印で沢山の魔法の効果を同時に得られるようにすると、空中での静止も可能らしいが現段階では実現は難しいとのこと。
つまりは飛行しながら攻撃魔法を放ち、魔物を追い詰めなければならない。そして、飛行しながらの風魔法は飛行速度に伴う空気抵抗によって有効射程が極端に短いのだ。
――先ずは追いつけるようにならないと行けないし、箒に乗りながら魔法を使うために別の魔力操作も同時に出来なきゃいけない。
頭では分かっているが、実演はまだまだ出来そうにない。
箒に乗ってからもう数日経ったが、今のところ、ただ空を飛びながら魔物を見物しているだけだ。
一応、得られたことと言えば――。
小さい魔物は機動力が高く、仮に弱いとしてもその動きを捉えるのは困難である。
大型の魔物は鈍重だが、近くを飛ぶと噛みつこうとしてくるし、攻撃の通りが悪く全く歯が立たない。
今日みたく、小型と大型の間を狙ってみても、とても追い付いて攻撃をする隙はない。
そんなことが分かった。
課題の多さにうんざりしながら、ホウキは魔物の背を追いかける。
高いところは寒くて風が強いが、直線距離で追えるため少しずつ距離が縮められる。逆に、ビルの谷間に入られると、空気の流れが不規則で姿勢が乱れ、速度を維持できない。
角を曲がるたびに見失いかけてまた離される。
それでも付かず離れずをもうずっと出来ているのだから、飛行能力も魔力面のスタミナというか、適切な力加減が分かってきたのかも。とホウキはポジティブに考える。
出来ないことを考えるより、自分の成長を肯定する方が精神的にも体力的にも良い。
考える余裕が出来たのだって成長かもしれない。とホウキが油断していた隙に、魔物が翼を畳み体を地縮めて急降下を始めた。
――ああ、ちょっと待って。
魔物は地面から三十メートルほどのところを道路に沿って飛ぶ。
ホウキは軽量化の魔法を止めて重力を受けながら、姿勢を前屈みにしながら斜め下に加速する。
咄嗟の思い付き、自己流の応用だったが、みるみる魔物の背に近いていく。
――コレ、行ける!
ホウキは右手を箒から離し、それを頭の横で構えた。
「風よ集まれ、大気よ渦巻け」
ホウキは右手の人差し指で空中に円を描く。するとそこへ黄緑色に発光しながら棚引く繊維が次々と現れて、空気の流れを可視化するように辺りを旋回する。ホウキが光の束を拳で掴み取るととシュルシュルと拳に巻き付き、綿菓子みたく大きくなる。
重力の加速を活かし、推進力へ回さなくていい分の魔力を拳に集める。すると、拳に纏う緑色の光線はどんどんと増えていきボウリングボール台になる。
「――ッ!」
ホウキが魔物の背中へ狙いを定めて、その拳を振り下ろそうとした時、自分と魔物の延長線上に見知った人影を見付ける。
それは休養中のプロトだった。彼は呑気に空を見上げている。
――あれってプロト?
ホウキは一瞬躊躇い、その隙にビル風が彼女を煽った。箒が大きく揺れ、手元が狂って魔法はあらぬ方向へ飛んでいく。
――ああ、もう!
ホウキの拳から放たれた風魔法は流れ星のようにキラキラと輝きを放ちながら小さくなり、やがてビル風の一つになった。
好機を逃したホウキは仕方なく箒を握り直し、魔物へさらに接近しようと試みる。
地面との距離が近付いて来て、軽量化を発動させながら穂先を地面に向けて落下に備える。出来るだけ水平方向の速度が落ちないように箒は傾け過ぎない。
魔物はまるでプロトに標的を定めたみたいに一直線に降下して行く。
――そんな、まさか狙われてる?
プロトが魔物に襲われるかもしれない。今は箒の制御が手一杯で魔法が撃てない。魔物より先にプロトの下まで飛んでいくのも不可能だ。だからと言って、何もしないわけにもいかない。そもそもホウキはプロトを助けるために魔物を狩りに来ているのだ。
「――風よ……」
ホウキは再び右手に魔力を集中させる。目を閉じてさっきの魔法のイメージを思い出す。さらに地面に激突しないために、箒にも大量の魔力を込め、その制御なんかは忘れてただ二つの付与刻印を発動させる。
ホウキの経験上、箒は飛び立つのに繊細な魔力操作とかコツがいるが、飛んで仕舞えば複雑な操作は要らないのだ――真っ直ぐ飛ぶだけなら。
「……叢雲を散らし、我が敵を撃てッ」
――お願い、間に合って。
次にホウキが目を開くと、低空を飛ぶ魔物と同じぐらいの高さを飛んでいた。落下は避けられている。左右に建築物が真っ直ぐに並んだ一本道の先に、丁度魔物の背が見える。
「風撃!」
ホウキは魔物目掛けて拳を振るった。地面の水平方向に放たれた風魔法は、その軌道上地上を歩く人には当たらない。
魔法を放つのは間に合った。地面に激突することはない。しかし、魔物命中させるには速度が足りない。風魔法の射出速度はホウキが飛ぶより速い程度、魔物には追い付けるだろうが、前へ進み続ける魔物の背中に激突するにはまだ猶予がある。
そして、恐らくはそれより早くに魔物はプロトの下へ到達する。ホウキから見てプロトまでの距離は目算四百メートルはある。とてもホウキの風魔法の有効射程ではない。
ホウキは最悪の覚悟をする。
魔物が狙うのは魔力を持つ者だけ。魔力のない人間は魔物にとって存在しないのと同じだ。だから、魔物が飛び方を大きく変えて一目散に地上を歩く人間を狙うなら、ホウキの目から見てそれはプロトしかいない。
プロトが魔物の接近に気付いているようには見えない。
魔物はプロトにみるみる近付いて行く。もうダメだ、間に合わない。
ホウキは目を閉じた。
目を閉じて数秒の後、ホウキは正面からの強風を感じた。箒を離してしまいそうなほどの強烈な衝撃。それは服や髪を吹き荒ぶようなものではない。風ではないのだが、地下駐車場での特訓中に壁にぶつかった時のような、空気の壁を感じた。
空中でよろめきながら、ホウキが恐る恐る目を開くと、魔物が翼を大きく広げ、次の瞬間には角度を変えて中空へ向かって飛び去った。
――今、何が起きたの?
ホウキは疲れ切った様子でプロトの方へ飛んで行った。
何も知らないプロトの横には小柄な人影があった。まるで影に溶け込でいるかの如く存在感が稀薄な影は、全身黒尽くめに光り輝く透明な金髪を翻す。その金髪をホウキは知っている。
「ええ、なんでプロトがカミラ先輩といるの⁈」
驚いたホウキは止まるのを忘れ、二人の上空を飛び去った。