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異世界Vtuberに囲まれて  作者: 未田不決
4/7

3.配信休みと吸血鬼

【お知らせ】


 しばらく配信はお休みします。

 引っ越してから、やっとゲームをする環境が整って、同期のコラボも解禁されて、調子に乗って連日長時間配信をしていた所為か、朝起きると声が出なくなっていました。何日か前の配信でお話しした通り、ここのところ体調が悪く、「熱っぽいなぁ、風邪かなぁ?」なんて言っていたらコレです。過度の配信による喉へのダメージと、飲んでいた薬も悪かったみたいで、しばらくは配信できませんが、深刻なものではないので博士のみんなは安心して下さい。


 ――試作機プロト、十二月二十日、午前十一時六分の投稿から引用。


***


 怠い。身体が重い。熱っぽい。体温上昇で頭のぼやぼやした感じはまるでサウナの中に居るようで、さらには内側から蒸されているから逃げ場がない。サウナならこんな時は水風呂に浸かれば気持ち良いだろうが、今は悪寒が止まないし、手で冷たいものに触れると肌をチクチクと刺すみたいな拒絶反応がある。


 ――流石に今日は配信できないな。


 プロトは仰向けに寝たまま、額に腕を置いてため息を吐く。

 前々から体調を崩していた。今更だが、風邪を引いたのはもう明らかで、それが重症化したんだろう。体温計がないから額を触って熱を測るが、額どころか顔も手も何処でも熱くてよく分からない。


 プロトは決まって連日暇続きなのに『明日も配信するの?』と視聴者に聞かれた時には「今のところ分からない」と答えて来た。配信するのがプレッシャーになると嫌だったからだ。

 その逃げ癖、良く言えばメンタルコントロール法が役に立って良かった。やっぱり、こんなふうに唐突に休むこともある。


 取り敢えず、今日はゆっくり休んでいようとプロトは思うのだが――。


 ……果たしてこれは寝ているだけで何とかなるのだろうか。

 そんなレベルではない気がしてならない。病気の時はいつにも増して不安になるが、これは杞憂なのかどうか。どちらにしても、距離的にも、関係的にも親に頼るのは難しいし、だからといって薬を買いに家を出る気にもならない。

 引っ越して間もない、と言っても引っ越してから二ヶ月ぐらいは経つのだが、常備してあるのは花粉対策のアレルギー反応を抑える目薬と整腸剤くらいである。

 そう遠くない距離にドラッグストアもあるのだが、今の状態を鑑みるに歩いて十五分は掛かるのではないだろうか。

 往復で三十分――その言葉のインパクトが出不精のプロトを悩ませる。


「はぁー」


 結局、状況は何も進展しないままに、プロトは目を閉じた。


 熱の所為か目を開いているだけで乾いて仕方がない。だから、瞳を閉じているとジーンと染みるような心地良さがあり、瞼を閉じずにはいられない。

 身体を包む感覚がいつもとは違うから、いやに目は覚めている。しかしながら、今出来るのは瞳を閉じて身体を休めることくらいだった。多分何度か寝落ちしているだろう。けれど、それも倦怠感の所為で覚醒時と入眠時の差が曖昧で分からないし、休めているのかも分からない。


 そんなプロトが自分の寝ていることに気付けたのはスマホのアラームが鳴った時だった。最初から収録されている好きでも嫌いでもない音楽が耳元で流れ、ゆっくりと目を覚ます。

 音が鳴っているのに気付いて、それが耳元で鳴っているのが分かって、眠っていたのに気付いて、それが音楽だと分かって、スマホのアラームだと気付いて、目を開けて、首を回してスマホを手に取り、アラームを消し止めた後で、そう言えば四期生のミーティングがあったことに気付く。


 ――ああ、そうだ。準備しないと。


 会議室に集合する時間より一時間前にアラームをセットしたのだ。予定があると前日の夜は中々寝付けなくなるので、ギリギリまで寝ていたい派のプロトはいつも準備の時間を逆算して入念にアラームをかけておく。

 それでいつも行動するのが早すぎるくらいで、結局時間を持て余すのだが、だからといって、何十分前行動が当たり前になっているこのせっかちな性格を直すことは今のところ出来ていない。

 損をしている自覚はあるが、直せる気はまるでしない。


 歯を磨いて、顔を洗って、着替えて三十分ぐらいだから……。


 そんなことを考えながら、プロトはベッドから身を起こし、ノソノソと部屋を歩き始めた。



 プロトがオフィスの会議室までやって来ると、そこには既にイナリ、ホウキ、スイレンの姿があった。

 防音の為なのか重く、分厚い会議室の扉はドアノブをひねるとガチャリと大きな音を立てる。


「――珍しい」


 プロトに気付いたイナリがボソリと言った。


 プロト、イナリ、ホウキの中で一番時間にうるさいのはイナリであるが、大抵待ち合わせに一番早く来るのはプロトである。今、会議室にいる面子で言えば、プロトが十分以上前、ホウキは三分前、イナリはまちまちだが時間厳守を徹底していて、スイレンは仕事の都合上遅れることもある。


「はぁ――へす(お疲れ様です)」


 プロトが何時間ぶりの発話をすると、微かな喉の痛みと、まるで分厚い蝋でも喉に張り付いているみたいな異物感を感じ、声帯を震わせるはずの空気は何処かへと消えていった。

 それでようやく、プロトは声が出なくなっていることに気付いた。


「――マスクして、風邪辛そうですね。心なしか顔色も悪いような」


 プロトが身体の異常を悟ってから、喉の不調を感じるまでが遅かったように、心配しているホウキもプロトが声を出せなくなっていることには気付かない。

 しかし、それもマスクで口の動きまで見えないのだから当たり前だった。


 「今日は体調が良くないから配信は休もう」と、そう悠長に考えていたプロトの額に冷や汗が浮かぶ。

 思っている以上に風邪は重篤であり、事態は深刻であるらしい。


「ほんまやん。大丈夫?」


 続けてイナリもそう言うが、プロトに答える余裕はない。

 自らが置かれた状況の深刻さを客観的に理解し、声が出したくとも出せないという初めての自体に主観的にパニックになっていた。


 会議室の入り口で立ち尽くすプロト。その目はさっき喋りかけてきたホウキやイナリの方を漠然と見据えて動かない。


「なんか、アカンみたいやな。取り敢えず、座って楽にしいや」


 イナリは座っていた椅子から慌てて立ち上がり、おかんとか祖母とか養護教諭みたいに世話好きで心配性なふうに、その小さな身体で比較的大きなプロトを寄り添い介抱した。

 プロトは立てないほど、まして座っていられないほど衰弱しているわけではなかったが、種々様々な不安が頭を巡り、動揺で固まったところをイナリに押され、椅子の背もたれと座面の角に身体を押し込まれるようにして座った。


 落ち着くまでには二分と掛からなかった。プロトの横ではイナリが執念深くどうしたのかと喚き続け、おちおちとネガティブな感傷に浸っていることも許されなかったからだ。


 プロトはポケットからひやりとしたスマホを取り出してメモ帳のアプリを立ち上げて、


『風邪引いた』

『声が出ない』


 と二行で簡潔に状況を説明した。


「風邪?」


 イナリは透かさずプロトの額に手を触れる。プロトの肌からは手を触れるまでもなく炭火のように熱が放射され、前髪を退けるとじっとりとした湿度が溢れる。


「熱いな」


 イナリの言を聞いて、ホウキは黙ってプロトが机に投げ出した手に触れた。


「本当だ」


「重症やないか」


 イナリは声を荒げる。


「良ければ、冷やしますか?」


 水の精であるスイレンが少し躊躇いながらそのスライムのような手をゆっくりと差し出す。

 その提案に、ホウキとイナリは血走った目をスイレンに向ける。


「え、いや。ワタシ、人間種の風邪についてはよく知らないんで、こんな時どうしていいか分かんないっすけど」


 戸惑いながらスイレンが言うと、


「お願いします」


 とホウキは強く答えた。


 スイレンの自由自在な掌がプロトの額に触れる。ペタリと肌に張り付いて溶けるように包み込む感じは熱が出た時に額に貼る冷感シートに良く似ている。それどころか、熱を吸収する空間に終わりがなく、額から目の奥の熱まで吸い込まれていって実に清々しい気分になる。


「どうすか」


 自信なさげに訊くスイレンにプロトは親指を立てて反応する。


 ――ガチャリ。


 そこで会議室の扉が開かれる。


「ごめんごめん。遅れました」


 えへへと柔和で恭しい照れ笑いをしながら、カモが入室する。


「おや、どうしたの皆んな。いつの間にそんなに仲良く……、ひょっとしてお邪魔だったかな?」


 ご機嫌なカモを見る女性陣の目は冷たい。


「――アレ?」



「んー。初めて見る症状だね」


 カモは訝しげに右手で自分の顎先の肉を摘み、左手でプロトを触診した。


「口開けて。喉は……、もうちょっと上見て。うん、そう」


 プロトは同期たち固唾を飲んで見守られながら、カモの言いなりになる。カモの目を見るのも何だか気恥ずかしいし、カモから目を逸らしても同期の奇異の視線がある。


「喉は確かに赤い……、少し腫れてるね。……うーん」


「症状は熱と喉の痛みだけ?せきとか鼻水とか、他に身体の異常なんかは?」

「――ああ、そうか声が出せないんだったね」


『少しの頭痛と、頭がふらふらします』


 と、プロトはスマホに打ち込んで答える。


 カモは腕を組んでポツリと「なるほど」と呟くと、虚空を見つめて首を捻る。それから「ちょっと、いいかい?」と前置きしてプロトの手を取って、プロトを立たせた。二人は会議室のデスクを挟んで向き合った状態のまま両の手を繋ぎ輪になるようにする。


 そのままカモは瞑想を始めて一言も喋らなくなった。

 高熱のプロトと同じくらいにカモの手は熱い。そしてカモの手は固くゴワゴワしている。その肉の厚みは、精々がゲームのコントローラーやペンを握るぐらいにしか使ってこなかったプロトには想像が付かない。


 ――歳のせいだけではないような。


 プロトはぼうっとした頭で考えてから、自分とカモが子供みたいに手を繋ぎ、一言も言葉を交わさず、さらにはその二人の様子を他に三人が見守っているという不思議な光景に気付いて急に恥ずかしくなった。

 照れ隠しに何か言ってシリアスな雰囲気を茶化してしまいたかったが、生憎声は出ない。


「……やっぱり、魔力が溜まってるね。流れが悪い。それに、魔力が溜まってること自体が異常だ。なるほど」


 カモは握った手を離してメガネの鼻当てを押し上げて掛け直す。


「これは私の見解だけど、魔力適応障害じゃないかな」


 ――魔力適応障害?


 声は出ないが聞き慣れない言葉を聞き返すみたくプロトが眉を顰めて困惑した表情をすると、カモはそれを察して言葉を続ける。


「まあ、当然プロトくんは分からないよね。説明すると、魔力適応障害って言うのは身体のうちに秘める魔力と外の魔力の差が大きい時、もしくは魔力の薄いところから急に魔力の多いところへ移動した時なんかに感じる所謂魔力酔いのことなんだけどね。例えば――魔法で魔力を使い過ぎた後の倦怠感と気分の悪さとか、魔王様の前に感じる迫力感というか重圧感というか、転移魔法の後の眩暈とか浮遊感とか。そんなのがよくある魔力酔いかな?」


 カモは触診を止めてプロトたち四期生の座る向かい側、スイレンの隣の席へ腰を掛けた。


「プロトくんの場合は元より魔力を持っていないこの世界の人間だから。魔力増強剤を日常的に、かつ長期間使用し続けたことで、身体に無理が祟ったんだろう。うん、間違いない」


 カモはメガネのレンズの奥からギラギラと目を光らせ、好奇心をありありと覗かせながら言った。


「では、プロトさんの声が出ないのは?」


 タレントのマネジメントを引き受けているスイレンが心配そうに訊く。


「そうだね。魔力の流れを追ってみたけど、魔力は身体の中心から目、耳、喉、手なんかに流れて行ってて、身体に溜まり過ぎた魔力を普段良く使う部位から無意識に放出しようとしたんじゃないかな?特に喉のところは魔力がかなり濃密だった。この世界の人は魔力がなくて、魔力脈が発達してないみたいだから、かなり強引に魔力を消費しようとして暴走してるんだと思うよ。声って言うのは私たちも詠唱魔法なんかで使うでしょ?魔力を込める媒体として声って言うのは都合が良いからね。声に無理矢理に魔力を乗せて、魔法として成立しないからしっかりとした魔法にも発声にもならない。喉が少し腫れているのは度重なる配信によるダメージなんじゃないかな」

「でも、そうなると……詠唱魔法は魔法の効果が不成立でも魔力を消費するってことだよね。やっぱり詠唱魔法は魔力のロスが無視できないのか……。それに、魔力酔いは濃い魔力に身体が慣れるまで一時的なものだけど、魔力脈が正常に動かないとかなり深刻な障害が出るみたい。ということは――」


 説明していたカモは後半になると自分に言い聞かせるみたいに何やらブツブツと唱え始め、それはホウキが「あの」とカモの自問自答に割って入るまで続いた。


「ああ、ごめん。肝心なところが抜けてたけど、魔力吸収マナドレインで外から魔力を抜けば魔力酔いも魔力暴走も治まると思うよ。ただ、魔力脈が無いから効率よく吸収するのは出来ないだろうけど。何、私は魔法の専門家だからね、しっかりサポートするよ。だけど、しばらくは療養期間があった方がいいだろうね」


「では――」


 とスイレンが言うと


「うん。休養の告知を出そうか」


 カモは柔和な笑みを浮かべ、一先ずVtuber活動が続けられそうで良かったとプロトは胸を撫で下ろした。



***



「それで調子はどうなん?カモさんの魔力吸収マナドレイン受けんたんやろ?」


 プロトがカモの施術を受けた後、自室に戻ってしばらくするとイナリがやって来た。どこか身体に芳ばしい匂いをまとい、手には風呂敷で包んだ重箱のようなものを抱えている。


『大分楽にはなった』


 とプロトはスマホでの筆談で答えた。

 ミーティングの後、カモと二人で会議室に居残って、数十分ほど背中を触られた。背中に当てられていたカモの手を中心に身体の熱っぽさが吸収されて行くようで、この熱が魔力なのかとプロトにも感じられた。少し倦怠感が少なくなって、頭も軽くなった気がする。

 ただ依然として声は出ないし、発熱が治まっているわけではない。


「食欲ないとかは聞いてへんかったし、たこ焼き作って来たで」

「――食べるやろ?」


 イナリは尻尾を振り回しながら、いやにニヤニヤして言う。

 そしてプロトの部屋のローテーブルに重箱を乗せて風呂敷を解いていく。重箱の蓋を開けると薄っすらとした湯気と共に、ふわりとソースの匂いが立ち昇る。


 食欲のない人がたこ焼きを食べるか?普通はおかゆとかプリンとか後は――。

 と考えるが、しかし匂いだけで美味そうなのが悔しかった。


 部屋に遅れてホウキも入って来て、その手にはコンビニ袋を提げている。


「えー、いい匂い。お好み焼き?でもそれ体調悪い時に食べてもいいの?」


「たこ焼きやで。やわこいし、おかゆなんて味気ないもん食いたないやろ」

「なぁ?ほれ、まだ熱いうちに食べ。熱々やないかもやけど」


 そう言ってイナリは重箱をぐいぐいと押し付ける。中には手作りと思しき少し小ぶりなたこ焼きが乱雑に積まれていて、湯気が抜けてぐったりと萎んでいる。朝から何も食べていなかったから当然に食欲をそそられるわけだが、いかんせんたこ焼きを食べる道具がない。素手のプロトへイナリは箱だけを押し付けて「さぁ食べ食べ」と催促するのだ。


 ――食べろと言われても。


 プロトがそう内心で困惑していると、イナリの奥でホウキがガサゴソとコンビニ袋を漁る。


「わたし割り箸あるよ、はい」


 プロトに歩み寄り、コンビニで貰ってきた割り箸を手渡すと、さらにホウキは続けた。


「後、うどんとゼリーとスポーツドリンクと、あと効くか分からないけど解熱剤とか買ってきたよ」


 プロトは箸を受け取ってたこ焼きを摘む。たこ焼きは箸の先でドロリと自重で垂れ下がり、ひび割れた生地から湯気を漏らす。熱の所為かサラサラになったソースが滴り、たこ焼きが崩れていくのもあって、プロトは急いで口へ運ぶ。

 思っているよりも熱かったため、慌てて舌の上で転がした後、口の中でどうにかするのは難しいと判断して飲み込んだ。

 もちもちトロトロでほんのりと出汁の味がするたこ焼きは、痛んだ喉に張り付くが、その痛みすらも粋な気がした。


 ――やっぱりイナリが言うようにたこ焼きは熱々がいい。食べられる範囲でだけれど。


「飲み物もあるからね」


 そう言ってホウキはプロトの部屋に適当に座った。

 そして小さな声で、「私男の人の家に来たの初めてかも」と言う。その声はプロトにも聞こえるので、もはや独り言になっていない。


 それから、プロトがたこ焼きを食べ進めている間もイナリとホウキは部屋に残って見守り続けた。

 それが少し迷惑だなと思いながらも、友人に、それも二人の女性に囲まれるような手厚い看病を受けたことがなかったプロトは複雑な気持ちになる。


 ありがたいことには間違いないのだが、重箱に詰め込まれたたこ焼きはとても一人で食べ切れる量ではないし、ゆっくり休みたいところを、部屋に居つかれてしてしまっては落ち着かない。


 声が出せるなら、この複雑な心情を何とかオブラートに包んで言えそうな気がするのに。と、プロトは苦心しながら、スマホに『ありがとう。元気出たかも』と打ち込むのだった。



 あれから四日経ってみて、プロトはカモと会議室で面談をしていた。


「――治らないねぇ」


 今日の施術が終わってから、悩ましげに眉を顰めるカモにプロトはこくこくと頷いた。


魔力吸収マナドレインで少しずつ削っても治らないとなると、いつの間にかプロトくん自身が魔力を生産できるようになってると見ていいだろうね。少し落ち着いては来たから全く意味がないかと言われたら、それも違うんだろうけど。イタチごっこってヤツだね」


 カモは自分の顎に手を添える。


「……そうするともっと強力に魔力を吸い出すか、魔力を扱い易いように魔力脈をどうにかするしかないねぇ」


 「うーん、どうしようか」とカモは苦い顔でハハと笑った。

 その物憂げな表情に当事者であるプロトも苦笑いを返す。


 これからどうすれば良いのか、それがプロトには見当もつかない。配信が出来ないからVtuberで居続けるのさえ難しいのではないか。それよりも、このまま長期的な休養が続けば折角増えたファンが離れるかもしれないし、プロトが人気になった理由だって、今人気のエピのおかげである。そのブームが去れば、歌が上手いとか話が上手いとか声が可愛いとかいうわけではないプロトがVtuberとして活動し続けていくのは難しいということは想像に難くない。Vtuberの流行りだって今だけの可能性もある。


 体調が悪い期間が続き、それが活動の不安に繋がっているのだから、プロトは心身共に疲れた顔をしている。


「ああ、ごめんごめん。安心してね。プロトくんの声に関しては私たちの責任だよ。当然うちのタレントから解雇するとかはないからね。魔力増強剤を飲むのだって勧めたのはこちらで。それでプロトくんはこの世界の人間なのに魔力を生産できるようになって、魔力暴走が続くという支障が出ているのに、それはあんまり無責任だから」


 プロトはカモの優しい声掛けに、胸がジーンと熱くなる。


「うーん、だからねぇ……」


 とカモは頭を掻きながら罰が悪そうに次の言葉を渋る。


「今私が考えてる解決策はね。一つは魔力脈を移植することなんだけど。これは本当に改造人間と変わらないし、人間に魔力脈を移植するって話は聞かないから、結構な準備が必要なんだ。だから、当分の急場凌ぎになるんだけど、もっと強力な魔力吸収マナドレインを試してみるのはどうかな?それならまた暴走を起こすまでは配信が出来るだろうし」


 カモは「実は前々から考えてはいたんだけど」と前置きして続けた。


「――まぁ、それが吸血鬼の吸血なんだけど。プロトくんって貧血とかあるかな?大丈夫そう?抵抗あるなら止めたって構わないからね」



***



「は、はじめまして。夜深よふかいカミラじゃ。……よろしく」


 カモに連れられてやって来たのは小柄の金髪の美少女だった。同じ材質同じ色でタオル地の上下セットであろうパーカーとショートパンツを着て、眠そうに真っ赤なルビーの目を擦っている。


「ちょっとまだ起き抜けでふわふわしているけれど、彼女が吸血鬼のカミラさんだから。先輩とのコラボはまだだから紹介していなかったけど、三期生の先輩ね」


「うん……」


 カミラは大きな口を開けて欠伸をしてから、ズズっと鼻を啜って喋り出す。


「……で、なんじゃ?このカミラ様に何の用じゃ、こんな朝っぱらから」


 『朝っぱら』とカミラは言うが、時刻は既に十四時を回っている。それなのに寝惚け眼を開けたり閉じたりして、こくりこくりと首を垂れて舟を漕いでいる。


「カミラさん。こっちが新人の試作機プロトくんです。覚えてますよね?」


 カモが小さなカミラに耳打ちするために腰を曲げてひそひそ話す。


「んん?……お。ッおう、おお!」


 すると、カミラは細目をカッと見開き、腰まである長髪を靡かせてプロトまで駆け寄る。


「お前さん、こっちの人間なんじゃろ。なーに、このカミラ様は騙せんぞ。カモからしっかりと聞いておる。しかも、その血まで吸って良いらしいじゃないか。何か裏があるかもと疑ったが、本当に良いんじゃろ?カモよ。ニヒヒ」


 カミラは童顔に気味の悪い笑みを浮かべ、口の端に涎が溜まって舌舐めずりする。


「お前さん、何かカモに嵌められとるのか?弱みを握られとるんじゃろ。可哀想やなぁ。嫌なんじゃよ。そういうの。そりゃあ、このカミラ様は冷酷で多くの畏怖を集める吸血鬼じゃが、やはり吸血は合意の上に限るんじゃよ。だってそうじゃろ?ゆっくり食事をしたい時に暴れられても嫌じゃし、殺してしまっては折角の鮮血が冷めてしまう。だから、可哀想じゃが……。可哀想じゃから悪くはしない。血を吸われるなんて初めてじゃろ?安心しろ、優しくしてやるぞ」


 カミラは腰に手を当ててカカカと豪胆に笑った。



「吸血は首筋からするのじゃ。歯が通りやすくて心臓も近いじゃろ?特にオスの場合は筋肉が邪魔をして大変なんじゃ」


「吸血した後は力が出なくてぐったりするからな。出来るだけ楽な姿勢が取れる場所の方がいいじゃろう。しかし、横になったまま吸血するのは困難じゃ。じゃから、どこか良いところはないか。お前さんにとって都合の良いところは?」


 そんなカミラと軽い打ち合わせの後、プロトは彼女を自室へ招いた。

 横になる以外で楽な姿勢が取れて、尚且つプロトとカミラの三十センチはあろうかと言う身長差でも吸血が可能であろう場所は配信部屋に置いてあるゲーミングチェアぐらいだろう。


「わしはカモから叩き起こされて、そのまま連れて来られたからの。少し準備をしてくる。お前さんも異世界の感染症とか怖いじゃろ」


 ――ガチャリ。

 ドアのラッチボルトが音を立て、


「おーい。入っていいかの?……そうじゃった。声が出せないんじゃったな」


 と玄関の方からカミラの独り言が聞こえる。


 プロトは配信部屋の扉から半身を出して手招きし、カミラを中まで誘導する。そして扉を締め切らずにゲーミングチェアに腰を掛け、静かに待つ。

 背後からギィと扉の開く音がして、ひやりとした冷たい気配が、興奮しているような喘ぎとともに近づいてくる。カミラは洗髪料と柔軟剤の香りが混じった女の子らしい匂いをまとい、素足のペタペタいう足音が椅子の後ろで立ち止まる。


「知っておるか?異世界にもお前さんと同じような人間という種族がいるのじゃ。そやつらの見た目はこっちの人間と変わらんのじゃが、世代を遡れば種族が混じり合い、血が混じり合い、魔力が混じり合い、それが雑味になるのじゃ」


 カミラはプロトの肩に手を置いて、慈しむように首筋から鎖骨のラインを撫でながら言う。


「本来なら魔力を持たない人間の、純粋な血の味を楽しみにしていたのじゃが、背に腹はかえられんというか。こっちには人間以外はおらんし、魔力を持っていようがお前さんは一代目なわけじゃからな。不味いわけがない。そう思うのじゃよ」


 カミラの冷たくぬるりとした舌先がプロトの首根っこに円を描く。

 その感触にプロトはゾッとした。肌が粟立ち、不快さを与える原因から逃れるように身震いをするが、両の肩を掴むカミラの小さな手のひらはびくともせず、驚くほど強い力が込められている。


 カミラは舌先を離して、プロトの耳元まで顔を上げて吐息混じりの小声で艶かしく囁くように話す。


「そんなじゃから、グルメなわしは、カモからお前さんには接触禁止なんて言われておったんじゃ。何という生殺し。お前さんには分かるか?わしの気持ちが」

「まあ、分からずともよいのじゃが」


 そこまで言うと、再度カミラの舌がプロトの肩に触れ、今度は舌全体でベロリと唾液を塗りたくるように舐めた。

 プロトの熱っぽい肌に塗布された唾液が気化してスースーとするが、それが皮膚のもう少し深いところで感じる寒気と混同している。


「――しかし、声が出せないのも退屈じゃな。ここまでしてやっているのじゃから、少しは反応して欲しいものじゃ」


 カミラは最後にそう言って、プロトの首筋に噛み付いた。

 注射針なんかよりずっと太い鉛筆ぐらいの感触が二つ、ずぶりと肌に食い込んだ。皮膚を突き破る感触が確かにあったが痛みはなく、電気が走るようなピリピリとした痒みがあった。


 そもそも他人が苦手であるプロトが、初対面の人物にここまでの接近を許し、あまつさえ触られ、囁かれ、舐められ、噛みつかれているこの状況で緊張しないはずがなかった。肘置きの先を握り込み、キャスター付きの五本足に足を絡めるようにして全身を強張らせ、ここまで必死に我慢をしていた。


 しかし――。


 耳の下でカミラがチューチューと血を啜る音が聞こえ、それと共に身体の熱どころか、力や体温を含めた血の気が引いていく気がする。その感覚は微睡の中にいるような意識が朦朧とする浮遊感に近く、プロトは快楽に身を任せて思考を手放した。


 しばらくして肘置きから力なくぱたりと手がずり落ち、頭を支えられなくなってカミラが噛み付いている方とは逆の方へプロトは項垂れる。そうなってようやく、


「――いかん。夢中になっておった!」


 とカミラはプロトの首から口を離した。


「これ?大丈夫か。ああ、いや、不味い。どうするのじゃ。そうだカモ、カモを呼ぶのじゃ!」


 バタバタ駆け回りながら焦るカミラの声と、首元からドクドクと血が溢れる脈動を感じたのを最後にプロトの意識はなくなった。



 小春日和のような、少し風は冷たく、陽が暖かい平原で、木陰に入って目元を暗くする。時折、微風が木の葉を揺らし、木漏れ日が瞼を焼く。カラカラと鳴る葉擦れの音を子守唄に昼寝をする。

 ――そんな夢を見ていた。


「――気が付いたね」


 プロトが目を覚ますと安堵した様子のカモが居た。ベッドにプロトは横になっていて、一目で見知った部屋だと思い、自室だと気付くまでにはそう時間は掛からなかった。

 枕元からカモが立ち上がり、ベッドから離れて行くとその奥にはパーカーのフードを深く被ったカミラが立っている。


「はぁ。魔力を吸い取って、回復ヒールで魔力を与えてちゃ意味ないでしょうが」


 疲れた声のカモがそう嘆くと、


「うん。すまないと思っておる」


 とカミラは申し訳なさそうに謝った。


「暴走が治っているようで一先ず良かったですけど」


「うん」


「貧血は魔法じゃ何とも出来ないですからね」


「うん。本当にわしが悪かったと思っておる」


 カミラはいかにも業務的な謝り方をする。


 あからさまに不機嫌そうな顔をしたり、弱みをチクリと刺すような物言いには、四期生の面々とでは見られなかったカモとカミラの親密さが伺えた。仲が悪いわけではないが、何やらカモが心労をしていそうな具合である。


「プロトくん。それでは私は何か精のつくもの買ってきますので」


 寝室の扉を越えた先でカモは振り返り、今さっき作ったみたいな笑顔でそう告げると、足速にプロトの部屋から出て行った。

 寝室にはベッドに横になるプロトと、それを突っ立って見つめているカミラが残る。カミラを見ていると、何やら色々な記憶が呼び起こされるが、こうして面と向かい会い、見つめ合うのは初めてで沈黙が続くと気不味くて仕方がない。


「……お前さん。いやぁ、プロトよ。本当にすまんかった。この通りじゃ」


 カミラは両手を合わせ、親指の付け根の辺りを自分の額に擦り合わせるようにした。


「舌鼓を打つうち、調子に乗ってしまったんじゃぁ」


 何度も何度も謝るカミラに、プロトはゆっくりと身体を起こし、手のひらを突き出して静止するのだが、カミラはこちらを見向きもせず一心不乱に手と額とを擦り合わせている。

 身体は妙にふらふらするし、頭の中は釈然としない。手をベッドと水平に上げているのだって辛いのに、カミラは一向にこちらの態度に気付かない。


「いや」


 ――本当にもういいんで。大丈夫ですので。


 プロトが心の中で唱えるようにすると、それは意外にも声になった。

 プロト自身は自分は声が出ないという先入観があるからか、それともまだ意識が朦朧としているからなのか、自分が発話できたことを気にも留めたかったが、それを聞き逃さなかったのはカミラだ。


「おや?プロトよ。お前さん、喉が治ったのではないか?」


「え?――あ、ああ。本当だ」


「おお、良かったではないか!まあ、このカミラ様にかかればこんなものじゃよ」


 プロトが喉が治ったことに感動するよりも早く、カミラはプロトのベッドへ態々駆け寄って、腰に手を当ててカカカと高笑いをした。


「あぁ、ありがとうございます」


「ええい。堅苦しいのは好かんのじゃ。ここ日本では何やら公序良俗と言って年上や先達を敬う習わしがあるようじゃが、わしからして見れば人間などそのことごとくが産まれたてのようなものよ」


 カミラはまた快活にカカカと笑い、


「だからお前さんが、母や友や恋人にするように砕けた態度をとっても苦しゅうないぞ。お前さんとわしは血を吸い合った仲じゃろう?」


「いや、その。多分、公序良俗じゃなくて年功序列ですし。血は吸い合ったのではなく、僕が一方的に吸われたので。別にダメだったわけじゃないですよ。あくまでも僕が回復する為に必要な行為だったので、はい」


「うーん。そうか?プロトは知らんのか?唾液というのは血液とほとんど同じものなのじゃよ」


「……えーと、何の話ですか?」


「ん?」


 話が噛み合わずプロトの寝室を不穏な沈黙が支配する。


「まあ、良いではないか。喉の問題が解決したんじゃろ?なに、Vモンスターズの先輩後輩として、お前さんの魔力暴走を何とかする役として、これからも絡むことはあるじゃろう。今日はもう帰るが、今後ともよろしく頼むぞ」


 寝室から出て行くカミラに。よく分からない、嵐のような人だったな。とプロトは脱力してベッドに身を投げた数秒後、


「プロトよ。わしのスリッパ知らんか?お気に入りだったんじゃがー」


 と壁越しの遠いところから声をかけられる。

 プロトは、


「僕は知りませんよー」


 と治ったばかりの喉を枯らして大声を出して返事をする。

 すると、カミラの間抜けで無邪気な声が返ってきた。


「そうか、じゃあまたの――」



***



 湯気や煙が高い天井から吊るされた間接照明に照らせれて、店の中は霧がかかったみたいに白んでいる。店内のどこからでも香ってくる芳ばしい肉の焼ける匂いは、服や髪に染み付く以外には非の打ち所がない。

 プロトは先輩であるカミラに連れられてステーキハウスにやって来た。


「ほれ見ろ、この厚み。そしてナイフを入れた時に目に出来るこの肉汁と、見事な赤身。溢れるドリップ。ちと獣臭いが、これはこれで旨いのじゃよ」


 平日のステーキハウスはお昼休憩の時間も過ぎて人の入りは疎であるが、その分老夫婦やカップルや大学生らしい人が多く、周囲に無配慮に話す大きな雑談の声やら、ガチャガチャと食器を鳴らす音がうるさい。

 その喧騒の中でカミラは喋る以外は静かに食事を摂っている。ナイフとフォークを使う手捌きは堂に入っていて、いかにも上品に、かつ高級肉でも嗜むようにステーキを食べている。

 配信上ではコラボはまだしないように言われているが、オフやSNS上で関わることは別段咎められていない。


「眷属の面倒を見るのは上位の吸血鬼の務めじゃ。それに、後輩に奢ってやるのが先輩の度量と言うものじゃ」


 そう喜色満面で語るカミラは実に機嫌が良さそうである。

 ただし、カミラの口振りから勘違いしていけないのは、ステーキハウスは庶民派のチェーン店であるし、ステーキはランチタイム価格である。


「なぁ、早起きして良かったじゃろ?」


 カミラはステーキハウス一押しの秘伝のオリジナルソースも付けずに、熱々の鉄板でジュウジュウと焼けるドリップを掬い上げるようにして肉の味を楽しんでいる。


「早起きでもないすけどね。ランチタイムのラストオーダーぎりぎりだったですから」


 プロトがそう言うと、カミラはあからさまに膨れた顔をする。


「むぅ。そのわしが寝坊助みたいな言い方どうにかならんのか。むしろ吸血鬼が日中、陽の下で活動している方が異常なのじゃ」


 ――確かに。


 カミラはつば広の帽子で顔の上半分を隠し、その上でサングラスで目線を隠す。外では膝の下辺りまであるダウンのロングコートで身体を覆い、露出した肌には事あるごとに日焼け止めを塗って余念がない。


「じゃあ、ニンニクとタマネギのソースを使わないのも吸血鬼だからですか?」


「いやぁ、これは赤身の味を楽しみたいだけなのじゃ。ニンニクも十字架も平気じゃし、金属アレルギーも無いわい」


 カミラはナイフの先で鉄板皿の隅に置かれたカップから細かく刻まれたタマネギやらニンニクでドロリとしたソースを掬い、ペロリと舐めて見せた。

 えらく誇らしげな顔をするカミラだが、下品に舐る様子はガキそのものであった。



 ステーキハウスを後にして、カミラとプロトは事務所に向かって歩いていた。

 中学生と言われたら納得するだろう身長のカミラは、プロトと比べて極端に歩幅が小さい。深々と帽子を被り、全身をコートで覆うカミラは、隠すようにした煌めく金髪と真っ白の肌、日本人離れした高い鼻筋がかえって目立つ。

 その後ろをゆっくりとした歩調で慎重に着いて歩くプロトの姿は、兄弟とか恋人と言うより、お嬢様と使用人。もしくはプロトの方が普段着であるので、モデルやタレントなんかの華々しい人間とそのマネージャーのようである。


 プロトはあまり外に出るのを好まないが、カミラはそうでもないらしく、吸血鬼であるのに陽のあるうちにも外出するようで、移動手段は専ら徒歩らしい。地下鉄が一番好きらしいが、路線図は未だ把握できていないとのこと。「タクシーは高くて好かんのじゃ」とは彼女の言である。別に遠出をすることにはさほど興味ないようだ。


 子供が道路の白線の上や縁石の上を好んで歩くように、カミラはビルが所狭しと立ち並ぶ都会の影を縫うみたいにしてふらふらと先を行く。

 カミラは「わし」とか「なのじゃ」とか言うし、聞いたところによると二百歳を越えているらしいが、その素振りはただの腕白な子供である。極力日差しを避けて歩いていると理解できなければ、足取りの遅さに痺れを切らすところだ。


 だからプロトも割り切って、早く帰ることは諦めて、普段は滅多に出ない外を、興味のなかった景色を、今更眺めながら歩いた。



 改めて景色を見渡すと、この町をいかに自分が知らないが分かる。

 一階の路面店なんかは見知っているが、空中階の店なんかは知らないものも多い。まだクリスマスの飾り付けなんかもあって、イベントが過ぎ去って人が疎な町を見ていると、どこか侘しい気持ちになる。

 寂しい気持ちにはなるが、それだって感動しているということであって、見るものが新鮮だとこうも散歩が楽しいのか。とプロトは感慨深く思った。


 カミラは否が応にも目立っていて、見失わないのを良いことにプロトはぼおっと視線を動かして観光を続ける。そして、時には無心で空を眺めたりする。空だってプロトの見てきたものとは違う。同じ空だが、摩天楼のようなビルがあり、空模様だって全然違う。プロトの地元では冬は曇り続きであった。


 都心から見上げる冬空は一面の青空をスモッグが遮り、それが神秘的であると共に、どこか息苦しさを感じる。いっそのこと雪でも降って、上も下も真っ白の銀世界になればまだ清々するのに、といつかのカモのような感情に浸ってしまう。

 今まで雪とか冬とかを好きだと思ったことはないはずなのに。


 そんな時、空の霞の中を何かが横切った。シルエットは定かではないが、低い所を飛行機が飛んでいるかのようにプロトは錯覚した。この景色の中で遠近感ははっきりしないが、大きさで言えば飛行機ではなく大型車や小型の漁船くらいで灰色の――。


 まさか、UFOか?


 異世界が現実なのだから、未確認飛行物体だってあってもおかしくはない。

 プロトが呆気に取られていると、今し方横切った何かを追いかけるようにして、小さな影が飛んでいく。

 筆の先で飛行機雲を描くようにして空を駆けるその姿は、紛れもなく箒に跨る人間だった。


「――カミラさん、アレ」


「カミラでいいと言うておろうに。で、なんじゃ?」


 やれやれと言った感じで先を行くカミラは後ろを振り返る。


「こっちじゃなくて、あっちですよ」


 プロトはカミラに駆け寄り、カミラの顔の側から指をさして空を見るように急かす。

 箒に跨る人影はビルの影に隠れたり、丁度間から見てたりと、谷間をすり抜けて飛行を続ける。


「うーん。どうにも昼間だと見えずらないなぁ」


 カミラはプロトの指の方を向きながら、サングラスのレンズと目の距離とを調整しながら、何やらぶつぶつと言っている。


「度付きなんですか?」


 プロトの問いにカミラは手をひらひら振って返答して、霞の奥の虚空を見詰めている。


「……おお、なんじゃ。ホウキではないか。どうせ、またカモにこき使われてるんじゃろう」


「また?」


「わしは詳しく知らんが、ホウキはカモの弟子としてよく着いて回っておるぞ」


「弟子って魔法使いの――?」


「そうじゃ」


「じゃあ、あの飛んでるのは魔法の練習?」


「そうじゃろなあ。次いでに魔物狩りでもしておるのじゃろ」


「魔物?」


「そうじゃ魔物じゃ。ほら、多分丁度こっちの方へ来るぞ」


 今度はカミラが空を指したまま、その場でぐるりと回って後ろを向き、プロトも合わせて後ろの方を見る。カミラの指す方向には、薄らとした雲のようなスモッグの奥に水色の空が見えるだけだ。

 プロトにはカミラが適当なことを言っているだけに思えて、指の先から視線を外して訝しい思いでカミラを顔を見る。帽子を深く被り、サングラスを掛けた格好で、わざとらしく露出を避けている少女の姿は確かに怪しい。

 「何も見えないですけど」と言いかけたが、カミラはそれでも真っ直ぐに指をさし続けている。


 カミラが冗談でそんなことをやっているのか。真偽のほどを確かめる為にも、プロトは再度カミラが上げる手の、肩から手首へ、手首から指先へゆっくりと目を動かしてみた。その視線の動きが空へ辿り着く頃には、漂うスモッグの背景の真ん中に、空を見上げる視界の中空にぼんやりと影が浮かんでいた。

 そして瞬きをする毎に、目を細めてみる間にも、その影は段々と大きくなり、頭の上を過ぎ去った。遅れて乾いたビル風が吹き抜ける。

 一瞬のうちに眼球の潤いを奪うような風にプロトが目を背けると、隣ではカミラが慌てて帽子を押さえつけている。


「うぅー、寒いのぉ」


 ――何だったんだ今の。あの影が、魔物? 


 もう一度空を見上げると、今度は箒で空を飛ぶホウキが自動車ぐらいの速度でこっちに向かって来ていた。彼女とすれ違い様に目が合って、


「◎×$な♪ん¥△●&し%#!――」


 と驚いたように何やら言っていたが、何と言っていたのかの判別は付かなかった。


「ホウキもこんな寒い中ようやるわい」

「何でも冬休み中は時間が取れるから修行なんじゃと。多分、その辺にカモもおるんじゃないか?」


 カミラは帽子を一度脱いで被り直してから徐に歩き始める。


「わしらはさっさと帰るぞ。『猫は炬燵で丸くなる』じゃ」


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