1.Vtuberデビュー!
***
――ゲーム実況者って難しいんだな。
博人はエアコンの冷房が効いた部屋でベッドに横になりながら、ぼうっとスマートフォンを眺めていた。
博人はゲーマーである。ゲームのオールジャンルが得意である理由は、博人の要領の良さであったり、動体視力であったり、マルチタスクな器用さであったり、もしくは連打力にあった。
近頃で最も人気な某シューティングゲームでは、プレイヤーの実力に応じてゲームマッチが振り分けられるランクマッチ制度がある。博人はその中でもプレイ人口の上位〇・二パーセントのランク帯に入る猛者である。有名なとある格闘ゲームでは上位二・五パーセントに入る。対戦ゲームでなくてもロールプレイングゲーム、アクションゲーム、リズムゲーム、パズルゲーム。今までクリア出来なかったということはない。
博人はそのゲーム力を活かして小銭を稼ぎ、行く行くはゲーム実況活動を本業にしたいなと甘い見通しを立てて、短いクリップ動画に独自の解説を加え動画サイトにアップロードしてみているのだが、これが全く人気が出ない。
流行りのシューティングゲーム。三人のプレイヤーがチームを組み、広大なマップの中、縮まり続ける安全地帯で銃を撃ち合うバトルロワイヤル形式のゲーム。マッチングするプレイヤーは全部で六十人。その中で最後まで生き残ったチームを決める。プレイヤーはそれぞれ二十人ほどいる(アップデートで今後も追加予定)キャラクターの中から被らない様に一キャラクターを選ぶ。
それぞれのキャラクターは索敵に秀でていたり、地点の防衛に優れていたりと得意なスタイルがあって、他にもヒットアンドアウェイを旨とする強襲型のキャラクター、広いマップを移動するための距離を稼ぎ易い移動キャラクターなんかがいる。
過去アップロードした動画では色々なキャラクターの役割、動き方、勝ち方。それぞれに解説をしたし、キャラクター以外にもゲームに登場する武器についても仕様変更毎に情報を更新している。他にも実力が分かるだろう一対三でどんどん敵を倒して行く爽快なクリップ動画も投稿した。しかし、これが一向に伸びない。そのシューティングゲーム自体はリリース三年を迎えながらも、依然として人気だし、博人以外で同じように解説している人はもっと再生回数を稼げている。これならアカウント売買でもやった方が金になると思うが、一応リリース当初から触っている古参として、愛というか情があるからあんまり変な事はしたくない。
同業者、この業界の先達を見れば、とにかく元気で明るい。そして目を引く、もしくは内容がついつい気になってしまいそうな動画のサムネイルを作っている。視聴者を集めるには実力だけでなくそんな努力が必要だと思われた。
しかし、博人には正直言って凝った動画編集が出来るような技術、そして編集ソフトもない。だからこと動画解説においては先駆者の真似事みたいなクオリティで、始めた頃は二番煎じもいいところだったのだが、今はとりあえず更新の速さを売りにしていた。動画の見栄えは多少悪くとも、ゲームの実力に裏打ちされた解説は本物である。そう信じてSNSで宣伝も行なっているのだが、反応はイマイチなのだ。
『動画投稿しました!新キャラは強い?弱い?』
博人はSNSを開いたついでにエゴサーチでもして見る。
『hero_game10』
ゲームアカウントそのまんまの活動名義を検索欄にフリック入力する。
『いつも強いって言ってるけど、どうなん?』
『追加して直ぐは慣れてないのもあって強く感じるよね』
『撃ち合い強くないと、キャラの強さ実感できないかも』
『弱くね。普通に』
エゴサーチをすると、自分や自分の投稿した動画の評判だけではなく、新キャラの評価で各々が言い合っている。むしろ、博人を中心として話が展開されている事はない。
――どうやったら人気になれるんだ。
そうやって今日も漠然とSNSを眺めていると、博人は一つの広告に目を止める。
『Vtuber活動に興味ありませんか?』
それは博人も知っているような大手Vtuber事務所の広告で、女性Vtuberを中心としているところだが、今度の九月に新人を募集をするらしい。
Vtuberか――。
Vtuberは2Dや3Dのアバターモデルを使って動画配信をする人たちの総称である。ゲーム実況において、ワイプで顔出しをしながら活動する実況者が多少なりいて、そう言う人達の強みについて、博人も自分なりに分析したことがある。表情による反応が見えることで、ゲームをプレイする人の声が聞こえるだけよりも見応えがあるし、親しみ易い。ただ、インターネットの世界に顔出しをするほど、博人は自分に自信がないし、『ゲーム実況者になりたい』と言っても、自分のプライベートな情報を晒すほどの決心はついていなかった。だがVtuberなら。最近は声の良し悪しだけでなく、ゲームの実力が重視されることも多い。
博人はVtuberでなら十分に人気が出る可能性があると考えた。Vtuberになれるのか分からないし、そもそも人気になれるかどうかは分からないが、注目を集める、有名になれるという点ではVtuberというのは魅力的だ。ワンチャンスある。
――いけんのか?
それから、博人のVtuber事務所について調べる日々が始まる。もちろん、その合間でVtuberの配信だって追いかけていた。
――その名も、Vモンスターズ。
鴨エンターテイメント株式会社が運営するVtuber事務所。異世界、ファンタジー、モンスターをテーマとするVtuberが九人所属している小さな事務所である。
Vtuber事務所に応募する際には履歴書の他に自己紹介動画や、実際に動画サイト上にアップロードした動画が必要になる。それを自己PRとして提出するのだ。
博人の場合はもちろん、ゲームの実力が分かるだろう動画を提出した。
事務所の規模の大小は置いておいて、募集しているところならどこにでも送って、唯一返事が得られたのが鴨エンターテイメント株式会社が運営するVモンスターズだった。
どうせ受かるはずがない。そんなふうに思っていると――。
ある日、博人のSNSアカウントにダイレクトメッセージで連絡が届く。
『動画見させて頂きました。hero_game10さん、会って直接お話し出来ませんか?』
差し出し人はVモンスターズ公式アカウントだった。
会って直接と言われても、鴨エンターテイメント株式会社の所在場所は東京都で、博人が通う大学、借りている下宿とは程遠い場所にある。それでも公共交通機関を使って行けないわけではないが、何とか電話やテレビ通話にならないものか。と考えていると空かさずスマートフォンのバイブレーションが鳴る。
『交通費はこちらで持ちますよ。現在の住所は――ですよね?もしよろしければ送迎も可能です』
本当に言っているのか?車で何時間掛かるんだ、と博人は訝しく思ってスマートフォンを見つめる。声が掛かるのは全く有難いことなのだけれど、あまり知らない事務所だっただけに博人は慎重になっていた。
「それは一次審査合格ということですか?」
『はい。そうお考えになられて差し支えありません。つきましては今後のことについて詳しくお話しするのに、弊社では直接お話しするのが良いと考えているのですが』
向こうは何としても直接話をしたいらしい。直接目で見て人となりを知れた方が後で炎上とかもしないだろうしな。必要な工程なのかも知れない。と博人は納得する。
「承知しました」
博人はインターネットで覚えたばかりの拙い日本語の文章を送信した。対面接用の自分には似合わない堅苦しい言い回しだったが、一端の社会人らしく、そしてこれからあわよくばキャラクターをロールすることになるのだから、少しは出来るところ見せておかないと。
大学の周辺はベッドタウンとして発展することが多い。都市部では必ずしもそうではないのかもしれないが、地方大学では恐らくそうである。先ず、大学近辺に下宿屋が集中し、その周りに大学生の学生生活を充実させるため、大学生を集客のターゲットにした飲食店や余暇施設が建ち並ぶ。
だから大抵は大学の講義に出なくとも、近辺に部屋を借りているというだけで四六時中、学生の喧騒の中に身を置くことになるのだが、博人の借りる一室は閑静な住宅街にあった。
大学から徒歩二十分の十畳ワンルーム。日当たり不良。最寄りのコンビニまでは五分、ドラッグストアまでなら七分である。学生向けの物件ではなかったが、入居しているのは全て学生である。
多分、大学とは全く無関係の人々が暮らす住宅が密集するエリアに、ポツンと二階建て全八室のアパートが建っていて、周りの戸建て住宅は築二十年以上は経っているかと思われる。中には古めかしく瓦屋根の厳しい木造平家建てなんかもあって、そんな落ち着きのある住宅街に、似つかわしくない真四角の大きな白のバンが止まっている。車が一台と自転車二台がやっと通れるかと言う道路を占領し、景観を損ねている。
時刻は朝の九時十八分。博人が二階にある自室から共用の階段をゆっくりと降りて来ると、それはあった。
鴨エンターテイメント株式会社の送迎車だろうか。待ち合わせの予定は九時半ということだったが。
そう博人はアパート前の駐輪スペースから首を伸ばして車の方を伺っていると、光の反射でぼんやりと黒くなっている窓ガラスが降下して、運転手が顔を覗かせる。
「ヒーローさんですか?」
運転手であるグレイヘアの壮年の男が和やかに微笑んで言った。
――ヒーロー?何だ?何の話だ?
と博人は疑問に思う。
誰の話をしているんだ?
博人はさも当たり前みたいに、この人は一体なんの用があってこんな狭い道路で立ち往生しているんだと思っていた。
「ヒーローゲームジュウさんですか?」
もう一度声が掛かってようやくインターネット上で名乗っている自分の名義に気付く。考えてみればリアルで誰かにその名前で呼ばれることも、自分で声に出して読み上げてみることだってしたことがなかったから、分からなくてもしょうがなかった。
「あ、そうです」
博人がばつ悪そうにそう答えると、男はいそいそと車を降りて、後部座席へつながるスライドドアを開けた。
男は車掌やタクシードライバーがするような白の手袋をつけ、五本の指で車内を指し爽やかに告げる。
「どうぞ、乗って下さい」
「あ、はい。よろしくお願いします」
流れるような一挙一動に感化され、博人はそそくさと車に入った。
博人は案内されるままに運転席の真後ろの座席へ座った。事前に調べた就職活動のマナーによると助手席へ座ると書いてあったのだが、案内されてしまっては仕方がない。
車を発車させる前に男は運転席から名刺を手渡して、一言「慌ただしくてすみません」と謝った。
名刺には鴨賢人、さらには鴨エンターテイメント株式会社、『取締役』と書いてあった。
お偉いさんだ。そんな人に車を運転させてていいのか。会社としてもそうだが、自分も問題があるのではと博人は後部座席で静かに葛藤し、これは不味いことになったと俯くが、それはそれで失礼にあたると思い間もなく背筋を伸ばした。すると、バックミラーから鴨の黒縁メガネ越しの瞳が博人を見ていた。
「改めまして、鴨エンターテイメントのカモです」
鏡越しに目が合うと男は軽く会釈して挨拶する。
「いやあ、助かりました。ちょおっと早く着き過ぎちゃいまして。あそこにずっと停めておくのも迷惑じゃないですか?
どうするかなぁって考えてたらヒーローさんが出て来てくれたので。
――あ、楽にしていただいて構いませんよ。我々のオフィスまではかなりありますからね」
前を向き楽しそうに話している鴨の顔がミラー越しに見える。
その印象は明るく活動的なベンチャー企業の取締役然とした雰囲気。あくまで博人のベンチャーに対するイメージであるが、きっと仕事も出来るのだろう。良い大学を出たのだろう。と、博人は勝手に社会人としての尊敬を覚えていた。
その後も、緊張して固くなっている博人を他所に、鴨は楽しそうに話を続ける。そして大学の郊外まで走るとあっと言う間に山間部に入る。
「おお、急に山になりましたね」
「ここら辺、雪とかどうなんですか?
私、雪国の出身なんですけど、東京に行ってからは足が沈み込むような積雪には合わなくて、結構寂しいんですよ」
迎えに来る時に散々景色を見ているはずなのに、鴨は他愛のない話で気さくに接する。
博人の言うセリフは決まって「そうなんですか」だ。鴨に興味がないわけではないが、少なくとも大学や通学のために下宿しているこの辺りの地域にはさほど関心がなかった。相槌と同調、それだけで十五分ほどをやり過ごしたが、東京まではあと四時間ぐらいなんじゃないかと思われる。往復なら八時間。それだけで立派に1日分の労働時間である。
そうまでして直接話したいと言うのだから、合格とかVtuberデビューは決定的だと思っていいのだろうか。
博人の口数が少ないのには緊張の他にも、そんな想像を膨らませているからという理由もあったが、何より眠たかった。
車に乗ると眠たくなる。そんなことは子供の頃から知っていたが、全くついて行けない講義でさえ眠くはならない自分が、こんなところで眠くなるなんて。確かに昨晩も緊張の所為か中々寝付けなかった。
しかしだ。恐らく朝五時とか四時から車を走らせている鴨の前で、面接を控える今、寝落ちするわけにはいかない。正念場だ。
頭が上手く働かない。だから博人の口を突くのも曖昧な返事ばかりであった。
今にも寝そうになる。頭蓋の中で働く意識が近付いたり遠退いたりする。背中を座席に貼り付けるようにして、なんとかこっくりと船を漕がずには済んでいるが、意識は確実に朦朧としている。
――不味い。不味いぞ、寝るのだけは駄目だ。眠れなかったって言っても五時間は寝てるだろ。
目を閉じたい衝動に駆られる。博人はドライアイで目が血走るほど、頑なに瞬きを封じている。それなのに。
車が大きく揺れ、背もたれから上半身が浮く。その拍子に集中の糸が切れて博人は目を閉じてしまった。筋肉の支えを失った博人の身体は前方に投げ出され、それをシートベルトが受け止める。ベルトが首元に深く食い込み、擦れ、肌は赤くなる。相当に痛かったはずだったが、博人がそれを感じることはもうなかった。
『目が覚めると知らない天井だった』というのはよく聞くが、博人の場合、覚醒の瞬間には眼前に知らない床が広がっていた。
車に乗って揺られていたはずが、ブルーグレーのタイルカーペットが敷き詰められた暗い部屋にいた。プラスチック製の椅子に座らされ、さらに縄か何かでぐるぐるに縛られている。そして、辺りには何やらグラウンドに引くラインパウダーみたいな粉が撒かれている。
ぼやけた視界から見た知らない空間。騙されて誘拐でもされたのか。とにかく、周りがどうなっているのか確認しないと。と博人は焦る。
しかし、身体は思うように動かない。頭痛がする。吐き気がする。寒気がする。眠気と倦怠感が依然として身体の主導権を握っている気がする。
それでも快調とはいかない重たい意識を必死に働かせて、やっとの思いで首をもたげると二人の人間がいるのが分かる。いや、正しくは一人は人間ではない。
一人は鴨と名乗った男。もう一人はVモンスターズの顔である顎リサという名義で活動する女性Vtuberだ。
普通、人を見てVtuberなのかどうか、さらにはそれが誰なのかなんて特定することは出来ない。夢のない話になるが、Vtuberはアバターを通して活動しているから、その中の人がどんな人かは分からない。それなのに、博人には目の前の人物が顎リサだと一目で分かった。
その人物は配信サイトで見るのと寸分違わない(少し頭身が異なるかも知れないが)日本人離れしたオレンジ色の瞳に、腰まである長髪は緋色。瞳の中にある縦長で楔状の瞳孔がギロリと暗闇に浮かんでいる。異世界、ファンタジー、モンスターをテーマとするVモンスターズの中で、彼女はドラゴンをモチーフにしている。ドラゴンと言えば角、鱗、翼、尻尾のイメージがある。彼女には全身を覆う鱗や背中から生える翼はなかったが、頭の左右に水牛のような真横に伸びた、立派でいかにも重たそうな角が生えている。二つ合わせると頭よりも大きい角のシルエットが暗い部屋の中でも見て取れて、例え視界がぼやけていても、博人は直ぐに顎リサだと理解出来た。
態々コスプレしているのか?
博人は未だ冴え切らない頭で思う。
「ああ、おはよう。ごめんね、手荒で」
博人が目を覚ましたのに気付いて、鴨が言った。
「椅子に縛り付けてあるけど、別に深い意味はないですから。ほら、倒れると頭打ったりして危ないかと思いまして。キツめに縛ってますけど、身体の感覚がはっきりして来たら解放するから、少しだけ我慢してください。本当にそれだけです、他意はないんだけど、手荒になってしまったのには本当に申し訳ないと思っています」
暗がりの中でも鴨が爽やかに笑っているのが分かる。口調、声色共に敵意や害意は感じないが、それでも知らない間に運び込まれて、縛り付けられているのは事実である。
「一体どう言うつもりなんだ」と、そう訊きたいのは山々だが、こんな格好でこれから自分がどんな目に遭うかを聞いても仕方がない。そんなことを訊いたとしても抵抗なんて出来やしない。だが、せめて「ここがどこなのか」は知っておきたい。そしてあわよくば逃げ出してやる。そのくらいの抵抗はしてやりたい、と博人は漠然と考えていた。しかし、
「ああ、う」
思った様に声が出せない。言葉にならない。まだ脳と舌を動かす神経が結びついてない様な感覚。酷く口が麻痺していた。
「ああ、いけない。無理して話すと口の中を怪我するかも知れないよ。麻酔みたいなモノだから、しばらく安静にして――、それで十分後くらいから面談始めましょうか」
抵抗虚しく、博人は簡単にあしらわれる。今はまともに話すことだって出来ない。チクショウ。悔しい、情けない。博人の中ではそんな気持ちが大きくなっていった。
これから一体どんな目に遭うのか。十分間、ろくに身動き出来ない身体で考えさせられて、沸々と最悪の想定が浮かんでは消えていった。
しかし、蓋を開けてみれば、それはただの面接だった。
「十分経ったね。それじゃ、始めようか」
腕時計で時間を確認した鴨は言った。
「いやあ、実は丁度ゲーマーの部門を立ち上げようと思っていましてね。ゲームの上手い子って言うのを探してたんだけど、いまいちピンと来なくて。ただ、ヒーローさん自己紹介動画でおっしゃってたじゃないですか。『ゲーム配信に携わって仕事として収入を得られるなら何だってやります』って。あの一言が私の胸に響きました。実に素晴らしい。そんな人を探してたんです。
――ああ、それと。随分忘れちゃってましたけど、この隣におられるのがウチのところのVtuberの顎リサです。知ってるかな?」
鴨は興奮しているみたいに情熱的に語る。
逃げ出すことは出来ないから、博人にはこんなおかしな状況でも、普通の面談として受け応えする他にない。
「はい。……今日はコスプレですか?
あと、電気って点けないんですかね」
薄暗い室内で、未だ椅子に縛られている異常な状況で始まった普通の面談に、戸惑う博人は下手に伺った。
すると、今まで黙っていたリサが口を開く。その口の中に線香花火のような一瞬の輝きが見えた。
「――おはグオォ」
そう言って、なんとリサは炎を吐いた。ネオンピンクに近い不自然な炎色の炎が暗い室内をムーディーにライティングする。そして、リサは何事もなかった様に続ける。
「Vモンスターズ一期生の顎リサだ。今日はそのこともあって直接会いたいって言ったんだけど」
博人は口をポカンと開ける。何も言葉は出てこない。口の感覚がどうとかではなく、ただ唖然としていた。
そして、リサの口から放った炎もそうだが、一瞬灯った世界の中で、鴨が机に手を突いて頭を抱えているのも目に焼き付いていた。
「もう、隠す必要もありませんから電気点けますね」
鴨が出会ったから一番暗い声で、呆れたように言った。
それからガタと椅子を引く音がして、しばらくすると部屋に灯りが点いた。
博人は暗順応した目に突き刺すような光の明るさに目を細めた。LED照明の輝きが真っ白の壁紙に反射して、室内に煌々と満ちる。
少ない視野から室内を見渡すと、広さは四畳半程で、その端と端で博人と長机を挟んで面接官であるリサが向き合い、鴨は部屋に一つだけの戸の側に立って電気スイッチに触れている。
床に撒かれた白の粉は博人を中心に幾何学模様を描いていたのが分かる。
「……いや、すまない。つい出してしまった」
へへへと笑うリサ、それに対して微笑みが張り付いた鴨が冷たい目で言う。
「いいですよ。ちゃんと対策に魔法陣も描いてあるので」
「魔法陣?」
博人が訊いた。
鴨は「ええ」と言って席に着くと、そのまま続ける。
「もう隠し通せるとは思わないので言いますが、見て分かる通り顎リサは竜人です。こことは別の世界の住人なのです。もちろん、私も」
「そういうこと」
リサはウインクする。それからペロッと長い舌を出して、その上で炎の玉を転がす。
博人は突拍子のない話と、目の前の不思議に言葉を失っている。
「……我々のVモンスターズでは、異世界人をVtuberとしてデビューさせています。異世界人はどうしても容姿が奇抜ですので、人間に紛れては生きて行けないですからね。そこで我々はVtuber業界に目を付けたんですよ」
「ハロウィンとか、コスプレイベントでしか外に出られないのに、生きてるだけでお金かかるのよねぇ」
腕を組んだリサが首を縦に振りながら染み染みと言った。
「我々としては最近のゲームとゲーム配信ブームに乗っかろうと計画したんですが、我々は異世界人ですので。日本の文化なんかはかなり勉強したんですが、やはりコンピュータゲームだけは難しい。馴染みがないし、技術も必要だから中々上手くは行かなくてですね。そこで広く募集したわけなんですよ」
鴨は机の上で手を組んで、机に前屈みになり俯きがちに話す。
「……そ、それで。僕にどうしろと」
博人は喉からやっと声を押し出すみたく訊いた。
「そんな警戒しなくとも大丈夫ですよ。これ以上の危害を加えるつもりはないんだ。我々は君にうちでVtuberデビューして欲しい。我々のVモンスターズを君の力で盛り上げて欲しいんだ。そして、そのために幾つかの条件を飲んでほしい。今日はそこら辺について擦り合わせを行いたいんです」
夢中になって話す鴨の横で、リサは退屈そうに他所の方を向き、机の下で足を組み替える。
「条件……ですか」
「はい。一つは配信活動について。Vtuberとしてデビューしてからは配信活動を一週間に二十時間。一ヶ月に合計百時間ほどやって貰いたい。絶対の規則ではありません。あくまで目安として、そのぐらいの配信を定期的に行って貰いたいんです。まあ、仕事ですからね。デビュー時期だとか、それに伴う準備だとか、配信出来るゲームだとか、それからイベントの打ち合わせだとか、休みの取り方なんかはマネージャーと打ち合わせることになると思います。これに関しては後で書面にまとめたものをお渡しします。
そして、今から話すことが我々としては一番のお願いの部分になるのですが……」
つらつらと話していた鴨が唾を飲み、机に乗り出した身を起こして姿勢を正す。そして大きく息を吸い込んでタメを作り、
「ヒーローさんには社員寮に入って貰えないかと思いまして」
と後ろめたそうに言った。
「社員寮ですか?」
博人は鴨の意外な一言に思わず聞き返す。
Vtuber事務所に社員寮……、Vtuberは在宅勤務だと博人は勝手に考えていたし、事実そうだと思っている。
「はい、難しいですかね?やっぱり学生さんですし。社員寮には配信に必要な機材とか防音の設備とか、何よりオフィスの三階より上が寮になっているので、配信以外の仕事も楽だと考えているのですが」
難しいなんて話ではない。無理だ。明らかに。普通の学生であれば。
しかし、博人は普通ではなく学生生活の崖っぷちにいる。大学を留年して親の仕送りがストップすれば大学を辞めて自宅に帰る他ない。そして、帰ったところでそこに自分の居場所があるとは考え難い。であるなら社員寮に入り、住み込みで働けるというならむしろ好都合である。普通なら突飛な条件かもしれないが博人にとっては好条件なのだ。
「大丈夫……だと思います。はい、問題ないです」
自分としては有り難い話だ。自分の判断基準では何も問題はない。
「本当ですか?」
鴨は安堵で破顔している。
「ただ、両親にも連絡しないといけませんし、引っ越しも」
「――もちろんです。細々した雇用条件とか、諸々の話は追々でも構いません。ヒーローさんの都合の良いときで構いませんので。そしたら、本当に現時点でのだいたい構いませんので、どのくらいから入寮して、配信活動始められますでしょうか?」
再度前のめりになって鴨は話をする。
「そうですね……」
今度留年したら学費は払えない。博人は親にそう言われていた。だから、留年が決定している今、もう来年度の講義は無い。下宿している意味もない。
「ちょっと分かりませんけど、今年度中には」
博人はぼんやりと解答した。
博人は真性の駄目人間であるから、両親の脅しに対してまともに取り合っていなかった。それでも両親には博人を本当に退学させるだけの凄みはあった。両親の言葉にはリアリティがあった。
「やりたい事が出来たから、大学を辞めたい」とそう言ったら、両親は快く認めてくれるだろうか。いや、やりたい仕事を見つけて、尚且つ就職活動まで済んだのだから、きっと認めてくれるはずだ。
いや、『快く』なんてのは今さらだ。二度も留年(一回はまだ予定だが)した挙句に退学しようと考えている自分の言えたことではない。
「分かりました。今日お話ししたかったことは以上なので、ついでですしオフィスの中とか寮とか見て行きますか?……いや、ちょっと気が早まりましたね。先ずは今までのことで何か質問とか――?」
鴨は組んでいた手を解いて、机に両手を付ける。
「なんだ?纏まったのか?なら、これからよろしくな。えーっと――、まあいいか」
リサはそう言って席を立ち、紅蓮の長髪を翻してさっさと退出した。
「気にしないでください。一箇所に留まることが苦手なんですよ。あの人は。それで、何か質問とかありますか?」
――質問。色々ありすぎて何を訊いたら良いか分からない。訊くよりも、先ずは自分の中で理解してからでないと、そこからさらに掘り下げるような質問は出来ない。どうしようか。
博人は頭を働かせる。そのために上を見たり、目をぐるぐると回して辺りを睨め回す。そして
「では、この魔法陣とは――?」
と、十分な説明が得られなかった床の模様について訊いた。
「ああ、この魔法陣はここでの話をこの場限りにするためのもの。我々異世界人の存在を秘匿して貰うため、今日ここで会ったことを公表できなくする呪いが込められているんです」
「……呪いですか」
Vtuberデビューがほぼ決定して、博人はいきなり今後が不安になった。
面談が終わってやっと博人は解放された。
鴨がジャケットの内ポケットから刃が歪に湾曲したナイフを取り出してロープを切ったのだ。
鬱血していた腕には血が巡り、ジーンと熱を取り戻していく。
ゲーム廃人である博人は猫背気味である。それが、しばらく背もたれに縛り付けられたことによって少し姿勢が矯正されたような気がする。硬い椅子に座っていたはずなのに全く疲れがない。
鴨が持つナイフは銃刀法違反に抵触するであろう刃渡り十二センチはあろうかと言うもので、完全に凶器と呼べる代物である。ナイフは黒色の刀身に紫色の光を帯びていかにも異世界のモノらしかった。
「ああ、コレ?危ないものじゃないですよ。これは魔法の杖で、私の望んだ形になるんです。ナイフの他にも万年筆だったり、車のキーだったり。他には……。うーん、ハンカチとか充電器の代わりにはならないんだよね。構造が複雑とか、柔らかいもの以外なら応用が効くんですけど」
鴨は優しい微笑みを怪しげに光る刀身に向けている。その姿はどう見たって危ない人物であり、博人は半歩だけ鴨と距離を開けて「凄いですね」と思いもしない賛辞を述べた。
「それでは、私に着いて来てください」
鴨が部屋の扉を開けて言った。廊下へ出ると鴨は「それじゃあ」と前置きする。
「今から簡単にオフィスと寮を紹介してから、その後また自宅までお送りしますので」
そうして博人に有無を言わさず職場見学が始まった。
来るのに四時間以上、帰るのに四時間以上。寝ていたから移動時間は辛くなかったが、それでも面談に職場見学を合わせると合計何時間のスケジュールなのだろう。そう思うと博人は眩暈がしそうだった。
――帰りたい。
本心ではそう考えていた。
部屋を出た先は廊下だった。先ほどの部屋と同様に真っ白の壁紙にブルーグレーのタイルカーペットが敷き詰められ、扉を出た先の対面には丁度トイレがあった。
「あ、そうだ。トイレとか大丈夫?」
鴨が気遣う。
「いえ、大丈夫です」
「そう、じゃあ着いて来て」
廊下には幾つか扉が並んでいて、鴨は突き当たりの一つだけ大きなガラスが嵌め込まれている扉の方へ直線の廊下を真っ直ぐ進んでいく。
「ここがうちのメインオフィス。メインなんて言うけど、うちの業界では裏方だよね。さっきいた所には同じぐらいの小さい会議室が全部で四つあって。あっちの奥へと続く方にもう少し大きな会議室とスタジオがあるんです」
ガラス扉の先は広々とした空間だった。分かりやすく言えば小学校から高校までの初等や中等教育で使われる普通教室が二つ並んだくらい大きさ。形は長方形で、博人たちが通って来た廊下と、鴨が言うスタジオなんかがある方の廊下を繋げたラインを真ん中に、片側がデスクの並んだこれぞ事務所という感じの造りである。もう反対の側は統一感のあるブルーグレーではなく、カラフルなタイルカーペットでモザイク模様になっており、角には自販機が置かれ、壁には暖かみのあるウッドパネルが貼られ、インテリアを扱う店の展示エリアみたいになっている。
だが、そんなことよりも博人の目を引いたのはデスクで働く人だった。いや、それは人間ではない。
「……ガイコツ」
パソコンのモニターの陰に隠れてはいるが、モニターの上に覗いているのはどう見たって頭蓋骨である。
「ああ、うちのスタッフのスケルトンですよ。彼、アンデッドなので不眠不休の飲まず食わずで働き続けられるんです」
鴨は軽々と労働基準法を無視したことを言う。
異世界でなら別におかしなことはないのだろうが、郷に入っては郷に従えと言うから日本に会社を持つなら日本の労働法を守るべきである。それともこの場合は自分が異世界ルールを守るべきなのか、と博人は馬車馬の如く働かされる未来を想像して戦々恐々とする。
「おーい、スケさん!」
鴨は大手を振って子供のみたく元気な声で呼び掛け、その後に博人に顔を寄せて態々耳打ちをする。
「あ。(皆んなはスケさんって呼んでるんです。ヒーローさんもそう呼んであげてください)」
鴨の呼び掛けを受けてデスクのガイコツは立ち上がり、片手を振り上げた。ビジネスシャツを着て、顎をカチカチと打ち鳴らしながら頭を振ってカラカラ言っている。
隣ではうんうんと鴨が頷いていて、話すことが出来ないことが通常なのだと博人は理解して会釈を返した。
「午前中事務所に出てるのは私とスケさんぐらいかな。いる時にはいるんだけど、やっぱり配信業のゴールデンタイムは夜だからね」
そのとき、博人は鴨の言葉が妙に引っ掛かった。自分の中に浮かんだ疑問の正体が掴めず、引っ掛かるのに留めたのには眼前に動くガイコツが居る衝撃もあっただろう。
博人はなにも配信のゴールデンタイムを疑っているわけではない。
「……午前中?今って午前中なんですか?僕ん家から結構な時間移動して来たと思うんですけど」
「ああ。実は移動中は睡眠魔法をかけさせて貰ってね。ヒーローさんが寝ている間に魔法で高速移動したんだよ。ほら――」
鴨はデスクスペースの後方の壁を指す。
鴨の指の先にはデジタル数字だけが浮かぶシンプルな壁掛け時計があって、白い壁に白く発光するそれはシルエットがぼんやりしていて見辛いのだが、十時五十一分を告げている。そして、事務所にはブラインド越しに明るい陽光が差し込み、午後十時でないのは明らかだった。
博人は黙ったまま、口を開けて驚いた。
その後「まあ、びっくりするよね。アハハ」と言う鴨に階段へ案内された。
道中で「スタジオは今使用中だから、また空いているときにでも」と鴨は言う。
「じゃあ先に寮の方へ案内しようかな」
鴨に連れられたオフィスの上階はさながらホテルのようだった。
「一階層につき八室あります。全七階あって、一階と二階がオフィスなので、三階から七階までで四十部屋。入居者は全部うちの関係者で半分くらいしか入居者が居なくて大家はぼやいてますね」
「丁度、ここが空き部屋なので……」
鴨はジャケットから魔法の杖を取り出す。真っ黒の中に怪しげな紫色の光を秘めるガラス細工の木の枝のようなそれを徐に鍵穴に突っ込むと、ドロドロと蠢きながら穴に吸い込まれていって、動きが落ち着くとシリンダーが回った。
博人はもう驚かないが、それも立派に犯罪だとはしっかり思った。
「ささ、どうぞ」
鴨は片方の手で扉を引いて、もう片方で中を指す。まるで手練れの不動産屋みたく落ち着き払って博人を案内した。
玄関扉もそうだったが、室内もかなり綺麗だ。今の下宿先なんかより余程新しいし、造りも瀟洒である。
玄関の先に格子にガラスのはまった引き戸、右側へ続く廊下があってその先は洗面台である。
「そこには洗面台と洗濯機と風呂場。ここの引き戸を引き出せば廊下を区切って脱衣場になって、洗濯物干しにも使えますよ」
「へぇ」
ユニットバスを除いてみたがかなり広かった。湯船が少し低い気がしたが、広さは学生用の激安ワンルームのものよりは一回りも二回りも大きい。
「部屋はここが九畳のリビングダイニングキッチンで、手前のドアが配信用の小さな防音室ですね。その奥のドアが四畳半のベッドルームになります」
「これ、一ヶ月いくらですか?」
寮と聞いて期待してはいなかったが、現在一人暮らししているあのワンルームより余程良い。木造で、隙間風が多く、どこからかカビの匂いがする。壁と床を張り替えただけの牙城。比べるなら月とスッポンである。だから思わずいくらなのか聞いてしまった。
ここ、都内なんだろう?法外な値段取られそうだが。
「会社で全部借り上げちゃってるからね。それに配信は電気代とかも掛かるから水道とか光熱費も込み込みで八千円だね。まあ、給料から天引きされるから心配しなくともいいよ」
――八千円。
その衝撃はまさに博人の瞳に円マークが浮かぶほどだった。
八千円なら今の下宿の五分の一である。
「僕、絶対親説得して見せるんで。直ぐにでもVtuberデビューするので」
博人は決意を固めた。
「そうかい?いやあ、気に入ってくれて良かったよ」
鴨はハハハと喜色満面で頭を掻いた。
***
今年の年末は実家に帰らない。
年末年始を迎える頃には、博人はVtuberとしてデビューしているだろう。
夏休みが始まる頃、前学期の取得単位数が確定して《《無事》》に留年がほぼ決定した。この場合、無事とは平穏無事の《《無事》》ではなくて、なすすべなく、どうすることも出来ないから何一つ抵抗することなく留年を受け入れたということである。
前学期にのみ開講される講義の単位を落としたために、再取得にはまた来年まで待つ必要がある。別にその講義一つ落としたところで必ず留年になることはない。けれどその積み重ねが確実に博人を追い込んでいた。
後学期のスケジュールにできるだけの講義を詰め込んで、仮に全ての講義に出席し、全ての講義の単位認定試験を乗り越えることが出来れば――。そうすれば、今からでも挽回していくことは可能だが、それだって少しずつ借金を返済していくようなものである。もとより、そんな大層なこと博人には不可能だ。
友達がいるなら出席票への代筆を頼むことが出来て、本来なら同じ曜日の同じ時間に開講されている受講できないはずの複数の講義に出席できる。友達がいるならどこからか試験問題や提出課題の過去問、テンプレートを手に入れて対策が用意にできるだろう。
つまり博人にはもうどうしようもなかった。一度留年をした時からどんどんと状況は悪くなり、大学に入学して自分を取り巻く環境は大きく変わったはずなのに、まるで今までの生き方の負債に首が回らない気分だった。
夏季休暇は実家に帰った。
その足取りは重く、乗り継いだ電車の時間は一瞬で、地元の大地を歩くのは無限にも感じられた。
「夏休みは帰省するの?」と母に言われたから博人は実家へ戻った。合わせる顔がないから、博人はできることなら帰りたくなかったが、留年についても言わなければならなかったし、Vtuberデビューに関しても言う必要があった。流石に電子メールの文面だけで退学することと、働くことを言うのはどうかと思ったので、罪悪感とか無力感を引きずって帰省したのだ。
「もっと頑張りなさい。今から諦めてどうするの?」
博人の母は簡単にそう言った。
現時点で留年だと言うのに、前学期で崖っぷちに立たされているのに、後学期を乗り越えられるはずがない。それに、後学期分の学費は未納なのである。
留年されたら学費は払えない。そう言って後学期分の学費はストップされているのである。余計にお金を掛けない賢い選択でもあるが、その癖、母は「頑張ってみなさい」と言うのだ。
母は博人の言った全ての言葉をきちんと傾聴し、理解して話しているようではなかった。博人の母の口を吐くのは楽天的なまでに根拠のない励ましの文句ばかりで、ゲームに逃げてばかりいる博人と同じくらいに現実が見えていない。ある意味で似たもの親子だった。
父はまだ仕事でいない。朝早くに下宿先を出て、時刻はまだ十五時であり、父が帰るだろう十八時までは母と話した。
依然として円満な家庭であるような他愛のない話に、博人は引き攣った顔で笑っていた。
夜になり博人によって再度家族会議が催される。
そして、その場での父の提案は休学だった。もちろん、普通に進級と卒業することを望んだが、父の最終的な妥協点が休学だった。
しかし、いくら時間を掛けたかところで博人には卒業できるビジョンがない。両親も退学させたいのかと思えば、学費を分納にしたのだって、仕送りをストップしたのだって発破をかけるためだったと言う。
しかし博人にしてみれば、卒業して就職することだけを目的とした大学進学であったため、別に講義の内容にも、学べる知識についても博人は興味がなかった。だから退学を推した。博人が入学したのは名のあるような大学でもなく、態々休学をしてまで籍を置いておく必要があるとも思えない。
もし仮に自分の人生において大学卒業という称号が必要になった時には、今度は自分の稼いだ金で大学に行く。必要になってからで良い。と博人は訴えた。
無論、鴨エンターテイメント株式会社のことも話した。内定したこと、寮に入ること、来年の四月入社ではなく、入社時期は要相談であること。VtuberデビューやVtuberが一体どんなものなのかを言えば、また言い争いの火種を作るだけだと考えて、かなりの部分を伏せて話す。しかし、それによって曖昧なままの詳細に、父は一層機嫌を悪くした。
全部で九日間の滞在の後、喧嘩別れをするみたいに博人は下宿に戻り、そこには母が連れ立った。盆休みに入る前に大学に行って退学届を出した後、二ヶ月間ある夏季休暇の半分を使って諸々の手続きを済ませ、八月二六日にアパートの鍵を返却した。
「二度と家の敷居を跨ぐな」と怒鳴った父だったが、その次には「先方に迷惑をかけるな」と言い、本来夏季休暇の期間である間だけ、博人の滞在を許したのだった。
***
ツルツルとした一面のフロアタイルが敷かれる事務所一階のロビーで、鴨は手袋をはめる手をポンポンと叩いて歓迎した。
「ようこそ。Vモンスターズへ」
白を基調とする簡素な造りでありながら、採光した明るさが床や壁に写ってキラキラとロビーを埋め尽くし、高級さや清潔さを演出している。
そんな品位ある場所の一画に博人の引っ越し荷物が積まれ、突如として現れたみたいな生活感がロビーの統制を乱し、見るものを混乱させるほどにカオスだった。
「いやあ、便利ですね。魔法って」
転移魔法による引っ越し作業。車を高速移動させたのもこの魔法だ。
転移魔法で引っ越しをするなら荷造りをする必要すらない。
引っ越しは博人の実家へ鴨が後部座席を取り外したバンに乗ってやって来て、荷台に荷物を詰め込んだ後で中身を先に転移させ、軽くなったバンを人気のないところまで走らせてから、さらに車を転移させる。
博人の実家があるのは田舎で、周りには田園風景ばかりが広がっている。だから車を走らせる時間よりも、積み込みをする時間の方が長かった。掛かった時間は合計一時間と少し。積み込みから移動、荷下ろしまでで一時間だから、あまりの早さに引っ越し業者も腰を抜かすことだろう。
「この世界の尺度ならまさに奇跡だよね。まあ、こっちだからあの規模でも簡単にできることなんだけれど」
鴨は少し照れ臭そうに笑う。
確かに鴨の言う通り魔法は奇跡である。以前『異世界人が生きて行くには』みたいな話になったが、鴨が引っ越し業者を始めれば。別に引っ越し業者でなくとも魔法を使えば何か新しい仕事ができるんじゃないか、と博人は目を輝かせる。
「鴨さんって普通の人間ですよね。僕でも鍛えれば魔法って使えますか?」
ただのお金稼ぎでなくとも、便利なのは間違いない。使えるに越したことはないと博人は試しに訊いてみた。
「うーん。どうだろ。先ず、私は人間は人間でも異世界の人間だからね。もとより魔法と魔法の源である魔力がある世界の住人で、その上異世界でも魔法使いになれる人とそうでない人がいるから、ヒーローさんが魔法を使うのは難しいだろうね」
無理であろうことは分かっていたが。あまり期待はしていなかったが。現実をはっきりと言われると残念だった。
博人が少し暗い顔をすると、それを察した鴨が勇気付けようと話題を変える。
「――ああ、そうだ。実は正式にヒーローさんのキャラクターとかモデルが完成したから、荷物を寮に運んだら、早速打ち合わせをしようか。今までは仮で『ヒーローさん』って呼ばせて貰っていたけど、これからはちゃんとした名前があるからね」
「名前ですか?」
「そう、名前さ。Vtuberにはあるだろう?うちでは普段からキャラクターの方の名前で呼ぶのがルールなんだ。異世界から来た子にはVtuberになるまで名前のハッキリしなかった子とかもいるし、何より配信活動で使う名前がそのままタレント名なんだから事務所としてはそっちの方が分かりやすいからね」
「私もこっちでの名前は鴨賢人だけど、実は異世界での通り名は賢者カモシダスなんだよ」
「醸し出す?」
博人は鴨の奇天烈な名前に思わず聞き返す。
「ああ、多分日本語の『醸し出す』と勘違いしたと思うけど、カモシダスね。省略してカモさん。だから『鴨』。別々の世界なのに偶然って凄いよね」
鴨改めカモはいつもの壮年らしくない少年のような笑みを浮かべて、爽やかにハハハと笑った。
「それじゃあ、先ずは何より配信で使う機材について説明しましょうか」
荷物は転移魔法で少しずつ部屋に運び入れ、それが終わるとメインオフィスの小会議室で博人とカモは向き合った。
「動画投稿は為されてたと思うので、少々特殊なものだけお教えします」
特殊なもの?と博人は不思議に思ったが、取り敢えず「はい」と相槌を打つ。
カモは予め用意していた紙袋をゴソゴソと漁り、何かを取り出した。それはゴツゴツとした光沢のない灰色の岩石で、凸凹した岩肌を残しながらも直方体に形成されている。丁度片手に収まる携帯みたいなサイズ感で、見たことがないが例えるならアルファベットやルーン文字みたいな記号が刻まれる石板らしかった。
「先に言っておくと、ちょっとびっくりするかも知れないから気をつけて」
カモは博人の目を覗き込み「いいかい」と前置きする。そして、
「いくよ」
と言ってから一拍置いて、石板をひっくり返した。
石板の広い面の上辺に近い所には眼球が埋め込まれ、それがぬらりと動いて博人を捉えた。
「うわあ」と博人が叫び出すよりも早く、カモは茶目っ気たっぷりに
「これが本当のアイフォン……なんちゃって」
と言った。
思わず冷静になった博人は不快感たっぷりに
「なんですか、コレ……」
と返す。
「この世界で言うカメラだよ。呼び名は目のついた石板だからアイバン。Vtuberは本来ならカメラで顔とか身体の動きをトラッキングして、それをアバターに反映させるでしょ。うちではコレで撮った被写体に、それを二次元なら二次元で、三次元なら三次元のキャラクターふうにフィルタを掛けるんだ」
また魔法とか、異世界とかが関係するんだろうが、原理が不明過ぎて何と言っても良いか博人には分からなかった。
「まあ、何だろう。魔法の技術でカメラを再現したってところかな?難しいことはないよ。配信する時にこの目が付いてる表側に刻まれた刻印を指で撫でればいいだけ。そうすれば寝坊助なコイツが起きるから。うちのトラッキング技術はこのアイバンを中心にしてるから、慣れてもらうしかないのと。後、魔力に反応してトラッキングする仕組みを取ってるから、配信する前には――」
そこまで言って、カモは紙袋から次の物を取り出す。
「この魔力増強剤を飲んでね。ちょっと変な味するけど」
取り出したのは怪しげなジャム瓶。五ミリほどの真っ黒な丸薬がみちみちと詰まっている。
「毎回の薬飲むんですか?」
いきなり登場した怪しい薬。できることなら飲みたくはないが。
「錠剤タイプ苦手だった?粉薬にすることもできるけど、一つ一つ袋詰めできないから、毎回計量しなくちゃいけないよ」
飲まざる終えない雰囲気。この世界には魔力がないと言っていたから、薬を飲まなければ魔力によるトラッキングは不可能。そして、鴨エンターテイメントでVtuberとして活動するにはアイバンが必須。飲まない以外に方法はない。と態々ロジックを作り上げて博人は自分に言い聞かせる。
「……大丈夫です。錠剤の方が慣れてるので」
「そう。良かった。無くなったら言ってね。次の渡すから」
またカモは紙袋をゴソゴソする。今度は中々に大きそうである。
「これが最後の支給品かな。デスクトップとかは防音室に入れてあるの見た?別途編集にパソコン使いたいとかならオフィスの使ってもいいし」
カモがコトンと机の上に取り出したものに、博人は心を躍らせる。
「これってiPa――」
「まあまあ、製品名は良いじゃないですか」
カモは悪徳セールスマンみたく都合の悪いところはヘラヘラと誤魔化す。
「コメント見るのとかに使う用ね。運用は任せるから、好きに使っても良いよ。転売とかは無しだけど」
カモは席を立ち、さらに紙袋を寄越す。
「それじゃあ、ヒーローさんも楽しみにしてるだろうアバターモデルと、キャラクターの詳細を持ってきますね」
カモは笑顔で告げて会議室から退出した。
カモが居なくなった会議室に取り残された博人は新品の某モバイル端末の入った箱に手を伸ばす。静かにそれを引き寄せて優しく持ち上げてみた。回したり、ひっくり返したりしてシールが貼られて開かなくなっているのを確認し、未練がましく丁寧に紙袋へ戻す。
それから恐る恐るジャム瓶を手に取る。
――魔力増強剤、とカモは言っていた。
不信感で一杯のそれをカラカラと振ってみる。黒光りするその見た目は漢方なんかで見る様な丸剤だ。蓋からもともとがピーナッツバターの瓶であったことを知る。
博人は興味本位、怖いもの見たさでゆっくりと金属のフタを回す。
「――くっさ」
蓋を開くと間もなく鼻を突き刺す様な刺激臭と、嗅いだこともないケミカルな臭いが飛び出して、博人は慌てて封をした。
「(これ飲めるのか、僕)」
しばらく嗅いでいるだけでも吐きそうだった。