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07 姫と騎士のなり損ない



 泣き声が聞こえた。


 迷子になった子供が親を求めるような必死な泣き声。

 胸の奥底に響く獣の慟哭のような泣き声――……。


 無視することはとてもできなかった。足が声の方へと向かう。


 王城の裏手にある、古びた小屋。

 打ち捨てられた倉庫のようなその建物の壁には、小さな子供が一人通れる程度の穴がぽかりと空いていた。声はその奥から聞こえた。

 穴を覗き込む。


「う……っ、ひっく、ぐす……!」


 しゃくり上げる女の子が丸まっているのが見えた。


 五歳か、そこらの女の子。湖水のような水の色のドレスを着ている。


 泣くのに必死な彼女はこちらには気づかない。


 どうしてそんなに泣いているのか。

 どうしてこんな場所にいるのか。


 そっと明かりの差さない穴の中に手を差し伸べた。


「大丈夫か」


「ぅ……?」


 女の子は不思議そうにその掌を見つめた。


 サファイアのような鮮やかな青が、琥珀色の長い前髪の隙間から覗く。


 瞬間、あ、と気づいた。同じ色だ。じゃあ、この子は――。


 女の子は警戒心の強い小さな獣のように、ゆっくり、少しずつ――本当に少しずつにじり寄ってきた。

 そうして小さな手が手に触れると、ぐいっと一気に光の下へ引っ張り出した。


「にゃっ――」


 驚いたのか女の子は猫のような声をあげた。

 その可愛らしくも間の抜けるような声に思わず笑ってしまう。


「あ、あなただれ……?」


 怯え混じりに少女は聞いてくる。あまりに驚いたのか泣いていたことなどもうすっかり忘れていそうだ。目尻に溜まった涙をすくってやる。


「俺はヴィルマー。アルス殿下の友人の、弟だよ」


「おにいさまの……?」


 ああ、やはりそうだ。この子は第二王女のベティーナ姫だ。


「そ。兄上に連れられてきたけど退屈してたんだ。君は? こんなところで何してたんだ?」


「わ、わたし……わたくし、は……でき、できなかったの……わから、なかったの……」


「ん? なにが?」


「あの、あのね、もじをね、おぼえてくるの。しゅくだいで……でも、ひとつ、わからなかったの。ハイデマリーはもうできるのに、どうしてって、いわれて……こわくて」


「ふうん、大変だな」


 ハイデマリー。ベティーナ姫の妹君の名前だ。その妹に勉強を追い抜かれて、教師に怒られて泣いていたというわけらしい。


「何の文字が分からなかったんだ?」


「わ、わからない……」


「それもそうか。なら、知ってるの全部ここに書いてみろ」


 トントンと地面を指し示す。柔らかい土だ。指でも十分に書ける。

 お姫様は何度か地面とヴィルマーの顔を交互に見てから、地面に指をつけた。

 その横顔は真剣だ。やがて、少し時間がかかったものの、幼子らしい拙い文字の羅列が地面を埋め尽くす。


「よし。よく書けたな、偉い偉い」


 ぐりぐりと頭をなで回すが、その手はぱっと振り払われた。


「えらくない……もっとできなきゃ、おとうさまは……おにいさまも、おねえさまも、もっとかしこかったって……」


「十分偉いって。ほら、欠けてる文字はこれだ。真似してみろ」


「あ、う、うん……!」


 地面に書いた字を、少女はじっと見つめる。何度も見ながら、その横に同じ図形を描いた。

 何も言われずとも、彼女は何度も何度もその文字を書き記した。

 膝をついてずりずりと移動するせいで、綺麗だった水色のドレスは砂まみれになっていく。



 ぼんやりとそれを見つめるうちに、ぐにゃりと景色が歪んだ。眩暈のような感覚にきつく目を閉じて開けると、ほんの少し成長したベティーナが目の前に居た。


 琥珀色の髪はまだ目元を覆うように長い。サファイアの瞳がちらりと隙間から覗き、嬉しそうに笑みの形をつくっているのが見えた。

 八歳の頃のベティーナだ。


「ヴィルマー、婚約が決まったの」


「ああ、聞いた。おめでとう、ベティーナ――いや、もう殿下と呼ぶべきか?」


 婚約者ができたのだから、いつまでも親しく名前を呼んでいるわけにはいかないだろう。


「ええ? いいわよ、別に。お兄様だって親しい方には名前を呼ばせているもの」


「でも、婚約者のいるお姫様を呼び捨てにするわけにはな……」


「そういうもの? じゃあ、ヴィルマーの好きにして。あ、でも『殿下』は嫌よ。なんだか堅苦しいもの」


「じゃあ、ベティーナ姫?」


「長くない?」


「確かに。なら、姫」


「いいわね。ヴィルマーにそう呼ばれると、相応しくあろうって思えそうだわ」


「じゃあ、姫。改めて婚約おめでとう。よかったな」


「ええ、ありがとう」


 ベティーナは嬉しそうにはにかんだ。


「……これでお父様も、わたくしを褒めてくださるかしら――」





 ゆっくりと目を開き、身を起こす。厚手のカーテンを開くと、外はまだ薄暗く、朝と呼ぶには些か早い時間だった。

 もう一度眠る気にはなれず、ヴィルマーはソファに身を沈める。


 懐かしい夢を見た。


 どことなく昔のベティーナに似たエミリアという少女に出会ったせいだろうか。それともあのフリッツという少年が癇に障ることを言ったせいか。


 ――お姫様だからって誰も彼もがちやほやするなんて大間違い。


 そう、その通りだ。

 ベティーナはその全くの逆。彼女はずっと出来の良い兄妹たちと比べられ、自信を奪われてきた。いろんなきっかけや彼女自身の努力があって今や自信を取り戻すどころか、あんな感じになってしまったが。


『アルマもヴィルマーも、馬鹿ね。今更あんなことじゃ傷つかないわよ』


 フリッツとエミリアの乗った馬車を見送りながら、ベティーナはぽつりと呟いた。一歩後ろに立つアルマにも、隣に立つヴィルマーにも聞こえる声量で。


 ベティーナは強くなった。教師に怒られて怯えて隠れて泣いていた幼子の姿は影も形もない。

 一度ぼろぼろになった心は、外面を磨くことを通してより強靭になった。

 最初は演技に過ぎなかった堂々とした振る舞いも、今はもう染みついて様になっている。

 それなのにまだ、彼女に危うさを感じるのは、ただの過保護か。それとも――


 ガチャリ。


「おはよう、ヴィルマー! 走りに行くわよ!」


 ノックもなしに景気よく開いた扉から、ベティーナが我が物顔で入ってきた。

 ヴィルマーは額に手を当てる。明るい大声が頭に響いた。


「姫……早起きだな」


「あら、ヴィルマーこそ。寝ているかと思ったのに」


「眠ってる人間がいる部屋に入るテンションじゃなかったよな」


「だって、びっくりさせようと思って」


「それなら良かったな。十分驚いた。あと、寝てる男の部屋に入ろうとするな馬鹿」


「違うわよ、寝起きを不意打ちしたかったの。ヴィルマーってほら、いっつも澄ましてて余裕たっぷりだから」


「焦った顔を見たかったってことか?」


「そ。驚いた顔とかもね。失敗しちゃったけれど」


「……まあ確かに目を覚まして目の前に姫が居たら動揺するだろうな」


「でしょう? ヴィルマーがこんなに早起きだって知ってたらもっと早く起きたのに。ま、いいわ。それよりヴィルマー、行くわよ」


「行く? どこに?」


 そういえばさっき朝の挨拶とともにそんなようなことを言っていた。


「だから走りに行くの。わたくしの朝はジョギングから始まるのよ。付き合いなさい」


「あー……まあいいか。分かった、着替えていくから外で待ってろ。庭の方な」


「あら、珍しく聞き分けがいいのね」


「体を動かすのは嫌いじゃないからな」


 ベティーナはきょとんとして、ふと思い出したように人差し指を顎に置いた。


「――ああ、そういえば前にヴィルマーは騎士団に入ってたわね。性に合わないってやめちゃったけれど、お兄様はもったいないって言っていたわ。続けていれば兄弟揃ってお兄様の側近になっていたかもしれないわね」


 じゃあ、早くしてね、と言い残してベティーナは、来たときとは打って変わって静かに扉を閉めていった。

 ベティーナと、彼女が連れている護衛、それから侍女の足音が遠ざかる。


 その音をぼんやりと聞きながら、ヴィルマーはゆっくりと立ち上がった。さっさと身支度をして行かなくては我儘なお姫様に文句を言われることだろう。


「アルス殿下の騎士、か」


 それは間違いなく名誉であり、継ぐ爵位のない貴族の三男にとっては大出世だ。


「……だから、やめたんだよ」


 出世もアルス王子の下につくことも、ヴィルマーの本意ではない。


 あのとき騎士団に入ったのは単に兄に無理矢理入れられて抗うのも面倒だっただけ。タイミングさえ悪くなければ、あのままだらだらと続けていた可能性もあった。

 隣国ルチエッタで起きた内乱が、それを許してはくれなかったけれど。


「はー……やなこと思い出した」


 軽く頭を振って記憶を追い出す。

 じとりと額に滲んだ汗は、きっと暑さのせい。


 いつの間にか昇った日の光が、大きな窓からぎらぎらと降り注いでいた。

 今日も、暑くなりそうだ。



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