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02 避暑地にて



 青い空には白い雲が連なるように浮かび、高く昇った太陽が湖面を輝かしく照らし出していた。


 細長く伸びた湖の向こう側には密集するように小さな家々が見え、その奥には大きな山が緑を生い茂らせている。


 見晴らしの良い四階のバルコニーに出たベティーナは手すりに体重をかけ、身を乗り出す。いつもより簡素なドレスの裾が、吹き抜けた風にふわりと揺れた。


「さすが夫人が自慢するだけあるわね。気持ちのいい場所だわ」


 ラゼ湖畔。

 ハルデンベルク公爵家が所有する別荘は、湖畔に立ち並ぶどの屋敷よりも大きく優美でそれ自体が絵になるように佇んでいる。


 その四階からの景色は、開放的で確かに気持ちの良いものだった。


「あんまり身を乗り出して落ちるなよ」


「失礼ね。大丈夫よ」


 隣に立ったヴィルマーの冷やかすような言葉にベティーナは不服そうに唇を尖らせる。


 今日のベティーナは、避暑地らしくつばの広い帽子を被り、うなじ辺りで琥珀色の長い髪をキュッとコンパクトにまとめている。


 先程馬車から降りたばかりなので、服装は移動に向いたほとんど装飾のない淡いクリーム色のドレスだ。


 ほとんど飾り気のない清楚さを漂わせる装いは、普段派手に着飾っているだけに与える印象がまったく違った。


 吹く風に気持ちよさそうにサファイアのように輝く青い目を細める姿さえも、どこか新鮮に映る。


「良い風ね、ヴィルマー?」


「ああ……まあ王城よりかは涼しいな。俺は子供の頃よく来てたから目新しさはないが」


「あら? でも確かつい最近噴水を新しくしたのではなかった? 夫人が自慢していたわよ」


「そんなことも言ってたな……今更噴水が増えても目新しくも何ともないが」


 湖のすぐ隣に建てられた別荘の裏側は、広大な庭になっている。その広さを活かして、数十の噴水があちこちに設置されているのだ。その数は、ヴィルマーが訪れる度に増えていた。


「わたくしも噴水にはあまり興味がないわね……城にもあるし――あ、あれはボートかしら? ねえ、ヴィルマー」


「ん? そうだな」


 湖を見つめていたベティーナの目がパッと輝く。確かに彼女の視線の先にはボートが一艘浮かんでいた。


 乗っているのは同じようにこの辺りに別荘を所有する貴族だろうか。ベティーナと似たような帽子を被ったドレス姿の女性二人の姿が見えた。


「ヴィルマー、わたくしも乗りたいわ。手配なさい」


「……。俺はいつから姫の従者になったんだ?」


「従者じゃないわ。主人ホストよ。そしてわたくしは客人ゲスト。わたくしをきちんともてなして楽しませるのがヴィルマーの役目でしょう?」


「招待した客じゃなくて、押し入ったに近い客だがな」


「それって客なのかしら――いえ、誰が押し入ったですって? 夫人は快く了承してくれたじゃない。ハルデンベルク公が王都をしばらく離れられないからって、ヴィルマーを案内役にして」


 ヴィルマーの母親ハルデンベルク公爵夫人は、ラゼ湖畔に有する別荘で過ごしたいというベティーナの要望に快く応じた。


 別荘とはいえ、王女の訪問だ。

 本来は女主人たる夫人が対応するべきことのはずだが、その役目は当然のようにヴィルマーに回ってきた。


 ヴィルマーとベティーナが旧知であることや、ヴィルマーが基本的に暇人であることを考えれば不自然なことではないが、ヴィルマーにはなんとなく納得のいかない出来事だった。


「……前々から周囲の俺の認識が姫のお守り役みたいになってる気がするんだよな」


「はやく行くわよ、ヴィルマー!」


 風に乗って流された呟きは、既に身をひるがえして部屋を出て行こうとするベティーナには届いていなかった。





 一階にある、入ってきた扉とは別の扉――湖に面した方向の扉――から外へ出る。


 そこには小規模な船着き場に続くテラスが広がっていて、テーブルを設置すれば湖を間近に眺めながら食事を楽しむことができるようになっている。


 そんなテラスには目もくれず、ベティーナは真っ直ぐ船着き場に続く階段を下っていく。


 船着き場には既に船頭が待機していた。どうやらヴィルマーとベティーナの会話を聞いていた使用人たちが一通りの準備を整えてくれていたらしい。


 王女をもてなすということで、別荘の使用人たちは気合いが入っているみたいだ。


「何やってるのよヴィルマー。はやく乗って」


 ちらちらとこちらの様子をさり気なく窺っている周囲の使用人たちをぼんやりと眺めていたら、ベティーナは既にボートに乗り込んでいた。


「俺も乗るのか」


 男女でボートに乗るなど変な噂になりそうなことはご遠慮願いたいのだが。

 ベティーナはしれっと頷く。


「当然よ。ホストだもの」


「滞在中ずっとそれ言うつもりか?」


「いいじゃない。いつもはわたくしがもてなしてあげてるんだから」


「姫はいつも夢でも見てるのか? 俺には愚痴を聞かされてる記憶しかない」


 それともあれはベティーナ流のもてなしなのだろうか。それならばもてなしてくれなくて非常に結構なのだが。


「いいからさっさと乗りなさい。日が暮れちゃうわ」


「はいはい……」


 今更ベティーナを相手に変な噂が立つはずもないかと諦めて、ヴィルマーは頷いた。


 ヴィルマーが足を踏み入れると、ボートは不安定にぐらりと揺れた。ベティーナが驚いたように小さく悲鳴をあげる。


 恨めしげに睨んできたが、今のは決してわざとではない。小さな舟は揺れやすいものなのだ。


「ちょっと、ヴィルマー。もうちょっと静かに乗れないの?」


「無理だな。怖いなら降りたらどうだ?」


「怖くはないわよ。ただ少し久し振りだったから驚いただけ。――出していいわよ」


 ベティーナの指示でボートが動き出す。


 少し風はあるものの、湖の上なので波はほとんどない。おかげで大きな揺れもなく、ボートは穏やかに湖上を進んでいった。


「久し振りってことは乗ったことがあるのか。やけに興味津々だったから初めてかと」


「本当に小さい頃のことよ。ハイデマリーが乗りたいって言って、お姉様と二人で乗っていたの」


 ハイデマリーとは、ベティーナの一つ年下の妹である第三王女だ。


 三年前に国境を南に接するルチエッタ王国へと嫁いでいった。


 ハイデマリーはベティーナよりも一番上の姉である第一王女と仲が良かったので、二人でボートに乗ったというその組み合わせは自然なことだろう。


「わたくしはそれを室内から眺めていたのだけど、今度はお兄様が」


「乗りたいって言ったのか?」


「いえ、漕ぎたいって言ったの。それで、何故かわたくしを引っ張って行ってボートに乗せたのよ。初めてに思えないほど上手に漕いでいたわ」


「何でもできる人だとは思っていたが、そんなことまで……」


「お兄様はわたくしたち兄妹の中でも頭一つ抜けているもの。容姿端麗、頭脳明晰、万夫不当――はちょっと言い過ぎだけれど、とにかく何でもできる方よ」


 ベティーナは兄を誇るように自慢げに――ではなく、悔しそうな苦々しい表情で言った。


 優秀な兄妹と比べられることしかされてこなかったベティーナは、彼らがいかに優秀であろうと誇らしく語ることはない。胸中に苦々しい思い出が蘇ってしまうのかもしれない。


「あまりにもあっさりとやってのけるから、簡単なものかとわたくしは思ったわ。だから、わたくしお兄様と漕ぐのを交代したのよね。そしたら――舟がひっくり返ったわ」


「嘘だろ……?」


 当時ベティーナがいくつだったのかは分からないが、彼女が小さい頃と言う以上大きくても五歳か六歳だ。そんな幼子にオールを任せようとしたアルスの行動が信じられない。


 ヴィルマーの浮かべた驚きと疑いの混じった微妙な表情を見て、ベティーナはくすくすと笑いをこぼす。


「いえ、本当よ。はらはら見守っていた護衛たちにすぐ救出されたけれど。あ、お兄様は自分で泳いでいらしたわね。きっとお兄様はどうなるか分かっていて、わたくしにオールを渡したのよ。岸に上がって楽しそうに笑っていたもの」


「……そんなことがあってよくまた乗りたいと思えたな」


 まさかボートから落ちたことが楽しかったわけでもあるまい。


「まあねぇ、もうボートを漕ぐのはこりごりよ。でも、乗るのは気持ちよかったのよ」


 ベティーナは風を感じるように、少し顎を逸らせて目を閉じる。

 口元には気持ちよさそうな緩やかな笑みが浮かび、その姿は、まるで一枚の絵画のように静謐で美しかった。



 しばらく静かに目を閉じていたベティーナの柳眉がふとひそめられ、ぱちりと目が開く。


 じっと見つめていたせいで、しっかりと目が合ってしまい、ヴィルマーはぎくりとした。

 だが、彼女は大して気にかけた様子もなく話しかけてくる。


「ねぇ、ヴィルマー。何か聞こえない?」


「何か?」


「ええ。微かだけど、あっちの方から」


 少し腰を捻って斜め後ろの方をベティーナが指した瞬間、派手に水飛沫があがった。ちょうどその方向にいた十数羽の水鳥が一斉に飛び立ったのだ。


 水の跳ねる音と、鳥が羽ばたく音。


 水面では彼らが起こした小さな波紋がぶつかり重なり合って広がり、ぷかりと浮いた白っぽい細長の何かを揺らしていた。


 ばさばさと羽音が遠ざかると、ようやくヴィルマーの耳もその音を拾った。


「……ま――さま――!」


 鳥の鳴き声とは違う、高い音。いや、声だ。人間の叫び声。


 目を凝らすと、湖沿いに設けられた遊歩道のようなところを駆けている人の姿が見えた。ベティーナのように体型維持と体力づくりのために走っている……というわけではなさそうだ。


「何してるのかしら? 気になるわね、ちょっと舟を近づけなさい」


 ベティーナの指示に従い、船頭は器用にボートを誘導した。


 遊歩道のある岸辺が近付いて来ると、どうやら走っている人影が女性であることが分かった。町娘だろうか。今のベティーナと同じように動きやすそうな簡素なドレスを着ている。


 女は引きつった声で走りながら叫ぶ。なんと言っているかは近づいても不明瞭だ。

 ベティーナが感心したように呟いた。


「すごいわね。疲れないのかしら」


「いや、きついだろ。ほら、立ち止まって……――!?」


 言葉が途切れたのは、驚きに息を呑んだせいだった。


 ぴたりと走るのをやめた女の身体が、小舟がぐらりと揺れるように不安定に傾ぐ。躓いたわけではない。足で踏ん張ることも、手で支えることもせず、女の身体はゆっくりと地面に倒れこんでいった。


 はっとベティーナと顔を見合わせると、ベティーナはすっと白い指を伸ばして船頭に指示を出した。


「あそこに舟をつけなさい」



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