01 まだ遅くない
濡れて張りついた前髪。衣服に跳ねる泥。ぼやけた瞳の輪郭。
彼女の堕落を示すのはそれで事足りました。
「――し、シエル。お願い、戻ってきて……――」
かすれて震えた脆弱な声音。
じっとりと雨露を含んだ外套の裾を小さな手で握っています。
古びた扉の先にぽつねんと立つ訪問者は、かつての威光のかけらも消え失せたみすぼらしい格好の――すみません。少し棘のある表現でした。
ですが物乞いか浮浪者と見紛うくらいには覇気のない少女の姿がそこにあります。
汚れ一つなかった華美の銀鎧には無数の傷が。整然としていたはずの金髪の編み込みもぼろぼろに。
当代最強、閃光の銘の勇者――それの果て。
”白銀の牙”頭領。”閃光の勇者アメリア”、その人でした。
彼女がここ――私の泊まる宿に訪れたことにも驚きましたが、何よりその言葉に困惑しました。
「……何を言っているんですか。私を追放したのは、あなたでしょう」
第一線で活躍する実力のある隊でした。その一員としての私はもういません。
現在に至るまでの経緯を、少しさかのぼって話す必要があります。
◆
「――シエル。あんたは今日限りでクビよっ!」
怒声。というよりも見せしめのための宣言だったようで、高揚が抑えられていませんでした。
休憩中、口元まで運んでいたティーカップを一度だけ舐め、正面に立つ彼女を見上げます。
”白銀の牙”の名義で借りている拠点。その一室での出来事でした。
周囲の団員からも視線が集まります。
「……それは、何故ですかアメリア? 私はしっかり自分の仕事をして――」
「はあ? 何を言っているの。あんたみたいな役立たずなんか、いない方がマシなのよ!」
言葉を遮ってまくし立てます。彼女には人の話を聞かない、そういう悪癖がありました。
「……一応、その理由を聞かせてください」
私はパーティで唯一の僧侶です。治療、支援、そういった地味な役割でした。
目立たない、けれど欠かせない要職。そう認識していたのですが、
「前衛の陰に隠れてこそこそヒールとバフをかけるだけ。そんなの誰にだってできるし、ポーションを使えば済むじゃない」
彼女に言わせればそうらしいです。もちろん間違っています。
「治療薬には治癒術のような即効性はありませんよ。それに、支援術だって――」
「うるさいっ、私に口答えする気?! 生意気なのよ!」
反論が気に障ったようで、かんしゃくを起こしました。
少しばかり幼稚な精神。それが許されていたのも、ひとえに彼女が勇者であったからでしょう。
そういうわがままが許される。“勇者”は、その程度には優遇された加護でした。
私とアメリアは片田舎の小さな村で生まれました。いわゆる幼馴染です。
お互いに運よく“勇者”と“僧侶”という強力な加護を賜り、「将来はSランクパーティにまで上り詰めよう」と約束して、その夢を叶えることさえできました。
なのに、彼女は変わってしまった。
かつてはこうではなかった。勇者の権威を振りかざし高慢な自意識に溺れる、可哀そうな少女。そうなるのを止められなかったのは、幼馴染の私の責任でもありました。
「――それに、リーダーである私を差し置いて勝手に命令して、うざいのよ!」
恐らく、それが一番の理由なのだと直感しました。
パーティの面々は個人技に優れていましたが集団戦の経験は少ないようで、危なっかしい場面が多々ありましたから。
だから、後衛から戦況を俯瞰できる私が戦闘中に指示を出していました。彼女にはそれが気に食わなかったのだと思います。
がっかりしたような、そのような気持ちから溜め息を吐きました。
「皆さんは納得しているのですか?」
辺りを見渡します。”白銀の牙”は勇者、戦士、魔術師、弓手、僧侶で構成されたごく一般的なパーティです。
そのうちの誰も、何も言いませんでした。
小隊の皆がアメリアに逆らえないことは分かっていました。この場において彼女の言うことが絶対で、彼女が決めた以上は私の追放は確定したものだったのです。
「……そうですか。では、私はこれで失礼します。何か困ったことがあれば、しばらくは宿に滞在していますので――」
「いいから、さっさと行って! もう二度と顔も見たくないの」
……かつては、本当にこんな娘じゃなかったんです。心優しい、純朴な少女だったのに。
ひどく悲しい心持ちで、その場を去りました。
ですが、これでお別れとも思っていませんでした。頭を冷やせば、きっとまた笑いあうこともできる。
そう思っていたのですが――
◆
流石に早すぎませんか。
私が脱退してから、まだ一月も経っていません。なのにアメリアはこんなにズタボロです。
――正直に言うと、少しだけ嬉しかった。どういった経緯であろうと、また彼女が私に頼ってくれたから、それは喜ばしいことでした。
でも、けじめはつけなければいけません。だから振りだけは取っておかないとダメでした。
「……どういった心境の変化か知りませんが、いまさら何のつもりですか」
できるだけ冷たく、そう言います。
「無理やり追い出しておいて、今度は『戻ってきてくれ』? あまりにも、虫が良すぎるんじゃあないですか」
目を細めて、睨んでみて……こういうのは、あまり得意ではありません。自分で言うのもおかしな話ですが私は慈悲深いのです。誰も傷つけたくないし困っている人は助けてあげたい。
だけど彼女の為でもあります。
高慢な自分を見つめ直し、生まれ変わる良い機会。そう思いました。
アメリアの肩が怯えたように波打ちます。
「――ごめ、ごめんなさい。ごめん、シエル……!」
そのまま大粒の雫が溢れ、それを袖で拭い始めました。
「わたっ私が、間違ってたっ。シエルのおかげでうまくいってたのに、それがっ分かってなくて。ごめんなさい、もう、戻ってきてっ……――!」
しゃくりあげながらたどたどしく喉を震わせる。大号泣です。
ここまで精神的に参ったアメリアを見たのは初めてだったので驚きました。
こんなに反省しているのだから、もういいでしょう。
ちょっと可哀そうになってきました。
だから、もう許してあげます。
『うん。じゃあ仲直りしてまた一緒に冒険に行こう! まだ遅くないよ』と言ってあげようと思いました。
「――……お断りです」
……あれっ? 思っていたのとは違う言葉が漏れました。間違えました。
アメリアの表情が固まります。衝撃を受けたようでした。
違うんですよう。もう十分に反省しているじゃあないですか。
「泣いたら許されると思っているんですか? いつまでたっても幼稚なままですね」
いや、違う。違います。このような言葉を使うべきではありません。
ただでさえ落ち込んでいるアメリアに、追い打ちをかけるような物言いです。
それが何故だか止まりません。
「私の方こそ、あなたの顔なんて二度と見たくありません」
このような意趣返しを好むほど底意地が悪いわけじゃないんです。
なのに口が勝手に、そういった言葉を紡ぎました。
「――ッ、そんなっ! こんなに謝ってるのに――」
「それが本心ですか? 謝れば、馬鹿なシエルは許してくれるに決まっている、と。そう思っているのですね」
「ち、違うっ」
「違いませんよ。あなたはそういう人です」
口の次は体が勝手に動きます。ドアノブにそっと手をかけて、ゆっくりと引きました。蝶番を軋ませながら、見せつけるように。
「私がパーティに戻ることはありませんので。それでは――」
「ま、待ってッ!」
痛々しい、悲鳴じみた叫びと共にそれが食い止められます。力比べでは私がアメリアに敵いっこありません。
「……まだ、何か」
「ほんっ本当にごめんなさい! おこ、ってるよね……? 今までのこと、ぜんぶ謝るっ!」
アメリアは私よりも頭半個ぶん背が低い。だから潤んだ――捨て犬のような上目遣いで私の顔を覗きました。
それで、その、何というか、背筋を水滴が伝うような、でも、不思議と不快ではない、そのような感覚に襲われました。
言語化しがたい、初めて経験した何かです。
「――ごめんなさい。シエル」
アメリアが頭を下げました。それも初めて見る光景でした。
ここまで追い込んでしまった。心が痛みます。
だから顔を上げて欲しくて、手を伸ばし、
「――! い、痛っ……」
「違いますよね? 謝りたいんだったら、もっと誠意を見せるべきではないでしょうか」
彼女の前髪を掴んでいました。本当に何をしているのでしょう、私は。
そのまま引っ張って床に近づけさせます。
「……ほら、地面に顔をこすりつけて懇願するのはどうです」
彼女がどのような表情を浮かべているかは見えません。でも、きっと憐憫を誘うそれではあるのでしょう。
しばしの逡巡の後、アメリアは膝をつきました。年季の入った宿の廊下がぎしり、と鳴ります。
そして、そのまま深く頭を下げ――
「――……シ、エルさん。すみ、ませんでした……もう、許してください……――!」
震えています。
その姿を見て、不思議と昂ぶりました。
そこで我に返って、悪魔の支配からようやく抜け出し、やっと自分の言葉で喋れるようになりました。
「――っもう、反省しているみたいだから、許してあげます! だから、顔を上げてください」
アメリアが恐る恐るこちらを見上げます。まだ表情には怯えが色濃く残っていました。
「ほ、本当に……? 戻ってきてくれるの?」
「ええ、もちろんです。意地悪してすみません」
アメリアの手を引きます。立ち上がった彼女の額には赤い痕が残っていました。
「……本当に申し訳ない。こんなことをさせてしまって……」
患部に手を添え、短く治癒術を詠唱します。
指先に暖かな光が灯り、傷を癒して痣を消しました。
そこで再びアメリアが泣き始めて、
「ど、どうしたんですかっ? やっぱり、辛かったですよね……?!」
「ち、がうの……こうしてたら、昔を思い出して、なんだか嬉しくって……!」
確かに言われてみれば、過去を想起させる行いでした。
わんぱくで生傷が絶えないアメリアを、私が傷の一つ一つを丁寧に治す。
かつての村での暮らしを思い起こさせるものです。
そう考えて、私も嬉しくなりました。昔のように彼女とまたやり直せる、と、そう思ったからです。
「じゃあ、このまま一緒にお風呂でも入りましょうか。身体が濡れて寒いでしょう。もう夜も遅いですし、事情は明日に聞きますね」
「――うんっ!」
目を輝かせて、アメリアが頷きます。
これにて一件落着。万事解決。
私の心の奥深くに眠る“あれ”以外は、全て。




