あの時傷物にされた魚です
その日、釣った魚は大きかった。
ぱっと見たところ、女性としてはまあ普通であろう、私の身長より大きかった。つまり160㎝以上はあったということだ。
何の魚なのかはわからない。釣りをしたのは、人生でこれが初めてであるし、自分でさばくこともない私は魚にあまり詳しくないのだ。港をうろうろしていたところを大物が釣れるよと囁かれ、気まぐれに釣り糸を垂らしたところ、想像以上に大物が釣れてしまった。よく釣り糸が切れなかったと思う。
陸に打ち上げられたその魚は、びちびちと跳ねるでもなく、金色の鱗を光らせながら、死んだように大人しくしていた。とにかく大きい。子ども用の布団くらいある。
大物を釣り上げた喜びを感じなかったわけではない。しかしそれよりも「こんなつもりでは……」という困惑の方が遙かに大きく、怖じ気づいた私は大玉転がしの要領で魚をずりずりと押し、海に返した。
買った釣り餌はまだ残っていたが、釣りを続ける気にはなれなかった。自分は釣り人には向いてないなと思いながら、港を後にした。
しかし釣りというものは存外後引くものらしい。
夜更け、あの魚が訪ねてきたのである。
金色の鱗に、黒い瞳。間違いなく、私が釣り上げた魚だ。昼見た時は横たわっていたが、今は尾びれを支えとして、背筋よく立っている……のではないかと思う。魚の背筋の仕組みには、あいにくと明るくない。
立つと余計大きく見えるな、と私は感心しながら目の前の魚を見上げた。
「夜分遅くすみません」
玄関口で、魚はもじもじとしながら言った。思ったより低い声だった。何をもって「思ったより」なのかは定かではない。
「はあ、どうも」
このアパートに住んで長いが、魚の来客は初めてだ。私は、何の用だろうかと訝しく思いながらも、無難に挨拶をした。
魚は言いにくそうにしばらくぱくぱくと口を開閉した後、ようやく切り出した。
「……昼間のことなんですが、私のこと釣り上げましたよね?」
「ええまあ、はい」
よく見ると、魚の顎(?)あたりに傷がある。おそらく私が仕掛けた釣り針の跡だろう。
もしかして、はるばる苦情を言いにやって来たのかもしれない。私は気まずい思いに駆られ、思わず言い訳めいたことを口にした。
「でも、すぐ海に戻したんですけど」
「そこなんです」
魚はヒレをこちらに向けた。
「釣り上げたなら、どうして連れて帰ってくれなかったのですか」
責めるような口調に、思わず目を丸くした。そのまま放置するよりは、という良かれの精神からの行為だったので詰られるとは意外だった。
「すみません。初めてだったもので、よく知らなくて」
魚の沽券に関わることだったのかもしれない。釣りも初めてなら、あの港に寄ったのも初めてだ。自分の無知から、無礼を働いていたなら悪い事をしてしまった。ごにょごょと言いつのる。
「その、思ったより大きいので、驚いたと言いますか……」
「まあ私は、そこらの稚魚と違いますからね」
プライドをいい意味で刺激したらしく、魚はまんざらでもない顔をした。感情が反映されているのか、鱗もやたら光った。
眩しさに目を下に向けると、尾びれに土がついていることに気が付く。件の港は、車で走ればそう遠くはないが、魚の足では相当な距離ではなかろうか。足はないのだが。
「ここまで歩いてきたんですか」
「幸いこの近くに川があったので、そこまで上ってきました」
海水で暮らしていただろうに、川を上ってくるとは根性がある。こう見えて鮭なのかもしれない。
しかし、見た目は鮭とほど遠い。じゃあ何に似ているかと言えば、何にも似ていない気がする。昼間は気づかなかったが、なかなか美しい顔立ちのような気がしてきた。
じろじろと見つめると、魚ははにかむように平面の顔を逸らしたが首がないので少し動いただけで終わった。親しくもないのに、不躾に眺めるのは失礼だったかもしれない。
その時、ヒールを鳴らしながらアパートの階段を誰かが上ってくる音がした。仕事帰りらしいお隣さんが、部屋の前を通る。
「あ、こんばんは」
「……こんばんわ」
シャキッと立っている大型の魚に一瞬目を止めた彼女は、会釈だけして自分の部屋に向かった。住人同士が詮索をしないところが、この住まいのいいところだ。
とはいえ、こんな時間に立ち話を続けるのは目立つし声も響く。私はとりあえず中に入ってもらうことにした。
座布団をすすめると、魚は「これはどうも」と恐縮しながら寝そべり(正座はさすがに無理だったようだ)座布団を自分の腹の上にそっと置いた。
「そうじゃない」
「え?」
「座布団の上に乗るんです」
「ははあ」
魚は戸惑い、また感嘆しながら座布団を敷こうとしたが、いかんせん体が長い。結局頭部に敷いて、枕のように使うことで落ち着いた。もてなしとしていささか不自然だが、魚類を招いた経験がないので、どうにも覚束ない。
「ところで、今日はどんな御用向きで」
改めて問いかけると、魚は居住まいを正すように身をよじり、咳払いをしてみせた。咳払いの際、口から吐かれた少量の水を、私は黙って拭いた。
「私は一度釣り上げられた身として、あなたに魚生を委ねるために参りました」
「うおせい」
「魚生」
聞き返すと、しっかりと頷き(首がないので揺れただけ)が返ってくる。魚屋の屋号のような風情だが、瞬きのない真剣な目から察するに「人生」の魚類バージョンであろう。初対面で聞くには重い言葉で、さすがに面食らった。
「急にそんなこと言われても」
「急ではありません。私はあの港の海でこの日を待ち続けていたのです」
見開いたままの魚の黒目が徐々に潤み始め、涙か海水かわからない水が畳を濡らした。もう一度布巾で拭く。
「それはそれは長い間、ずっと首を長くして……だというのに、ようやく釣り上げてもらえたと思ったら、すげなく海に戻された私のお気持ち、おわかりになりますか」
「首のない界隈でもその言い回し使うんですね」
「ウッ、ウオッウオッ」
私が感じ入っていると、魚は本格的に悲しみ始めてしまった。泣き方が存外魚っぽい。
「なんてひどい人、私を傷物にしておいて。こんな姿ではもう海には戻れません」
体を反らしながら、さりげなく魚は顎の傷を強調してくる。確かに腰が引けてキャッチアンドリリースを決めたのは事実なので、それを盾にされると弱い。
泣き崩れながら身を震わせる魚に、私は参ったなあと頭をかいた。この魚、えら呼吸とは思えない、実に哀れっぽい声を出すのである。不可抗力とはいえ、私は魚の純情を弄んだことになったわけだ。何だか段々と気の毒になってきた。
「その、魚生を委ねるって、具体的にどうすればいいですかね」
責任を感じてそう言うと、泣いて畳をびしょびしょにしていた魚は嬉しそうにパカッと口を開けた。
「方法は三つあります」
三つと言いながらヒレを立てた。恐らく三本の指を立てているつもりなのだろうと思う。
「まずひとつめは、この身を残らず食べて頂くこと」
生き生きとした様子で魚は提案した。私は正反対に暗い気持ちになって唸った。
「食べるのはちょっと……」
「あっ、ご心配なく。大味に見えますが身は引き締まって、とろりとした甘みがあります。鍋にも合うでしょう」
「そうじゃない」
本日二度目の台詞を言う羽目になった。
座布団まで出して話し込んだ相手を食材と見るのは、人として難しいのではないか。心意気に応えたくても、私もそこまで切り替えが早くはない。
「どうも抵抗があるので、他の手段でお願いできますか」
私が難色を示すと、魚は残念そうに尾びれを揺らした。
「ではふたつめの方法ですが……魚として飼って頂くという」
「無理です」
きっぱり首を振った。このアパートはペット不可だと大家さんから念を押されている。ハムスターを隠れて飼って追い出された住人もいたと噂で聞いていた。
「そうですか……」
魚はしおしおと乾物のようにうなだれた。
「ならばもう、残りひとつしか選ぶ道は残っていません」
あっさりと二つの選択肢が消えた今、もう後がない。神妙な魚の声に、私も思わず膝を進めた。
「つがいとして、死ぬまで添い遂げて頂く方法です」
告げられた言葉をかみ砕くのに、三秒ほど時間を要した。
「ええとそれは」
理解しようとする頭の中で、リンゴンリンゴンと教会の鐘が鳴る。
「つまりあれですか。結婚みたいな?」
「ええ。私はもう海には帰れない体にされたので、あなたに責任を取って頂かなくては」
「そういうもんですか」
「そういうもんです」
魚はさっきまで、ウオウオッとキャラクター性強めに泣いていたのが嘘のように、堂々と宣言した。鱗を光らせながら跳ねている。活きがいい。
対して私はと言えば、腕を組んで考え込んだ。
こんな成り行きの形で、生涯の伴侶と決めていいものなのか。
今日会ったばかりの相手なのに、と首を傾げる気持ちと、いやこれも縁なのかもしれない、と流れに身を任せようとする気持ちが、ぼんやりと頭の中を漂っている。
そもそもこの魚は、オスメスのどちらなのだろうか。いずれ子どもを持つとなったら、卵生なのかそれとも。
思い悩む表情を察してか、魚は猫なで声で囁いた。
「どうされましたか。私とつがう事で、何か不安でも?」
正直に言えば不安しかないのだが、中でも一番気がかりな問題は。
「やっぱり見た目が違うと色々やりにくいんじゃないかと……」
よく考えなくても、相手は魚なのである。結婚指輪を贈ろうにも、指がなかったりする。それはいいとして、水中で生活するのに適応した体と、陸で過ごすことをよしとしている体が、同じ生活を送るのはやはり難しい気がした。
現実を突きつけられ、また泣き出すかと思われた魚は、意外にもおかしそうに身を揺らした。
「なんだ、そんな事でしたかギョッギョッギョッ」
「いや笑い方」
いよいよ魚類っぽい笑い声を響かせた魚は、事も無げに言った。
「同じ姿をお望みだったんですね。姿を変える力くらいはありますので、今やってみせましょうか?」
さすが直立歩行で押しかける魚だけあって、能力が高い。私は頼もしい気持ちになって、ぱっと顔を輝かせた。
魚を厭うわけではないが、ともに暮らすのであれば、人の形のほうが何かと便利だろう。
「はい、早速お願いします」
「では、私の鱗に触れてください」
魚の言われるまま、私は鱗に手を置いた。ぬめ……とした湿った感触が手の平に伝わった瞬間、金の鱗が激しく光った。眩しさに思わず目を瞑る。
次に目を開けた時、金の鱗を持つ魚の姿に変わっていた。
――私が。
「そうじゃない」
私はヒレで魚を叩きながら、三度目の台詞を吐いた。