7:天体観測
部室の金属の階段を上ると、ちょうど山の向こうの空港が見えた。高台にあるわが校の周りには自動車は全く走ってなく、坂道の下の広い国道まで降りないと自動車とは出会えそうもない。民家に明かりは灯っているが外に出ているのは俺らくらいで、本当に人っ子一人いないのがよく見えた。
二階で一番階段に近い男子テニス部の部室の前で、俺と梓は携帯電話の画像と夜空を交互に見ながら、必死になって春の大三角形を探すことにした。
「俺こっち探すから。梓そっちね」
「はいはい。……あっ、もしかしてあれかなぁ? え、絶対そうじゃない?」
これから探そうかと夜空を見上げた瞬間だった。背中越しに梓の元気な声が飛んできた。
「えっ? もう見つかったのかよ。早すぎだろ。俺の出番なしかよぉ」
「まぁね。明るいからすぐ分かったよ。ほら、このページにも明るいって書いてあったから、まず明るい星探してたらすぐ三つ見つかったよ」
俺が振り向くと同時に、梓が短めのポニーテールをゆらしてこっちを向いた。梓が指差していたのは、間違いなく東の夜空。その指先をずっと辿っていくと、そこには紛れもなく他の星より圧倒的に明るい、大きな大きな三角形があった。
「さすが梓だなぁ」
「へへ、昔から間違い探しは得意だったからね」
梓にいい笑顔が戻っていた。部室の前の柵にもたれて頬杖をついた梓の横顔が、なんとなく可愛く見えてきた。俺もその隣で同じように頬杖をついた。春の大三角形を見て感動している梓を横に、少し満たされた気分になった。
「ねぇ、梓」
「ん?」
「梓って普段さぁ、星とか見ることあるの?」
「たまにあるけど、本当にたまにかな。窓越しにココア飲みながら、なんとなくぼぅっとしてる。……潤は?」
……えっ?
今、潤って言った?
えっ、呼び捨て?
なんだか妙に嬉しかった。今まで小さい頃から俺のことは潤くん、で統一されていた。いつだって俺は潤くんだった。なんでこのタイミングで?
確かに今まで俺は梓のことを梓と呼び捨てしていたから、梓が俺のことを読み捨てするのはむしろ平等で普通のことだと思う。でも、長年全く変えてこなかった呼び方を、なんで今このタイミングで変えるのか、俺には全く理解できなかったし、予想外の出来事だった。良い意味でのサプライズだ。なんだか距離がぐっと近づいた気がする。ただの幼なじみでもなく、ただのクラスメイトでもない、なんだか妙に近い距離感。もしかして……もしかするのか?
ドキドキしてきたが、ここはぐっとこらえて会話を成立させないと。少しでも不自然なことをしてしまうとこのドキドキがバレてしまう。それなんだか恥ずかしいことだと思っている。
「どうだろ。無いかな。まともに見たのは……あ、梓も行ったと思うけど、小学校の時の遠足でプラネタリウム行ったじゃん? あれ以来見てないかもなぁ」
「いやそれ、本物じゃないじゃん! まぁ、たまには星とか見てたら気持ちが落ちつくから、悩んだ時とかは星を眺めるといいよ。意外と飲み物飲んでたら見れるよ、星! 星をつまみにココアで一服みたいな!」
「おっさんかっ! でもまぁ、悩んだらやってみるよ。めったに悩まないけどな」
格好つけたけど、しょっちゅう悩む。些細なことで悩む。さっきだって、梓とどう話してどう振る舞ってどう会話の返答をするのか、悩みまくっている。幸い梓にはバレていないみたいでよかったけど、俺は意外と悩んでしまう方の人間だったんだと気づいた。それに、悩みのタネが全部梓に関することだって言うことにも、気づいてしまった。
梓には嫌われたくない。梓が元気になってほしい……全部、梓だ。俺にとっての梓は、もうただの幼なじみではなくなってきている。ただの友達でもクラスメイトでもない。一人で立ち向かうには心細すぎる、そんな気持ちになってしまう。吐き出してしまえば楽になるのかもしれないが、出来るだけ吐きたくない。いや、吐くべきなんだろうけど、今じゃないかもしれない。タイミングが悪いのではないか、いや、今こそ最高のタイミングだ。頭の中でグルグル回るもうひとりの自分が、俺の判断能力を鈍らせに来る。
こういうときに勢いに任せていけるのがハナケンみたいなやつなんだろうな。俺には勢いに任せるなんてことは一生できないかもしれない。なんて無力なんだと自分を卑下してしまう。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、梓はとたんに悲しげな表情を浮かべた。なんでそんな表情になったのか分からず、あたふたしていると、梓がつぶやいた言葉が全てを物語っていた。
「私ね、最近、毎日星を眺めてるんだ」
やっぱりか。やっぱり梓は無理してたんだ。俺が無理やり出した春の大三角形の話題も、星だから食いついてくれたんだ。運が俺の味方をしている。俺の背中を押していたのかもしれない。勢いに任せればよかったかもしれない。梓に関することはことごとく後悔する運命なのだろうか。それとも俺が心配性なだけか。どちらにしても、目の前のことに集中しなきゃ。自分自身と戦うんじゃなくて、梓を相手にしなきゃ。
「なぁ、やっぱり話してくれよ。隠さなくてもいいんだからさ。信じてくれよ!」
今の俺、多分相当カッコ悪い。一方的だし。台詞ダサいし。でもこうするしかなかった。18歳の頭にはそんなに良い台詞は浮かんでこないし大人っぽくも振る舞えない。今この状態がマックスなんだ。
「え、なにが?」
「俺、実は知ってんだよ。さっきチョロッと梓の携帯の画面が見えてさ。黙っとこうと思ったけどさ、やっぱり我慢出来なかった」
梓のハッとした顔が、やけに印象的だった。