22:卒業ってなんだ
その部屋の中に、俺以外誰もいなかった。
えっ、なんで?
サプライズ?
手をついたまま荒ぶる呼吸を鎮め、顔だけ前を向くと、黒板が目に入ってきた。昨日放課後にかいた落書きがそのままになっている。そして無意識のうちに黒板の横に設置されている伝達黒板と言う小さいサイズの黒板の字に目が行った。
明日の予定、集合時間9時40分。
え、9時40分? 来るのが早すぎた? いや、早いのは何も悪くないんだから良いことだ。だけど、こんなに必死になる必要はなかった。
その時に初めて気付いた。寝坊なんかしていなかった。むしろもっと寝ていても良かったくらいかもしれない。いや、失った睡眠時間のためにも、今ここで冷たくてかたそうな床の上でもう三十分くらい寝てしまおうかな……とか思いながら、汗だくの顔を腕で拭った。まずはこの汗をどうにかしないと。学ランを脱いで、一番近くの机にそれを置き、扇風機をつけた。今日は昨日よりも暖かいが、それでもまだ扇風機をつけるような暑さではない。こんなとこクラスメイトに見られたら、間違いなく変人扱いされるだろう。
その時遠くの方で、階段を急いで昇降する音がした。もしかして、誰か俺と同じように来る時間を間違えたやつがいるのだろうか。やらかしてるなぁ、アホだなぁと一瞬だけ思ってしまったが、自分もそうなのだと思い出し、心のお漏らしを封じ込めた。そうだ、俺がアホだったんだ。
「早くせんと怒られる!」
「ヤバいヤバい!」
「だから言ったんじゃん!」
誰が来るんだろうとワクワクしながら階段横の教室前でこっそり隠れて見てみる。すると予想とは違い数人の下級生だった。そういえば今頃下級生は何時間後かに行われる俺らの卒業式の準備をさせられるくらいの時間だ。俺も去年や一昨年はそうだった。ハナケンたちが途中で勝手に漫才をし始めたりふざけあって、俺達のせいで先輩たちの卒業式が遅れるかもしれなかったんだった。今思い出すと本当に懐かしい。
当時は男子グループと女子グループに分かれて行動することが多くて、梓とはそれほど話ができなかった。梓は「そこの男子、ちゃんと動いてよ!」と言って俺らに注意してたっけ。まだ呼び捨てもされてなくて、名前じゃなくて“男子”と呼ばれていたあの頃。今思い出すとなんで素直に話せなかったのか全然わからない。思春期特有のなんというか女子という存在を意識しすぎたせいだろうか。やっと仲良くなって、さあこれから! というときになって卒業だなんて、時間というものは残酷すぎる。
高校に入ったばかりの頃は広いなぁと感じていた教室も、なんだか今では少し狭く感じる。この教室に、他のやつはたくさんの思い出が詰まっているのだろう。俺は机の中にたくさんの教科書やノートが詰まっている。そして、何も描いていない紙飛行機も。
そうだ、この教科書たちを持って帰るためのカバンを靴箱のところに忘れてきたんだった。下級生たちが体育館に集まっている間にこっそり靴箱まで戻って空っぽのカバンを取り、やることがないので教室に戻った。
それでもまだまだ、8時45分。やることがなくて携帯電話を開くが、それでも誰からも連絡はないし、特にすることもない。急に暇になってしまった。机にカッターや彫刻刀で彫った跡があるのを目で追いながら、他のやつも同じことしていないかチェックしたり、学級文庫をパラパラとめくったりして時間を稼いだ。思い出に浸ろうかなとも考えたが、特に何にもなかった。
しかしいつになっても誰も来ない。もう9時にはなっている。今日は卒業式の日だ。最後の一日だ。だから、ちょっと早めに来ようとかいう奴がいてもおかしくない。なのに。
仕方がないので下級生たちがちゃんと働いているか見に行ってみよう。俺は階段をまた降りて、靴箱とは反対側にある体育館の方に向かった。体育館の外ではもうすでに数人の男子が先生たちの監視の目をかいくぐって脱走に成功し、たむろしている。体育教師がマイクを使って指示を出しているのもよく聞こえる。誰にも見つからないように、校舎の影に隠れて様子をうかがった。
横断幕に、立て看板に、パンフレットやポスターに書かれる、卒業の二文字。なんだか追い出されるように、もういらないからでて行けと言われているくらい圧迫感がある。実際にはそんな事無いのかもしれないが、俺にはそう見えてしまった。下級生の姿や卒業の文字を見て、また一段と“卒業するんだ”“卒業しなきゃいけないんだ”と言うのを痛感した。痛感はしたが、実感はしなかった。
一体何から卒業するのだろう。
いや、学校からは卒業する。これでもちゃんと最低限の卒業要件は満たしている。
でも、本当にそれだけなのか?
それだけ卒業してしまえば、もうあとは無視で良いのか?
そんなんで良いのか?
そんなことを勝手に考え始めてしまう。
卒業ってなんだ?
全く答えが出ないことを、無駄だと知りながらも考え続ける。だがしかし、永久に答えにはたどり着けない。まさに思考の迷宮に迷い込んでしまって、さっき来た道なのに、と同じところばかり頭の中で繰り返しているような気になる。
靴箱のところまで戻ると、校門の方からぞろぞろ歩いてくる同級生を見つけた。彼らはきっと自分たちが一番最初に来た、来たのが早すぎるかもしれない、そう思っていることだろう。でも実は俺が一番早かったんだよ。そう言って自慢したい気持ちもなくはないが、そんな事することはなかった。
しばらくしたら同じクラスの同級生も来るだろう。
そう思い、このまましばらく靴箱で待つことにした。




