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クラインの骨壺

作者: 稜介



十一月中旬の朝、冷え切った空気は曇り空も相まってより一層冷たく感じる。高校一年生である僕、桐沢(きりさわ)(よすが)は通学する為駅のホームで電車を待っていた。各停で一駅、その後快速で三駅、それがいつもの僕の通学路である。田舎という程田舎ではなく、かといって都会すぎる事もない、丁度いいくらいの町に僕は住んでいた。

周りには学生やサラリーマンが僕と同じ様に電車を待っている。その人たちの視線はみな自分のスマホの画面に向いていた。誰も彼もがスマホとのみ向かい合っている。向かいのホームにいる人たちも同じだ。まるでスマホに体も心も操られているかの様に。だが、そんな状況をあまり珍しいとは思わなかった。なぜなら僕もすぐに自分のスマホに目を落としてしまうからだ。

最近は少し物騒な現象が海外で続いている。大規模な地震や火山の噴火など、そのニュースは日本でも取り上げられる程だ。そんな出来事にもあまり興味を示さずスマホを弄って時間を潰す。僕だけじゃない、おそらくみなそうなのだろう。そう思い続けた。

すると、僕のスマホの画面に水滴が落ちてきた。不思議に思い空を見上げその正体を理解した。

「雪だ」

一瞬寒さを忘れてしまう程に幻想的な初雪がサラサラと舞い降りてきた。僕はその真っ白な雪に少しの間見惚れていしまった。

ふと、僕は自分の周囲に視線を向けた。今まで自分のスマホしか見ていなかった人たちもみな一様に空から降ってくる雪に釘付けになっていた。その中にスマホを見続けている者は誰もいなかった。今僕たちが見ているのはただの雪でしか無い。そんな雪一つでこんなにも人間の感情を機械から解き放てるのだという事が、僕はなんだか嬉しかった。僕はその光景見た感想をつい言葉にして言った。

「奇跡だな」


「貴方もそう思いますか?」


背後からの突然の言葉に僕は驚いた。振り返るとそこには一人の少女が立っていた。学生服を着ており首には薄紫色のマフラーを巻いている。年齢は僕より少し年下だろうか。見たことの無い顔だ、おそらく初対面だろう。驚いている僕をよそに、彼女は荒唐無稽な質問をしてきた。

「あなたはこの世界が好きですか?残りの人生をこの世界で過ごしたいと思えるくらい好きですか?」

僕は彼女の質問の意味が全く分からなかった。なんと答えれば良いのかまよっている内に、いつの間にかホームに電車が着いていた。電車の扉が開き降りてくる乗客にぶつかりそうになるのを僕は避けた。ふと目線を戻すとそこに彼女はもういなかった。僕は四方八方を探したが彼女の姿は見つけられなかった。そんな事をしてる内に電車は発車してしまった。その日僕は電車に乗り遅れ遅刻した。




「…んで結局、突然降り出した雪に見惚れて遅れたって訳か」

「そういう事になるな」

「反省してんのか?」

「してるさ。し過ぎるあまり体中から反省が溢れ出してるだろ」

「そうだな、鼻から半透明の反省が垂れ流れるな」

「うるさい」

僕は今朝の出来事を友人の槇人(まきと)に話した。

釘雨槇人(くぎさめまきと)は僕が高校に入ってから知り合った友達だ。電車通学している僕と違い、槇人の家は比較的近所にある為歩きで通っている。少し変わった性格をしているがそんなとこが僕と気があったのかもしれない。

僕は今朝の出来事に関してあの女の子の事は話さなかった。意図的に伏せた、というよりはなんて表現して説明すれば良いのかが思いつかなかった。そのまま話したところでおそらく槇人は理解しないだろう。

「そういや今朝やってたニュース見たか?なんて国かは忘れたけど、また火山が噴火したみたいだな。結構被害も大きいみたいだし」

「どこの国かが一番重要じゃないか?」

「んなの覚えてねーよ、あんま聞かねえ国名だし」

槇人との会話は大体大事な部分が抜け落ちている。

「やっぱ辛気臭い話は盛り上がらないな。もっと違う話題でも話すか。そういや昨日な……」

槇人が何か言いかけた時チャイムが鳴った。僕達は急いで次の授業の準備に取り掛かった。




昼休み。僕と槇人は机をくっつけて昼食の弁当を食べながら話していた。

「そういやお前、最初の休み時間の時何か言いかけてたよな?」

「ん?……ああ!そういやそうだ。すっかり忘れてた」

自分から話そうとしていた事でも一旦忘れてしまうと誰がが指摘するまで思い出さない男。それが槇人である。

「昨日の放課後なあ、俺ちょっと寄り道してたんだよ。寄り道っていってもそんな変なとこじゃねえぞ。

ちゃんと普通にゲーセンとかだからな。」

「そんな心配はしてない」

「……んでまあ、そんなとこに寄り道したから帰りの道がいつもと少し違った訳よ。その場所でな、ちょっと変っていうかなんか面白そうなもん見つけてな。それをお前にも見せてやりたいって話だ」

「そうか。了解した」

「面白そうってのはあくまで俺の主観だからな。あんまり期待はし過ぎないでくれよ」

「なるべくハードルは下げとくよ」

槇人の見つけた"面白そうなもの"に関する話はそこで終わった。さっきから向こうで別の男子達の会話がうるさくて会話に集中出来なかった。どうやら誰かしらの人物に対する不満や文句で盛り上がっている様だ。

「槇人、あいつら一体誰の事であんな(わめ)いてんだ?」

僕は彼らの話題の種であろう存在を槇人に質問した。

「ああ、畑本の爺さんの事だろ」

槇人はさも常識かの様に表情一つ変えずに返答した。僕には全く聞き覚えのない名前だった。

「畑本の爺さん?」

「ここの近所じゃそこそこ有名だぞ。悪い意味でな」

「どんな?」

「……一言で言うと若者嫌いだな。俺らぐらいの学生相手には誰彼構わず怒鳴ってくる人だよ。素行が悪いだとか態度が良くないだとか、とにかく何かにつけてうるさく突っかかってくるってので有名だ」

「槇人も怒鳴られた事あるのか?」

「ああ、あるぞ。この辺に住んでる若い奴で畑本の爺さんに文句言われてない奴っていないんじゃないか」

「そりゃよっぽどだな」

「よっぽどだ」

僕はこの高校に通い始めて約8ヶ月になるが、そんな人の存在は全く認識していなかった。これからは気をつけなければ僕にも面倒な突っかかりを向けてくるかもしれない。用心しよう。




放課後、僕達は槇人が見つけたという珍しいものを見に行く為に下校の準備をしていた。

「そういや縁、お前クリスマスとかどうすんだ?」

「クリスマス?特に予定はないが」

「はは、やっぱりな」

「そう言うお前はあるのか、クリスマスの予定」

「いや特に」

「…………」

「…………」

そこでクリスマスの話題はパタリと止んだ。あまり気にはしていないが、寂しいとか悲しいとかいった複雑な感情が無いと言えばそれは嘘になる。否定はしない。

校舎を出て校門の外へ出ようと歩いていると、

「お兄ーちゃーん」

という甲高い声が響いてきた。声の出所に目をやると槇人の妹がこちらに向かって元気よく手を振っていた。

「よう、(みのり)

槇人もお返しに手を振った。

「今日も少し終わるの遅いね」

「高校生ってのは忙しいんだよ」

「そうなの縁さん?」

「まあ、間違っちゃいないだろうけど」

「ふーん」

稔は理解はしてないが納得した表情を浮かべていた。

釘雨稔は槇人の妹で中学2年生である。槇人の家はこの高校から近いが、それよりも少し遠くくらいの場所に中学校があり、そこに稔は通学している。なので稔は学校が終わると頻繁にこの高校に顔を出し、兄である槇人を迎えくることがある。それ故、僕ともそこそこ面識を持つようになった。

ふと一瞬、稔を見て違和感を感じた。稔自身は決しておかしくはない。だか何か妙な感覚にとらわれた。しかしその謎はすぐに分かった。稔の制服だ。稔の着ている制服にとてつもない既視感を感じた。そう、僕が今朝出会ったあの女の子と同じ制服だった。僕は思わず稔に質問しようとした。

「なあ、稔」

「ん?何?」

そこで僕の口は言葉を発するのをとどまってしまった。なんて聞けばいい。今朝初めて会った名前も知らない女の子の事を、薄紫色のマフラーをした彼女の事を。こっちの全てを見透かしていそうな、それでいてどこか寂しげな目をした彼女の事を。僕は文字通り言葉が見つからなかった。

「どうしたの縁さん?」

「いや、何でもない。ごめん」

「ふふ、変なの」

「どうした縁。まさか俺の妹に告白とかする気じゃないだろうな」

「……は?」

「言っとくが、妹を誰かにやるなんて真似は絶対にさせないからな」

「待て、何故そうなる?」

「当たり前だ。大切な妹を素性の知らねえ男にやれるか」

「僕の素性は知られてないのか?」

「ごめんね縁さん、お兄ちゃんたまにこういうスイッチ入っちゃうから」

「はいはい、お前が日本一のシスコンなのは認めるよ」

「分かればよろしい」

僕は槇人の愛情と稔の将来に若干の心配をしながらも、なんとなくそれが微笑ましくもあった。




学校から歩いて数分の所に雑木林がある。僕等の通う高校があるこの町には小高い山がある。というよりはその山は昔から存在していて、その周りに家や店などが出来、町が出来上がっていったらしい。この雑木林は山の入り口にあたるらしく、車が通った跡もある。パンの袋やタバコの吸い殻などが落ちていてあまり綺麗とは言えない。僕達は槇人に連れられてこの場所に来ていた。

「なあ槇人、お前の言う面白いものがある場所ってここか?」

「その通り」

「マジか」

「何の話?」

「君の兄さんが何か面白いものを見つけたって話」

「そうなのお兄ちゃん?」

「まあ待ってろ」

そういうと槇人はおもむろに辺りのゴミからその何かを探しだした。この場所に来た時点で少し予感はしていたが、ここにあるゴミのどれかが槇人が見せたいものなのだろう。

「あったあった。これだ」

槇人はようやく見つけたものを手に取りこちらに見せた。槇人の手には薄汚れたお椀が持たれていた。彩色は鮮やかだか土や泥で汚れていて台無しになっている。お椀の底には穴も開いている。

「まさかそれがお前の言ってたやつじゃないだろうな」

「ふふーん、驚くなよ。これを見てみろ」

槇人はお椀に開いた穴を指差して得意げに言った。

「その穴がどうした?」

「ただの穴じゃない。この穴があることによってこのお椀の表と裏の境界がなくなる、裏表の区別自体が完全に消えてしまう。どういう訳か分かるか?つまり、これこそがあの世にも有名な"クラインの壺"ってやつだ!」

「んな訳無いだろ!」

僕は、ほぼ空想で塗り固められた槇人のご高説を断罪の如き勢いで否定した。

「まあまあ、それは冗談として」

どんな些細な冗談や世迷言でも、さも当然の真実の様に高らかに語る。槇人とはそういう男である。

「本当に見てもらいたいのはこれなんだよ」

槇人は持っていたお椀の裏側をこちらに見せた。それを見て僕と稔は驚いた。お椀の中には小さな蛹がいた。何の虫かはっきりとは分からないがおそらく蝶であろう。蝶の蛹がそのお椀の中で羽化するのを静かに待っていた。

「お兄ちゃん、これ生きてるの?」

「多分だけど、生きてると思う」

「こんな季節に蛹がいるのか」

「な、珍しいって言ったろ」

槇人の珍しいは大体そうでもないばかりだが、今回は本当に珍しいと思えた。正直かなり驚愕していた。

「どうしてこんな時季外れな蛹が、しかもこんな汚いお椀の中に」

「もしかしたら本当にこのお椀自体がなんか特別なものだったりして」

槇人の言葉もぼやけて聞こえるくらいに僕はこの不思議な蛹に興味を惹かれていた。

「なあ槇人、その蛹僕にくれないか」

「これをか?」

「ああ」

「縁さん、ひょっとして飼うの?」

「お前、虫好きだったか?」

「別にそういう訳じゃないが」

「……いいぜ。蛹がかえったらどんな虫だったか教えてくれよな」

「私も知りたい。縁さんよろしくね」

二人は僕に期待の眼差しでそう言ってきたので僕は少し戸惑った。しかし、それでも僕の決断に変わりは無かった。

「わかった、善処するよ」

二人の期待を背負いつつ、僕は槇人から蛹の入ったお椀を受け取った。




その日の夜。僕は自宅の自分の部屋で今日の出来事について考えていた。

今朝の初雪、畑本の爺さん、季節外れの蛹。今日一日で沢山の情報が入ってきた。いろんな事で頭が埋め尽くされたが、頭の片隅にあったのはあの女の子の事だった。彼女に惚れたとか恋したとかではなく、なんとも言いようのない不思議な印象を与える彼女の事が妙に気になった。

僕はふいに、槇人から受け取った蛹の入ったお椀の見つめた。それを見ていると今日の槇人が言った言葉が頭をよぎった。


"クラインの壺"


「クラインの壺ねえ……、クラインの壺って何だっけ?」

僕は急に湧いた疑問の解決の為に自分のスマホでクラインの壺について検索して調べた。

クラインの壺とは、数学者フェリックス・クラインが提唱した裏表の無い曲面である。壺の入り口が壺の中を通り底から外に出る構造をしている為、表と裏の区別が消えてしまっている奇妙な形をした壺の事だという事までが分かった。

僕はここから先を調べる事をやめにした。調べれば調べる程、位相幾何学やらユークリッド空間やら、到底理解できそうに無い言葉が雪崩の如く押し寄せて来たからである。

僕はスマホでアラームを朝の七時にセットすると、スマホに充電器を差し込み寝ることにした。明日も学校だ、早く寝よう。




翌日の放課後、僕と槇人と稔は高校近くのコンビニに立ち寄り、それぞれお菓子やホットスナックを購入した。いわゆる買い食いである。

「どうだ縁、昨日俺がやった蛹は?なんか変化あったか?」

「さすがに半日じゃ何も変わんないな」

「なーんだ。つまんねーな」

「いやいや、当たり前でしょ」

槇人は稔から当然のツッコミを受けた。僕達はコンビニで買ったものを食べながらブラブラと歩いていた。特に目的地は決めていない。僕はちょっとした疑問を稔に聞いてみた。

「なあ、稔」

「ん、何?」

「稔って放課後はよく僕達と一緒にいるけど、中学で同い年の友達とかいるのか?」

「いるよ普通に!当たり前でしょ。ひょっとして馬鹿にしてる?」

稔は半分怒りながら、半分笑いながら僕に真実を述べた。

「の割には、あんまお前の見かけた事無いな」

稔の発言に対し、槇人が更に疑問を重ねてきた。

「まあ、この時期の中三はみんな受験勉強で忙しいから。放課後もみんな学校に残ったり塾通ったりだし」

「みんな大変っていうか、真面目だな」

「それにひきかえ、俺の妹はろくに勉強もせずに男子高校生と遊び惚けてるなんてなあ」

「言い方」

僕達二人は稔の事を茶化した。これもいつもの光景だ。

「別に勉強しなくても今のままで十分受かる自信あるから!」

「確か僕等と同じ高校受験するんだっけ?」

「一応そのつもり。あそこなら余裕でしょ」

「まあ、稔は俺に比べて頭良い方だからな。意外と心配いらねえかもな」

「えへへ、そういう事」

稔は自分の事を褒められて恥ずかしがりながらも得意げになっている。ここまでがいつもの大体の流れである。

「あ〜、でも一人いるよ。私みたいに受験勉強全くしない子。結構頭良いからそれなりの高校に通うと思うんだけど」

「へえ、そんな子いるんだ。どんなの?」

「ん〜、なんか口で説明し辛い感じ……。そうだ。今度その子連れてこようか?」

「おっ、良いんじゃねそれ。良いよな縁?」

「うん、僕も良い考えだと思う」

三人の間で意見が一致したその次の瞬間、

「おい!お前たち!」

怒号と呼ぶに相応しい声が僕達に向かって飛んできた。振り向いて見てみると還暦をゆうにすぎてるであろう白髪の老人が凄い剣幕で近寄って来た。

「げっ、畑本の爺さん」

槇人の憂鬱そうな言葉を聞いて僕は驚いた。

「畑本さんって、昨日言っていたあの?」

「ああ、その畑本さんだ」

「ど、どうするのお兄ちゃん?」

僕達のヒソヒソ声が聞こえそうなくらい近づいてきた時点で、更に僕達に対し怒鳴り散らして来た。

「何を話し合ってんだお前達」

「いえ、別に……」

「大体何だ?そんなもん食べながら歩きおって」

「別にこのくらい普通っすよ」

「学生服のままでそんな事してたら学校にも迷惑だろ」

「(どういう理屈だよ)」

「まったくお前等ゆとり共は。周り対してどういう迷惑がかかるか考える事も出来ないのか」

「(そりゃあんたの事だ)」

「いいか、周りを考えずに行動するといつかそのツケが自分に返ってくる。その時に痛い目を見ても遅いんだぞ。もう少し自分の事を見れるようにしろ」

正直、僕達三人はこの人の無限に溢れ出てきそうな説教にうんざりしていた。この経験は僕は初めてだが、おそらく何度か経験してるであろう槇人と稔のストレスは更に大きいかもしれない。

そうしていると槇人が僕の背中を軽く叩いた。槇人の方に目線をやると槇人は瞬きで合図していた。この状況においてあの合図がどういう意味を持つのか理解するのは難しくない。おそらく稔にも同じことをしている筈だ。

「おい!聞いてるのかお前等!」

畑本さんの問いかけに槇人は堂々と答えた。

「はいはい、よーく聞いてますよ。でもね畑本さん、そういう事はあいつらにも言って下さいよ」

そう言いながら槇人は畑本さんの後方を指差した。畑本さんもその指先の方向に目線を向けた。その瞬間、僕達は隙をついて全速力で走り逃げ出した。

「おいコラ!待ちやがれ!」

槇人の嘘に気づいた畑本さんがさっき以上の形相になり、走って追いかけて来たが、老体ではあまり無理な事は出来ないのであろうか、しつこくは追って来なかった。そんな事には一切気づかず僕達はがむしゃらに走りまくっていた。特に槇人は何故か異様にテンションが高かった。

「なんなんだよ!あの人は」

「あははは、なあ言った通りの爺さんだろ」

「久しぶりに会ったけど、全然変わってないね」

「あはは、だな」

「お前、何でそんな笑ってんだ?」

「いや〜、青春してんなあって思って」

「何が?」

「怖え爺さんから逃げる為に全力で走るなんて、青春でしかねえだろ」

「んな青春あってたまるか!」

僕達が畑本さんの追走が止んでいたのを知るのは、もうちょっと後の事だった。




週末、当然の事ながら日曜日は学校は休みだ。僕は基本的に休日にどこかへ出かけるという事はあまりしない。休日は文字通り、身体を休める為に使う。なので外出は控え家でのんびり過ごすのが僕の休日の模範である。無論、予定がある場合は別だが。

今日は予定は特にない。ふと僕は、例の蛹に目がいった。槇人から受け取った時と全く同じ状態で机の上に置いてある。特に変わった事は無く、まだ羽化する気配も無い。僕はとりあえず、この蛹が羽化するのに適した環境を作ることにした。

家の物置きから小さな飼育ケース持って来ると、その中に蛹の入ったお椀と、いつ買ったか分からないカブトムシ用のゼリーを一個入れた。

何かいろいろ足りない感じはいがめないが今はこれが精一杯だ。来週の日曜までにはそのいろいろを揃えておこう。




翌日。ホームルームを終え学校から出て行くと稔が校門のところで待っていた。

「よう稔。待ったか?」

「ううん、今日はそんなに」

ふと、なんとなく稔の後ろに人の気配を感じた。

「稔、誰か一緒にいるのか?」

「うん。先週話してた子、言ってたでしょ連れてこようかって」

「ああ、そう言えばそんな事言ってたな」

僕達がそんな事を喋っていると、その稔の友達は僕達の前に出てきた。その姿を見て僕は言葉を失った。彼女の姿はあの雪の日の朝、駅で出会ったあの女の子だった。稔と同じ制服に薄紫色のマフラーを首に巻き、大人しくも底の見えない瞳をしたあの子の姿が僕達の前にいた。僕一人が唖然としてる中、槇人は彼女に話し掛けていた。

「こんにちは、稔の友達だよな。俺は釘雨槇人、稔の

兄貴だ」

「はじめまして、笹神遊里(ささがみゆうり)です」

遊里と名乗るその子は愛想よく笑いながら槇人に対し挨拶をした。

「稔ちゃんの言ってた通り優しそうなお兄さんだね」

「へ!そ、そう?そうかな?」

「へ〜、お前俺の事学校でそんな風に言ってるのか」

「むふふ、別に」

すると遊里は僕の方に目を向け近づいてきた。僕は言い様の無い緊張感を覚えた。何も言えずにいる僕に遊里は話し掛けてきた。

「はじめまして」

「は、はじめまして……、桐沢縁……です」

「何で敬語になってんだよ」

槇人のツッコミが僕に刺さった。遊里は僕に対し"はじめまして"と言ってきた。それはつまりあの日の朝の事は覚えてないのか、それとも……。そんな事で悩んでいる僕をよそに、三人の会話は軽快に進んでいた。

「いいのか?稔だけじゃなく俺と縁も一緒で?」

「むしろ私達がどんな事してるか気になるんだって」

「本人に聞いてんだけどなあ」

「ご迷惑でしたか?」

「んな事はねえよ、なあ縁」

槇人の言葉に僕はハッと我にかえった。

「あ、ああ。僕も全然」

「んじゃ決まりだね。よかったね遊里」

「うん」

一緒にいて良いのか不安だったのか、遊里は稔と顔を見合わせてから無邪気に笑い合った。そこから先はいつもと何ら変わりばえしなかった。いつもの様にファーストフード店で食事したり、ゲーセンで遊んだり。遊里も楽しそうにしてくれて僕達はホッとした。




楽しい時間というものはいつも時間の流れが早く感じる。気がつけばもう帰る時間になっていた。

「んじゃ、俺達こっちだから」

「また明日ね」

帰りの別れ道で槇人と稔は別れを告げた。槇人達の自宅の方向と駅は逆の為ここでいつも別れる。どうやら遊里も槇人達とは逆の方向の様だ。

「ああ」

槇人達は僕達に後ろ姿を見せながら帰って行った。

「では縁さん、私もこれで」

遊里はそう言うと僕に背を向け歩きだした。

「あ、ちょっと待って」

僕は思いがけず遊里に語りかけた。遊里は足を止めたがこちらを振り返らなかった。僕は今日彼女に出会った時からずっと抱いていた疑問を問いかけた。

「遊里、僕達が会うのは今日が初めてじゃないよな?」

「…………そうですよ」

遊里はゆっくりと振り返りながらそう答えた。

「先週の朝だったよな」

「はい」

「駅のホームで」

「はい」

「あの雪が降ってきた時に」

「その通りです」

その後、ほんのしばらくの間沈黙が続いた。その間も遊里の表情は全く変わらなかった。冷静でとても落ち着いていて、それでいてどこか楽しそうなにこにこした笑顔のまま。

沈黙を破ったのは遊里の言葉だった。

「縁さん覚えていますか?」

突然の問い掛けに僕は咄嗟には反応出来なかった。

「えっ……?」

「あの日、私とあなたが初めて会った日に私が言った言葉の事です。覚えてますか?」

「言葉……?」

僕はあの日の出来事を鮮明に思い出そうとしていた。

「覚えいないのなら、もう一度言います」

困惑で頭が回らない僕に近付いて来て、遊里はあの日僕に言った言葉を再び投げかけた。

「この世界が好きですか?」

その言葉に聞き覚えがあった。確かにそんな質問をされた。しかし、その質問の答えは未だに僕の頭の中には無かった。そもそもこの世界とはどういう意味なのか。僕が今認識しているこの世界の事だとしたらそれ以外の世界があるのか。たった一つの問い掛けであらゆる疑問が生じてくる。

「別に返答は急いでません。ゆっくり考えてそれでも答えが出ないのなら、それも一つの答えです」

そう言うと遊里は後ろを向き帰路についた。僕は彼女の質問に何一つまともに答えられなかった事が非常に情け無く感じた。とても惨めな気分になった。




翌朝。駅のホームで電車を待っていた。いつもの事ながら駅は通勤通学の人達でいっぱいだ。今日の空は雲一つない快晴だ。雪が降りそうな気配は一切ない。僕は一瞬、周りに遊里がいないかを探したが、やはり見当たらなかった。いや、いないのは当たり前の話だ。遊里や稔の通う中学はこの駅とは随分離れている。来れなくはないだろうが、朝、通学のついでに立ち寄れる様な距離ではない。

だとしたら何故、あの日遊里はこの場所にいたのだろうか。何故僕に喋りかけたのだろうか。今日、遊里に会えば聞いておこう。何かが分かるかもしれない。




放課後。校門の前には稔と遊里の二人がいる。昨日と同じ光景だ。

「今日はどこに行く?」

「カラオケとか良いんじゃない」

「カラオケか、久しぶりだな。んじゃ行くか」

「よし、決定」

僕達は少し離れたところにあるカラオケ行った。前に来たのは半年以上も前の事だ。フロントで受付を済ませ部屋へと入る。入った途端、稔はカラオケリモコンを手に取った。

「まず飲み物だよね。みんな何飲む?」

「俺コーラ」

「僕もコーラで」

「コーヒーあるかな?」

「あるよ」

「じゃあ私はコーヒーで」

「オッケー」

稔はみなの注文を聞くと手際良くをリモコン扱い、入力を完了させた。

「さあ、みんな歌いたい曲言って。」

「遊里は何かあるか、歌いたいの?」

「私、カラオケって来た事無いからよくわからなくて」

「え!無いの!」

「うん……」

「じゃさ、私とデュオやろうよ」

「え、そんなのできるの?」

「出来るよ出来るよ」

そう言って稔は二人で歌える歌を登録すると、マイクの一つを持ち、もう一つを遊里に渡して歌い始めた。ノリノリな稔に対し遊里も、最初は少し戸惑っていたが歌い出すととても綺麗な歌声で楽しそうに歌っていた。その後、槇人も僕もいろんな歌を歌い盛り上がった。しばらくすると、稔が自分のマイクの不調を訴えた。

「あれ、なんかこのマイク声入らないんだけど」

「フロント行って取り替えてもらえば」

「うん、そうしてくる」

稔はフロントでマイクを交換してもらう為、部屋の外へ出て行った。すると槇人も

「俺もちょっとトイレ行ってくるわ」

と言って出て行った。急に僕と遊里はこの部屋で二人きりになってしまった。遊里の方を見ると物珍しそうにカラオケリモコンを見ていた。僕は思いがけず遊里に昨日の質問に関して喋りかていた。

「遊里」

「なんですか?」

「昨日の質問の事なんだけど……」

「答えは出ましたか?」

「いや、なんて言うか……」

遊里はジッとこちらを見ている。正直、まだはっきりとした回答は用意できていなかった。

「遊里はどうなんだ?」

「私ですか?」

「遊里は好きか?この世界の事?」

すると遊里は目線を逸らし、若干うつむき加減になった。僕は一瞬、してはいけない質問をしてしまったと思った。しかし、遊里はあまり間をおかず口を開いた。

「どちらでも無いと言いますか、厳密に言うと好きになりたいです。いえ、好きにならなければいけないのかもしれません」

遊里の回答は僕にとっては少し難しかった。単純に好きか嫌いかでは無い、何か義務的なものが感じ取れた。遊里は続けて言った。

「縁さん。もし、私がもうすぐこの世界から消えてしまうと言ったら、信じますか?」

僕は自分が聞いた言葉が理解出来なかった。遊里の口から出た言葉は全く想定してないものだった。

消えてしまう?遊里が?この世界から?そもそも、この世界とはどういう事なのか?消えてしまうとはどこかへ行くという事なのか?それとも、消えるとは死ぬ事なのか?僕の頭はあらゆる疑問で覆い尽くされた。

「消えてしまうのは、半分は私の意志ではありません。この世界が私にそうしろと言うのです」

「悪い、全然理解が出来ない。どういう事なんだ、それってつまり……」

僕が言いかけた時、稔が戻って来た。

「ごめんごめん、遅くなっちゃった」

稔が戻って来て我に返った僕に、遊里は小声でささやいた。

「この後、時間空いてますか?その時に全部お話しします。今はこの時間を楽しみたいので」

遊里はマイクを握りながら稔の隣に腰かけた。

「お兄ちゃんは?」

「トイレ行ったよ」

「ふ〜ん。ねえ、次これ歌お。一緒に」

「うん、いいね」

遊里は僕との会話が無かったかの様に稔と接していた。その後も僕達はカラオケを楽しんだが、僕には疑問が引っ掛かったままだった。




夕方。カラオケでひとしきり歌いまくった僕達は少し疲れていた。

「悪い縁、いい忘れてたが俺達今日、お袋にちょっと早く帰って来いって言われてんだ。んな訳だから今日はこれで」

「そうだったのか。じゃあ仕方ないな」

「遊里もごめんな」

「いえいえ、お気になさらず」

そう言うと槇人と稔は足早に帰って行った。槇人達に関しては僕はそこまで気にはしなかった。むしろ、僕にとっては遊里の事の方が気になっていた。遊里の話の方が今の僕にとって優先するべき事だった。

「少し、歩きましょうか」

遊里はゆっくりと歩みを進めた。その少し後ろを僕が歩く形で僕達二人は歩き出した。僕は自分の中で湧いたいろんな疑問を遊里に投げかけた。

「遊里、消えてしまうっていうのは具体的にどういう意味なんだ?」

「そのままの意味と受け取って何も問題無いですよ」

「…………死ぬ、って意味か?」

「そうではありません」

「どこか違う場所に行ってしまうのか?」

「それが一番近いかもしれません」

「どこへ行くって言うんだ?」

「……この世界の裏側に」

僕はこの掴みどころの無い話にのまれていきそうな気分になった。だが、ここで投げ出したくはなかった。どんな疑問もゆっくり時間をかけてでも解決していくと、そう強く決意した。

「裏側ってのは一体何の事なんだ?この世界の裏?」

疑問だらけの僕に遊里は説明を始めてくれた。

「今、私達が存在しているこの世界。この世界とはこの町この国だけではなく、全世界、いえ全宇宙を含めてこの世界と言います。そして、私達が普通に過ごしていては決して認識出来ない、でも確実に存在する。それが世界の裏側です。裏側とはとても重要な存在です。この世界と裏側の世界は誕生してからずっと一心一体の状態です。どちらかの世界が崩壊するとバランスが崩れ、もう片方の世界も共倒れの様に崩れ去る。それを防ぐ為に私はこの世界の裏側に行かなければならないのです」

今まで直接的な表現をしなかった遊里から、ようやく本質を突いた話を聞けた気がした。しかし、その内容は一人の人間にはとても許容しきれないような、とてつもなく壮大なものであった。

「行かなければならないって、誰がそんな事を……?」

「小さい頃からよく夢を見るんです。この世界が壊れ、そのまま崩れていってしまう夢を。そしてその夢の中で聞こえる声に何度も言われました。この夢は遠くない未来に現実に起こる出来事だという事。現にここ最近、世界はあらゆる災害が巻き起こっていますよね。このままだとこの世界は崩壊します。それをくい止める為には私という存在が必要だという事。私が裏側の世界に行かなければならないという事を」

「……裏側の世界に行ったら、こっちの世界に戻って来れるのか?」

「おそらくは戻って来れないでしょう。行ってしまえば、私はその世界で残りの人生を過ごします」

「それっていわゆる……」

「そうです。いわゆる"生け贄"ですね」

あまりのことに僕は絶句してしまった。遊里の口から"生け贄"という言葉が出てきた事にもだが、その言葉を言った遊里の表情は笑顔だった。自身に課せられた理不尽な運命に抗わず、全てを受け入れている。遊里のそんな顔を見ていて僕は言いようの無い悲しみが込み上げてきた。

「遊里、君は何も思わないのか?そんな身勝手な要求されて、嫌だとは思わないのか?」

遊里はほんの少し黙った。心なしか表情も少し引きつっていた。

「もちろん全く嫌じゃない訳じゃありません。それこそ、最初は泣くほど辛かったです。こんな事誰にも相談なんか出来ませんし。でも、そんな事をしていても何も変わらないって分かったんです。何も起こらないって」

遊里の絶対に揺るがないであろ意志に僕は何も返す言葉がなかった。

「とは言え、完全に不安が無い訳ではありません。私が行く事でこの世界は守られる。もしその救われる世界の事が好きなら、きっと不安も無くなる。そう思ったんです」

遊里のその言葉を聞いた瞬間、あの質問の意味がようやく分かった。"この世界が好きかどうか"という質問の意味が。一人で勝手に納得している僕を尻目に、遊里は後ろを振り返った。

「長く話してしまいました。つまり私は、もうすぐみなさんの前から姿を消す事になるんです。それまでの間、よろしくお願いします。ではまた明日」

遊里は僕に背中を向けながら帰ろうとしていた。

「遊里!」

僕は帰ろうとする遊里の背中に向け名前を言って呼び止めた。遊里は立ち止まった。

「僕は好きだよ。この世界」

荒唐無稽で理解が追い付かない程の事を沢山聞かされて、頭の中は言葉では言い表わせないくらい混雑していた。それでも今、遊里が何を言って欲しいか、どんな言葉を求めているか、それくらいは分かっていた。

遊里はこちらを振り向くと、今日見た中で一番の笑顔で一言だけ言った。

「ありがとうございます」




夜。自分の部屋で僕は一人で考え込んでいた。遊里の言った内容は、普通ならとても信じる事の出来ないような話だ。でも、遊里の目からは嘘をついている様な感じは一切しなかった。僕は遊里の言った事を何一つ疑うことはしなかった。

こんなとんでもない事を遊里はどれだけの時間一人で悩んできたのだろうか?どんな心境で普段過ごしてきたのだろうか?そして何故、今になって僕にその事を打ち明けたのか?冷静に頭を処理すると次から次へと疑問が浮かぶ。明日もまた、遊里にいろんな事を聞くことになりそうだ。




翌日。学校が終わるといつもの場所で遊里と稔が待っていた。

「待たせたな。昨日はごめんな遊里。どうしても外せねえ用事だったみたいでさあ」

「いえいえ、心配ご無用です」

「そっか。なら良かった」

槇人の平謝りに礼儀正しく対処する遊里は昨日と同じ雰囲気だった。

「ねえねえ、今日はどうする?」

「昨日カラオケ行ったからあんま金ねーんだよなあ。どうする縁?」

「じゃあいつもみたいにコンビニで買い食いか?」

「結局それが一番無難だな」

「遊里はいい?それで?」

「うん。楽しそう」

僕達はコンビニでの買い食いという在り来たりな選択肢を選んだ。店内では槇人と稔はレジ前でホットスナックを選んでる中、遊里はパンのコーナーで商品を選んでいた。僕は遊里の隣に歩み寄った。

「なあ遊里、昨日の話しに関していろいろ聞きたい事があるんだが」

「良いですよ。何です?」

「君が裏側の世界って所に行くのはいつ頃なんだ?」

「もうすぐです。十二月の末に。来年は迎えられませんね」

「クリスマスまでは?」

「多分無理です」

遊里が行ってしまうまであと約一カ月もない事に僕は少し不安を覚えた。

「短いな」

「このくらいが丁度いいですよ。永く居れば居る程、行くのが嫌になってしまいます」

「大人だな」

「そんな事ありません」

遊里は菓子パンとジュースを手に取りレジに向かった。コンビニを出て僕達は食べながら歩いていた。僕はその後も遊里との会話を続けた。槇人と稔は少し前を歩いていた。

「遊里、僕はまだなんか腑に落ちないんだ」

「私が向こうに行く事がですか?」

「うん」

「たしかに最初の頃は不満ばかりでした。どうして私なんだろうって。その時は少しやけになってました。まるでこの世界が私を拒絶している様で、どうしようもなく嫌な気分で。正直、この世界を呪っていた時もありました。ここに私の居場所はないんだって。でももう大丈夫です。大丈夫なんです」

話している時の遊里な顔はやはり笑顔だった。だけどその笑顔はどこか気丈に振る舞っている様にも見えてしまう。それに関して僕は何も触れなかった。二人で話していると槇人が声をかけてきた。

「な〜に話したんだお前ら?面白い事か?」

「ふふ。秘密です」

槇人の問いかけにも遊里は笑顔で答えていた。この笑顔が自然なのか、それとも作っているのか、その真意は僕には分からなかった。

「お前ら、何やってんだ!」

突然、背後から聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてきた。振り返るとそこには畑本さんが立っていた。例によってすごい剣幕だ。

「またお前らか!この前はよくも逃げたな!」

「ま、待って下さいよ。俺らただ食いモン食いながら歩いてただけじゃ……」

「言い訳するな!お前達ゆとり共はいつもいつも自分の事ばかりで周りに気を配ろうともしない。自分を守る為にそんなくだらない言い訳をほざきやがって!」

槇人の焦り方から見て、畑本さんはいつも以上に怒っているらしかった。それもそうだろう。ただでさえ若者を"ゆとり"と言って怒鳴る事のある畑本さんが怒っている相手は、以前怒った買い食いを懲りずに繰り返してた僕達だからだろう。しかもその時は畑本さんを騙して途中で逃げ出してしまった。よく考えなくても分かる。畑本さんの怒りの限界は頂点に近かった。また途中で逃げ出す考えがよぎったが実行には移す気にはなれなかった。今度また逃げ出しでもしたら、おそらくなんらかの実害が出てしまいかねないと、そう判断出来たからだ。どうやら槇人も僕と同じ心境らしい。僕がこんな事を考えている間も畑本の説教は続いていた。

「お前達がそんなんだから世の中は腐っていくんだ」

「どうして貴方にそんな事が言えるんですか?」

畑本さんの鳴り止まない怒号を止めたのは遊里の一言だった。僕達は思わず遊里の方を見て驚いた。遊里が畑本さんに対して楯突いた事にもだが、その時の遊里の表情は明らかに怒っていた。遊里の笑った表情しか見た事のない僕達にとってそれはとても衝撃的な事だった。

「なんだと、どういう意味だ!」

「貴方にそんな事言える資格は無いと思いますよ」

遊里の口調は穏やかで、それでいてとても冷徹だった。

「貴方はさっきから私達をゆとりと言って見下していますけど、私達が受けてきた教育は義務教育です。その義務教育にはゆとり教育しかありませんでした。そして、そんなゆとり教育しか受けられない世の中にしたのは誰ですか?今のゆとりを嘆いている貴方がた大人じゃないんですか?貴方のその行動は自分達が出した結果に文句を言っている様なものですよ」

遊里の言葉の圧に畑本さんはしばらく呆気にとられてて黙っていたが、我に返ったかの様に遊里に対し反論を放った。

「それが何だ、それが俺達が選んだ答えだ。俺達が作り上げた世の中で生きている以上、文句を垂れるな!」

「…………もしかして貴方は、自分達がこの世界を築き上げてきたと、そう思っているんですか?」

畑本さんの言い分に対し、遊里は呆れ顔に近い表情をした。

「世の中にとって、人間というのは携帯電話の様なものです」

「は?」

「例えが分かり辛かったですか。世の中はいろんな時代のその時その時の若い人間を選び、その人達に時代の行く末を任せる。そして時期が過ぎれば更に若い人間に機種変更する。それを繰り返しているのがこの世界です。分かりますか?貴方達が世の中を作ったのではなく、世の中がその時若かった貴方達をたまたま選んだだけなんですよ」

遊里の圧倒されそうな話し方と言葉に、畑本さんだけじゃなく僕達三人も何も言葉が出なかった。

「行きましょう」

何も言い出せない畑本さんに背を向け、僕達に一言そう言うと遊里は足早に歩いて行った。言われるがままに僕達も遊里と同じ方向に歩いて行く。途中、僕は畑本さんの事が気になり後ろを振り向いたが、畑本さんはまだ呆然と立ちすくんでいた。

しばらく歩くと、遊里は立ち止まり振り返ると僕達に深々と頭を下げてきた。

「ごめんなさい」

僕達三人はまだ少し焦っていたが、槇人が笑いながら遊里に語りかけた。

「なんで謝るんだよ」

「だって、あんな事をあの場で堂々と語って、皆さんにもご迷惑をおかけして……」

僕達は顔を見合わせながら笑ってしまった。

「全然。むしろよく言ってくれたよ。なあ稔」

「うん。あの人のあんな顔初めて見た。今思い出してもすっごい笑える」

「そ、そうですか」

遊里は戸惑いながらも、安堵した表情を浮かべていた。

「そんじゃとりあえず、この後の予定でも決めるか。縁、どっかいいとこあるか?」

「急にふるな」

「ほらどっか選べよ。特別にお前に決めさせてやる」

「どっかって言ってもなるべく金のかからない場所だろ」

「別に金のかかる場所でもいいぞ。全額お前持ちだからな」

「勝手に決めるな」

僕と槇人のくだらない掛け合いを見ていた遊里の顔にいつもの笑い顔が戻ってきた。それを見て僕達三人はひとまずホッとした。その日は遊里の畑本さんに対する発言には誰も触れずに一日を楽しんだ。




週末。僕は珍しく外出をしていた。目的はあのお椀の中の蛹の身辺整理の用意であった。と言っても、幼虫や成虫の状態ならともかく、蛹の状態に対しては特に何もする必要はない。精々蛹からかえった成虫の為の準備くらいしかする事は無かった。

電車で二駅程の町で買い物をする。家の近所にも買い物出来る店が無い訳では無い。何故わざわざ遠出して買い物に来たかという理由は特に無く、強いて言うなら、少し遠くに出かけたかったというだけである。

結果から言うと、僕の用事はものの十五分足らずで完了した。あまりにも早く用事が済んでしまった事に少々困惑しながらも、僕はこの町を少し散策する事にした。見知った町ではあるがまだ知らないとこも多い。この機会にいろいろ見て回るのも悪く無いと思った。

歩いていると少し開けた空き地が横に見えた。小学生が野球やサッカーをするのに丁度良さそうな場所だ。ふと僕は自分の視線を止めた。とても見知った人影が僕の視界に入ってきた。遊里だった。いつもの制服ではなく普通の私服ではあったが、首に巻いてある薄紫色のマフラーで僕は確信した。僕はその人影に近寄った。

「遊里」

「あれ、縁さん。どうしたんですかこんな所で?」

やはり人影の正体は遊里だった。

「まあ野暮用かな」

「そうですか」

「遊里は何してるんだ?」

「探し物です。大事な探し物」

僕は遊里の手に注目した。よく見ると遊里の手には一輪の青い花が握られていた。

「それは?」

「これですか。これが探し物です」

「どういう事だ?」

「この花が沢山必要なんです。裏側の世界に行く為に」

そういうと遊里はもう片方の手に持っていたカバンを僕に見せてくれた。中には八、九輪程の同じ青い花が入っていた。

「この花が遊里が裏側の世界に行くのに必要なのか?」

「正確に言うと行った後に必要になるみたいです。どの様にして使うのかは分かりません。でも、これが必要だと、そう語りかけてくるんです」

「あの夢がか?」

「そうです」

僕はこの時、無性に切ない感情に覆われた。自分がこの世界から消えてしまわなければならない。その為の準備を一人でずっと続けていた遊里の事を思うと、非常にやるせなかった。

「あとどのくらい必要なんだ?」

「全部で五十は必要かと」

「分かった、僕も探すの手伝うよ」

「え、いいんですか?」

「丁度用事も済んで暇だったから、気にしなくていいぞ」

「ありがとうございます」

遊里の探し物を手伝う事は、このまま帰りたくはなかった今の僕にとっても丁度良かった。その後、僕は遊里と青い花を探しながら、遊里のやらなければならない事についていろいろ聞いていた。

「なあ遊里、君は向こうの世界で一体どんな事をしないといけないんだ?」

「実はその辺りはまだ良く分かっていないんです」

「分かってないのか」

「はい。いろんな仕事が待ってるかもしれませんし、とても暇かもしれません。向こうに着いた瞬間、死んでしまう可能性だってあります」

僕は改めて遊里の背負っている荷がとてつもなく恐ろしいものだという事を再確認させられた。

「そんな事って……」

「何度も言いましたが、最初の頃は本当にこの世界の存在を呪っていました。あまりにも理不尽なこの世界を」

遊里の表情からほんの少し恐怖の感情が読み取れた。僕はこの表情を見て、以前、遊里が畑本さんに言った言葉を思い出した。

「遊里、この前畑本さんに対して言った事って……」

「……あの人は自分達がこの世界を築き上げたと言いました。それを聞いた時、私は畑本さんにどうしようもなく苦い感情が湧いたんです。私がこんな運命を辿るのも、私がここまで深刻に悩まないといけないのも、全部この人達が悪いんだとそう思ってしまったんです。そんな考え方は良くないと思い即座に畑本さんの言い分を否定しました。ダメですね私、自分の事しか考えてなくて」

「それはまあ、仕方の無い事だと思う。もし遊里の立場になったら誰だってそういう考えになると思うし」

「ありがとうございます」

遊里の立場になったらと簡単に言ったが、実際に遊里の置かれている境遇に自分が立たされた時の気持ちなんて、想像する事さえ不可能だった。

「遊里は、やっぱり怖いか?向こうに行く事が?」

「実は最近まではずっと不安ばかりでした。自分がいなくなる世界の為にそこまでする必要があるのかと。でも今は不安は全くありません。稔ちゃんのおかげで」

僕は一瞬驚いた。遊里の話の中に唐突に稔の名前が登場した事に。

「どういう事なんだ?稔が一体?」

「稔ちゃんが私の殻を破ってくれたんです。小さい頃から私は裏側の世界に行かなくてはいけない自分の事で一杯で、別れるのが辛くなるかもしれないという理由で誰とも親しくしようとはしなかったんです。どんな風に声をかけられても冷たく無愛想に接していました。それを続けていると誰も私の周りにはいなくなるんです。それで良かったと思ってました。でも、稔ちゃんだけは違いました。稔ちゃんは私がどんな態度であしらっても全く嫌な顔をしませんでした。それどころか、そんな私に興味を示しどんどん近づいて来ました。私はその行動をすごく嬉しく思い少しずつ稔ちゃんに優しく接していきました。そこから私達が仲良くなるのに時間は全くかかりませんでした。そのおかげでクラスの他のコ達とも仲良くなる事も出来て。その時、私の見ていた世界が大きく変わった気がしたんです。なんて表現すればいいか分かりませんが、前よりもずっとこの世界が好きになれたんです。私が好きなこの世界を好きで、この世界に生き続ける稔ちゃん達の為に私は裏側の世界に胸を張って行ける決心がついたんです」

僕は稔の行いを聞いてただただ感心していた。稔の行動があって今の遊里がいる。そう思うとなんだか少し誇らしい気持ちになる。そして、遊里の話し方や言葉の多さから遊里の稔に対する想いがよく伝わってきた。

「遊里」

「なんですか?」

「稔の事、好きなんだな」

「好きですよ。もちろん友達として」

「そりゃそっか」

「なんです、そういうアレでも期待しました?」

「もしそうだとしても、精々槇人が発狂するだけの話だ」

「そうかもしれませんね」

僕とこんな話をしてる時も、稔の事を語っていた時も、遊里の顔は常に笑っていた。そこに裏側の世界へ行く事への不安は感じられなかった。

僕は今まで心のどこかで引っかかりがあった。遊里が向こうの世界に行かなくてもいい方法があるかもしれない。その考えを捨てきれずに僕は遊里の使命をあまり好意的には受け取れなかった。しかし遊里は違った。自分の使命に正面から向き合いそれを誇りに思っていた。僕は自分の頭にあった考えを捨てた。そして改めて、遊里のするべき事に協力したいという気持ちが湧き上がった。

「なあ遊里」

「はい、なんですか?」

「僕は君のやる事に協力するよ」

「もうしてくれてますよ」

「そうだったな」

その後、僕達はいろんな場所を探したが遊里が必要な青い花は見つけられなかった。

「悪いな、力になれなくて」

「そんな事ありません、とても嬉しかったです」

「遊里、その……」

「どうしたんです?」

「この事、遊里が裏側の世界に行くって話、槇人と稔にも話していいか?」

「え?」

「二人に話したらさ、きっと協力してくれる筈だよ。ほら、人手は多い方が良いし」

僕のこの問いに以外にも遊里はしばらくの間沈黙していた。何かを熟考していた様だ。その後、ようやく遊里が口を開いた。

「槇人さんには話しても構いません。ですが稔ちゃんには黙っておいて下さい」

「……別に良いけど、何で?」

「私がもうすぐいなくなる事を言うと、多分稔ちゃんは泣き出すと思います。泣いて私のする事を止めさせると思います。自意識過剰かもしれませんが」

「でもいつかは伝えないといけない時が来るかもしれないけど、その時は……」

「その時は、私から稔ちゃんに伝えます。今までのお礼も含めて」

「……分かった。槇人にも稔には伝えないように話しておくよ」

「ありがとうございます」

その時の遊里の笑顔は今日一番の笑顔だった。




翌日の昼休み。弁当を食べながら僕は槇人に遊里の抱えている事情を全て話した。裏側の世界に行かなければならない事、その為の準備が必要な事。以外にも槇人は僕の話を黙って聞いていた。

「縁、率直に言うぞ」

「なんだ?」

「なんでそんな面白そうな事黙ってたんだ」

「へ?」

「だってそうだろ。突然俺達の前に現れた少女が、実はこの世の存亡をも巻き込んだ秘密を抱えていたなんて興味ない訳ねえだろ」

「……お前、この話を信じるのか?」

「嘘なのか?」

「嘘じゃない」

「じゃあ信じる」

僕は遊里からこの話を聞かされた時、すぐに信じる事は出来なかった。しかし、槇人は何の疑いも持たずに僕の話の全てを信じた。槇人は比較的単純な思考なのは理解していたが、ここまで単純だとは思ってもいなかった。だが、今はそれが都合が良かった。

「それにしても縁、この世界と裏の世界って完全には別れてなくて微妙に繋がってるって話してたよな」

「境界は曖昧って聞いてるけどな」

「それってつまり、マジにクラインの壷じゃねえか」

槇人は何か嬉々として語っていた。

「またそれか」

「いやいや、今回のは本物だろ。正真正銘」

「あーはいはい」

一人で変な部分で盛り上がっている槇人の熱を僕は軽く受け流した。




放課後になり、僕達四人はいつもの様に校門前で集合した。

「よう、待ったか?」

「ううんそんなに。今日はなんか早いね」

「そうか?」

槇人は遊里に近づき稔には聞こえない小声で囁いた。

「縁からいろいろ聞いたぜ。俺もお前に協力するよ。なんか面白そうだしな」

「嬉しいです」

「心配すんな、稔には言わない様にするって話は守るからよ」

「ありがとうございます」

槇人と遊里の小声での会話に稔が割って入っていった。

「何の話してるの?」

「ん、別に。それより今日の予定だけどよお」

槇人は稔に更なる質問をさせる間を与えずに喋り続けた。

「今日はいろんなとこで青い花を探すってのはどうだ?」

「青い花って?」

「こんな感じの花ですか?」

すかさず遊里は持っていた自分の青い花を取り出し、みんなに見せた。

「そうそう、こんな感じの」

「ふーん。でもなんで?」

「そりゃすげえ綺麗だし良い香りもするし、何より金が全くかからないってのがミソだよな」

あまりにもめちゃくちゃな理論を平然と言い放つあたりとても槇人らしくはあったが、はたして今ので稔が納得するかは分からなかった。

「ふーん、良いんじゃない。遊里はどう思う?」

この兄にしてこの妹ありである。

「私は全然良いと思うよ」

「よし、満場一致で決定だな」

「僕に聞かないのはわざとか?」

僕達は青い花を探すというとてもシンプルな遊び?に興じる事に合意した。いつものコンビニの前まで来た時、稔が言い出した。

「ねえ、今日はなんか買っていかないの?」

「別にあんま腹減ってないしな」

「縁さんも?」

「うん、今日は体育とか無かったしな」

「そう、じゃ私飲み物だけ買って来ていい?」

「おう良いぞ、買って来い」

「行ってきまーす」

稔は一人でコンビニに入って行った。三人で待っていると槇人は遊里から話を聞き出した。

「遊里、裏側の世界だっけ?」

「はい」

「に遊里が行くのっていつ頃だ?」

「具体的な日にちは決まってないですけど、まあクリスマス前あたりですね」

「あんま時間ないな」

「そうですか?私にとってはこのくらいかと」

少し他人事と思ってる様に見える槇人も、案外遊里の事が心配だったみたいだ。遊里の反応が想定よりも深刻ではなかったのか槇人は安心した様子でいた。

「ところで遊里」

「何ですか?」

「クラインの壺って知ってるか?」

「またか!」

僕は思わず声を上げた。僕だけではなく遊里にまでそんな話を持ち出し槇人に感心すら覚えた。

「いやいや、これは本物だろどう考えても」

「そういう問題なのか?」

「そうだろ。そうじゃなかったとしても俺はすげえ興味あるし。で、どうなんだ遊里?」

「ごめんなさい、知らないです」

「そっかそっか」

知らないと聞いて何故か槇人は嬉しそうだった。相変わらず、槇人のこういう部分が理解出来ない。

「クラインの壺ってのはまあ簡単に言うと、壺の内部の面と外部の面が入り口の部分で並行に繋がっている為、壺の裏表が曖昧になっているってやつだ」

「その説明が簡単と思わないのは僕だけか?」

「完全には分かりませんでしたが、おおまかには分かりました。なんとなく、この世界と裏の世界の関係に似ていますね」

「そうそれ!俺が何よりも言いたかったのはそういう事!」

槇人の利己的な説明と、その説明である程度まで理解した遊里に僕はただただ驚いていた。

「なるほど、クラインの壺でしたっけ?」

「ああ、そうだ」

「面白い表現ですね、壺って」

遊里は突然、何かを理解したかの様に言った。

「私はもうすぐ裏側の世界に行ってしまう。行ってしまったらもうこっちには戻って来れませんし、私は一生を向こうの世界で過ごします。裏の世界も表の世界も合わせて一つの壺というのなら、裏側の世界は私にとっての"骨壺"みたいなものですね」

僕と槇人は思わず押し黙ってしまった。遊里の骨壺という発言を聞いて、つい人の死を思い浮かべてしまったからだ。しかし、遊里の顔からは悲愴的な感情は全く見て取れなかった。

「なんだか変な事行っちゃいましたね。ごめんなさい」

遊里がこちらに謝罪してきた時、稔もコンビニから戻って来た。

「おまたせ、何の話?」

「これからどの辺りを散策するかの相談、ですよね」

「そ、そうだな」

「そ。んじゃ行こ」

四人に戻ったところで早速僕達は青い花を探しに行く事にした。その日から僕達の放課後は青い花の散策が日課になった。




青い花の捜索、これがなかなか見つからない。花が咲いていそうな場所、いなさそう場所を問わずあらゆる場所を探して回ったが、一向に見つかる気配は無かった。遊里が今持っている花の数は九輪。一人でよくそれだけの数を見つけられたものだと感心した。

「遊里、花ってどんくらい必要なんだ?」

「大体、五十輪程です」

「マジか!全然足りねえな」

槇人は予想だにしてなかったノルマに驚愕した。

「とりあえず手分けして探すか。俺と稔はあっち探して来るわ」

そう言うと槇人は稔を連れて少し離れた所へ探しに行った。自動的に僕と遊里は二人きりになった。

「私達も探しに行きましょうか」

「そうだな」

僕達は槇人達の反対の方向へと探しに行った。植物が沢山生えている草むらを注意深く探すが、見えてくる色は緑ばかりであった。その間も遊里は黙々と青い花を探していた。僕は少し気になっていた事を遊里に聞いた。

「なあ、遊里」

「はい、何ですか?」

「ずっと聞きたかった事があるんだけど、聞いていいか?」

「良いですよ、何でも聞いて下さい」

「……遊里と僕が初めて会った日の事なんだが」

初めて会った日。朝の駅のホーム、突然降り出した雪に見入っていた時、雪と同じ様に突然僕の前に現れた遊里。そんな彼女と初めて会った日。僕は疑問に思っていた。何故あの時、遊里はあの場所にいたのだろうか。遊里や稔達の通う中学校からはかなり離れている。それなのに何故。その事に関して僕は遊里に質問を投げかけた。

「どうしてだと思います?」

「……裏側の世界に行く為の準備とか」

「ふふ。そんな深い意味はありません。いえ、浅い意味すら無いですよ」

「……というと、つまり……?」

「ただサボりたかっただけです」

僕は心の中で面食らっていた。あの日、遊里があの場所にいた理由に尊大なものは無く、ただ偶然あの駅にいた事に。

「サボる…………、学校を?」

「他に何があります?」

「そりゃまあ、そうなんだけど」

比較的真面目な印象を僕は遊里から受けていただけに、学校をサボるという不真面目な行動がとても以外に思えた。

「サボるにしても制服のままでか?」

「登校中にサボりたくなってしまったので仕方ありません」

「誰かに補導とかされなかったか?」

「幸い誰からも」

僕達は他愛もない事を確認し合った。すると遊里はあの日の事を僕に語ってくれた。

「あの日の朝、私は急にこの世界を見て回りたくなったんです。もうすぐ旅立つこの世界を。裏の世界に行く事への不安は稔ちゃん達のお陰で払拭されたのはこの前話しましたよね。それもあって心に少し余裕ができて、だからサボってでもこの世界を見ておきたいって思ったんです。そうして、私はあの駅で降りました。いつも通り過ぎるだけで一度も降りた事のない駅。どうしてあそこで降りたかという理由も特にありません。ただなんとなくです」

「そしてあの時……」

「はい、空から突然舞い降りてきた雪。これに私はとても心を奪われました。私だけじゃない、あの場にいたみんなが雪に釘付けでした。そしたら、その時私の前にいた人がこう言ったんです。"奇跡だ"と。私は正直その意味が分かりませんでした。でもなんとなく思ったんです。この雪は旅立つ私に最後にこの世界が見せてくれた景色なのだと。そう思うと私もこれが奇跡だと感じました。だからその人の言葉に私も共感したんです」

あの日僕がたまたま呟いた一言、このお陰であの時、僕と遊里は繋がりを持てた。可笑しな事かもしれないがもしあの時遊里の存在を認識していなければ、ここまで遊里の話を信じ、親身になって協力していたかすら分からない。それだけ僕にとってあの時の遊里との出会いは大切なものだった。そう思うと"奇跡"という言葉に感謝しなければならない。

「だから稔ちゃんにお兄さんとその友人に会わせてあげると言われてあった時は本当に驚きましたよ。何しろあの雪の日に会った人がいたんですから」

「いや、多分僕の方が驚いてた筈だ。だって遊里あの時全然落ち着いてたし」

「そうですか?かなり驚いていたんですけどね」

心に引っかかっていた疑問から、思いがけず和やかな雰囲気を作り出す事に成功した。

「気になっていた事も解消出来たし、花の散策を続けるか」

「はい」

僕達は再び青い花を探し始めた。




あの日から数日、僕達は放課後はずっと青い花を探し続けた。というよりは探しあぐねていた。四人で手分けして探して新たに見つけた花の数は三輪である。とてもノルマには届かない。

「今日も結局見つからなかったな」

槇人の口から出た言葉に遊里が謝る。

「ごめなさい、本当に」

「なんで遊里が謝るの?」

それを稔が不思議そうに指摘する。

「まあ無かったものはしゃーない。とりあえず今日はこの辺で」

いつもの分かれ道で槇人と稔は帰って行った。

「私達も帰りましょうか。駅までお見送りしますよ」

「ありがとう、お言葉に甘えるよ」

僕と遊里は二人で駅を目指した。

「遊里、花以外に用意するものは無いのか?」

「用意しないといけないものや準備が必要なものは全て済ませてあります。あとは花だけです」

「そういや準備って他にどんな事したんだ?」

「いろんな事です。本当にいろいろ。百以上はある筈ですよ」

「そ、そんなに」

「どんな事したのか教えましょうか?一つ一つの事柄全部」

聞きたいという欲求はあった。しかし、ここ最近はいろんな事がありすぎた。主に遊里関係で。その事で僕の頭はあらゆる情報で一杯だった。そんな状態で更に百以上の情報を許容出来ないのは明らかだ。僕の頭がパンクしてしまう。

「い、いややめとく、今それを聞くのはいろいろ危険な……」

「遠慮しなくても良いですよ、話させて下さい。一番最初にした事はですね…………」

その日、僕の頭はパンクした。




休日。僕は一人で学校近辺にいた。理由もちろん青い花である。花の散策は放課後の僕達の遊びであり、わざわざ休みの日に一人で探す程の必要は無い。だが僕はここに来ていた。特に用事ややる事も無い。それならせめて、少しでも遊里の助けになれればと、そういった考えからの行動である。

昼前から探し始めて二、三時間は経過している。しかしそう簡単には見つからない。僕はつくづくこの行為の困難さを思い知らされた。

「やっぱ一人じゃ無謀か」

ふと視界の端に青い物体を目にした。僕は驚き近付いてそれを確認した。一輪の青い花だ。まだとても小さな花というよりは蕾と呼んだ方が相応しいかもしれない。しかし確かに、今僕が探している青い花そのものだった。これだけ小さいと使えるか分からないが、それでもようやく見つけた花に僕はほんの少しだけ達成感を感じた。

「そんな所で一体何をしている?」

なんとなく聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。振り返るとそこには一台の軽トラが停まっており、その前に畑本さんがいた。声の主は畑本さんだった。畑本さんは僕に近付くと僕が手を添えている花に注目した。

「なんだ?そんな花に興味でもあるのか?」

僕は一瞬、どうしようかと悩んだ。適当な説明で納得させる事を考えたが、くだらない嘘で誤魔化したくはなかった。

「僕が必要なものではないです。この花はある人にとってとても大事なものなんです。だからその為に僕はこの花を探している。ただそれだけです」

「…………そんな小さい花じゃ裏側の世界には持って行けないぞ」

僕は自分の耳を疑った。今この人は何を言った?裏側の世界と言ったのか?遊里からしか聞いた事がない言葉を今確かにこの人の口から聞いた。

「……どうして、その事を?」

あまりの衝撃に面食らっている僕に、畑本さんは後ろの軽トラを指差し一言だけ言った。

「乗れ」




畑本さんの運転する軽トラの助手席に乗りながら、僕は自分の頭を整理していた。その間、畑本さんは無言だった。

「畑本さん、さっき貴方は裏側の世界と言いましたが、どうして貴方がそれを……?」

少しの沈黙の後、畑本さんは口を開いた。

「……昔いたんだ、裏側の世界へ行った人が。俺はその人を手伝い、そして見送った。お前と同じぐらいの年だったか」

「前にもいたんですか、そんな人が?」

畑本さんは自分のズボンのポケットから財布を出し僕に渡してきた。中を見ると一枚の古い写真が入っていた。写真には若い男女が写っていた。

「そこに写っている女性がそうだ。深幸(みゆき)という名だ」

「深幸さん……」

畑本さんは言わなかったが僕はなんとなく察した。深幸さんの隣に写ってる男の人が若い頃の畑本さんなのだと。

「誰だ?」

「はい!?」

「裏側の世界に行く者の事だ。お前の知り合いだろ。誰なんだ?」

「……遊里って子です。この前、畑本さんに反論したあの中学生です」

「ああ、あのマフラーの。……そうか、納得したよ。俺にあんな事言ったのはそういう事だったのか。なるほど」

畑本さんは遊里から言われた事の意味を知ると、非常に納得していた。

「怒っていますか、遊里の事?」

「裏側の世界へ行く事を運命付けられた者の気持ちは、普通の人間には理解し得ない。相当な覚悟を持っているのだろう。仕方ない事だ」

「遊里は反省してました。ひどい事を言ってしまったと」

「そうか」

畑本さんの表情は変わらなかったが、声は少し優しく聞こえた。

「この花は一体何に必要なんですか?」

「それは俺にも分からない。だが、裏側の世界に行く者には必要不可欠なものだ」

畑本さんは裏側の世界には僕達よりも詳しいのは確かだが、それでも分からない事は沢山ある様だった。

しばらく走っていると車はある所で曲がった。そこは槇人が蛹の入ったお椀を見つけた場所だった。山の入り口にあたる小道に車は入って行った。

「どうしてこの道に……」

「この山は俺の所有物だからな。何の不思議も無い」

「……え?」

全く予想だにしない真相に僕は度肝を抜かれた。この道にある車輪の跡は畑本さんの軽トラの跡だという事を理解した。

「その子はどんな感じだ?」

「遊里の事ですか?」

「裏側の世界に行く事をどう思っている?」

「まっすぐに向き合っていますよ。自分の使命に誇りを持って準備を進めています。だから僕も少しでも力になれればと思っています」

「そうか。強いみたいだな」

「はい」

車はようやく頂上に着いた。そこでの光景を見て僕は驚愕した。僕達が探していた青い花が一面に広がっていた。その数は千輪にも及ぶ様に見えた。

「ここから好きなだけ持って行くといい。そんな事にしか使い道がないからな」

「どうして、こんなに……」

「この青い花が、深幸がこの世界にいた唯一の証に思えてな。この山を買い、ここで俺が育てている。この花をこれからも残していく為に」

そう言った畑本さんの目は少し遠くを見つめている様に思えた。

僕達が今まで集めた花の不足分、四十輪程を摘み畑本さんの軽トラで山を降りていた。

「畑本さん」

「なんだ?」

「その……深幸さんについて聞いてもいいですか?」

少し険しそうな顔をしていたが、畑本さんは過去に裏側の世界へ行った深幸さんの事を話してくれた。

「深幸と俺は幼馴染だった。深幸の方が一つ年上だ。深幸が行ってしまったのは深幸が十六の時だった。俺は十五、いや十四だったかもしれない。裏側の世界の事を知らされたのはその二年前だった。その時から少し世界が可笑しな事になっていた。世界中で洪水や竜巻などの異常気象が発生していた。そして深幸は言った。この世界を安定させるには私が行かなくてはならないと」

「裏側の世界に、ですね?」

「そうだ。当然、すぐには受け入れられなかった。だが深幸はとっくに覚悟を決めていた。そんなあいつを止める選択肢は俺には無かった」

畑本さんの気持ちや深幸さんの行動が驚く程に今の僕達と重なった。

「そして深幸は旅立った。その後すぐ、世界中の混乱は終息した。だが誰も深幸の事を認識しない。誰も深幸の苦労を理解しない。出来ない。それがとても歯痒かった」

その言葉は、僕が聞いた畑本さんの言葉の中でも一番強く心がこもっていた。

「そして時代は流れた。俺も歳をとって、若い奴らもどんどん増えていった。だが今の若い奴はこの世界が今もこうして続いているのがまるで当たり前だと思っている。この世界で特に信念も持たずに自堕落に過ごしている。挙げ句の果てに、自ら命を捨てる奴もいる。深幸はこんな世界を残す為に向こう側に旅立った訳じゃ無い。それなのに」

「だから畑本さんは、僕達みたいな若い人が……」

「くだらない事で日々を無駄にしている若い連中を見ていると、深幸が自分の人生を捧げてまで守ったこの世界が侮辱されている、そんな風に感じてな。だが俺がどんなに声を荒げて言っても何も変わらない。それどころか、俺が言う事に反抗する奴も現れて余計深刻な方向に進んでる様にも思えてしまう。結局俺は深幸に対して何も出来ちゃいない」

僕は知らなかった。畑本さんが心でそんな事を思っていた事を。でもだからこそ、遊里という存在に会った僕が畑本さんの気持ち理解してあげたいと、そう思った。

「畑本さん、変な質問かもしれないですけど……」

「なんだ?」

「畑本さん、深幸さんの事好きだったんじゃないですか?」

「………どうなんだろうな。そんな気持ちがあったとは思っていないが、深幸が行ってしまった後も深幸の事は忘れられなかった。深幸の事を考え続けて、気が付けばこの歳で独身だ。もしかすれば、そんな気持ちがあったのかもしれないな」

はっきりとした否定も肯定も無かった。だがその回答がベストな回答だと感じた。

畑本さんはそのまま駅まで僕を送ってくれた。僕が車から降りると畑本さんはこんな事を聞いてきた。

「なあ」

「はい?」

「お前、あの子を見送った後の事を考えてるか?」

「見送った後の事……」

「今までお前が接してきた人は、この世界から完全にいなくなる。その現実を受け入れる事を考えているか?」

僕は少しだけ考え込んだ。しかし、今の僕の中にある率直な心情を答えた。

「全く考えていないです」

「そうか、ならそれでいい」

以外にも畑本さんの反応はあっさりしていた。そう言うと畑本さんの乗った軽トラはあっという間に走り去って行った。




翌日。僕は学校にいる槇人に一足先に昨日摘んだ青い花を見せた。いつもの通学用のカバンとは別に小さいカバンも持ってきた。その中には青い花が形を崩さない程度に詰めてある。中身を見て槇人は大声で叫んだ。

「どわあああああすっっげえええ!!」

槇人の叫び声は朝の教室内に響き渡った。当然、教室にいる者はみな一斉に僕等に視線を向けた。

「馬鹿、声がでかい」

「悪りい悪りい。でもこんなにどこで見つけたんだよ?」

「どこって、まあいろんなとこ探し回って……」

「嘘つけ、どこ探しても全然無かったじゃねーか」

「だからいろんなとこだよ、いろんなとこ」

僕は畑本さんや深幸さんの事やあの山の事は話さないでおいた。なんとなく、畑本さんは自分の事は話して欲しいとは思っていないだろうと判断したからだ。幸い槇人はこの花について深く追求してこなかった。

「まああったんなら場所はどこでもいいか、遊里もきっと喜ぶな」

「だと良いな」

「絶対喜ぶだろ。これでもう花は探さなくても良い。てことは後は思いっきり遊べるじゃねーか。明後日からはいよいよ冬休みだしな」

そう言われてみればもうすぐ冬休みだ。クリスマスもすぐ近くに迫っている。その分、僕達が遊里と過ごせる時間も後わずかという事だ。分かっていた事ではあるが、こうして考えるとやはり寂しさが込み上げてくる。しかし、誰ももう迷ってはいなかった。ただ一人、稔を除いて。

「そういや縁、すっげーどうでもいい質問なんだけどなあ」

「なんだ?」

「あの蛹どうなってる?」

「お前から貰ったお椀の蛹の事か?」

「そうそうそう」

蛹の状態は特に変わりばえは無い。だがもうそろそろ孵化してきそうなところまできていた。

「どうして急に?」

「いや、なんとなくな」

「良し分かった、明日学校に持って来るわ」

「そこまでしなくていい」

槇人の制止も聞かず、僕は蛹を持って来る事を心に決めた。明日は終業式だ。




放課後。僕は花の入ったカバンを遊里に渡した。中を見た遊里は今まで見た事が無いくらいめを丸くして驚いた。

「どうしたんですか縁さん、こんなに沢山一体どうやって……?」

「まあ……いろいろと。それよりどうだ、それで足りそうか?」

「はい、十分に足ります。本当にありがとうございます」

「そっか、良かった」

僕のこの行いが遊里の手助けになれたと思うと、なんだかとても満たされた気分になった。

「そんじゃ、今日はどうする?」

「え?青い花探ししに行くんじゃないの?」

「ああそれはもういいわ。全然見つかんないし、俺はもうちょいパーっとした遊びがしたいし」

「なにそれ?まあいいけど」

唯一事情を知らない稔も納得した所で、僕達四人は今日の予定を決めた。結果は四人で電車に乗り少し離れた所にあるデパートに行く事に決まった。理由は槇人の家、釘雨家で行われるクリスマスパーティーの用意の買い出しである。槇人の家のパーティーの買い出しに何故僕と遊里が付き合わされる事になったのかという疑問は無いと言えば嘘になる。が、これはこれで少し楽しくもあったので後悔はしなかった。

本来の用事はかなり早く終わった。飾り付けやパーティーグッズなどを買って、後は各々自由行動となった。僕が一階のフロアを歩いていると遊里を見つけた。遊里はソフトクリームの売店の前でじっと店を見ていた。僕は遊里に話しかけた。

「欲しいのか?」

「へ!?あ、縁さん」

「欲しいのか?あれ」

「いえ、そういう訳じゃ……」

否定していながらも遊里の視線はずっと売店のソフトクリームのサンプルに向いていた。僕は何も言わずに売店に行きソフトクリームを一つ注文した。スタンダードなミルク味。それを渡すと遊里は少し照れた表情をした。

「ありがとうございます」

売店近くのベンチに座りながら遊里はソフトクリーム食べた。

「その味で良かったか?」

「はい、これが欲しかったです」

「やっぱり欲しかったんだな」

「…………はい」

デパートの売店でソフトクリームを買い、ベンチに腰掛けて食べる。そんな当たり前の事さえ、遊里はもうすぐ出来なくなってしまう。それはどれだけ辛い事なのだろうか。

「遊里、もういつ行くかは決まってるのか?」

「……二十三日の夕方を予定してます」

「イヴの前の日か」

「はい、イヴのイヴです」

「場所はどことかはあるのか?」

「なるべく高い所が良いです。理想を言えばあの場所なんですが」

「どこだ?」

「縁さん達が通ってる高校の屋上です。あそこならきっと上手くいくと思います」

僕達の高校は四階建てでその上が屋上である。屋上へは普段は鍵がかかっていて入れず、職員室にある鍵を借りなければ上がる事は出来ない。

「なるほど、ちょっと難しいな」

「あくまで理想です。不可能なら他の場所でも大丈夫です」

「いや、なんとかして上がれる方法を考えておくよ」

僕は自分でも驚くくらい躍起になっていた。ここまできたら遊里の望む完璧な状態で送り出してあげたいと、そう思っていたからかもしれない。

「遊里、もし屋上に上がれたとして、どんな方法で裏側の世界に行くんだ?」

「これを使います」

遊里は服の中に入るよう首からかけていたものを手に取り僕に見せてくれた。遊里の手には妙な形をした物体が握られていた。紐、というよりは毛糸が小さな輪っかの形に結ばれていた。

「何これ?」

「ミサンガです」

「これが必要なのか?」

「ミサンガである必要はありません。たまたま私が選んだのがミサンガだったというだけです。こういう形のものが良いんです。中から覗ける形が」

まるでピンときてない僕に遊里は説明を続けた。

「かなり前から私はこのミサンガにおまじないを込めてきました。おまじないを込めないと効果は出てくれません。二十三日の夕方、太陽は日の入りで半分になります。その時にこれを使います。この輪っかの中から半分になった太陽を見つめる。そうすると私は裏側の世界行ける事になってます。試した事はないですけど」

「そんな単純な手順で良いのか?」

「複雑なものなんてありません、全ては単純なものの積み重ねです」

方法はどうあれ、もうすぐ遊里との別れが訪れてしまう。それは揺るぎようの無い事実だった。

「稔には……」

「まだ言えてません。伝えるのはおそらく、向こう側に行く直前になるかもしれません。その時にならないと私も言う決心がつけられません。こういう自分の弱さは私は嫌いです」

ここにきて遊里から弱気な言葉が出てきた。無理もない。覚悟してきたとはいえ、いざその時になると不安が込み上げてくるのは誰しもがそうであり、それを否定できる者もまた誰もいない。

「君は自分の事を卑怯な人間だと思っているかもしれないけど、そんな事は決して無い。仮にそうだったとしてもそこまで気にする必要は無いよ。だって、遊里の事を責める人なんて誰もいないから」

それは僕の口から自然と出た言葉だった。今の遊里を元気付けるには下手に取り繕うよりも率直に思った事を言うだけで良かった。

「ありがとうございます、本当に。なんか私、お礼を言ってばかりですね」

遊里もなんとか笑顔を取り戻してくれて一安心した。




終業式の朝。僕が教室に行くともう既に槇人が自分の席に座っている。いつもの光景だ。

「オッス」

「オイッス」

僕達の交わす挨拶はいつも形を留めていない。

「昨日言ってたアレ、持ってきたぞ」

そう言って僕はカバンからビニール袋に包まれた蛹入りのお椀を槇人の机のうえに置いた。

「だから持って来なくていいって言ったろ!」

「まあそう言うな」

槇人は半分呆れながらもビニールの結び目を開け中を見ていた。

「てか、どうすんだよコレ」

「何が?」

「今日終業式だぞ。持って帰るモン沢山あるじゃねえか。お前結構貯めてるだろ」

「あ、ヤバい」

「言っとくが俺のカバンには入れさせてやらねえからな」

持って来る事だけを考えていて持って帰る事を一切考えていなかった。大量の荷物の中に無理矢理詰めようものなら、潰れてしまうのは明白だった。

「しょうがない、コイツはここに置いていくか」

「おいおい、来年まで放っておく気か?」

「二十三日に来るかもしれないからその時に持って帰る事にしよう」

「二十三日に何かあんのか?」

そういえばまだ槇人には遊里の出発の日の事を何も伝えていなかった。僕は槇人に話した。遊里の出発の日時、向こう側への行き方、そしてそれを行うには屋上へ出る必要がある事を。

「なかなか難儀だな。誰もいない学校に忍び込むって話だよな」

「確かにそういう事になるな」

「なんかすっげー面白そうじゃねえか。よしいいぜ、俺がなんとかしてみる!」

「なんとかって何する気だ?」

「こっそり鍵を盗むとかスペアキー作るとか、いろいろ方法はあんだろ」

「極悪だなお前」

「とにかく手は打っておくぜ。あーなんだか楽しくなってきた」

「とりあえず警察に捕まる様な事だけはしないでくれよ」

多少の問題はあるが、これで屋上へ上がる事は可能になるだろう。こういう事に関しては頭が切れ、行動力が溢れ出てくるのが槇人の長所?である。

その日の放課後からしばらく、僕達四人は盛大に遊び回った。高一二人と中三二人の盛大などたかが知れるが、それでも僕達にとってはこの冬休みの僅かな間は一生忘れない宝物になった。少なくとも僕にとっては今までのどの冬休みよりも思い出に残った。このままずっとこの四人でこの時間を過ごせればどんなに幸せだろうか。それでも、どれだけ強く願っても、その時は訪れるのだった。




十二月二十三日。この日の予定は学校最寄りの駅に十六時に集合する事になっている。僕が駅に着くと既に槇人と稔が到着していた。

「おー来たか」

「待ったか?」

「別に」

「ねえ、何で今日はこんな時間に集合なの?」

一人だけ何も知らない稔からの質問が出た時、丁度遊里も到着した。

「お待たせしました」

「よし揃ったな。……んじゃ早速行くか」

「え、行くってどこに?」

「ついてくりゃ分かる」

と言って槇人は稔に質問させる余地を与えず、せっせと歩き出した。おそらく槇人自身も立ち止まってしまえばこれからの遊里の身の上を考えてしまうだろう。手や足を止めずに動かし続ける事で槇人はなるべく考えないようにしていた。

「着いたぞ」

槇人の早歩きでの先導も相まって僕達は思いのほか早く着いた。

「ここって、お兄ちゃん達の高校じゃん」

「そうだ。とりあえず入るぞ」

閉じられた校門の柵の上を登り槇人は学校の中に入った。それに続く様にして僕と遊里も柵を越えて中へ入って行った。

「ちょっとみんな、何してるの?ねえ」

慌てふためきながらも稔も学校の中に入って来た。そこからの槇人の行動は実に迅速だった。どうやったのか廊下に面した窓から校舎に入っていき中から入り口を開けたと思えば、鍵がかかっている筈の職員室の戸を開けそこから屋上のドアの鍵を拝借すると、その鍵で見事屋上へ上がってしまった。

「槇人、お前一体どんな技使ったんだ?」

「教えてもいいが、知らなきゃ良かったなんて文句垂れるなよ」

「やっぱり言わなくていい」

遊里は初めて上がった屋上からの風景を眺めていた。

「どうだ遊里、ここからの景色は?」

「思った通りバッチリです」

「ねえ、本当になんの事言ってるの?なんでこんな場所に来てるの?」

稔の真に迫った一声でこの場の空気が固まった。しかし、その中でも遊里の目は真っ直ぐ稔に向いていた。

「稔ちゃん、私は貴方に話さないといけない事があるの。ずっと言えなかったけど、でも稔ちゃんには絶対に伝えておきたいから」

遊里にとってはおそらく一番苦しい時間だろう。稔を傷付けたくないという心境から言えなかった事を意を決して言うのは相当な勇気がいる筈だ。

「槇人」

僕は槇人を呼んで遊里達から少し離れようとした。二人きりで話をさせた方が遊里の言いたい事がまとまる気がした。槇人もそれを理解してくれた様で何も言わずに僕とその場を離れてくれた。

遊里は稔に自分の背負っている真実を話し始めた。ここからは話の内容は聞き取れない。話し始めてからしばらくして稔の様子が変わった。微かに残っていた笑顔がどんどん消えていく。そしてとうとう、泣きながらその場にへたり込んでしまった。話しは聞こえないが分かる、稔も遊里の事情を理解した様だ。遊里はへたり込んだ稔の手を握った。遊里の表情も今にも泣きそうになっていたが、下唇を噛みながら必死に泣くのをこらえていた。

遊里は立ち上がるとこちらに目線を送った。話しは済んだ様だ。槇人は足早に稔に駆け寄った。

「大丈夫か稔?」

稔はまだ泣きじゃくっていた。槇人の問いかけにもまともに答えられない程に。しかし確かに稔は首を縦に振っていた。

「遊里、時間は大丈夫なのか?」

「そうですね、今がおそらく一番頃合いだと思います」

時間もほぼ残されていない。遊里は青い花が入ったカバンを持ち、首に掛けたミサンガを取り出した。

「みなさん、短い時間でしたが本当にお世話になりました。槇人さんはどんな時も明るく楽しく振る舞ってくれて、それに私は沢山の元気を貰いました。縁さんも私の事に親身になって手伝ってくれましたね。この花をこんなに集めてくれてありがとうございました。この二人と出会うきっかけを作ってくれた稔ちゃんには本当に感謝してる。ずっと閉じ篭ってた私の殻を破ってくれた稔ちゃんは、私なんかにはもったいない最高の友達だよ。」

遊里の別れの言葉に僕達は心が一杯になった。特に稔は泣き過ぎて何も喋れずにいる。僕も槇人もこれ以上遊里と語り合うと何かが耐えられなくなる様な、そんな気がして何も言えなかった。

遊里は僕達に背を向けると、手にしているミサンガを目の前に持っていきその輪っかから沈みゆく夕日を眺めた。その時、遊里の体が白く光り出した。太陽の後光でそう見えていると思ったが違う、確かに遊里から発せられる光だった。僕は初めて実感として感じた。遊里がこの世界から旅立ってしまう事を。

「やっぱりダメだよ!!」

突然、稔が叫びながら遊里に駆け寄った。

「み、稔!」

「稔ちゃん!?」

いきなりの事に遊里はミサンガから目を逸らしてしまった。その瞬間遊里から発せられていた光も消えた。

「こんなの、こんなの可笑しいよ!だって遊里は私と同い年だよ!まだ子供なのに!どうして!」

「おい稔、落ち着け!稔!」

槇人が声を荒げて言っても稔は全く落ち着く気配が無かった。その時、僕達の目の前に眩い光が発せられた。僕達の視界は完全に閉ざされてしまう程の強烈な光だった。




気絶してしまったのだろうか、僕が目を覚ました時、空はもう夜になっていた。スマホを見ると既に二十二時を回っていた。場所は僕達がいた屋上、僕のすぐ近くには槇人が倒れていた。

「おい槇人、しっかりしろ!」

僕が体を揺すりながら声を掛けると槇人は目を覚ました。

「ん?……うお!真っ暗じゃねーか。寝ちまったのか?」

僕は辺りを見回して稔と遊里を探した。すると少し離れた所で遊里の後ろ姿を発見した。あの首に巻かれた薄紫色のマフラーは間違いなく遊里だと確信した。

「遊里!」

遊里の名を呼び駆け寄った時、一つの疑問がよぎった。もう日は暮れている。だとしたら遊里は今裏側の世界にいる筈だ、ここにいるのは可笑しな事だった。

「遊里……だよな?」

遊里はこちらに振り返った。それは間違い無く遊里だった。しかし遊里の表情はいつもと違っていた。今まで見た事の無い悲哀の表情で、その目からは涙が溢れていた。

「縁さん…………ごめんなさい」

遊里の口から出た言葉は謝罪だった。何故このタイミングで遊里が謝ってくるのかが僕達は理解出来なかった。

「私のせいです。私のせいで……稔ちゃんが……」

遊里の口から出た稔の名前、それを聞いた瞬間僕と槇人は辺りを見回して探した。稔がいなかった。

「遊里!どういう事だ、稔は!」

槇人は慌てて遊里に問いただした。

「稔ちゃんは、私が行く筈の裏側の世界に引きずり込まれてしまいました。稔ちゃんが私に駆け寄った時、何かの拍子に太陽を見てしまったんです。このミサンガの輪っかから……」

震えた手でミサンガを握りしめながら、遊里は泣き出してしまった。槇人はそんな遊里の肩を掴みながらなおも問いただし続けた

「どうにかならないのか!そのミサンガでまた太陽を覗けば……」

「このミサンガにはもう力は残っていません。何の役にも立ちません」

「じゃあ何か、他に方法は無いのか!」

「……私にはどうする事も出来ません……本当にごめんなさい」

槇人はその場に膝から崩れ落ちた。遊里は今まで見た事が無いくらい泣き出してしまった。僕はただ呆然と突っ立ってる事しか出来なかった。どうしたらいいのか、稔をこっちの世界に戻す方法は無いのか、このまま何も出来ずに諦めるしか無いのか。

何かある筈だ。稔を助け出せる方法がきっとある筈だ。僕の頭は決して諦めるという選択肢へは向かわなかった。しかしどんな方法があるのか、遊里ですら手の施せない事態だと言うのに。その時、僕の頭にあの人の名前が浮かんだ。

「あの人なら……あの人なら、何か分かるかもしれない」

「え?」

「あの人って誰だよ?」

「…………畑本さん」

「……なんで、今ここであの爺さんの名前が出てくんだよ?」

良い方向に転ぶ可能性は決して高くはない。高くはないがそれでも、今この状況で畑本さんの存在は希望と言っても過言ではないだろう。

僕達は急いで畑本さんの住む家に向かった。その時に僕は畑本さんから聞いた話を全て二人に話した。過去に裏側に行く人を見送った事、その人を今でも想い続けている事、沢山の青い花は畑本さんから貰ったものだった事。その話を聞いて遊里も槇人も驚いていたが、同時に納得もしている様子だった。

話が終わる頃、丁度僕達は畑本さんの家の前に到着した。

「畑本さん、お願いです!出てきて下さい!」

僕は玄関の戸を叩きながら大声で畑本さんを呼んだ。すると玄関の灯りがつき畑本さんが出てきた。

「なんだ騒がしい!一体誰だ!」

凄い剣幕で出てきた畑本さんだったが、僕達の表情を見てなにかを察してくれた。

「何かあったのか?とりあえず入れ」

そう言われて僕達は中へ入っていった。僕は起こった全ての事を話し、その上でここに来た理由も説明した。稔を助ける方法を聞きに来た事を。

「なるほど、事情は分かった」

「何か方法は無いんですか?」

僕の質問に畑本さんはとても難しい顔をした。

「方法だけで言えば無くは無い。だがそれをするにも必要なものがある」

「何ですか?何が必要なんですか?」

「この世界と向こうの世界の境界を越える為には鍵穴が必要だ」

「鍵穴……?」

「私が使ったミサンガが私にとっての鍵穴です」

前に遊里が話した、その輪っかから太陽を見る事で裏側の世界に行けるというミサンガを思い出した。それが必要なのだろうか?

「中から覗ける形状の物を鍵穴にして、日没ないしは日の出によって半分になった太陽を見る。鍵穴から覗く事で自分の目を鍵とする。これが裏側の世界に行く方法だ。だが鍵穴に使うのは何でも良い訳じゃ無い。裏側へ行く使命を帯びた者がまじないを込めなければ効果は発揮されない」

「遊里、他にミサンガは用意してあるか?」

「ありません。こんな事になるなんて思ってもみませんでしたから……」

「畑本さん、そのおまじないはかけるのにどれくらいの時間がかかりますか?」

「最低でも二週間は必要だが、多分それでは遅い」

「どういう事です?」

「今向こうの世界にいるのは本来いるべきではない者だ。そういう者は本来の者が行く事でこちらに戻って来れる可能性が出てくる。だがそれがなされない場合、この世界はお前の妹を使命を帯びた者の代わりとして裏側の世界に閉じ込めてしまう。そうなるともう鍵穴を使って行く事が出来ない」

「そんな……だって稔は……」

「何を犠牲にしてでもこの世界は秩序を保とうとする。昔からそうだ」

方法はあるのに時間が無い。解決しようの無い問題だった。結局どうする事も出来無いのかと諦めかけた。すると畑本さんが呟く様な声で一言ボソッと言った。

「せめてあれがあれば……」

「あれ?あれって何ですか?」

「深幸が行く時に使った鍵穴だ。あいつは特別まじないの力が強かった。あいつの使った鍵穴なら使えるかもしれないが、だいぶ前に無くしてしまった」

「その鍵穴は、どんな形なんですか?」

「黒い色のお椀だ。底の方に穴を開けてある」

「……え!?」

僕と槇人は思わず目を見合わせた。底に穴が開いた黒っぽいお椀、あまりにもその形に見覚えがありすぎた。

「畑本さん、そのお椀ってお吸い物に使うみたいな感じのお椀ですか?」

「あ、ああ」

「外側に菊の花の模様が描かれてますか?」

「…………何故知っている?」

畑本さんの態度で僕と槇人は確信した。

「畑本さん理由は後で話します。訳あってそのお椀は僕が持ってます」

「ほ、本当か!?」

「はい」

「そうか。なら可能かもしれない、そいつの妹を助けるのを」

ようやく稔の救出に希望が出てきた。その事に槇人が一番喜んでいた。

「畑本さん、稔を、妹を助けるには具体的には何をしたら良いんですか?」

「重要なのは本来裏側に行く者の存在だ。そこの娘が行く事が絶対だがそれだけじゃ駄目だ。裏側の世界に引きずり込まれたお前の妹をこっちの世界に連れ戻す者、この二人が行く事が助ける為の方法だ」

「遊里と一緒に裏側の世界に行って、そこにいる稔を連れて戻って来るって事か。分かりました。俺が行きます」

稔の身を一番に案じている槇人が裏側の世界に行く事に名乗りを上げた。しかし畑本さんはそれを良しとはしなかった。

「いや、お前はここに残るべきだ」

「ど、どうしてですか?」

「裏側の世界へは基本一方通行だ。向こうからこっちの世界に戻って来る事はそう簡単じゃない。裏側の世界に比べてこの世界は広い。裏側から戻って来る時に特定の場所に戻るという事が難しく、下手をすれば地球じゃない星に戻って来てしまう可能性も十分にある」

「じゃあどうすれば……?」

「人を呼び寄せるのは、同じ人間の想いだ。戻って来て欲しいという強い想いを持った者の元に引き寄せられる仕組みだ。この中でお前の妹に一番戻って来て欲しいと願ってるのはお前だろう。妹に無事に戻って来られる様に、お前はここに残れ」

槇人は難しい顔をして黙ったが、すぐに納得した表情を浮かべた。

「分かりました……。という事は……」

「そうだな。行くのはお前だ」

畑本さんの眼差しが僕の顔に向けられた。畑本さんだけじゃ無い。遊里も槇人も僕を見つめていた。その目からは裏側の世界に行く事への期待と不安がこもっていた。確かに危険な事ではあるし僕自身も戻って来られなくなってしまうかもしれない。だとしても、僕も稔に戻って来て欲しいという気持ちに変わりはなかった。

「分かりました。僕が行きます」

僕は自分の出来る事を心に決意した。

「そうと決まれば急ぐ事だ。明日の夜明けに行くのがいいだろう。準備を進めておけ」

「縁、あのお椀はお前の家か?」

「いや、家には無かった筈だ。確か……」

僕は自分の記憶を辿りお椀の所在を思い出した。

「学校だ。学校の教室の僕の机の中だ」

「教室って……お前!あの日持って来てそれっきりか?」

「それっきりだ」

偶然なのか運命なのか、僕と槇人はお椀の意外な在り処に思わず顔がにやけてしまった。

「いや良い、むしろいろいろ手間が省けた。よくやってくれたぞ縁」

「褒めてないだろそれ」

「とにかく、俺は先に学校に戻ってそのお椀を見つけて来る。お前達もそれぞれ準備しといてくれ」

そういうと槇人は足早に学校に戻って行った。残った僕達に畑本さんはそれぞれ言い聞かせてくれた。

「あいつよりも重要なのはお前達だ。あいつの言う通り準備を怠るな。特にお前は裏側で使命があるだろう。場所は貸してやるから完璧にしておけ」

「は、はい」

遊里はそう答えると奥の部屋に一人で入って行った。居間には僕と畑本さんが残った。

「畑本さん、僕は何を準備すれば良いんですか?」

「……正直、お前が今からしようとする事は俺にとっても全くの未知だ。俺が言った理屈は間違いない筈だが、準備と言えば何をすれば良いのかさえ分からない。ただ言える事は何事にも臆するな。心を強く持て」

話す内容とは裏腹に畑本さんの目からは弱気は一切感じさせなかった。

「畑本さん、ごめんなさい」

「ん?何がだ?」

「畑本さんの事を二人に勝手に話してしまって……」

「お前は俺があの事を話して欲しくないと思っていたのか」

「いえ、そうだとは……」

「……俺はな、深幸のした事を誇りに思っているし、それを恥じる事は全く無い。だからという訳じゃ無いが、俺は自分を誇らしく思う様にしている。お前は気にしなくていい」

「……分かりました」

しばらくして遊里が部屋から出てきた。準備は万全に整った様だ。僕達も学校へ急ぐ事にした。

「畑本さん、本当にありがとうございました。なんとか頑張ってきます」

「俺が出来るのはこのくらいの事だ。後はお前達次第だ」

「はい。行こう遊里」

僕達は急いで学校へ走った。するとすぐ遊里が立ち止まった。

「少し待っていて下さい」

そういうと遊里は畑本さんの方へ向かった。

「畑本さん」

「ん、なんだ?」

「……ごめんなさい」

「何がだ?」

「以前、私は畑本さんにとても酷い事を言いました。あの時私は貴方が何も分かっていないのだと思っていました。そうじゃなかった。畑本さんはとても辛い思いをしていたんですね。分かっていないのは私の方でした。本当にごめんなさい」

遊里は自分が畑本さんに対して言った事を謝っていた。遊里にとっては裏側の世界に行く前に絶対に言わなくてはいけない言葉なのだろう。

「お前、なんて名前だ?」

「……遊里です。笹神遊里です」

「遊里、この世界は好きか?自分の存在を捧げてでもこの世界を残したいと思えるか?」

「もちろんです。縁さんや槇人さん、稔ちゃんがいるこの世界が、深幸さんが残してくれたこの世界が私は大好きです」

「ふっ、そうか」

僕には少し離れていてよく分からなかったが、今一瞬、畑本さんの表情が笑った気がした。遊里は畑本さんに会釈するとこっちに戻って来た。

「お待たせしました。行きましょう」

そう言って遊里は僕の前を走って行った。決して振り返る事は無く。僕達は学校を目指した。




学校に到着し一目散に屋上へ上がると槇人が待っていた。

「来たか。どうだ、ちゃんと準備は整えてきたか?」

「ああ、問題無い。お前の方はどうなんだ?」

「へへ、これの事か?」

槇人の手には蛹の入ったお椀が握られていた。必要なものは全て整った。

「縁、この蛹はどうするよ?」

「……なあ槇人、この蛹がいなかったらお前、このお椀拾ってたか?」

「……気にも止めてなかっただろうな」

「このお椀、鍵穴が今ここにあるのも全部この蛹がいたからこそなんだよな。そんなこいつを無理矢理引っぺがす様な事はしたくない」

「だな。よしそのままで行け」

空が少し明るくなってきた。日の出もそろそろ近い証拠だ。僕と遊里は最後の準備をした。遊里は青い花の入ったカバンを、僕は鍵穴を持ち太陽を覗ける定位置に立った。

「縁」

「なんだ?」

「こっちに戻って来る時の心配はいらねえぞ。お前も稔も俺が絶対に引き戻してやる。俺の想いでな。だから、稔の事頼んだぞ」

「ああ、もちろん」

「遊里とはもうお別れだな。お前といるといろんな事が新鮮で楽しかった」

「私もとても楽しかったです。稔ちゃんは必ず救い出してみせます」

「……遊里」

「はい?」

「稔の友達になってくれてありがとな」

「はい。稔ちゃんは私の最高の友達です」

いよいよ太陽が顔を出した。裏側の世界への条件は全て揃った。槇人は僕達から少し離れた。

「遊里、不安じゃないか?」

「正直、昨日行く時は少し不安でした。でも、今は一人じゃありません、縁さんが隣にいます。それだけで自分でも驚くくらい何も不安な事がありません」

「なら良かった」

僕は遊里の肩に手を回し、鍵穴を二人の顔の前に持っていった。底の穴から見える太陽がとても眩しかった。その輝きはどんどん激しくなり僕達の視界は真っ白へと変わっていった。




また気を失ってしまったのか僕は目を覚ました。辺りは真っ暗だった。いや、正確には少し明るさはあり周りの風景もなんとなく見える。町がある。大きな建物は無いがそこそこな規模の町が目の前に広がっている。だがとても暗い。空には星や月さえ無い、まるで蓋でもされたかの様に。

「目が覚めましたか?」

突然の声に僕は少し驚いた。遊里の声だ。既に目を覚ましていたらしい。

「遊里、ここは……」

「これが裏側の世界です。私には感覚で分かります」

「随分と真っ暗なとこだな」

「そうですね。さあ縁さん、一刻も早く稔ちゃんを探し出しましょう。手遅れにならない内に」

「ああ、そうだな」

僕達はとりあえず、道なりに歩きながら稔を探す事にした。歩いていて僕達は二つの事に気付いた。一つはこの町になんとなく見覚えがある事だ。この町は表側の世界と似ていた。僕が通う高校がある町と。だが微妙に違っていた。建物の外観や看板がかなり古い時代のものに見えた。まるでタイムスリップでもしたかの様だった。そしてもう一つはこの町の至る所に植えられている花だ。同じ種類の青い花がありとあらゆる場所から生えている。そしてなんとその花が全て青白く発光していた。その光が暗いこの世界を明るく照らしていた。

「遊里、思ったんだが……」

「多分、私も同じ事考えてると思います」

遊里は持っていたカバンのチャックをその場で開けた。カバンの中から眩い光が溢れ出ていた。

「この花はこの世界にとって唯一の光源という訳なんですね」

「随分とメルヘンな灯りだな」

よく見ると花の灯りは、まるで僕達をどこかに案内するかの様な配置をしていた。その花に導かれる様に歩いて行くと少し離れた小高い丘に向かっていた。その丘に近づくにつれ、花の本数もだんだんと増えていった。丘の頂上には細長い木の箱があり、その周りには青い花が数多く咲き誇っていた。

「あの箱は何だ?」

「近付いてみましょうか」

花を踏み分け、箱に近付きその中を見て言葉を失った。箱の中には一人の女性が眠っていた。息はしていない、おそらく死んでいるのだろう。僕はこの女性に見覚えがあった。深幸さんだ。畑本さんの持っていた写真で見た姿そのまま、年は全くとっていなかった。

僕はこの箱は深幸さん棺桶だと理解した。

「この女性は……」

「……深幸さんだよ」

「え、深幸さんって…………畑本さんの……」

女性の正体に戸惑いながらも遊里も状況を理解した。遊里は棺桶の中で眠っている深幸さんの頬に手を触れた。その時、棺桶の周りの花が激しく瞬き始めた。突然の事に僕は驚いたが、遊里の態度は違っていた。遊里はとても落ち着いた表情で深幸さんの顔を見つめていた。そして遊里の目から涙が一滴流れ落ちた。遊里が深幸さんの顔から手を離すと花の光も落ち着きを取り戻した。

「遊里、どうした?大丈夫か?」

僕の問い掛けに遊里はゆっくりとこちらに顔を向けた。

「今、深幸さんに触れた時、深幸さんの気持ちが私の心に流れ込んできた感覚がしたんです。深幸さんはとてもこの世界で頑張っていたみたいです。この世界の事を調べてより深く知って、そして気付いたみたいなんです。この世界も向こうの世界もどちらも同じ一つの世界なのだと」

「一つの世界……」

「槇人さんが言ってましたよね、裏側の世界はまるで"クラインの壺"だと。全くもってその通りです。裏側だとか向こう側だとかそんなものは無いんです。その答えに深幸さんは辿り着いていました」

深幸さんの背負っていた使命が今まさに遊里に受け継がれたのを感じた。

「さあ、早く稔ちゃんの元へ行きましょう。大丈夫です。深幸さんの気持ちとともにこの世界の管理権も私に移りました。稔ちゃんの居場所は分かります」

そういうと遊里は丘を下り町の中を歩いて行く。その動きに迷いは全く無かった。数多くある建物の一つ、その影に稔は座り込んで泣いていた。

「稔!」

「よ、縁さん……!」

僕に気付いた稔は僕に泣きながら抱きついてきた。無理も無い、こんな所に突然一人で来れば誰だって不安になるだろう。

「稔ちゃん!」

「遊里……」

「稔ちゃんごめんなさい。私がもっと早くちゃんと説明しておけば稔ちゃんがこんなにパニックになる事も無かった筈だよね。稔ちゃんはちゃんと受け入れられるくらい強い子なのに、私が信じてあげられなかった。本当にごめんね」

「遊里…………遊里はこれから、ここで生きていくの?」

「うん、そうだよ」

「怖くないの?」

「怖くないよ。だって、この世界も向こうの世界も同じ一つの世界だから」

遊里の笑顔に感化されて、泣いてばかりだった稔の顔も笑い始めた。

「遊里なら……遊里なら大丈夫だよね。だって遊里は、私の最高の友達だから」

「私もだよ。私にとっても稔ちゃんは最高の友達だよ」

その言葉に今度は遊里が涙を流した。それでも顔は笑顔を保っていた。

「縁さん、稔ちゃん、よく聞いて下さい。ここから離れた場所にこの世界の出口があります。そこに行けば元の世界に戻れます。ですが、私はその付近には近寄れません。私がそこまで案内するのは不可能です」

「じゃあどうすれば?」

「だからこの子に案内を頼みました」

遊里が言ったその時、僕達の目の前を何かが飛んでいた。よく見るとそれは一匹の蝶だった。

「この蝶は……」

「縁さんなら分かりますよね。この蝶は、私達がここに来る為に使った鍵穴にいた蛹が羽化した姿です」

「蛹って、この蝶が」

「その子についていけば帰れます。どうかご無事で」

「ありがとう。行こう稔」

「うん」

出口に向かう為、僕達は進み出した。僕は一度足を止めて遊里の方へ振り返った。

「遊里、僕は信じてる。また会える事を」

「私もです」

僕と稔はヒラヒラと飛んでいく蝶の後をついて行った。僕も稔も振り返る事はしなかった。

蝶か出口に向かって行くごとに、青い花の本数は少なくなっていく。次第に辺りは真っ暗な景色に変わっていった。その中でも僕達の前を飛ぶ蝶は鮮明に見える。その蝶が急に姿を消してしまい、僕達の心に一瞬焦りが生じた。だがすぐに蝶の姿を再確認した。蝶は僕達の足下の遥か下を舞っていた。よく見ると僕達前に大きな穴が開いていた。穴の底からは微かに光が見て取れた。この穴が出口だと確信した。

「稔、この穴を通って僕達は帰るんだ。怖くないか?」

「ちょっとだけ。でも大丈夫、全然平気」

「遊里の言う通り、稔は強いな」

稔は僕の体に抱きつき、僕は稔の肩を抱いて、僕達は穴へ飛び込んだ。どこまで落ちていきそうな長い時間に感じた。そのうち、僕達の周りを真っ白な光が包み込んだ。

よく気絶する日だ。僕は目を覚ました。僕の目の前には明るい青空が広がっていた。戻って来た実感に体が震えた。突然、僕の視界を槇人の顔が遮ってきた。

「よっ、目ぇ覚ましたか?」

よく見ると僕の腕の中で稔が眠っていた。その稔と僕は槇人の足を枕にして寝る体勢になっていた。なんとも奇妙な絵面である。

「ただいま」

「おう、おかえり」

とりあえず槇人にそう言った。僕達の近くを一匹の蝶か舞っていた。どうやら全員帰ってこれたようだ。




それから僕達は残り少ない冬休みを満喫した。クリスマスを祝い、初詣にも行き、お年玉の額を競い合ったりした。

三学期が始まり稔のクラスは少し騒然としたらしい。クラスメートの一人が突然消息を絶ったという話だ。その生徒の行方は一人を除いて誰も知らない。稔はやっぱり寂しさが少し残ったみたいだが、深刻な問題になる様な事には至らなかった。

畑本さんは相変わらずの様だったが、少し丸くなった様に見えるともっぱらの噂だ。僕達が行く時に鍵穴に使ったあのお椀は、あの後畑本さんに返した。畑本さんがあれをどうしているかは分からないが、おそらく大切に保管しているのだろう。

僕と槇人といえば、これといって特に大きく変わった事は無い。強いて言えば、一生忘れる事の無い出来事を経験した者同士として少しだけ仲が深まったぐらいだ。

二月の朝。そろそろ冬も終わりかけだ、もうすぐ春の訪れも始まるそんな時期。僕は通学の為、駅のホームで電車を待っていた。大きな出来事は何も無い、正に平和そのものだった。僕が何気なく空を見上げた時、サラサラと雪が降ってきた。今年の冬の最後の雪かもしれない。降り落ちる雪を見ているとある人物を思い出す。

「また会えるよな」


「貴方もそう思いますか?」


僕は思わず振り返った。声の主であろう人物はどこにもいなかった。だけど僕は理解していた。この世界も裏側の世界もまとめて一つの世界だと。この世界にいる以上、必ず会える筈だ。僕はいつまでもそう信じている。



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