魔導士の大地(3)
デイモンは、最後まで振り返って家を見つめていた。どういう行動を起こすのであれ、当分帰ってこられないのは間違いないだろう。ふと、故郷と呼べる場所が自身にはあるのだろうか、と自問する。
レナードも、セオドアも、コーデリアも。育ったのは魔導士の隠れ家だった。人里離れた山奥や森の中に拵えた拠点は、時には放棄することもあったし、人間に発見され破壊され尽くしたこともある。その度に、また似たような条件の地点へ移動し「帰る家」を構えるのだ。その繰り返しで生きてきた。愛着こそあれ、一度手放したのならそれなりの諦めをつけることに慣れている。
ある意味ではそんな生活を強いた張本人は、カトレアという故郷を心の底から愛している。故郷の人々を心の底から大切に思っている。たとえ、その人々から疎まれようとも。過去を過去と切り離せない。それは、弱さなのだろうか。
集落の外へ続く橋へ向かうレナード達の背後から、不意に足音がした。
「探したぞ。デイモン」
見れば、デリクである。カトレアを出て、レジスタンスに向かうと決めた彼の背には、僅かな荷物が纏めてあった。そして、その片手は、デリクによく似た男の子の手と繋がれている。
「……本当に良いんだな。俺は気にしねえよ。今から頭下げりゃ、ギデオンの野郎も」
「いや。決めたことだ。悪いが、打算もある」
そう言って、デリクは横の男の子を見た。
「……この子、幾つに見える」
「覚えてるぞ。確か、今四歳じゃねえのか。……まあ、ちょいとばかし小さいわな」
痩せ気味の身体は幼子の心象からほど遠い。先日村まで送り届けた子も同じくらいの年齢の筈だが、もっとふっくらとしていたように思う。
「レジスタンスなら、今より飯も食わせてやれるんだろう? そういうことだ」
「なるほどな。おい坊主、山超えてる最中にぴいぴい泣くんじゃねえぞ。置いていくからな」
いきなりしゃがみ込むと、デイモンは男の子の頭を乱暴に撫でた。男の子はやめてもらいたいのか、慌てて数度ぶんぶんと首を振る。
コーデリアが苦言を呈する。
「そりゃないわよ、隊長。大人ですら泣きたい道よ」
デイモンは、ふっと目を細めた。
「……ここまでの道はお前も通ってきただろ? 山道で下手に獣にでも見つかったら面倒だからな。大人も餓鬼も関係ねえよ」
コーデリアは肩を竦める。
「山越え自体は、この子も数度経験している。大きな迷惑は掛けないつもりだ」
デリクは、確認するように子供を見た。いつの間にやらセオドアが、男の子の空いた手を握っている。
「……きみ、なんて名前なの」
「イアン。イアン・タウルス」
「よし、イアン君。おじさんと仲良くしようねえ」
レナードは、そんな様子を微笑ましく見ていた。数ヶ月は先だが、セオドアも人の親になるのだ。今のままでは殆ど子供が周りに居ないまま育つことになるのを、セオドアは憂えていた。ルイスの子供とも、いい友人になるのだろう。組織に子供が増えれば、彼も喜ぶ。
「あっ、いたいた。デイモンさん!」
女性の声に振り向くと、そこにはフェリシアが居た。華やかに着飾っているフェリシアは、手を振りながら歩いてくる。動作に合わせて踊る銀の髪が綺麗で、思わず見とれてしまう。さりげなく髪を飾る、目の色と同じ髪飾りも、非常によく似合っている。
「ん? フェリシア嬢か。何しにきやがった」
「お見送り。デリクさんもここを出ると聞いたわ」
「なるほどな。しかし、よくあの爺さんが外出を許したな」
デイモンの言葉に、レナードはフェリシアを見た。この気候で外套も身につけず、至極身軽な彼女の様子に、まさかな、と思う。
「うふふ。こっそり抜け出してきたの。直ぐ戻れば平気よ」
やはり。レナードは苦笑いする。しかし、厚着をしているレナードでさえ身に染みる寒さだと思うのだが、それをものともしない辺りはカトレア育ちの慣れ故か。
「怒られても知らねえぞ」
「平気平気。早く行きましょう」
言い終わらぬうちに、フェリシアはずんずんと橋の方に向かい始める。デイモンは目をすっと細めると、ついて行くように顎で全員を促した。
デイモン達の姿を認めると、見張り台に立つ魔導士は無言で綱を引いた。魔導士は目深に帽子を被っているが、それがどうにも馴染んでおらず、レナードは内心で首を傾げた。
行きの時にも聞いた、耳をつんざくような音と共に跳ね橋が降りる。向こう側――外の世界と、カトレアが繋がった。
「では、お元気で。皆さん」
微笑んだフェリシアに、全員がそれぞれ挨拶をする。
「じゃあな、故郷」
短く言うと、デイモンは今度こそ後ろを振り向かずに橋を足早に進む。レナードが渡りきって振り返ると、不意にフェリシアは悪戯っぽい笑みを向けた。
瞬間、突風が背中から吹き抜けた。乱れる髪に思わず目を閉じる。目を開けたとき、目の端に映ったのはあの魔導士の帽子。飛んでゆくそれを追いかけるように、魔導士は見張り台から慌てて降りていた。
呆気にとられていると、目の前に銀の何かが映る。あっと声を上げそうになるのを、白い小さな手で覆われてしまった。
「静かにして。見張りに見つからない位置まで」
フェリシアの声だ。ただならぬ彼女の雰囲気に、皆一様に黙ったまま歩みを進めた。
「ふーっ、うまくいった! もう大丈夫な筈よ」
そう言って、フェリシアは窮屈そうに髪飾りを外す。思い切り髪の毛をかき上げて、そのまま彼女は開放感を全身で表すかのように大きく伸びをしてみせた。
「はっ、ど、どういうことよ」
真っ先に動揺を口にしたのはコーデリアだが、この場の全員が同じ感想を抱いていることだろう。無言で頷くセオドアやデリクの姿が目に入る。それを美しい笑顔で流すと、フェリシアは服の裾を丁寧に持ち上げて、デイモンに恭しく頭を下げた。
「デイモンさん。私もレジスタンスに入れてください」
こうなることを予想していたのか、デイモンに特段驚いた様子は見られない。デイモンは頭をぼりぼりと掻いて、
「そりゃ、来る者拒まずが俺の方針だけどよ……」
――この男、去る者は追いまくるのである。と、内心で突っ込む。反対されると思ったのか、フェリシアは捲し立てるように言う。
「私は外の世界を見てみたい。あんなところで一生を終えるなんて、まっぴらごめんだわ」
尚も考え込むデイモンに、フェリシアは両手を胸の前で合わせて頼み込む。
「……ね、お願いします」
「来るなとは言わねえ。だが、俺はお嬢様の道楽に付き合うつもりはねえよ。来るなら全て捨てるつもりで来い。それが出来ねえなら、とっとと帰れってこった」
デイモンの目は真剣だ。だが、彼女も負けてはいなかった。
「あんな場所に未練もないわ。もう帰りませんって、置き手紙してから来たの。一時の思いつきじゃない、ずっとこうしたかったから」
「…………わかった。後悔はするなよ」
そう言って、デイモンは彼女に手を差し出す。本当に嬉しそうに、フェリシアはその手を取ってぶんぶんと振った。
「じゃあ、よろしくね。皆さん」
元気な人だな、とレナードは思う。
「いやあ、むさ苦しいレジスタンスに華が増えるのは良いことだねえ。うちの妻といい、そこの義妹といい、ちょっと姦しいのが玉に瑕――痛い! 痛いって!」
セオドアが言い切らないうちに、コーデリアが鬼の形相で脛を蹴り上げた。この姉妹を怒らせるな、とレナードに忠告した張本人は、それきり黙る事にしたらしい。
「しかし、うまいことやったわね。あんな好機、そうそう無いでしょうに」
たまたま風が吹いて、たまたま見張りが持ち場を離れるとは。コーデリアの言葉に、フェリシアは得意顔で言う。
「あれ、全部計算ずくよ。前もって、見張りの方を煽てておいたのよ。こんな帽子、似合うんじゃない? って。あとは風に吹いてもらうだけ」
「一番、敵に回したくない手合いね」
かなりの策士である。しかし、風に吹いてもらうという言い回しに僅かに引っかかりを覚える。
「……ああ、そうか。リブラは風の一族だったな」
レナードは、納得するように声を上げた。風を司るというリブラの末裔なら、その程度のことは簡単にできるのだろう。
「いやはや、……思ったより、お転婆なこって」
呆れ顔のデイモンに、デリクも同意するように頷いた。
「しかし、使い勝手が良さそうな能力だな」
能力を持たない身としては、どんな能力でも欲しいと思わずにはいられないのだが。魔導士が恐れられる所以でもあるその能力は、訓練をよく積んだ人間の兵士であっても数百人には匹敵する。言わば、無尽蔵、そして短時間で連射できる大砲のようなものなのだから。
――可憐な少女にしか見えない彼女も、戦闘に加われば人間など相手にならないであろう。そう考えていたレナードに、フェリシアは何でもないように言った。
「ええ。お風呂の後にね、髪の毛を早く乾かせるわ」
あまりにも予想外で、レナードは「そ、そうか……」と返すことしか出来なかった。
「……さて。これからだが、隠れ家に戻る前に東に向かおうと思う」
デイモンは、小さく咳払いするとそう言った。
「何故だ? わざわざ行く理由が見当たらないが」
レナードは、素直に疑問を口にする。
デイモンが向かおうとしているのは、今の場所から東に位置する集落だろう。山脈を隔てて東に位置するその場所にも、小さな魔導士の住む地域がある。殆ど全ての魔導士がこちら側にいるのだから、出向く理由も特段無いように感じる。
「まあ、色々あるんだよ。お前らだけ先に返しても良いんだが、俺が寂しいから来い」
「隊長、そりゃ無いわよ」
いい加減寒さにうんざりしているように、コーデリアは不満を零す。一方で、フェリシアの声は弾む。
「あら、私は行ってみたいわ。すごくすごく昔に行ったことがあるけれど、それっきりなの」
「フェリシア嬢にとっては何処でも新鮮だろうけどな。何時以来だ?」
デリクが尋ねる。
「お父様が亡くなってからだから、ええっと……二十年くらいはカトレアを出ていなかったわ。もうそんなに経つのね」
フェリシアは指を折って数える。二十年か、と少し寂しそうに息を吐いた。セオドアが、不思議そうに首を傾げた。
「そんなにお爺さんは厳しいのかい? 息子さんの遺志を全く無視して閉じ込めておくなんて、尋常じゃないと思うけれど」
「お爺様にとって、お父様は義理の息子だったの。残念だけれど、どこにでもある話だと思うな」
そう言って、フェリシアは大きく伸びをする。
「ね、レナード」
不意に声を掛けられて、レナードは少し驚く。
「何だ」
「今度、昨日言っていたオリーブの木を見てみたいわ」
うっと言葉に詰まる。確かに昨日、そのようなことを話したように記憶していた。見れば、皆が――特にコーデリアとデイモンが――好奇の目を向けている。
「あ、ああ。今度な」
「ははあ、なるほどな。うちのお坊ちゃんも隅に置けないなあ」
デイモンはにやにやと笑うと、コーデリアの方をちらりと見た。
「ま、頑張れや」
何の会話なのか分からず、レナードは首を傾げた。
「……! 口ばっかり動かしてないで、早く行くわよ」
機嫌を損ねたような顔をしたコーデリアは、大きく雪を踏みしめながら先頭を行き始めた。