緋色の世界
既に日は傾いて、空は緋色に燃え上がっている。乾燥した風が大地を吹き抜ける度、きつく一本に結んだ自身の黒髪が攫われる。地面を踏みしめると、土がさくさくと音を立てた。
レナードは、携えた柄に触れてその感触の確かさに息を吐く。僅かに鞘から出して刃こぼれの無い剣身を覗き込めば、そこには自身の血のような赤目がくっきりと映った。父親や友人との訓練は毎日欠かさず行っているが、実戦経験は無い。野盗が出たときのためにと連れて来られたが、腕には若干の不安があった。
「ねえ、レナード」
声を掛けたのは、年の離れた友人のルイスだった。剣の心得がある自身のものとは違う、華奢で頼りない体つきをしている――だからこそ、レナードが連れてこられたのであるが。
レナードの少し前を歩いていたルイスは、幼子の手を引いている。組織の隠れ家付近まで迷い込んでしまった小さな男の子を、二人は村まで送り届けているのだ。
ルイスは振り向くと、レナードに念押しするように言う。
「絶対に隊長には秘密だぞ。僕にはとても無理だけど、隊長なら殺りかねない」
子供の年は五、六歳であろうか。それでも、隊長――父であれば、隠れ家の居場所を知ってしまった幼子を「子供でも容赦しねえ」などと叩き切りかねない。
「わかっているさ」
とはいえ、ルイスも真剣に心配していると言うよりは、半ば冗談のつもりなのだろう。「本当かな」と軽く肩を竦めると、「何をやるの?」と無邪気に聞く子供の頭を撫でて苦笑いした。
「君は良い子だな、うん。うちの娘にも、君みたいな遊び相手がいればいいんだけど……」
ルイスの顔が僅かに曇る。先日生まれたばかりのルイスの娘を除いて、組織に魔導士の子供は居ない。
魔導士である我々にとって、一番悩まされているのが食糧の問題だ。子供を増やせばそれだけ口が増える。
魔導士の文化は、急速に衰退している――
「ぼくがその子と遊んであげるよ。ね、おじさん」
そう言って得意げに笑う男の子に、ルイスは「そうだね」と寂しそうに呟いた。
少しの間を置いてルイスが、
「……僕、おじさんだとさ」
脱力するようなその声に、思わず吹き出す。
「三十はおじさんでもいいんじゃないか」
俺はまだ若いぞ、とレナードが片頬で笑ってみせると、ルイスに恨みがましい目で見られる。
「そっちのおじさんは子供いないの?」
悪意のない子供の追撃に、頭を思い切り殴られた気分になった。
「はっはっは。レナード君、二十代も前半にしておじさんとは、相当苦労しているようだ」
「主にあんたのせいでな。親父に黙っててやらんぞ」
「なんだそれ、お父さんに言いつけてやるー! って感じかい? 君もまだまだ子供だな」
ルイスの言葉に、不本意ながら黙り込む。
むっとして二人の背中を眺めていると、不意に子供が石に躓く。ルイスが慌てて手を引くよりも前に、子供は膝から思い切り着地した。そのまま火がついたように泣き始めてしまう。
「あ~……ああ~……これは痛い」
ルイスの声にレナードが傷口を見ると、血が滲んで水気を含んだ砂粒が膝からこぼれ落ちている。
こちらを気まずそうに窺うルイスを見て、察する。思わずため息の一つもつきたくなるが、相手の望む答えを返してやる。
「俺は何も見てない。見てないからとっととやれ」
「流石レナード君、話が早いな」
表情を一瞬で明るくすると、ルイスは子供の目線に合わせるようにゆっくりとかがみ込んだ。
「……ねえ、きみ」
泣くのを中断して見つめる子供に、ルイスは人差し指を立てて唇に当てて見せた。
「今からすること、皆には内緒だぞ」
小さな頭が縦に振られたのを確認すると、ルイスはそっと傷口に手で触れた。
思わず子供が目を閉じた瞬間、淡く暖かい光が辺りを包む。すると、傷がみるみるうちに塞がっていった。
「あ、あれ?」
「はい、おしまい」
二人は普通の人間ではない。「魔導士」と呼ばれる者である。魔導士は一人につき、一つだけ能力を得る――ルイスの能力は、傷を癒やすことだった。
人間相手に使うと後が面倒だが、ルイスの性格で使うなという方が無理なのだろう。
「おじさん、どうやったの!? すごいすごい!」
はしゃぐ子供に、レナードは思わずため息を漏らす。
――魔導士は、人々から忌み嫌われる存在だった。侮蔑を込めて「魔族」と呼ぶらしい人間達から隠れ住むように、多くの魔導士達は北の山奥に与えられた領土、カトレアで暮らしている。その中でも、反国王を唱える魔導士集団――「レジスタンス」を除いて。
子供を住む村へ無事に送り届けたとして、感謝の意どころか刃を向けられる可能性すらある。それでも子供を放っておけないのがルイスの良いところでもあり、悪いところでもあった。
「おじさん、ほらほら、あそこ! ぼく、あの大っきな風車のおうちなの」
誇らしげな子供の指差す方を向けば、視界の隅に村のようなものが確かに存在する。見渡す限りの金の稲穂が、目映いばかりだ。時折吹き抜ける風に目を細めると、いつの間にか子供を肩車したルイスが少し前を歩いているのが目に入った。
「あっ、お父さんだ! お父さーん!」
手を大きく振る子供に気がついたように、数人の大人が走ってやってくる。ルイスがそっと地面に子供を下ろしてやると、子供はその内の一人の足元に抱きついた。
「お前、探したんだぞ! 一体どこに居やがった」
子供を抱き上げ、安心した顔をしながらも怒りを滲ませた声で叱りつける父親を、ルイスとレナードは微笑ましく見つめていた。「ぼくね、山まで一人で行けたんだよ。そしたらおじさん達が遊んでくれたの」
「……山まで行くなって、散々言ってあったろうが! そこのお二方――本当に、ありがとうございます。息子を送って下さったようで」
父親は、ルイスとレナードに頭を下げる。と、父親はレナードの瞳の色に気がついたように、僅かに眉を顰めた。――赤い目は不浄の色。人間はその色を忌むと聞いていたが、本当のようだ。
不思議そうに見つめる子供が、不意に口を開く。
「ぼくね、さっき転んじゃって血が出ちゃったの。そしたらこっちのおじさんが治してくれたんだ」
制止する間もなく言い切った子供に、レナードは唇を噛んだ。子供が無邪気に見せる膝には、手当てした形跡どころか瘡蓋の一つ残ってはいない。
「……どうやって」
父親は怪訝な表情をする。「では、これで――」と濁したルイスの言葉を合図に、二人は立ち去ろうとした。
「こう……おじさんが手を近づけたらね、なんか光って痛くなくなっちゃったの」
頼むから、黙ってくれ。レナードの願いも空しく、父親は低い声で呟くように言った。
「――お前ら、魔族か」
それは、魔導士を忌み嫌う人間が使う言葉。ルイスは、俯きがちになり足を止めた。
「……子を助けるのに、魔導士も人間も関係ないでしょう」
ルイスが口を開く。しかしそれをすっかり無視すると、父親は子供を抱き上げ背中を向けた。
「なら、もう帰ってくれ。この村に今後一切近寄るんじゃねえぞ。次見かけたら、村の男全員がお前らの相手だ」
どちらともなく無言のまま、帰路についた。気がつけばすっかりと辺りを夜の帳が下り、ひんやりとした空気が空間を支配している。
帰り道も半ばというところで、不意にルイスが足を止めた。
「なあ、レナード。この木、なんて名前か知ってるか?」
ルイスは、慈しむように木の肌を撫でる。赤色の小さな実が、闇の中でも存在感を持って風に揺れている。
「いや。俺は、植物はさっぱりでな」
かろうじて薬草の類いだけは数種類記憶しているが、それらも実用性が無ければ覚えようとはしなかった。
「うん、だと思ったよ。駄目だぞ、レナード。教養として覚えておくといい」
面倒な友人に肩を竦めて返事とすると、ルイスは苦笑した。
「この辺りの地域はかなり乾燥するから、生える木も限られてくる。過酷な環境でもこうして生えるのが、オリーブの木だ」
「オリーブ、な。ああ、覚えた覚えた」
雑な返事に気を悪くすることもなく、ルイスは続ける。
「花言葉――平和。知恵」
レナードは、紡がれるルイスの言葉を今度こそ無視すると、再び歩き始める。
「って、おい。レナード、君って奴は僕の話を雑に扱って――おい」
慌ててついてくるルイスににやっと笑ってみせると、レナードは呟いた。
「……いい木だな、オリーブ。気に入った」
柄にも無いが、魔導士に対する人間の嫌悪をまざまざと見て――考えていたこと。父である男が掲げる理想を、心の底から自身も叶えたい。魔導士と人間が、平和に暮らせる国を。
食えない友人だが、きっと考えていることは同じなのだろう。ルイスは、ふっと微笑んでレナードの返事を受け取った。
「さあて、急いで帰らないと隊長に怒られてしまうな。僕も、早く僕の若葉ちゃんに会いたい」
産まれたばかりの娘を若葉ちゃんと呼ぶルイスに苦笑して、再びゆっくりと来た道を辿り始めた。
辛うじて雨風が凌げるだけの、洞穴のようなそこに、「家」は存在する。
はみ出し者の魔導士集団「レジスタンス」の者達が隠れ住む、拠点と言うべき存在。魔導士の土地にも、人間の住む街や村にも居場所を持たないレジスタンスの者達は、山奥や森の中に共同の小さな隠れ家を構えて生活していた。
やっとのことで洞穴の入り口が見えてきたとき、不意に耳にレナードを呼ぶ声が聞こえる。
「――セオドア」
名前を呼ぶと、僅かに怒りを滲ませた声でセオドアは言った。
「どこに行っていたんだい。隊長、凄い顔して待ってる」
幼馴染とも言うべき友に咎められ、レナードは肩を竦める。
「……ああ。野暮用でな、怒られるだろうとは思ってたさ」
「僕がついてくるように頼んだのだし、レナードは気にしなくて良い。僕も若葉ちゃんに会う前に隊長に怒られに行くさ」
ルイスが何を言おうと、父――デイモンは、そんな事情は知らんと一蹴するだろう。隠れ家付近に迷い込んだ子供を助けたなどと知られるわけにもいかない。
父には少々理不尽なところがあると常々思っているが、それでも承知してルイスに付き合ったのはレナード自身であった。
「いや、いいさ。俺が行けば親父も満足するだろう」
「そうじゃない。かなり――まずいことになったんだ」
苦い顔で唇を噛みしめるセオドアに、レナードは眉を顰める。
「良いから、行ってきなよ」
頷いて、レナードは父の待つ奥へと急いだ。
洞窟のように複雑になった洞穴の中を、いつも通りに右――そして左へと進む。簡易な扉で仕切られたそこは、レジスタンスの隊長たる父の私室となっている場所だ。きっちりと二度、戸を叩くと「入れ」という声がした。
「親父、帰ったぞ」「戻りました、隊長」
レナード、そしてルイスが順番に室内へと足を進める。奥に置かれた簡単な机に向かうデイモンは、その太く逞しい腕で肘をつき、苛立ちを隠さない顔で二人を出迎えた。
「二人とも、何処に行ってやがった?」
「――少し、麓までな」
レナードが言葉を濁すと、ルイスはそれを引き継ぐ。
「薬草を摘みに。僕がレナードを連れて行ったんです。一応、野盗や獣に遭遇したときの為に、来てもらいました」
「その割には、靴に泥一つついてねえんだな。――もういい、聞かねえことにしておいてやる」
あっさりとルイスの嘘を見破ると、デイモンは何時になく険しい顔になる。父の焦燥を感じて、レナードは静かに唾を飲み込んだ。
「――国王が布告を出した。『カトレアへの輸出を全面的に禁止する』だと」
――カトレアへの輸出を禁止? レナードは、思わず耳を疑う。
カトレア――魔導士に与えられた、温度の無い死の大地。現状ですら、他地域からの穀物を分け合ってどうにか暮らしていると聞いている。その輸出の一切が止まるとすれば――どうなるかなど、明白だ。
「これは、全ての魔導士に関わる問題だ。俺達は良い、どうとでもなる。だが、カトレアで暮らす魔導士達を見殺しにするわけにはいかねえ」
デイモンは、力強く言い切る。
カトレアを――魔導士の土地を捨てたレジスタンスの者達は、危険を冒す必要こそあれ、食糧を得ることは十分に可能だ。抑も、これまでだってそうして生きてきたのだから。だが――
「国王は、一体どういうつもりだ!?」
思わず、レナードは拳を作った。魔導士だって、「人」であることに変わりはない。人の命を、一体何だと思っているのか。
「生贄にされたんだ、俺達は。愚かな王。魔導士を虐げれば、人々の信頼を一挙に得ることが出来るとでも考えているんだろうよ」
デイモンの言葉に、腸が煮えくりかえりそうになる。現王はどこまでも愚劣な王だと有名だったが、この国の王家はそこまで墜ちたというのか。
「そんなことが、許されるわけがない」
ルイスは短く静かに――だが、確かに憤りを感じさせる声で呟く。
「当たり前だ。とにかく明朝、俺はカトレアへ発つことにする。お前も来い、レナード」
レナードは黙って頷く。カトレアに行くのは何年ぶりだろう、とふと指折り数える。組織を率いるデイモンの元で育ったために、魔導士の中でもレナードほどカトレアに馴染みの無い者は少ない。
「ルイス。本来ならお前にも来てもらいたいところではあるんだが……母親も居ねえのに、餓鬼と父親を長く引き離すわけにもいかねえからな。不在の間、ここを頼む。――とっととクロエちゃんのところにでも行っちまえ」
「ありがとうございます、隊長」
ルイスは礼をして、部屋を出て行った。狭い空間に響く控えめな足音が遠ざかってしまうと、暫しの静寂が訪れる。冷静を装っていたが、あれで実のところルイスが浮き足立っていることが、長年の共であるレナードには手に取るように分かる。
「親馬鹿だよな、ルイスは」
「……ふん。レジスタンスも、結成してから餓鬼だった奴が娘を持つ程の時間が経ったと思うと感慨深いもんがあるぜ」
デイモンは鼻の下を擦りながらそこまで言って、ふと気がついたようにレナードの目を見た。
「お前、幾つになった」
「今年で二十四だな」
デイモンが急に尋ねてくる理由が分からず、レナードは内心で首を傾げた。
「なあ、レナード……そろそろ、お前に――いや、良い。また今度にする」
歯切れの悪いデイモンの様子に、僅かな違和感を覚える。
「なんだ、親父。らしくもない」
「うるせえよ。……お前の聖痕、ちょっと見せてくれねえか」
身体に刻まれた、確かに自分が魔導士であるという証――魔力も持たないというのに。
デイモンの望むように、レナードは服の襟元を僅かに引っ張る。視線を落とすと、自分自身でも確かに把握できる、少し日焼けした肌に浮かぶ黒い紋。デイモンは胸元に刻まれたそれを複雑な顔で眺めて、何かを考え込むようにため息を吐いた。
「わりいな、もう良いぞ。お前は、本当に……腹立ってきたぜ」
「一体俺が何をしたっていうんだ……」
父の理不尽に脱力するのを感じながら、レナードは言った。
「俺より圧倒的に顔が良いのが腹立たしい」
「……親父の選んだ女の顔が良かったってことだろう、誇れよ」
母親は、自身の出産と共にこの世を去ったと聞かされている。母と呼ぶのはどこか気恥ずかしく、何とはなしに遠回しな呼び方をしてしまうのだった。
「まあ、な。そろそろ飯の時間だろ。明日の話は後にして、戻ろうぜ」
デイモンは、机に両手を置いて豪快に立ち上がる。足音を抑えると言うことをしない父に呆れながら、レナードも部屋を後にした。