鼻唄人身御供
昨日の人間を殺しながら
今居る人間を忘れる
明後日には死んでいるだろう
記憶の中は
力も時間も及ばない
生き物に息は無く
減っていく楽譜 音符
それだけで作られた音楽が
流れているだけである
無の中から作られた物は
現実時間に即して
それでいて我儘に
改変されながら定着する
ある人は勘違いと呼び
ある人は記憶違いと呼ぶ
だが
あれは願望と呼ぶに相応しい
知らずに出している自我である
素直さという言葉ですら
全く通らなかった
己という素なのだ
それに素を感じるのか
それは稀である
意外に思うだろうが
大体の人が
一瞬の面白さに引っ張られて
言葉は見るが人は見ないのだ
本人ですら
一時の恥ずかしさに引っ張られて
周りを見るが己は見ないのだ
はみ出している物が
目の前にあるにもかかわらず
放ったらかしにされているのである
彼処にある物が
本来なら必要な物であって
ありふれた装いなど
気にしてはならない
外見を見ないなどと
戯れ言を出しているのなら
それを通り過ぎている時点で
やはり
戯れ言であったのだと
証明しているのである
外見を見るとしていても
目の前に居る人の内側
内臓の色まで気にしている人は
居ないだろう
外見の反対が内面であり
内面が心情を意味しているなら
目の前に居る人の身体部分は
全て外見であると言っても良い
だが
そこまでする人間は居ない
外見も内面も
個々人が認識できる範囲でしか
見てもらえないのである
どんなに頑張ろうと
結果は他力である
それでも人は繋がるのだ
他人を信じろとは
あの他力において信じろと
そんな風に言っている場合もあるが
本来は違う物だ
頑張りを見ている人間が居る
それを信じろという意味であろう
だが
人間は認識できる範囲でしか
見ようとはしないのだ
頑張りだと見えない
聞こえないのであれば
通り過ぎて行くだけである
無関心でも無く
冷たいわけでも無い
ただ それが人である