風邪と鼻詰まりとキスとマスク
「……オミくん、風邪引いた?」
長い前髪の奥からこちらを覗く黒目を見て、マスクの耳掛け部分を指先で弄る。
箱買いをして長らく使っていなかったそれを引っ張り出したのは、今朝のことだ。
「はな、つまってる」
いつもより滑舌の悪い、酷く篭った声を出せば、こちらを覗いていた黒目が、僅かに見開かれた。
それからゆっくりと白く細い人差し指がマスクへと伸びてくるので、その手を掴む。
Yシャツにカーディガンにブレザーにコートと、衣類で太く感じる手首を強く握れば、その衣類の奥にある皮膚と肉と骨を確かに感じる。
強く掴めば、ちゃんと衣類では誤魔化し切れない手首の細さを感じて、小さく息を吐く。
鼻呼吸もしにくくて、どうにも溜息のようになってしまうが、目の前の彼女は大して気にした様子はない。
ただ、掴まれた腕に視線を落として、静かに瞬きを繰り返すだけだ。
寒い日が続いているので、鈍い青のスヌードをしている彼女の顎は、そこに埋め込まれて表情が良く見えない。
「……何しようとしてた?」
「いや、マスクしてる、から。バチンッと」
篭もり気味の声に、ゆらりと体を揺らした彼女が、吃り気味に返す。
バチンッ、つまりは、マスクを引っ張って離す、小学生レベルの悪戯だ。
ゆらゆらと揺れ動く視線を見ながら、鼻詰まりのせいなのか、単純に目の前の彼女が子供じみてるからなのか、頭が痛くなる。
掴んだままだった手を離せば、重力に従って落ちて行く腕。
だるん、と力の入っていない様子だ。
「今さ……」止めていた足を動かそうとした矢先に、彼女が俺を見上げながら口を開く。
「今、ちゅーしたら息出来なくて死ぬね」
見上げた際に、スヌードに埋めていた顎も当然の如く上がり、その表情が見やすくなる。
見やすくなったところで、その表情が真顔ならば何を考えているのか分からないのと同じだ。
ただただ、真っ黒な瞳がこちらを見つめている。
「そうだ――は?」
そうだな、と言おうとしたはずの、最後の『な』が喉の奥へと引っ込んで消える。
俺も俺でマフラーをしていたが、飛び出た端っこを掴んだ彼女が、何を思ったのか勢い良く自分の方へと引いたのだ。
間の抜けた声と共に傾く体。
「まぁ、息も出来ないくらいのキスなら、だけど」
辿々しい言葉で『ちゅー』と言ったくせに、次には口角を引き上げて『キス』と言う。
傾いた体を止めるように、下半身に力を込めたはずの俺は、何故か彼女に肩を支えられていた。
支えると言っても、殆ど触れている、くらいだが。
マスク越しにぶつかった自分の唇を押さえた彼女は、ケタケタと笑い声を上げて身を翻す。
ひらりと揺れるプリーツスカートを見て、お前っ、と反射的に声が飛び出た。
「アダルティーだ」
くつり、人差し指で下唇を右から左へ撫でた彼女に対して、俺は彼女と同じようにマスクで覆われた口を押し付ける。
「ただの風邪だろ」大勢を立て直し、そう言って歩き出せば、きょとりと目を丸めた彼女が小走りで隣に並ぶ。
早く治るといいね、の言葉に、俺はマスクの位置を調整するのだった。