キミに触れたい
『みおりはおれがまもるから』
『ねぇ、こんたん! 大きくなったら……』
*****
ゆっくりと目を開ける。どうやら夢を見ていたらしい。懐かしい気持ちがふっと沸いてきて消えた。
「起きたか?」
珍しく黒縁眼鏡をかけ、これまた珍しく小説なんかを読んでいた少年―龍雅﨑紺がこちらを振り向いた。
ふんわりと微笑むその顔は、自分以外には見せないものだろう―笠岡三織はそんな事を考えた。
紺と三織は幼馴染だ。学年は一つ違えど彼らは、兄弟のように育ってきた。そして、高校も同じ信東学園に通っている。眼鏡を外し、小説にしおりを挟んだ紺が三織のベッドサイドに腰かける。
アッシュグレーの髪は珍しく、誰もがその風貌を見て一度は振り返るだろう。紺はそれを少し気にしているがそんなそぶりを見せないようにしている。それが逆に三織の心配の種でもあった。
「今、何時こんちゃん」
「五時。よく寝てた」
「うわ。せっかくの休みなのに」
「別に俺は三織の隣に居るだけでいいけど」
「いや、よくない」
紺はどこか三織に依存気味だった。何をするにも一緒だし、三織の傍を離れようとしない。それは、紺の人一倍他人を気にする性格に関係するのだろうと三織は思った。
別にそれが嫌なわけではない。むしろ、一番近くにいて落ち着けるし、学校での居場所を作ってくれたのも実を言うと紺のお陰だった。
それは一年前、三織が高校一年になったばかりの頃に遡る。当時の三織は引っ込み思案でろくにクラスの人間と口を聞けなかった。そんな三織を心配して紺は自分の仲間を三織に紹介した。それが今の三織の居場所だった。
「何読んでたの?」
三織がサイドテーブルに置いた小説を取り、内容を確認する。―近東未亜待望の最新作!―帯にはそんな大々的な決まり文句がデカデカと表示されていた。
「こんちゃんミステリー小説なんか読むの?」
知り得なかった紺の新たな趣味に、三織は眉根を寄せた。
「別に……なんとなくだよ」
歯切れの悪い返事をして紺はそっぽを向いた。あまり深く聞かれたくないのだろう。三織は別の話題を振る事にした。
「いつから居たの」
「一時間前くらいから。寝てたから起こすの悪いと思ってな」
「逆に起こしてよ…」
大事な休日が瞑れてしまった。三織は少し頬を膨らませるのだった。そんな三織を愛おしそうに紺が見つめる。普段不愛想な紺だ、そんな顔をされると少しドキッとしてしまうのは仕方がなかった。そして、絶対に自分以外にこの顔を見せて欲しくないという、子どもじみた独占欲が働く。
「こんちゃん」
「何?」
「俺の傍から離れちゃダメだよ」
「……解ってる」
そう言っては、紺を独占するのも三織自身だった。共依存だな、と三織は思う。でも、それでいい。何も変わらない。それがいい、と強く思った。
そうしてある夏の土曜日は過ぎて行く。遠くでセミが鳴いていた。少し暑さはあるものの、昼間の様にダラダラと汗が流れるほどの暑さではない。
窓の外を見つめる。夕日が紫色に輝いて、空を同色に染めていた。懐かしい気持ちになる。何度この空をこうして紺と一緒に眺めただろう。何度、眺める事になるのだろう。懐かしさとともに、そんな言い知れない不安が三織の中に生まれた。
月曜日。信東学園は今日もいつも通り賑わっていた。不良校と名高い割には普段暴力沙汰は起きない。何故なら三年の森岡裕司がこの学園を仕切っている頭だからだ。森岡は争い事が好きではない。なので喧嘩もほとんど起きないのだった。
そして、三織はそんな森岡と知り合いだった。森岡は三織がよくつるむうちの一人なのだ。そして、森岡を紹介してくれたのは紺だった。
「よぅ、三織。今日は一人か?」
気さくに話掛けてくれる森岡に三織はいつも感謝しつつ、答えた。
「今日は昼から行くって言ってました」
「へぇ。お前が一人とか珍しいからな」
「そうですか?」
そう答えたものの、実際一人なのは珍しかった。いつも紺と登下校を共にしているし、授業以外は常に紺と一緒に居る。なので、二人は一セットだと思われても仕方のない事だった。
「まぁいいわ。飯行くぞ」
「はい」
森岡と三織は肩を並べて歩く。身長差がある分歩幅は森岡の方が大きいのだろうが、こちらに合わせてくれているのだろうその気遣いが三織は嬉しかった。
森岡は強面で、赤い髪という奇抜な格好だが、根は優しいのだ。冷酷に見えてもこう言った部分で気にかけてくれる。紺にこの人を紹介してもらえて良かった、と三織は思った。
三織の右耳のピアスがユラリと揺れた。高校に入り、紺に仲間を紹介されてから開けたピアスだ。勇気がいったが、今は開けて良かったと思っている。クロスの形をしたピアスがキラリと光った。紺と一緒にショップに行き選んでもらったものだ。三織のお気に入りだった。
*****
大量のティッシュに血痕が付いていた。三織は一生懸命流れ出る血を拭きとっていた。紺が部屋を訪れたときにはもう三織の周りはティッシュで埋め尽くされていた。
「おま、どうしたんだよこれ!?」
「血が止まらないよぉこんちゃーん」
泣きながら三織は耳を押さえていた。聞くとピアッサーで穴を開けたが血が止まらないのだという。紺は台所へ行き、冷凍庫から氷を取り出してビニール袋に氷を入れて口を縛った。それを三織の元へ持っていき、耳に当ててやる。暫くすると血は止まった。
「何で穴なんか開けたんだ」
「だって……こんちゃんの仲間は皆ピアス開けてるし…俺もそれくらいはしなきゃって…」
「馬鹿かお前は…大事な体に穴開けんじゃねぇよ……」
「それ、説得力ないよ…」
言われてみれば自分もピアスを開けていた事を思い出す。紺はバツの悪そうな顔をした。
「30分以上は冷やせ。で、穴ちゃんとあくまで仮の奴つけとけよ」
「うん、解ってる」
「ピアス」
「うん?」
「新しいの。買ってやるから今度見に行こう」
「っうん!」
*****
流行りの曲が流れる店内で三織と紺はピアスを物色していた。どれが良いだろう、とさんざん悩んだが未だ決まっていない。紺がクロスのピアスを手に取り三織に渡す。
「これなんかどうだ。そんなに派手じゃないし。三織に合うんじゃないか?」
「……そう、かな。へへっじゃあこれにする!」
会計を済ませて早速ピアスをつける。キラリと光るクロスがやはり三織に似合っていた。もう一つを紺に手渡す。
「何だ?」
「こっちはこんちゃんの分。ちゃんと付けてよね」
「……はいはい」
また、あの優しい笑顔で微笑まれるのだった。
*****
「みおりん?」
呼ばれてハッと気が付く。昼食を皆と食べていたのだった。三織は、声をかけてきた白谷孝弘に心配されまいとニコリと笑って見せた。
「何? 孝弘君」
「いや、手止まってたから。大丈夫?」
「うん、ちょっとぼーっとしてただけだよ」
言って、弁当箱の隅にある唐揚げを持ち上げ口の中に運んだ。冷えてもしっかりと醤油の味が染みており、噛み締めるごとに味があふれてくる。
三織の母親はいつも手作りの弁当を作る。冷凍食品は一切使わない。それは三織の事を気遣っての事だった。
「あ、紺来たじゃん」
紺と同じ学年で仲の良い杵柄須王が口を開いた。即座に三織は扉へと顔を向ける。
太陽に照らされたグレージュの髪がキラキラと輝いていた。とても絵になるな、と三織は思う。
「どうしたんだよー」
須王がからかう様に紺に言う。少し眠たそうにしながら紺が答えた。
「昨日寝れなくて家で寝てた」
「寝不足かー? 遅くまで何してんだよ」
「ゲーム」
三織の隣にドカッと座り、胡坐をかく紺。目の下にはうっすらとだがクマが出来ていた。三織は紺がゲームをしているところなど一度も見た事がない。何故、嘘をつく必要があるのか気になったが今は聞かない事にした。
「お昼は?」
「食べてきた…けど」
そう言って、三織の弁当箱の残りの唐揚げをひょいと手で摘まみ、それを口へ放り込んだ。「あ」という三織の声は虚しくも意味をなさなかった。
「三織のおばさんの唐揚げは別腹」
「もう、こんちゃん……」
須王に「見てるこっちがハズイ」と言われたが、いつもこうなのだ。仕方がなかった。
昼休憩も終わり、それぞれ教室へと戻って行く。その途中で三織は、紺を呼び止めた。
「こんちゃん、ちょっといい?」
誰も居なくなった階段の踊り場で、二人は向き合う。最初に口を開いたのは三織だった。
「さっき。須王君に嘘、ついたよね? 何で?」
「……別に、関係ないだろ」
聞かれたくない事なんだな、と三織は思った。けれど、どうしても気になった。遅くまで起きてまで紺が何をしているのかが。
「俺にも言えない事?」
「……そう、だ」
三織の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。紺は自分には隠し事をしないと思っていた。しかし、それは三織の思い違いだった。何故か急激に紺との距離を感じ、三織は涙を流す。
「三織……?」
「そう、だよね……俺に隠し事ないって俺の勝手な思い込みだもんね……俺に言えない事くらいこんちゃんにだってあるよね…」
泣きたくなんかないのに、ぽろぽろと大粒の涙が次から次へと流れる。三織は制服の袖で涙を拭き、一生懸命笑顔を作った。
「こんな事で…馬鹿みたいだ……」
「三織っ!」
気付いたら駆け出していた。学園を出て、一目散に家に帰る。自室に入り布団の上で泣き崩れた。変わって欲しくなかった。今まで通り、自分が紺のすべてを知っていないと嫌だった。知らない事が辛いと思った。それほどまでに三織は紺に依存していた。そして、紺の事を好いていた。
「こんちゃんのバカ……バカバカ!!」
自分の我儘だとは解っている。しかし、紺に思いをぶつける他、三織はこの気持ちの持って行き場所が分からなかった。
ガチャリとドアが開いて紺が入ってくる。追いかけてきたのだろう、息切れしていた。
「馬鹿野郎!! きちんと考えろ!」
大声で怒鳴られる。訳が分からず、三織はぽかんとした。紺が三織の左胸に触れる。
「自分の病気の事考えろ! 俺の事じゃなくて!! 三織は自分の事を考えろよ!!!!」
「あ……こんちゃ……」
「頼むから……俺の寿命が短くなるような真似すんなよ……」
三織の肩の上に紺が頭を乗せる。三織は罪悪感で一杯になり、また涙を流した。
三織は心臓が弱い。極力、走ったりするのは避けるようにと医師から言われていた。ドクンドクン、と自分の心臓が早く波打つのが聞こえてくる。段々息がし辛くなる。苦しい――。
「こ、ん…ちゃ……」
三織はそのまま意識を手放した。
*****
『みおりね、また病院に入院しないといけないんだって』
『じゃあ、おれお見舞いに行く』
『ほんと!? こんたん!』
『毎日行く。だからみおり、がんばれ』
『うん!!!! みおり、がんばるね! こんたんぜったい来てね!』
*****
「こん……たん……約束……」
「三織?」
三織が目を開けると、心配そうにこちらを覗き込む紺の姿があった。辺りを見渡す。白いカーテンに白い天井。自分はまた、あの場所に戻って来たのかと深く溜息を吐いた。
「俺、気失ってどれくらい?」
「あれからすぐ救急車呼んで……3時間くらいだ」
「そ、か……」
乾いた笑いが出た。あれだけしか走っていないのに、自分の体はそれにも対応できないのかと情けなくなる。いっその事、こんな体なくなればいいのにと思う。
「ドナー、まだ見つからないんだよね……」
「そう、だな……」
「俺、もうヤダよ……」
「三織……絶対に見つかる。お前が弱気でどうすんだよ」
その日は用心の為に病院に入院した。面会時間いっぱいまで紺はいてくれた。深夜ふと目が覚めた。真っ白な天井が目に入る。どんなに明るく振る舞っていても自分にはこの病気が付いて回るんだ、と三織は思った。だったら明るく振る舞う必要はあるのだろうか――……。
小さい頃の紺の言葉が蘇る。
『あぁ、大きくなったらおれはみおりの―…』
ズキリと頭が痛む。それ以上、思い出すことは出来なかった。寝返りを打つ。結局、紺が嘘をついた理由を聞きそびれてしまった。それでもいいや、と三織は諦める。もうすべてどうでも良かった。自分はどうせ死んでしまうんだ。それが人より早いだけで……明日、死ぬかもしれない。だったらどうでも良くないか、と考えて首を横に振った。
「違う……良く、ない……俺、こんちゃんに――……」
自然と涙が溢れる。もし、明日死ぬんだとしたらまだ言えていない事がある。それだけは言わないと死んでも死にきれない、と三織は思う。
白い天井を見据えて決意する。まだ死んでたまるかと。絶対にドナーは見つかるんだと自分に言い聞かせる。
「大丈夫……大丈夫だ」
深呼吸をし、息を整える。決意を胸に三織は眠りについた。
*****
翌日、病院を退院し学園へと向かった。下駄箱で靴を履き替えていると、紺がこちらへやって来た。
「大丈夫か、三織」
「おはよう。こんちゃん。大丈夫だよ」
ニッコリと笑って見せる。三織の変化に気付いた紺は、不思議そうに三織を見つめる。
「俺、ドナー見つかるまで諦めない。まだこんちゃんに言えてない事あるしね」
「……なんだそれ」
ふんわりと紺が笑んだ。この、顔が大好きだと三織は思った。
数日後、学園が休みの日に紺と三織は墓地へと来ていた。桶に水を汲み、墓石を掃除する。花を変えた所で一息ついた。
「……父さん、中々来れなくてごめんね」
三織がポツリと呟く。三織の父親は三織が幼い頃に同じ心臓病で亡くなった。三織の病気は遺伝だった。
線香に火をつけ、それぞれ手を合わせる。参り終えて、三織が目を開けると紺はまだ隣で何やら熱心に拝んでいた。
ここまで来るのに沢山汗をかいたから服が素肌に貼り付いて気持ちが悪い。ぱたぱたと服の裾を仰ぎながら、紺が拝み終えるのを待つ。空は高く、快晴だった。もうそろそろ夏休みがやってくる。また、入院の日々が始まるのだと思うと三織は少しうんざりした。
「……行くか」
「あ、終わった? こんちゃん」
「あぁ」
二人して、石段を降りる。蝉が大合唱していた。紺がスポーツバックからミネラルウォーターを取り出し、三織に手渡した。それを受け取り、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。紺に「ありがとう」と言ってミネラルウォーターを渡す。紺は残りのそれを飲み干した。
(あ……)
紺の喉ぼとけの動きに急に恥ずかしさを覚えた三織は、少し俯いて顔を赤らめた。いつもの事なのに、何故か妙に緊張した。
「大丈夫か? 顔赤いけど日陰で休むか?」
「っ大丈夫。帰ろう」
「? あぁ……」
まさか自分の仕草一つで顔を赤らめていると思わない紺は、三織を心配した。それが更に恥ずかしさを呼び、三織は紺を急かすようにして、その場を後にした。
*****
夏休みに入り、三織の闘病生活が始まった。点滴を打たれ、薬を飲まされの毎日が始まる。これが意外としんどかったりする。三織は薬の副作用からかよく嘔吐した。体も痩せ、顔色も悪くなる。
そんな日々が続いたある日、ふとテレビに視線を向けると信じん小説家の特集をしていた。名前は、『近東未亜』どこかで聞いた事のある名前だな、と三織は思った。どこだっただろうか――。
「三織、具合はどうだ?」
「あ、こんちゃん。もう最悪だよ」
「……みたいだな」
「……テレビ、見てるか?」
「え…なんとなくだけど」
三織がそう言った途端、紺はリモコンを取り電源を切った。不思議に思う三織が紺に尋ねる。
「あ、思い出した。さっきの小説家ってこんちゃんが呼んでた小説の人だよね」
「だから何だ?」
紺は三織に買ってきたプリンを手渡す。三織はそれを受け取って、ラベルを剥がし一口プリンを食べた。
「好きな作家さんの出てる番組なのに見ないのかなーって」
「…別に、好きじゃない」
「そうなの?」
あんなに熱心に読んでいたのに好きではないという紺の言葉が、三織は信じられなかった。この話題を避けるかの様に紺は口を開いた。
「俺の事はどうだっていいだろ」
「そんな事ないよ俺は……」
「俺は早く三織にドナーが見つかって欲しい! その為なら何だってする!」
「……どうして…」
「え…?」
「何でこんちゃんはそこまで俺の事を心配するの? 俺、こんちゃんに何もしてあげられてないのに……」
泣きそうになるのを堪えて、三織は紺にそう質問した。紺はゆっくりと口を開く。
「三織が心配だからだ。俺は、お前が居てくれないと調子が狂う……」
「…ぷっこんちゃんらしいね」
紺はパイプ椅子に腰かけて、三織の点滴の刺さった腕を見つめた。三織はそれが酷く痛々しく思えて、自分よりも紺の方が苦しんでいるように思えて、胸が苦しくなった。
「俺より、こんちゃんの方が病気みたい」
そう言って微笑むが、上手く笑えない。三織にとって、紺の優しさはあまりにも甘すぎた。ドロドロに溶けたザクロの果実の様に、三織を甘やかした。
「俺は、こんちゃんの優しさが怖いんだ……いつか、なくなった時、俺はどうなっちゃうんだろう。無条件に与えられる優しさがこんなに辛いものなんて思いもしなかった……」
「そこに打算があるとしたら、三織、お前は怒るか?」
「え……」
思いもしなかった言葉に三織は驚いて紺を見つめる。紺は優しく微笑み、言葉を続けた。
「俺には、お前に優しくする目的があるとしたら、お前は怒る?」
「……何、目的って」
「今は、教えない」
少し意地悪く笑う紺に、ドキリとする。こんな表情もするんだ、と新たな発見をした三織は、なんだか嬉しくなって先程までの気持ちはどこへやら、途端に笑顔になった。
「プリン、食わないなら俺が食うぞ」
「甘いの苦手なくせに、あげないよーだ!」
プリンを食べながら、三織はもう少しこの甘さの中に浸かっていてもいいのかなと思った。
「ドナーが見つかって、お前が帰ってきたら伝えたい事があるんだ」
「え……?」
「だからそれまで、諦めんな。絶対」
「……ん。そうだね」
その一か月後、奇跡的にドナーが見つかる事になる。しかし、この時の二人はまだそれを知る由はない……。
*****
一か月後、奇跡的にドナーが見つかり三織は海外で手術をすることになった。今日はその為に渡米する日だった。
空港で三織を三織の家族と紺、紺の家族が見送った。三織は一人で海外へと旅立つ。
「じゃあ、行ってきます」
「三織、これ」
「?」
「新しいピアス。片方は俺が持ってる。これ付けて、無事に帰ってこい」
そう言って紺が渡したのは、クロスのマークを象ったデザインのシルバーピアスだった。それを見て、三織は泣き笑いのような表情になる。
「こんちゃん、クロス好きすぎ」
「お前に一番似合うのがこれなんだよ」
「っばか……」
「ほら、頑張ってこい!」
「っ……うん!! 行ってきます!」
*****
『ねぇ、こんちゃん』
『ん?』
『ドナー見つかったけど、俺手術受けられないかもしれない……』
三織が渡米する前、三織は紺に相談していた。手術費用が払えない事。だから諦めないといけないかもしれない事を。
そんな三織をよそに、紺はさらっと言ってのけた。
『金の心配はすんな。俺が払っといた』
『へ……?』
『お前は何も気にせず行って来い』
『いやいや、気にせずって……気になるに決まってるでしょ!』
『成功して、戻って来たら教えてやるから』
そんなやり取りが行われていたのだった。
*****
半年後、三織が帰って来る日だった。紺は一冊の小説を手に空港へと向かった。空港につくと、沢山の報道陣が集まっていた。それを掻き分けて、三織を探す。
「こんちゃん!!!!」
「三織……」
右耳にはクロスのピアス。紺は成功したのだと解り、思わず三織を抱き寄せた。
「わっちょ……こんちゃん苦しい…」
「よかっ……良かった……」
顔をぐしゃぐしゃにして紺は涙を流した。つられて三織も大粒の涙を流す。
紺は三織を離し、報道陣に向けて大声で叫んだ。
「皆さんが待っている『近東未亜』は俺です」
報道陣がざわつく。すぐさま紺を取り囲み、質問を浴びせた。三織は訳が分からずぽかんとその状況を見つめる。
「ご想像されていた美少女作家じゃなくてスミマセン、そして賞受賞の際に顔を出せなかった事、この場を借りて謝罪します。すみませんでした」
「何故今まで表に出てこなかったのですか!?」
報道陣の一人が質問する。紺はそれに丁寧に答えた。
「正体がばれたくない奴がいました。そいつは心臓の病気でドナーが必要でした。そして、手術費用も多額でした。俺は、それを支払いたいが為に作家になりました」
また報道陣がざわつき、カメラのシャッター音が響く。紺は小説家になった経緯を報道陣に伝えた。
小さい頃から幼馴染が心臓の病気だったこと。自分に何が出来るだろう、と考えた時、小説家になって賞金を貰えば少しは助けになるんじゃないかという事。それらを話し終えて、紺は一度咳払いをする。
「そして、俺は今日限りで小説かを辞めます」
「あんなに人気なのに何故ですか!?」
「そいつが手術を終えて帰って来たからです。俺は、そいつと普通の高校生活を送りたいと思ってます。お伝えしたかった事は以上です。失礼します。……三織、行くぞ!」
「わっちょ、こんちゃん!?」
三織の手を取り、報道陣の間を掻き分けて、紺と三織は駆けだした。追いかけてくる報道陣たちを何とか巻いて、タクシーに乗り込む。
「こんちゃん、さっきの本当なの!?」
「あぁ、言っただろ帰って来たら全部話すって」
「無茶苦茶だよ!」
「俺は無茶苦茶な奴だよ。知らなかったのか?」
「っばかぁ……」
*****
三織の家に着き、三織は無事手術に成功した事を母親に報告した。三織の母親は三織に抱きつき泣いて喜んだ。
ひとしきり話しあった後、三織と紺は三織の部屋へと向かった。半年前と変わらず、三織の部屋は綺麗だった。
「こんちゃんには驚かされてばっかりだよ」
「……なぁ三織、お前もう本当に治ったんだよな」
「そうだよ」
「……じゃあ、もうお前に触れてもいいんだよな…?」
「え?」
紺が涙声でそう言うと、紺の手が伸びてきて三織の体を包み込んだ。強く抱きしめたいのを我慢するように、その手つきは恐るおそるだ。
「……いいよ。強く抱きしめても」
「っお前が壊れそうで…怖い……」
「もう大丈夫なのに……」
「ずっと……ずっと、お前に触れたかったんだ」
「うん…」
三織は優しく、紺の頭を撫でる。
「俺は、三織が好きなんだ……」
「うん……っ」
「無事に帰って来てくれたら言おうって思ってた。お前が大好きだって」
「こんちゃ……っっん」
ゆっくりと三織の口唇に紺のそれを押し当てた。触れるだけのキスをして、紺は三織から離れる。
「俺も、俺も……こんちゃんが大好きっ! ただいまっただいま……こんちゃんっ」
二人は今までの数年間を埋めるかの様に強く抱き合い、何度も口づけを交わした。やっと手にいれた幸せに、三織は嬉し泣きをする。それは紺も同じだった。お互いの涙をチュッと舐め取り、笑い合った。
「いつから…?」
「ん?」
「いつからこんちゃんは俺の事好きだったの?」
「……さぁ、物心付いた時からじゃねぇの」
「…俺と同じだ」
ふふっと笑って三織はベッドに腰かけた。それを押し倒すように紺が覆い被さってくる。
「あ」
三織がそっと紺の右耳に触れる。自分と同じシルバーのクロスデザインピアスをそこに見付け、微笑んだ。
「同じだ」
「あぁ」
三織を押し倒した紺だったが、ゆっくりとその体を三織から離した。ベッドサイドに座り直し、ふぅっと小さく息を吐いた。
「こんちゃん?」
「……大事にしたい」
「え?」
「今までずっとお前の事大事にしてきたから急には、俺もなんか調子狂うっつぅか……気恥ずかしい……」
見ると、紺は耳まで真っ赤になっていた。それが可愛くて可笑しくて、三織は紺の背中に飛びついた。
「俺たちは俺達らしく、やってこ。ね、こんちゃん」
「あぁ……」
そのまま、また口づける。今度は触れるだけのキスじゃなく、互いの口内を味わう様にキスをした。二人とも無中で互いの舌を絡ませ、吸い合った。
「っねぇ、こんちゃん」
「何…だよ」
「もしかしてさ……今まで周りを気にしてたのって……」
「小説の題材になるからな、人間観察」
「そう、なんだ」
紺は他人を気にしてはいたが、それは人間観察の一環だったらしい。三織は心配していた答えが分かり、少しだけ安堵した。
「じゃあ、さ」
「ん?」
「今日からは、俺だけを見て? 俺だけを観察して俺だけに触れて……?」
「……当たり前だろ」
*****
『みおりはおれがまもるから』
『ねぇ、こんたん! 大きくなったら、みおりとけっこんして?』
『けっこんはむりだけど、おれはずっとみおりのそばにいる』
『やくそくだよ』
『やくそくだ』
それはまだ、彼らが物心つく前の約束。小さな小さな約束だった…。
その約束は数十年を経て、守られたのだった……。