キリストの生まれ代わり74
キリストを前にして孤立無援、疎外感を痛感しながら私は用件を切り出せないままに、彼の信徒達と哲学論争を交わし出した。
当時の私はキリスト教徒の友達と共によく教会に通いつめ、ミサなども受けていたのだが、聖書などに関する知識は極めて乏しく、その無知をさらけ出さないように注意を払いながら私はキリストを祖母に会わせるべく喫茶店へと通い出した。
キリストを前にして孤立無援、疎外感を痛感しながら私は用件を切り出せないままに、彼の信徒達と哲学論争を交わし出した。
私は演劇をやっている大学生との神はいるか、いないかの討論に突入して行ったのを覚えている。
私はサルトルの存在と無からの引用を多用し、論戦は白熱化して行った。
私は言った。
「神はいるが、いないという措定の本に、大まかに捉らえて無であるとも言えますよね?」
大学生が答える。
「いるが、いないという言葉の中には有の存在価値も含まれていて、それはいるという帰結を迎えるのではありませんか?」
私は苦戦を強いられながら答えた。
「そういう見解も確かにありますが、有が無であり、無が有ならば、無を優先しても差し支えないとは思うのですが」
大学生が言った。
「そんなのは明らかに詭弁です」