キリストの生まれ代わり20
「ならば又しても極論になりますが、二人のパーティが山で遭難した時、一人のメンバーが死にかけた時見捨てて自分が助かるのが掟となっていますが、その自己保存本能的所作は救済の対象になるのですか?」と私は質問した。
キリストが反論する。
「決闘の場合のシチュエーションは、プロセスは広汎千差万別だと類推出来ますが、けしてエゴではなく、無償の愛に似て無我の境地に至るような自我の発露の帰結であり、その潔い清廉潔白なる所作が生死を二つに分けても、そこには愛の成就が見えて隠れしており、生き死にに関係なく双方共に救済の対象にはなると思います」
私は眉を再度ひそめ言った。
「命懸けの所作が清廉潔白さ心の美を生み、それが生死に関係なく天への道ならば、生き残った方がその清廉潔白性を失い、醜い心に堕ちても救済はあるのですか」
「それも広汎なるケースバイケースの心の問題だと思いますが、可能性としてはあると思います」
私は間を置き言った。
「ならば又しても極論になりますが、二人のパーティが山で遭難した時、一人のメンバーが死にかけた時は見捨てて自分が助かるのが掟となっていますが、その自己保存本能的所作は救済の対象になるのですか?」
「それも千差万別様々な状況を想定推察出来ますが、自愛の究極の姿とし、美しい心の所作、美しい自我の発揚として救済の対象にはなると思います」
私は言った。
「助けたら自分が死ぬという極限的な状況以外は救済の対象にはならないという事ですか?」
キリストが息をつき答えた。
「そうですね」