# verse - 3
# verse - 3
「あ、愛莉ちゃん……」
「これは……ちょっと……」
控え室に到着した愛莉と紫乃を待っていたのは、あまりにも異様な光景。二人は、まるで別世界に繋がる扉を開けてしまったかのような気分で、言葉を失ったまま室内の状況を眺めていた。
学校の教室二つ分はあるスペースに所狭しとパイプ椅子が並べられているが、空席など一つも見当たらない。どころか、椅子よりも参加者の方が多いため、立ったままの子達が壁に沿って列を成している。控え室内は、まさにすし詰め状態だった。
しかし、二人が感じている奇妙な感覚は、単に人数の所為だけではない。受付の列に並んでいた時もそれなりに感じてはいたが、控え室内の雰囲気はそれの比ではなかった。
重くて、深くて、冷たい空気に、息苦しさからつい深呼吸をしてしまう。それぐらい、張り詰めた空気が室内に充満している。
笑い声は聞こえてくるが、誰も心から笑っていない。初対面同士の女の子が挨拶を交わしているけれど、語調が妙にとげとげしい。参加者各々が持つ激しいオーラが、漏れ出し、混ざり合って、異様な空間を形成していたのだった。
その空気に気圧されつつ、二人は空いているスペースを探して室内に分け入った。とにかく、自分達が落ち着ける場所を確保しなければ、あっと言う間に重苦しさで押し潰されてしまいそうだった。
恐る恐る歩を進める愛莉を先頭に、二人は異界の控え室を探索する。すると、少し先の壁際に丁度二人分のスペースを発見した。
愛莉は振り向きざまに紫乃へと視線を送り、目指すポイントを暗に示す。紫乃が小さく頷いたのを確認し、愛莉は再び前を向き目的地に向かって――
「――ッ!」
気づいた時には既に遅く、愛莉は前から来る人影とぶつかっていた。急ぎ足で進もうとしていた所為で、避ける暇もなく互いの両肩が衝突する。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
よろめきながら平謝りをする愛莉。その声が室内に響き渡り、一瞬全ての音が止む。
控え室中の視線を一身に浴びながら、愛莉は必死の思いで頭を下げ続けた。しかし、しばらくしても相手は何も言ってこない。責めも許しも得られない状況に、愛莉はゆっくりと視線を上げる。
「……」
その先には、氷のように冷たい瞳で愛莉を睨む、一人の少女がたたずんでいた。
無駄のない引き締まった長身にフワリと巻いたツインテールが印象的で、同姓の愛莉ですら見蕩れてしまうほど整った顔立ちをしている。しかし、彼女は固く閉じた貝のように口を噤み、刺すような視線で愛莉を見下ろしている。それは、明らかに彼女の怒りを表すものであった。
「あ、あの……怪我、ないですか?」
「……人が多いんだから、気をつけて」
彼女は視線に込める怒りを一瞬強めると、それだけを言い残し立ち去っていった。自分以外の全てを敵とでもするかのような鬼気迫るその雰囲気に、愛莉は罪悪感を通り越して唖然としてしまう。
「……ねえ、あれって佃葵じゃない?」
「ああ、そうかも。あれでしょ? 大野企画でアイドルデビューする予定だったのに、メンバーと問題を起こして、デビュー前にプロジェクトを潰したっていう」
「そうそう。イヤだなぁ、何でいるのかしら」
「もう諦めればいいのにね」
放心状態の愛莉の耳に、周囲の囁き声が自然と流れ込んできた。
業界ではそれなりに有名人だったのか、その噂話は至る所から聞こえてくる。そして、皆口々に「イヤだ」「何でいるの」「迷惑だ」と眉をひそめているのだった。
「愛莉ちゃん、大丈夫ですか?」
いまだ驚きから覚めない愛莉に、紫乃が声を掛ける。紫乃の温かい手が肩に触れたことで、ようやく愛莉の思考も動き始めた。
「う、うん。ごめんね紫乃ちゃん。ちょっとびっくりしちゃって……」
「私もびっくりしました。愛莉ちゃんは怪我してませんか?」
「うん、肩が当たっただけだから」
「よかったです。あの子も怪我がないと良いですね」
「そう、だね……」
言いながら、愛莉の脳裏にはぶつかった少女の姿が浮かんでいた。
あの冷酷にも思える瞳は、自分に向けられたもので間違いない。余所見をしていてぶつかったのだから、それは仕方のないことだ。
だが、愛莉は同時に妙な違和感も抱いていた。たったそれだけの出来事で何故そんな風に思えたのか、愛莉自身もよくわかっていない。ただ何となく、その瞳が気になって、しばらく彼女のことが頭から離れなかった。
「愛莉ちゃん、とりあえず空いてる所に行きましょう? ここにいたら通路を塞いでしまいますから」
「……うん」
♪ ♪ ♪
何とか二人分のスペースを確保した愛莉と紫乃は、その数分後に行われた全体説明を聞き終え、配られた資料に目を通していた。資料には、プロダクションの紹介とオーディションの流れ、その後に結成されるアイドルについての説明が妙な言い回しで簡単に記されている。その中でも、一番インパクトがあったのは資料の表紙だった。
『業界屈指の女社長が挑む新規プロジェクト! 輝くステージと黄色い歓声があなた達を待っています!』
という、何とも自信たっぷりなキャッチコピーと女性のバストアップ写真のみが写った表紙は、風変わりとしか言いようのないものであった。
「愛莉ちゃん、この表紙に映っている女の人見たことありますか? 女優さんか何かでしょうか?」
「プロダクションの社長さんじゃない? ほら、下に書いてある」
「あ、本当ですね。すごくかっこいいです」
「……でも、ちょっと自己主張強すぎじゃない?」
「……そうですね。社長さんしか写っていませんしね」
自社が主催するアイドルオーディションの資料で、その社長がでかでかとトップを飾っているという事実に少し呆れつつ、愛莉と紫乃は資料を読み進めていく。
その時、控え室の扉が開いた。ザワついていた室内が一気に静まり返り、全員の視線が扉に集中する。
控え室に入って来たのは、愛莉の緊張をほぐし、紫乃にオーディションの参加を取り付けた受付の女性だった。手にバインダーを持ち、先程とは打って変わった真剣な表情で室内を見渡している。
「それでは、これより面接審査を開始します。順番に面接会場へとご案内しますので、名前を呼ばれた方は私の前に一列でお並び下さい。荷物等は置いたままでも構いませんが、貴重品は必ず持ち歩くようにお願いします。では、最初のグループの方をお呼びします。鈴木――」
女性は手元のバインダーに視線を落とし、参加者の名前を読み上げ始めた。それに応じて、呼ばれた女の子が気合の入った返事と共に前へと歩み出る。そうして3名の女の子が呼び出され、女性は彼女達を引き連れて控え室を出て行った。
遂に、面接審査が始まった。
再び静まり返った室内で、重さを増した空気が参加者全員に圧し掛かってくる。誰もが口を閉ざし、強張った表情で迫り来る緊張感と戦っていた。
それは、愛莉とて例外ではない。今までに味わったことのない強烈なプレッシャーで、脈打つ心臓の音が周りにまで聞こえてしまいそうだった。落ち着こうとするほどにそれは強まり、逆効果となって返って来る。紫乃とお喋りでもして気を紛らわそうとも考えたが、この静けさでは咳をするのでさえ気が引けた。何より、あんな表情の紫乃を見てしまっては、話しかけることなど不可能だった。
いつも柔和で穏やかなはずの紫乃が、据わった目をしている。この目は、紫乃が戦闘態勢に入ったことを示すサインだった。紫乃にとって立ち向かうべき何かが現れた時、必ずと言っていいほどこの状態になる。高校入試で見たのを最後に鳴りを潜めていたのだが、こんな所で発動するとは愛莉も思っていなかった。
この状態になったら最後、紫乃の中で決着がつくまでは愛莉の声すら届かない。恐らくは、面接審査が終わらない限り、いつもの紫乃に戻ることはないだろう。
『紫乃ちゃんは頼れない、か。でも、この緊張感はどうすれば――ッ!?』
紫乃とのお喋りを諦め、心の中でぼやきながら視線を前に戻した愛莉は、その先で起きていた出来事を見た瞬間に息を詰まらせた。誰もが同じ表情で押し黙る薄暗い室内で、そこだけがくり抜かれたように際立ち、愛莉の視界を止まらせたのだ。
目の前の椅子に座っている女の子が、目に涙を浮かべて震え上がっている。
竦みあがって小さくなった体、張り詰めた背筋と両腕、握り締められた手の平。果てには、長く垂れ下がるストレートの髪や座っている椅子をも巻き込んで、その子は震え続けていた。
その子が正常な状態でないのは一目瞭然だった。極度の緊張がそうさせているのだろうが、その震えっぷりは緊張という言葉で収めるには異常すぎる。まるで、得体の知れない恐怖に脅える小さな子供のようでさえあった。
すると、その子が盗み見るかのように、横目でチラリと愛莉達の方角を見る。そして、目線が紫乃の姿を捉えた瞬間、その子は小さく悲鳴を上げ、逃げるように目線を戻して俯いてしまった。
「……」
愛莉はまさかと思いつつも、それが何を意味していたのかを理解する。
一瞬の戸惑いはあったが、よくよく考えれば似たようなことは今までにも何度かあった。今でこそ愛莉も慣れたものだが、初めて見た時はその迫力に恐怖を感じたものだ。それを見ず知らずの女の子が、この重い空気の中で受けているということを考えると、ある意味成るべくしてなった状況と言えなくもない。
愛莉は声にならない嘆息を漏らし、同時にやり切れない申し訳なさで心が痛んだ。一応お互いのために、紫乃が目の前の女の子を睨んでいる訳ではないと説明した方がいいかもしれない。いや、親友としてそれはやっておくべきことだろう。
「あの……ちょっといいですか?」
「ヒッ!」
愛莉は、震える彼女に近づいてそっと耳打ちする。その子は突然近づいて来た愛莉に驚き、体をビクつかせた直後にそのまま凍り付いてしまった。
「突然ごめんね。でも、どうしても誤解を解いておきたくて」
「ご、誤解……?」
「うん。私の隣にいる子、すっごく怖い顔してるでしょ?」
「えっ!? いえ、別に……」
「ううん、いいの。私も初めて見た時はびっくりしたから。でも、別に怒ってるわけじゃないの。ただ緊張しているだけだから」
「そ、そうなん、ですか……?」
「そうなの。昔っからのクセなんだ。たぶん、今私があなたに話しかけてることも見えてないと思う」
「……」
愛莉とその子が、ゆっくりと紫乃に視線を向ける。紫乃は、先ほどと変わらず険しい目つきで目の前を凝視していた。試しに、愛莉が紫乃に向かって手を振ってみたが、まるで反応がない。
「ね? 全然見えてないでしょ?」
「ほ、本当ですね……よかったぁ……」
その子は言いながら深く息を吐いて、ガクリと両肩を落とす。何とか誤解が解けたようで、凍えるようにしていた体の震えも治まっていた。
誤解が解けお互いが安心した直後、控え室内にある音が響いた。扉が開き、誰かが控え室に入ってくる。最初のグループが控え室を出発してから数分も経っていないのに、彼女達を引き連れて行った受付の女性が戻って来たのだ。
「それでは、次のグループは面接会場前で待機してもらいますので、呼ばれた方は同じように私の前までいらして下さい。小室真奈美さん、金園愛莉さん、仲居実夏さん」
「!?」
呼ばれた。自分の名前だ。
「は、はぁい!」
愛莉は音量の調整もままならぬ内に声を上げ、ゼンマイ仕掛けのような足取りで前へと進み出た。
不意打ちを食らった頭の中は既にパニック状態で、今自分が何を考えているのかもよくわからない。無意味な言葉達が脳内を駆け巡り、ポップソングを刻んでいたはずの心音はいつの間にかハードロックへと転調している。連打する重低音に合わせて、ボーカル愛莉の叫びが雷鳴のようにうねりを上げていた。
「あら? なかいさーん? 仲居実夏さん、いませんかー?」
愛莉がやっとの思いで受付の女性がいる場所に到着すると、女性が再度控え室内に声を響かせた。一度読み上げた名前を何度か復唱し、密集する女の子達全体を見回している。三人の女の子が前に出てくるはずが、一人足りないのだ。
「あっ! もしかして、それあたし!?」
受付の女性が諦めかけたその時、時間差で一際大きな声が響く。そして、奥の席から猛ダッシュで一人の女の子が駆け出してきた。
「すんませーん! あたしのこと呼びましたー?」
「……仲居実夏さん、かしら?」
「うっす! 仲居実夏でーす!」
「よかった、いたのね。呼んでも出てこないから、帰っちゃったのかと思ったわ」
「なはは! まだ面接受けてないのに帰るわけないじゃないですか! やだなぁ、もう!」
「……」
一瞬、場が凍りつく。
緊張で混乱する愛莉でも、その子がとんでもなく失礼なことを言っているのがわかった。
元気なのもいいし、声が大きいのも結構なことだ。緊張している様子もないから、きっとプレッシャーに強い子なのだろう。
だが、プロダクションの人に向かってこの発言はまずい。仲の良い友達との待ち合わせに遅刻して来たというならまだわかるが、ここは芸能プロダクションで相手はその関係者だ。一歩間違えなくても、失礼極まりない態度なのは誰にでもわかる。それがオーディションの結果に繋がらないにしても、印象は悪くなるし、相手を怒らせてしまう可能性だって十分にあるのだ。恐らく、ここにいる全員が愛莉と同じく冷や汗をかいていることだろう。
しかし、その子はそんな空気などお構いなし。右側にまとめたサイドテールを揺らしながら、楽しそうな笑顔で受付の女性に微笑んでいた。
「……まあ、いいわ。面接審査ではちゃんとお話を聞くようにしてね」
「イエッサー!」
どっ、と安堵の息が至る所から漏れる。愛莉も、大事に至らなかったことに胸を撫で下ろしていた。
「では、面接会場前に向かいます。小室さんを先頭にして私について来て下さい」
「……」
いよいよだ。
愛莉は気持ちを切り替え、両手で頬を張り気合を入れた。
いまだ緊張からは解放されないが、とにかく今の自分に出来ることをやるしかない。一生懸命やれば、結果は必ずついてくる。付き添ってくれた紫乃のためにも、自分の夢を叶えるためにも、全力でぶつかっていこう。
土壇場で燃え上がる闘志を胸に、愛莉は進む。
いざ、面接という名の戦場へ。